親方!空から女騎士が!

 

 

 傾きかけた太陽の光を避けるように通りから横道へ入ると、クロは一瞬のめまいにつまづきかけた。その表情は疲労困憊という言葉がふさわしい青さをしていた。


 旅の支度をしようと意気込んで店を探し始めたのはいいものの、ことごとく商人に捕まってはこんこんと彼らのセールストークを聞かされていたのだ。しかもこれが、どの店も自分に都合のいいことばかり言い出すのだから参ってしまった。


 干し肉こそが保存食の基本。果物がないと身体から精気が失われるよ。日持ちこそが重要だ、うちの乾パンだろうな。山羊のチーズがいいだろうね。武器がなくちゃ話にならないぜ。まずは着るものをしっかり揃えるべきでしょ。水より酒だろ、安くしとくよ。狩りの道具はどうだい。火打ち石は絶対いるよ。なんならうちの輸送隊に入ったらどうだ。

 中には、わざわざ大量に食料を買い込むなんてナンセンス、銅貨と違ってどこでも物々交換できる宝石に換金するといい、なんてものまであった。


 初めのほうこそクロも真剣に聞いていたのだが、次第に情報をつめ込まれ過ぎた頭がオーバーヒートを起こし始めた。最後には宝石商の前で「ルビーを食うとお腹が膨れるってことですね。よくわかります」と口走り、商人のほうから休むように勧められてしまった。


 買い物の結果は見事に収穫なし。クロは手ぶらのままで裏通りの道端に座り込んだ。


「ああもう、どうすりゃいいんだ。誰か助けてくれー」平坦に声だけ出してみる。


 だいぶ斜めになった影に見るでもなく目をやりながら、ふとミスハのことを思い出す。追っ手も近付いているようだが、まだこの街のどこかにいるのだろうか。


 クロは商人たちの話を聞いている途中からすでに、ミスハには記憶のことより今後の話を細かく聞いておけばよかったと後悔し始めていた。どうにかしてまた会えないものだろうか。旅の先輩から参考になる話を頂戴したい。

 とはいえ、さっさとこの街から離れているほうが、ミスハにとっては良いことか。あまり期待することではないな、と思い直した。


「しかし、どうすっかなあ……もう適当に食いたいもんだけ買っちゃうか」


 ある意味思考停止の究極系に達したところで、ふと。クロの耳に騒がしい物音が飛び込んできた。


 耳を澄ませて音の元を辿ると、どうやら石造りの建物の二階から聞こえているようだ。裏通りのこちらはもちろん建物の裏側にあたるのだが、表の看板には酒場と宿だと書かれていた記憶がある。酒場は一階、宿は二階とあったので、宿の方だろう。

 宿泊客が喧嘩でもしているのだろうか。好奇心という名の野次馬根性に導かれて、クロは少しずつ窓の方へと寄っていく。


 ——と、不意に何かがその窓から飛び出してきた。


 しかも目の前。

 どころかまっすぐこちらに向かって落ちてくる。

 危ない! そう思ったのと同時に、落ちてきているのが人間だと気付いた。手には抜き身の剣。明らかにただごとではない。これは関わらない方がいいか? そんな思考とは無関係に身体は動き、とっさに手を伸ばす。


 しかし受け止めた体重をまるで支えきれず、二人揃って倒れこんだ。


 巻き上がる砂埃と同時に「きゃあ!」という声。

 その声を最後に、視覚からの情報が途切れた。


 なぜか呼吸ができない。仰ぎ見る青いはずの空が真っ暗闇だ。よもやこんな最期を迎えることになろうとは、予想だにしない結末だった。記憶喪失だからだろうか、走馬燈がちっとも巡らないのは寂しいものだ。せめて今際の際にくらい、過去の記憶が甦ってくれたらいいのに。

 などと考えているうちに、顔の上から声が聞こえた。若い女の声だった。


「……痛ったたた……まさかこんな街中で襲ってくるなんて……落ちた先がクッションになっててよかった。運が悪かったら危なかったか……も……」


 少女が言葉を失っていく。どうやらそのクッションとなった代物を目にしたらしい。

 クロの顔が、少女の尻の下で呻いていた。


「…………重……」

「重くない!」


 言葉とともに、少女が跳ね返ったように飛び退く。ようやくクロの視界が開けて、呼吸も戻った。

 少女は自分の取り落としていた剣に気付くと、慌てて拾い上げクロに向かって構える。白銀の剣身には細やかな紋章が刻まれていた。


「や、奴らの仲間……じゃ、ないでしょうね?」


 起き上がりながら、クロはこれ見よがしに恨めしげな顔をする。


「……なんのこっちゃわからんが、違う。ただの不運な通行人だよ」

「そ、そう。だったら、いいんだけど」


 少女はまだ動揺しつつも、構えた剣を恐る恐る腰の鞘に収める。

 ようやくクロも一つ息をついた。


 紋章の剣を帯びた少女は、大きめの外套の中に胸から腰まで覆う鎧を着込んだ、いかにも剣士か騎士かという格好をしていた。


 年の頃は見た目で言うなら十五、六というところだろうか。煌めく金の髪は腰よりも長く、宝石のような緑色の瞳をしている。

 背丈はクロに少し足りない程度。クロの薄底の靴に対して少女が履いているのは金属製のグリーブ、姿勢の良さも加味すると、実際にはもう少し差があるかもしれない。

 胸の膨らみは鎧の上からでも分かるほど明らかで、鎧が不格好にならないよう締めた形のウエスト部は逆にすらりと細い。手も足も同じく細めで、女性としての美しさを全身に纏っていることに疑いの余地はなかったが、一方で本当に腰にかけた剣を振るえるのかは若干怪しく見えた。


「そ、それじゃあ、急いでるからわたしはこれで……ごめんね、いきなりぶつかっちゃって」


 一応の謝罪をすると、金髪の少女は外套を翻した。

 尻で顔を押しつぶされることを、ぶつかったと称するかは議論の余地がある。しかしトラブルの元が向こうから立ち去ってくれるというのだから、恣意的な結論にも目をつぶっておくとしようか。


 少女が走り出そうとしたところで、道の前後の曲がり角から鎧をつけた兵士が現れた。北に二人、南に三人、剣を手に手に構えている。

 少女が言っていた「襲ってきた奴ら」というのは、この兵士たちだろう。尻に敷いた男を怪しんでいるうちに、見事に囲まれてしまったわけだ。


「あーらら、やっちゃったっぽいな」


 投げやりな一言を放り投げて、我関せず。そんなクロを睨みつけてから、少女は再び剣を抜き放った。同時に紋章を施された剣身が白く輝き始める。


 ほう、とクロが驚く間に、先手必勝。少女は迷わず地面を蹴ると、北側の兵士の一人に斬りかかった。


 真上から弧を描く剣を、兵士は慌てて受け止める。

 次の瞬間、少女は中空に剣閃を結んで左から一太刀。また一瞬にして右。鋭く流麗な剣捌きを見せる。

 続く少女の連撃を兵士は受け止めるのが精一杯、攻めに転ずる余裕など全くない。


 そこにもう片方の兵士が仲間を助けるべく剣を振りかぶる——と、少女は素早く後ろへ退いた。さらに距離をとり、二人の兵士と睨み合う形になる。

 ふう、と小さく息を吐くのが聞こえた。


 すると手にした剣が白い光を増して、少女は隙を見てはまた斬り込んでいく。


「おおー、なんかすげえな」


 戦いの様子を遠巻きから見ていたクロが、呑気に声を上げた。


 もちろん、クロに剣術の良し悪しがわかるわけではない。しかし傍目にも少女の腕は中々のもので、二人を相手にしながら優位にあるように見えた。

 剣術もさることながら、細い手足でよくも鎧を着込んだ身体をあれだけ動かせるものだ。人は見かけによらないとはこのことか。

 あの輝く剣に何か仕掛けがありそうな気がするが——ともかく、これなら手助けの必要もなさそうだ。事情を知らないクロが肩入れする理由もないのだが、多勢に無勢で一方的な殺しを見せられるのも気分のいいものではない。


 そうして戦いの観客をやっているうちに、偶然、兵士の一人と目が合った。南の道から現れた兵士で、北側の応援へと走っていたようだ。


 すると、他はクロの横を通り過ぎて走り続ける中、その兵士だけが足を止めた。


 もう一度こちらに顔を向ける。幽霊でも見たかのように目を見開いていた。

 それから止まったトンボでも捕まえるように、眠った猛獣の心臓でも狙うように、兵士はそっと、そっと、クロに向かって剣を構えていく。


「えーっと……? あのー、俺はあの娘とはまったく関係ない一般人で——」


 頬を、風がなでたような気がした。


 剣の切っ先が地面に向いている。


 風の跡をなぞった指に、粘ついた感触がした。血だ。全身の毛がそばだつ。気付かないうちに一歩退いていた足が、崩れるようにまた数歩下がった。


「例の奴もいたぞ! こいつだ! こいつがゼピュロス卿を殺した奴だ! やっぱり仲間だったんだ!」


 輝く剣を握った少女。少女と睨み合う二人の兵士。その応援に走っていた者たち。この場にいる全ての人間が、一斉にクロを見た。


「それに理由はわからんが、今なら……!」


 もう一度振られた兵士の剣をかろうじて躱す。退きそこねた腕の表面が少し切れ、再び血が飛んだ。まだ痛みの形も成していない衝撃の感触だけが脳へと伝わる。


 再び剣が振り下ろされた。


 ミスハと交わした言葉が脳裏に蘇ってくる。


『あの力を発揮できないのなら、待っておるのは——』


 ————まずい。


 その瞬間、混乱していた頭の中が不意に澄み切った。

 今どうすべきか? 答えが頭の中で言葉になるより早く、クロは兵士に突撃する。


 振り下ろされた刃より内側に入り込み、体当りして相手の態勢を大きく崩す。暴れた剣先がクロの肩口を裂いた。


「痛ッつ!」


 ほぼ反射だけで口にしながら、さらに駆け出す。チャンスは今しかない。

 応援に走っていた兵士二人のど真ん中を抜けて、包囲の内側へと走る。逃げるつもりだとばかり思っていたのだろう、兵士たちは完全に不意を突かれる形になった。


「な、何だぁ⁉ こいつ気でも違ったか! お前ら絶対に逃すなよ!」


 体当たりに倒れ込んだ兵士が叫ぶ。

 その声に触発されて他の兵士たちは一斉にクロへと剣を構え直す。なかなか鋭い判断力と切り替えだ。しかし、まさに期待通りの行動でもある。


「今だ!」


 わずかの時間だけ、兵士たちは誰もクロの言葉が意味するところを理解できずにいた。

 何を伝えたのか、誰に伝えたのか。兵士の一人がようやく気付き、叫ぼうとする。その声が発せられるよりも、遥かに速く——


 剣が一振り、甲高い金属音とともに宙を舞った。

 少女の振りぬいた剣が、光刃を放っていた。

 睨み合っていた兵士が別の相手に意識を囚われる、その一瞬を逃すことなく少女はその白く輝く剣を振るっていた。


 続けて走ってきたクロは、勢いそのまま、剣を失った兵士を思い切り蹴り飛ばす。

 倒れ込んだ兵士を目端に捉えながら、北側にいるもう一人の兵士に視線を移す。すでに少女が返す刃で斬りかかり、鍔迫り合いに持ち込んでいるところだった。

 これで北側にはクロを止める人間がいなくなったわけだ。


「よしよし、狙い通りっと。協力どうも」

「ちょっ——あんたに言われてやったわけじゃないからね⁉ わたしだってこいつらを倒さなくちゃいけないから動いただけで、今のは完全に偶然よ! 不慮の事故よ!」

「そう? だったらあとはよろしくな。全員ちゃんと仕留めてくれよ。追っかけられると困るんだ」

「は⁉ え、ちょ、ちょっとそれは——⁉」


 かくして、少女の追求を躱すかのように、今度こそ一目散に、クロはこの路地裏の戦場から遁走した。

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