第1章 - 追うもの、追われるもの

クロとミスハ

 

 

 日が天頂に近づき始め、にわかに騒がしくなりつつある食堂。その最奥に、おろしたての旅装束を着た青年と、ローブ姿の少女——ミスハが向かい合って腰掛けていた。昼食の時間よりも早めに入っていた二人は、もう食事を終えるところだった。


 青年は最後の一口を飲み込むと、顔の前で手の平をぱんと合わせる。それから食器に軽く頭を下げた。

 ミスハは被ったままのフードから覗く赤い瞳を丸くして、一連の動きを不思議そうに見つめていた。


「それは、何かのまじないか?」


 言われてから、青年も首を傾げた。


「……あれ? みんなやらないの?」

「食後の祈りならする者もおる。といっても——あのように」


 ミスハが指し示した一人の客は、指を互い違いに組んで目を瞑り、小声で食後の祈りを捧げていた。


「確かに、何かビミョーに違うな……」

「珍しい風習ならば、地域を絞り込めるやもしれんな。ようやく名前以外にまともな記憶の手がかりが見つかったということだ。良かったではないか、クロ」


 食事の間に彼が自分の状態を説明したところ、ミスハはすぐに「それは記憶喪失というやつだな」と断言した。頭を打った痕などないかとも聞かれたが思い当たらず、代わりに首の調子がおかしいと言うと、なぜかバツの悪そうな顔をしていた。


 それからミスハにいくつか地名や人物名を挙げてもらい、思い出すことはないかと試したが収穫はなかった。


 そんな中で唯一出てきたのが、クロという名前だった。

 しかし……


「やっぱりそのクロっての、違う気がするんだよな。誰かに言われた記憶はあるけど、俺の名前ってわけじゃなかったような……」


 思い出した時点でも、すでに違和感はあった。しかし他人の口から聞いてみると、これまた一層不自然に感じられる。かといって他にそれらしい名前が記憶の底からぽこぽこ浮かび上がってくるわけもないので、歯切ればかりが悪くなる。


「それでも重要な情報には違いあるまい。どちらにしろ当面の呼び名は必要なのだ、新たに何か思い出すまで、とりあえず名乗っておけばよいのではないか?」


 端的に総括した上で、もっともな意見だった。


 昼食を求める客が続々と増え、食堂が本格的に混みあい始めたところで、クロとミスハの二人は店を後にした。

 

 ◇

 

 食堂を出ると、街の喧騒がわっと二人に襲いかかった。


「何だっけ……えーと、アブラス」

「アブリス」

「そうそう、そんな名前だった」


 二人が今いるこのアブリスという街は、ゼグニア帝国北西部に位置する小都市だ。大都市エンベニアとルノス港を繋ぐ交易の中継地点にあたり、旅の交易商人たちがしばし羽を休めるための街として、数多くの宿が並んでいる。


 宿だけではなく、露店も街の華だ。


 昔からこの街は、エンベニアに着く前の一稼ぎとばかり、生き急ぐ一部の交易商人が露店を開くことが多かった。それが次第に拡大、常態化してしまったらしい。今ではめぼしいものは全てアブリスで売れてしまう、と語る者もいるほどの盛況ぶりだ。


 当然それらの掘り出し物を狙った人々が街を訪れ、またその客を狙う宿や食事処の呼び込みも過熱していく。

 目の前にごった返しているのは、そうして街に集まってきた欲深の人々というわけだ。


 ――と、クロは先ほど食堂でミスハから聞いた。


「しかし、ミスハは何でそんなに色々と詳しいんだ? 地元ってわけでもないんだろ。それとも俺が忘れ過ぎてるだけで、誰でもそのくらいは知ってるもんなのかな」

「さてな。あいにくと私も他人の知識量には疎いのだ」


 さらりと流して、ミスハは通りを歩き出す。


「そりゃまあそうだろうけど……って、おいおい。どこ行くんだよ」


 慌てて追いかけると、クロはすぐミスハの横に並んだ。それから追い越さないよう

に、歩き方を少しゆっくりとしたものに変える。

 ミスハが特別遅く歩いているというわけではない。歩幅がかなり違うのだ。


 改めて見てみれば、クロの胸にも届くかどうかという背丈。本当に小さく、幼い少女だ。


「ミスハって、何歳?」


 不意を狙い撃ったような質問に、ミスハは訝しむような顔をした。

「何だ? 藪から棒に。あまり女性に年齢を聞くものではないぞ」


「やっぱり見た目より年食ってるのか? しゃべりもなんか変わってるし、親兄弟もなしに一人で行動してるみたいだから、俺の記憶にあるイメージと現実は違うのかなって思ったんだけど」

「ああ……まあ、そういう種族もおらんではないがな」


 とりあえず悪意がないことだけは察したのか、ミスハの表情が少し緩んだ。


「とはいえ、私は普通に十一だ。十一歳」

「なんだ、やっぱりそうか」

「おぬし今どこを見ながら言った?」


 聞いてから見直せば、ミスハはやはり十一歳なりの容姿をしている。


 手足は細く、胸も腰もまだ女のそれへと育ってはいない。きめの細かな白い肌や、ふわふわと柔らかそうな肉付きもやはり幼さゆえのものだろう。フードから覗くくすんだ銀色の髪も、太陽に照らされれば艶めきながら輝いてみせる。


 そうしてよくよく見ていくと、顔の造形は凜と整っているし、小さな唇にも艶がある。そして赤く大きな瞳は、不満げにジト目なんてしていてもなお愛らしい。


「これは今気付いたんだけど、ミスハってなかなか美人じゃないか? よく言われるだろ。あ、でもこの年だとかわいいってのが先に来るのかな」


「な——っ⁉」

 ミスハの柔らかく白い頬に、一瞬で薄紅が差した。


「————い、いいッ、いきなり何を言い出すのだおぬしは!」

「いや、自分の感覚が合ってるか、確かめようと思って」


 平然と言い放つクロの視線から逃れるように、ミスハは慌ててフードを深く被り直す。


「…………す、少なくとも、その答えを本人に言わせるのはおかしいとは言っておくぞ」


「ああ、それは確かに」

 クロが得心したように手を叩く。するとミスハは改めて、呆れたような深い溜息を吐いた。


 ちょっとした無駄話に花を咲かせ終えると、再び二人は通りを歩き出した。


 ミスハの歩幅に合わせるため少しゆったりとした足取りではあったが、お上りさんのクロからすれば、街の様子を見物するにはちょうどよかった。


 街並みは一見して石や煉瓦造りが多い。石畳の道は舗装こそ丁寧だが、いかにも人の手によるものという歪みが所々に見えていた。道の両側を走る細い用水路からは、ちろちろと水の流れる音が聞こえてくる。


 さらに遠くへ目をやると、街をぐるりと取り囲む周壁が見える。壁は大人の上背よりはるかに高く積まれて、何やら奇妙な紋様が全面に刻まれている。もちろん大通りの終端にだけは、木杭を並べた門が備え付けられていた。


 行き交う人の衣装は異国情緒に溢れすぎているとでも言えばいいのか、少なくとも普段使いにこんな服を着た記憶はない。

 もちろんクロ自身が着ている新品の旅装束も同じことで、着替えて小一時間経った今でも、クロは演劇でもやっているような気分だった。


「どうだ? 見覚えのあるものは見つかったか」

「あると言えばあるような、ないと言えばないような……」


 まるで答えになっていないが、クロにとっては偽らざる本音だった。どこか見覚えはある、しかし現実味のない遠い世界の風景。今クロの目の前にあるのはそんな世界だった。


「お」


 そこでふと、見慣れた姿を見つけた。


「猫だ。種類は分かんねーけど」


 灰色の毛並みをした猫が、尻尾を立てながら道に沿って積まれた石垣の上を歩いていた。こちらに気付いてくわっと目を見開く。瞳孔は天頂から降り注ぐ日の光に照らされて縦に細長くなっていた。


「おお、それが猫なのか。なかなか愛らしい姿をしておるのだな」

「え。お前猫見たことないのか」


 ミスハはこくりと頷いた。


「一応、知識として知ってはおるのだ。四本足で歩いて、ネズミを捕ってくれる動物なのだろう? ただ、本にはちゃんとした絵図がなかったし、城の外にも出られなんだから目にする機会がなくてな」


 言いながらミスハはおっかなびっくり、手を差し出しては引っ込めて、灰色猫を撫でようかやめようか懊悩する。

 そのうち意を決して中指の先で額に触れると、そこからは指の全体、手の平と頭を撫でていった。灰色猫の方もまんざらでもないようで、頭を触れば耳をぴょこぴょこ、首を触れば瞳を閉じて、気持ちよさそうに喉まで鳴らしている。


「……っと! いかんいかん。こんなことしておる場合ではなかったな」


 ミスハは少し慌てた様子で、しかし最後にもう一度、名残惜しそうに軽く猫の首を撫でてやる。


「では行くとしよう。あまり時間がないのだ」


「俺もこのまま付いていけばいいのか?」

「んむ。おぬしにも関わる話でな。もう少しばかり時間をもらえるか」


 それはもちろん、とクロは答えた。何しろ暇だけは腐るほどあるのだ。


「じゃあ、お前も元気でな」

 ミスハとの別れを惜しんでいる灰色猫に、クロも一つ撫でてやろうと手を伸ばす。と、


 がぶり。


「痛ッ⁉」

 指先を見事に噛まれて、思わず声を上げた。


 そしてクロが痛みによる混乱を憤激に転化する間に、灰色猫は見事この場から逃亡してみせる。


「あ、あの野郎、やってくれたなあ……」


 手遅れの悪態を吐くクロに、ミスハは小さく笑って、

「おぬしは動物に好かれるタイプではなさそうだな」

 軽口のように言った。


「態度が違いすぎんだろあいつ。絶対オスだったなあれは。全く……」


 ぶつくさと文句を言いながら、クロは傷の程度を確かめる。

 骨までは行かないまでも、甘噛みのレベルでもない。傷口からはじんわりと血がにじみ出ていた。しばらくは何かで止めておいた方がいいだろうか。


「…………あれ?」


 そこで妙なことに気付いた。


 どうして、傷が塞がらないのだろう。

 自分の記憶、少なくとも失われた後から現在まで続く記憶が確かなら、神承器じんしょうきゼピュロスから受けた傷はこの程度ならすぐにでも治っていた。はずなのだが——


「どうしたのだ、ぼうっとして。傷が深いなら薬もあるが」

「……ああいや。大丈夫。このくらい唾付けときゃ治る」

「そうか? なら良いのだが……何しろこちらは命を救われておるのだ。何かあったらいつでも言ってきてくれて構わんのだぞ」

「へいへい。心配性だね」


 浮かんだ疑問はともかくとして。クロはそうしてのんびりと、相変わらず見覚えのあるような無いような風景を眺めながら、ミスハに連れられてアブリスの街を歩いていった。

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