別離

 

 

 ミスハの案内で辿り着いたのは、多くの馬が並ぶ街外れの厩舎だった。


 完全に素人目線だが、なかなか良い馬が揃っているように見える。対して厩舎自体は簡素な造りに年季が入って有り体に言えばボロ臭く、何ともアンバランスな組み合わせだ。

 単なる個人経営のうまやというわけでもなさそうだが、一体どういう場所なのだろう。ぼんやりと考えを巡らせながら、クロは目の前に広がる場景を眺めていた。


「ここは貸馬の厩舎だ。多少払えば自分の馬を預けておくこともできる。今並んでおるのは大半が交易商の預けた馬だな。私の馬もここにおる」

「っていうと、俺をここまで乗せてきてくれた馬?」


 クロ自身は気絶していたので記憶にないのだが、クロが意識を失った後、森の中ではぐれていたミスハの馬が戻ってきたらしい。その馬がいなければ、クロをこのアブリスまで運ぶのは難しかったともミスハは言っていた。


「乗せたというか、担いだというか、むしろ引っ掛けたというべきか……とにかく、その馬だ。レイチェルという。穏やかで気立ての良い牝馬でな、贔屓目なしに良い馬だと思う」

 ミスハはクロと目を合わせてから続ける。

「そこで急な話になるのだが、そのレイチェルをおぬしに貰って欲しいのだ」


 突然の提案に、クロは喜ぶより先に首を捻った。

 からかうような様子がないことを確かめてから答える。


「そりゃくれるって言うならありがたい話だけど……何で?」


 馬一頭いくらなんて相場は知らないが、気軽に人に譲るようなものではないことくらい、クロにも想像が付いた。

 今でも先の食事代に少々の路銀、血まみれの服まで新調してもらって、恐縮が感謝を上回りつつあるくらいなのだ。これ以上至れり尽くせりにされても、今度は裏を疑いたくなってくる。

 何より自分の馬がいなくなって、ミスハの今後に支障はないのだろうか。


「そのあたりは気にするでない。どちらにしろ置いていくつもりだったのだ。そこでどうせならおぬしに、と考えてな」


 良馬と称える相棒を置き去りにするとなれば、深い事情があるのだろう。

 もう一つそのあたりを突っ込んで質問してみると、ミスハは少し逡巡してから答える。


「見ての通り、このアブリスは周壁に囲まれた街だろう?」そう言って遠くの景色を指差す。

「出入り口は南北東の三つの街門に限られていて、他に門を抜ける道はない。もしおぬしが私を捕らえようとするなら、どうする?」


 当然、たった三つの門、それぞれに見張りを仕込む。あとは見つけ次第に狼煙なりの合図をして全員で追跡、襲撃、殺害、だ。

 なるほど追跡者にとってみれば、これほど都合の良い状況はない。ならば追われる側はどうするか。


「壁を越えるか抜け穴でも作るか……、とにかくミスハは馬で通れる道を使えないってことだな。だからレイチェルは置いていくしかない」


 ミスハはご名答とばかり頷いた。


「……でも、だとすれば悪かったな。俺と一緒にここに来たこと、ミスハを追ってる奴らにバレてるってことだろ? 時間も無駄に使わせちゃったし、もっと俺もお前のこと気にかけてやれば良かったかな」


「いや、元々アブリスには寄る予定だったのだ。追っ手が来ると分かっていながら、あえて予定を変えなかったのは、あくまで私の意思。だからおぬしが気に病む理由などありはせん。それに……」

 言いかけて、ミスハは言葉を詰まらせる。


「どうした?」


「ん……あ、いや、何でもないのだ。それで、どうする? クロの今後の予定にもよるが、馬がいて損をすることはないと思うぞ。いざという時は売れば結構な値段にもなるだろう」


 先に割符を渡しておこう、とミスハはクロに一辺だけがギザギザの木板を寄越してきた。馬の上半身が描かれて、おそらくは対になる下半身の木板があると見える。預けた馬の鍵みたいなものか。


「いらんなら捨ててくれても構わん。厩の主人が好きに使ってくれるだろう。もし貰ってくれるなら、ミスハでなくクラウディアという偽名で預けたから、そこは気をつけてな」


 クロは割符をつまんで睨みながら唸った。

「うーん……もちろん、貰える分にはありがたいんだが……」


 例えばだが、蹄の跡を追ってくるのを利用して、囮にでもしようという企みは——ちらっとミスハの表情を見やっても——なさそうだ。

 ミスハの意見にも否定する箇所はない。


 それでもこれからの予定のことを考えると、少し悩んでしまう。


 普通に考えれば、記憶を取り戻すために手を尽くすのが道理だろう。アブリスに手がかりがなければ世界を回ることになるし、当然馬の足は役に立つ。しかし——


「例えばだけどさ、俺もミスハに付いて行っちゃダメなのか?」


 クロの意見に、ミスハはあからさまに不満を見せた。


「追っ手が迫っていると、今まさに言ったばかりだろう。どうしておぬしがそんなことを考えるのだ」


「だからこそだよ。昨夜だってお前殺されかけてたろ。それを返り討ちにしたのが俺なんだから、同行させたいと思う方が普通じゃないか? わざわざ手土産渡して別れる理由がない」

「……おぬしがおれば、次も勝てると?」

「前みたいな奴が一人二人増えたところで、負ける気はしないな」


 クロの態度は不遜なれども、バルテザと戦った時の実力差を鑑みれば決して自惚れなどとは言えないだろう。何しろ相手はクロに傷どころか、冷や汗一つかかせることができなかったのだ。


 あの程度なら一人二人どころか一山いくらでかかってきても相手にならない。

 もちろん、ミスハもそのくらい分かっているはずなのだが。


「あ、もしかして単純に俺のこと嫌い? さっきからちょくちょく怒ってるし」


 ミスハはその言葉に、「茶化すでない」じろりとこちらを睨んだ。


「私だってクロのことは……まあ、変な奴だとは思うが……間者だと疑ってはおらんし、十分すぎるほどの実力があるのも承知しておる。本来ならこちらから頼み込んででも助けを請うべきなのだろう」

「ええ? だったら……」


 言いかけたクロの前で、ミスハは懐から刃渡り長めのナイフを一本取り出した。そして顔の前に構えると、日の光を一度、二度反射させ、

「ただしそれは、クロが記憶を失っておらねばの話でな」

 迷い無く振るった。


 刃がクロの頬をかすめ、その軌跡に一筋の赤い線を引く。


「——おぅわッ! な、何だよ突然⁉」

「どうしたクロ。神承器を振るう者すら討ち取った、おぬしの力を見せてみろ」


 ナイフをくるりと回し、躊躇なく放たれた二の太刀。

 クロはくの字になってどうにか躱し、もう一つ避けつつ数歩退く。


 改めて向かい合うと、ひりひりとした緊張感が伝わってくる。冗談でやっているわけではなさそうだ。


 何なんだ、一体。クロは態勢を立て直しながら舌打ちをした。


 どうにもやる気が出ないが、むこうがその気なら仕方ない。殺すまでは行かないまでも、痛い目に遭ってもらおうじゃないか。


「目的は知らんが、そっちが本気でやろうってんなら——」

 構えようとして、

「————あれ?」

 気付いた。


 ミスハのナイフが肩口を切り裂く。しかしそんなことは気にも留めず、自らの全身を疑う。何かがおかしい。


 ————力が、入らない。


 本当に入らないわけではない。『普通にしか』入らない。食堂でナイフやフォークを使うような、落ちたコップを拾うような、いつも通りの感覚でしか動かせない。

 試しにすぐそばの石を拾って力を込めてみる。が、やはり砕けない。人一人を投げるだけで森を吹き飛ばした力があれば、このくらい容易いはずなのに。


 これは一体、どういうことだ?


「……やはり、使えんか」

「みたいだな」


 両手を何度か握り直し、感触をうかがいながら肯定する。


 考えてみると、あの時はどうやって戦っていたのだろう。感じるままに手足を動かすだけで振るうことができた圧倒的な力も、今はただ眠りについているようだ。猫に噛まれた手の傷も、今頬にある切り傷も、まだ癒えてはいない。

 この眠った力はどうすれば目を覚ますのか。もちろんクロの記憶には残っていなかった。


 そうしてクロが自身の肉体と対話するそばで、ミスハが口を開いた。


「記憶はない。紋章器も神承器も見当たらないという時点で、疑ってはおったのだ。おぬしの戦いに、はたして次があるのかと。しかしこれで確信が持てた」


 手指の具合を再度確かめながら、クロは「ああ」と頷く。


「今のおぬしは、戦い方すら完全に忘れておるのだ。本来のクロがいかな実力者であろうと、力を発揮できねば意味がない。もしこれから戦いになったとしても、おぬしがあの力を発揮できないのなら、待っておるのは——確実な死だ。そうであろう?」


 ぴょんぴょんと飛び跳ねて足の調子を試しながら、唇も動かさずに「んー」と生返事をする。


「……おぬし、本当に分かっておるのか?」


 聞き流されているように見えたのか、ミスハが腰に手を当てて、少しむすっと頬を膨らませながら問いただす。


「そりゃもちろん。これじゃお前の言う通り、戦えそうもない。馬だけ貰って大人しくしとくよ」


 ようやく身体をいじくるのをやめて、駄目だこりゃとばかり手の平をひらひら揺らした。

 それからミスハの膨れた頬を、ぷに、とつついて凹ませる。


「…………なら、良いのだが」

 口ではそう言いながら、ミスハは少し不満げに顔をそむけた。


「それで? 結局俺らはここでお別れか?」

「……ん、そうだな」


 ミスハは横目にちらりとこちらを向いて、少し寂しげに肯定した。

 しかしそれも、すぐに決意の横顔に変わる。そしてまっすぐに、赤い瞳でこちらを見つめてきた。


「さよならだ。クロ」


 一言呟いてから、ミスハはふう、と息を吐いた。


 それから、ぴょんぴょんと飛び石でも進むように道を跳ねながら遠ざかっていく。

 この時、初めてクロにもミスハが歳相応の、十一歳の子供に見えた。


 だいぶ離れた所で立ち止まり、こちらに向き直るとフードを取った。崩れた銀髪をかきあげた幼い少女の顔が、ようやく少し笑っていた。


「おぬしといる間、久しぶりにちょっと楽しかった。もしまた会うことができれば、思い出した故郷の話でもしてくれるか」

「いやあー、そいつは……あんまり期待しないほうがいいかもな。まあ、みやげ話くらいは用意しとくよ」

「それは楽しみだ。——あ、そういえば、さっきの話だが……しばらく思い出してみたのだが、一度も言われたことはない」

「どのさっきの話だよ?」

「私のことをかわいいと言ったのは、クロが初めてだという話だ」


 思わず目を見開いた。


「はあ? それはさすがに——」

「多少の用意は必要だろうが、できれば早めにこの街を出るようにな。おぬしの面相も、全く割れていないわけではないのだ。……みやげ話、楽しみにしておるからな」


 クロの言葉を聞かなかったようにして言ったきり。

 ミスハは小さな身体を揺らしながら、街外れの道を走り去っていった。

 

 ◇

 

「最後は、まずったかな」


 馬の前半分だけが描かれた割符の模様を見ながら、クロは呟いた。

 それはそれとして。と、一つ気合を入れ直す。


「とりあえず、何が必要なんだ? 当面の食料と……水か? それとも水はそこら辺にあるもんなのかな。というか、食料も何を買えばいいやらわからんぞ。乾パン? カロリーメイトとかあんのかな。——あれ、カロリーメイトって何だ?」


 クロはブツブツ独り言を言いながら、ミスハが走っていったのとは逆の方角へと歩き出した。

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