覚醒めしもの
あまりにも唐突だった。
目の前で前触れなく立ち上がった全裸の男に、バルテザは驚きを隠せずにいた。
男は一つの布きれすら身に付けていない全裸姿の変態で、見た目だけなら中肉中背中息子、黒い髪に黒の瞳をして、特徴と言える特徴など何もない。
それでも変態という以前に奇妙な印象が浮かび上がるのは、その様子があまりにもおかしいからだろう。
焦点の合わない目でふらふらと周りを見渡して、どうやら何かを探している。だがその動きからは意思も人間性もまるで感じられない。まるで
一応、息はしている。そう確認できるのは、呼吸の度に口からどす黒い煙を吐き出しているからだ。やはり到底、人間には見えない。
「お、おい。お前……」
バルテザ配下の兵士が声をかけると、男はそちらに振り向いた。具合がおかしい首をふらふら前後左右に揺らしながら、兵士の全身を視線で舐めるように観察する。そして首を横に振ったかと思えば、うんうんと何かを納得したように頷く。
そんな兵士たちの曖昧な反応に、バルテザだけが苛立ちの感情を露わにした。
「何をグズグズしてるんだよお前らは! そんなだから、僕がいなくちゃこんなゴミ虫のガキ一匹殺せないんだろ! こんな奴はなあ……」
唾を飛ばして言いながら、バルテザは男に向かってずかずかと歩き出す。そして手にした荘厳なる輝きを放つ偉大なる剣、神承器ゼピュロスを振りかぶった。
「こうしてしまえばいいん――」
鮮血が、宙に舞った。
「……え?」
手にしているゼピュロスには、まるで手応えがなかった。当然だ。まだ振り上げた剣身を振り下ろしてすらいないのだから。
困惑するバルテザの前で、男が手についた血を邪魔くさそうに払う。
それを見てようやく、バルテザは飛び散った血が誰のものか気が付いた。
バルテザの顔が、首から頬にかけて大きく裂けていた。とっさに傷口を押さえると、ぬめりとした感触。
「え、何……で? 僕は今だって神承器を……?」
目をやった神承器ゼピュロスは、間違いなく燦然と輝いている。ミスハを押し潰している空気の圧も消えてはいない。バルテザの肉体は今以て神のままだ。
だとすればこの男もまた神承器を? しかし男は全裸に徒手空拳という野性味溢れ過ぎる出で立ちで、武器も装飾品も何一つ身に付けていない。おかしい。有り得ない――
しかし目の前の男は、そんな小理屈など構う気配もない。
呆けた顔でよろけるバルテザへ無造作に距離を詰めると、そのまま真っ直ぐに顔面を殴りつけてきた。潰れたトマトのように鼻血が噴き出す。
無表情だった男の口がぐぱあと開き、歪んだ笑みが月の影に浮かんだ。
全身の血液が逆流したような感覚が、バルテザを襲った。鼻血のせいではない。首の傷でもない。それは恐怖と呼ばれる感覚。ようやくここに来て、バルテザは自らの生命が危機に晒されていることを悟った。
明確に自身へと向けられた悪意。家柄の庇護も、神承器の加護も今はない。自分の力で抗わなければ、戦わなければ、待っているのは――
「う、あ……あ、うわああああああッ!」
恐怖に凍り付いた身体を突き動かすべく、バルテザは半狂乱の叫びを上げた。叫びながら、目の前の男に向けてとにかくゼピュロスを振り回す。振るうたびにゼピュロスはより強く輝き、風を纏いながらその剣速を増していく。吹き荒ぶ風の中、竜巻の如き猛攻。
今度は何度か、確かな手応えがあった。どうだ!
期待に見開いたバルテザの目が捉えたのは、男の身体についた薄い傷から漏れ出す黒煙。そしてその傷がみるみる塞がっていく光景だけ。
バルテザの笑みが凍り付くのと同時に、神承器ゼピュロスの動きが止まった。バルテザ自身が止めたわけではない。止められた。男に剣身を掴まれている。もちろん素手のままでだ。
永久に切れ味が落ちることのない神承器の刃を素手で? やはりこの男はおかしい。こんなことはありえない。こんなことが、こんなものは――
バルテザの腹を、鋭い蹴りが貫いた。
胃液が口内に上ってくる。錆鉄のような血の味も混じっている。思わずえずきながらうずくまる。
だが男はやはり、そんな姿に躊躇する気配など微塵もない。
男の手がバルテザの肩を掴んだ。容易く肉体を突き刺す異常な膂力。バルテザは自らの皮が、筋肉が裂け、骨が砕ける音を身体の内側から聞いた。
痛みに叫ぶ時間はなかった。
次の瞬間、バルテザの身体は大振りに投げ飛ばされていた。
地面が削れ、大木を何本もへし折って、バルテザという砲弾が森の一角を吹き飛ばす。
神承器ゼピュロスは投げられた勢いをコントロールしようと風を最大限まで操ったが、ほとんど意味を成さなかった。バルテザの練度不足も多分に影響しているのだろう。しかしそれを遥かに超える力だった。
——そして、着弾の最終地点。
バルテザは震えていた。
「何――――だよお……何なんだよ畜生ォッ!」
全身から脂汗が噴き出す。歯の奥がカチカチと鳴り、寒気がおさまらない。折れた足や腕、潰れた内臓の痛みが身体中を駆け巡る。しかしその激痛すらも、湧き出る恐怖がぐちゃぐちゃにすり潰し消し去っていく。
そしてもちろん、これで終わりのわけもない。
土煙の向こうから、全裸の男がゆらゆら歩いてくる。黒煙を吐き出す口元には変わらず歪んだ笑みを浮かべ、瞳はこれ以上ないほど愉しげに、爛々と輝いていた。
「ま……待て! 待てよッ! 待ってくれぇえッ!」
叫ぶように言うと、男の足がぴた、と止まった。
何かに気付いたという態度。
そしてそのまま、自分の額に手を当てる。
「………………まて? ――まて。まて……あー、はいはい。『待て』ね。何?」
祖神の救いだと思った。
なんとこの男は、死体さながらに見えても意思疎通ができるのだ。言葉が通じるという当たり前のことがこれほど嬉しいと感じたのは、バルテザにとって初めての経験だった。
まだ助かるかもしれない。頭を下げ、代償を支払い、救いを求めれば応えてくれるかもしれない。
ここからの一言一句に、生死の行く末がかかっている。
バルテザは祈るように言葉を綴った。
「…………あ……あ、謝る! 僕は謝る! あの女――じゃない、ミスハ様……皇姫様には、もう決して手は出さない! 必要だというなら皇姫様にもあなたにもいくらでも謝罪しよう。もちろん弁済だってする!」
「あなたが僕とは比べものにならない程に強い神承器使いなのも、もう十分わかった! 僕はあなたに勝てっこない。もう近づかない、だから逃したって危なくもない、だからもうあなたに僕を殺す理由はない! だから、お願いだから…………見逃してくれ、見逃してください、お願いします! ぼ、僕は……僕は死にたくなんかないんだっ!」
バルテザは溢れるほどの涙を流し、何度も頭を下げながら懇願した。
ひと通り話を聞いてから、男は腕を組んで考え始めた。相変わらず首が座っていないのか、頭がゆらゆら揺れている。
男の表情は真剣だった。しかしバルテザには嫌な予感がしていた。予感の正体が何なのかも、本当は薄々気付いている。
この男は、皇姫ミスハの護衛ではない。
義憤に駆られた正義の使徒でもない。
自身の強さを見せつけたかったのでもなければ、ただ気に食わなかったわけですらない。
こいつはおそらく、きっと、いや間違いなく――
「うん。やっぱり意味が分からん。俺はただなんとなーく、あんたを殺したくて仕方ないだけなんだよ」
ただの狂人なのだ。
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