森奥の追走劇

 

 

 月明かりが照らす静かな夜、街道を外れた深い森の奥。不意に開けた広場のような草むらに、一つの人影が飛び出してきた。続けてそれを追うように、十人余りの集団が木々の合間から次々と現れる。

 追われる人影はフードを目深に被った、かなり小柄なローブ姿。それを追う集団はそれぞれ完成された肉体に剣を帯びて、鎧も着込んだ兵士のようだった。


 集団の先頭で指揮官らしき男が合図をすると、兵士たちはローブ姿を囲い込むように左右へ散開していく。続けて指揮官は素早く弓を引き絞る。


 瞬間、ローブ姿の身体が翻った。伸ばした手の先で紫光が閃く。


「<貫魔クーゲル>!」


 声とともに紫光は一条の線となり、指揮官の肩を鎧ごと射貫いた。引き絞られていた矢が勢い撃ち出されて、夜空に浮かぶ月へと飛んでいく。兵士たちの一瞬のざわめき。


「ぐぅッ! ……何をしているお前ら! このまま取り逃がすつもりか!」


 指揮官が声を荒げた時には、既にローブ姿は再び向き直って走り出していた。

 上官の一喝で我に返った兵士たちが慌てて加速する。しかし重装備が負担になっているのか、あるいは単純に追われる側が速いのか。距離が縮まる気配はない。もはや追走劇の勝者がどちらかは明らかだ。


 だが、そこで追われる側が不運を踏んづけた。


 不運は草むらに転がる全裸死体という形をとっていた。全速力のローブ姿は死体の首に足を取られると、走る勢いのまま地面に叩き付けられる。

 小さな呻き声が上がった。


「くぅッ——!」


 痛みに口元を歪めながら、ローブ姿はすぐに身体を持ち上げる。だが顔を上げた時にはもう、剣を抜いた兵士たちに囲まれていた。


 諦めたように一つ息を吐き出して、ローブ姿は自分を取り囲む兵士たちをゆっくり見渡す。

 それから、目深に被っていたフードをとった。


 めくったフードの中、降り注ぐ月の光が映し出したのは、凜として、端正な——しかしはっきりと幼い、少女の顔だった。


 肩口まで伸びるくすんだ銀髪は暗く輝いて、肌は透明と呼べるほどに白い。瞳は空に浮かぶ月の片割れと同じ、真っ赤な血の色をしていた。

 格好に飾り気はほとんどなかったが、唯一ペンダントだけを首から下げていて、その宝石には細やかな紋章が刻まれている。


 にじり寄ってくる兵士を視線で抑えながら、少女は真一文字に結んでいた小さな唇を開いた。


「……私が何者か、もちろん承知しておるのだろうな」


 兵士たちが無言で剣を構え直すのを見て、少女は悟ったように首を振る。

 兵士の一人が斬りかかった。


「<闇月イクリプス>」


 小さく唱えた声。呼応するようにして、少女の前方に大きな黒色の球体が生まれた。球体に触れた途端、斬りかかった兵士の鎧が大きくひしゃげ、はるか後方へと吹き飛ばされる。

 兵士たちが驚愕の声を上げた。


 少女の胸元で、ペンダントがぼんやり紫色に輝いていた。


「……やはり例の噂は本当だったか。しかしここまで使いこなしているとはな」

 指揮官の言葉に、少女の眼光が鋭くなった。

「ならば、どうする。ほうほうの体で逃げ出すか」


 何かを撃ち出すように、少女は手のひらを前に構えて脅しをかける。

 怯えるように兵士の多くが一歩、二歩と後ずさる。しかし、その中から歩み出てくる姿もあった。

 数は二人。いずれも構えた剣身には紋章の装飾が彫り込まれている。そして少女のペンダントが放つ紫の光と同様に、彼らの剣もそれぞれ赤と青の色にうっすら輝いている。


 少女は苦い顔をした。


「手落ちはない、というわけか」


 彼らの踏み込みは、先程の兵士とは比べ物にならない神速を見せた。

「<貫魔クーゲル>!」同時に少女が魔弾を放つ。


 魔弾の狙いは正確。だが神速の兵士はそれを見極め躱してみせる。


 間髪入れず、少女は次の呪文を唱えた。「<闇月イクリプス>」


 魔弾が狙った兵士は、躱しこそすれ態勢は崩している。兵士二人の同時攻撃は失敗に終わり、少女めがけて振りぬかれた剣は一つだけ。その剣閃を再び現れた黒球が受け止める。

 だが今度は兵士の側も簡単には撥ね飛ばされない。弾かれた剣をそのまま大振りにしながら、黒球を回り込むようにして少女の首を狙う。


 そこに魔法で生み出された虚ろな牙が襲いかかった。


「何ッ⁉」


 無詠唱で放たれた新たな魔法に、更なる驚きの声が上がる。その声に混じって斬りかかったもう一人も、魔弾に足を撃ち抜かれた。


 赤と青の剣を持った二人が、地面に膝をついた。


「ちぃッ! まさかこれほどとは……」指揮官の男が舌打ちをする。

 兵士たちは各々たじろぎ、互いに目配せを始めている。これ以上の戦力がない証拠だ。


 少女の額に一つ汗が流れ、呼吸を整えるように長い息を吐き出した。それからゆっくりと口を開く。


「これだけやれば十分であろう。私とていたずらに命を奪うつもりはないのだ。おぬしらが大人しく退くというのであれば——」


 言いかけた時、不意に大気が揺れた。


 揺らいだ空気はつむじ風に変わり、舞い上がる風は唸りを上げ始める。木々の梢が暴れて千切れ、次々に上空へと舞い上がる。程なくして巨大な、そして厚く強烈な、竜巻状の風の壁がこの広場を包み込んだ。

 呑み込まれるような錯覚すら覚えるほどの恐るべき風圧。間違いなく自然のものではない。


「魔法の風……? 紋章器もんしょうきの使い手が他にも——いや、まさかこれは……⁉」

「そのまさかだよ、蛮姫ミスハ様」


 答えたのは風の中からの声だった。

 大岩も木も人も、あらゆるものを呑み込んだ暴虐の風の中。彼のいる場所だけが凪のように、髪型すら変えず一人の男が歩いてくる。その手には荘厳な光を放つ剣を携えていた。


「…………神承器じんしょうき、か」


 ミスハと呼ばれた少女は、小さな唇を噛み潰しながら呟いた。


「そういうこと。これで君が勝てる可能性は万に一つも無くなったってわけだ。君にはこの僕、バルテザ・クリウス・ゼピュロスの初手柄になってもらうよ」


 暗殺相手に名乗りを上げるのは、自信の表れか、愚か者の証明か。

 バルテザと名乗ったその男は、反撃も不意打ちも有り得ないという余裕の構えで、ミスハの前に歩み出てきた。


「……たしかゼピュロス家の当主は、ルドルフという男だったはずだが」

「父なら半年前に死んだよ。そして僕が後を継いだのさ。我が家に伝わるこの美しき剣、神承器ゼピュロスと共にね。なんだ、知らなかったのかい、お姫様?」


 うっとりとして輝く剣を掲げるバルテザに、ミスハは一瞬表情を険しくする。

 それから、ふっと笑った。


「……そういえば、ルドルフ侯爵には文武に優れた子がおると聞いたことがある。……次男だがな。あとはその次男と比ぶべくもない、素行が悪く何をやるにも不出来な長男が一人——」


 バルテザが神承器ゼピュロスを振るった。


 風の壁が消え去る。

 そして間髪入れず、凄まじい空気の圧力が天空からミスハに襲いかかった。巨大な鈍器で殴られたような衝撃を全身に受けて、ミスハの身体は一気に地面へ叩きつけられる。


 地面に突っ伏しても、強烈な空気の圧はとどまる気配がない。幼い少女の身体が押さえつけられ、押し潰されていく。圧縮された空気の中では息をすることも難しく、肋骨が軋んでいる。


「……うーん。いま、お姫様は何か言ってたかな? 悪いなあ、ちょっと聞き取れなくて」


 呻き声しか上げられないミスハに、バルテザはわざとらしく聞き耳を立てる。もちろん答えなど返ってくるはずもない。


「うんうん。何も言ってないね。それじゃあそのまま————死ねよッ!」


 怒りを露わにすると同時に、空気の圧が更に上がった。


 ミスハはいよいよ呼吸ができなくなり、全身をすり潰されるような痛みが襲う。思わず叫ぼうとするが、その声すらも空気の圧の中で押し潰されて消えていく。


「……ほうら、死ね死ね、死んじまえ。皇帝家の血を穢した盗人が。今まで生かされてたのがそもそもの間違いだったんだよ。この僕がお前をあるべき土の下に戻してやるんだ、有り難く思えよゴミ虫が」


 バルテザは薄ら笑いをにやにやと、ミスハの苦しむ様子を眺めて悦に入っている。


 そこに小さく、ミスハが呪文を唱える声が響いた。凄まじい圧の底で、喉の奥から絞り出したような声。

 完全に気を抜いていたバルテザは隙を突かれた。


 放たれた魔弾がバルテザの胸——心臓の位置を完全に貫く。続けて魔力の牙が襲い、首根っこに喰らいついた。遠巻きに見ていた兵士たちが、叫ぶような声を上げた。


 これは、仕留めた。


 ————しかし。

 それに続いたのは、バルテザの馬鹿にしたような笑いだけだった。


 周囲に散った魔力の残滓が消えていく。その奥に見えてきたバルテザの身体は、怪我どころか、かすり傷の一つもない。ただ服にいくつかの穴が空いているだけだ。


「ぷっくく、ははは、あはははは! おいおいゴミ虫女、僕の話を聞いてなかったのかぁ? この手にある剣は神承器なんだぞ。神承器は神の遺物。神承器を使うことはすなわち神になること。神と化した者を傷つけることは……誰にもできない! 誰にも! ……寝ションベン垂らしてるガキだって知ってることだよ?」


 バルテザは笑いながらミスハに近づくと、その頭を激しく蹴りあげた。

 が、ミスハの身体は空気の圧に押し潰されて、ほとんど微動だにしない。バルテザはわずかに顔をしかめた。


 圧を一瞬弱め、今度は気持ち良く脇から蹴り飛ばす。ミスハが地面を転がる様を楽しんでから、再び圧を強めて動きを止めた。


「ただ、傷を負わないといっても、苛ついたのは確かだからね。その骨、一本ずつへし折ってから殺してやることにしよう。なあに、僕はこういうの慣れてるんだ。どうすれば一番苦しませながら殺せるか、よく知ってる。安心しなよ?」


 ゼピュロスの剣身をより強く輝かせながら、バルテザは動けないミスハへと再び近寄っていく。


 しかしバルテザはその時、近くに転がっている奇妙な死体の存在に、まるで気付いていなかった。

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