神喰らう者の化身

wani

プロローグ

凶気は眠る

 

 

 はたから見れば、彼は明白に死体だ。


 まばたきもせず、瞳孔は開いたまま、眼球はただ目の前の景色を流し込んでいる。呼吸はなく、身体は冷たく凍りついて、もし胸に耳を当てたなら心臓が止まっていることも確認できるだろう。


 しかし、意識だけはしっかりとあった。

 正確に表現するなら、意識だけしかなかった。


 狼が遠く吠える声を聞いた。頬に止まった虫と、それをついばむ小鳥の嘴を感じ取っていた。ぬるい風が全身を撫で回し、雨粒が肌を流れ落ちるのが分かった。一つの太陽と二つの月が順繰りに空を渡って、時に重なり、追い抜いていくのを見た。


 それでも幾つもの昼と夜が過ぎる間、彼は微動だにしなかった。


 ただおもむろに立ち上がろうにも、まず足を持ち上げる術が思い出せない。纏わり付く虫を振り払おうにも、腕がどこにどう生えているのか。尻尾はどうだろうか。さっぱり分からない。

 壊れた記憶の破片を辿るうち、青い月に遅れて少し小さな赤い月が地平線を昇る姿が眼球に映り込んできた。幾夜も目にした光景だ。


 だが、今夜はそれで終わらなかった。


 地面から身体全体へと騒がしい振動が雪崩れ込んでくる。それが人の足音だと気付いた時には、彼の開いたままの瞳が音の主たちの姿を捉えていた。

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