狐日和の世界の中で

きのう、失恋した。

　太陽が沈み、世界は闇に包まれた。

　そんな闇の世界の中心で、僕とふうかは空を見上げる。

「星……いっぱいだね」

「あぁ……」

　頭上には見たことのないほどの数の星が瞬く。

　まさに『星の海』。

　太古の時代、人類は空一面に散りばめられた光へ願いをかけ、あるいは夢を見た。その気持ちが今ならわかる。終末に煌く満天の星の輝きは、神の御技をも超える自然の力を示しているように感じた。

　それは、土と瓦礫ばかりになったこの星もいつか水と緑に彩られたかつての姿に戻してくれるだろうと思えるほどの、強く温かい偉大な力。

「比べて、僕たちは……非力だなぁ……」

　掠れた声でそう呟く。

　ひとりの人間は非力だ。

　周囲の環境が合わなければたちまち滅んでしまうほどの脆弱な存在である。

　そしてそんなか弱い存在であるからこそ、互いに寄り添い手を取り合って、人は歴史を編み込みこの星で栄華を極め、果てには空の彼方へ飛び出した。環境の違いなど、人の結束とその知恵の前では跳び越えるためのハードルでしかなかった。

　だからこそ忘れていた。

　人は根源的に弱者なのだという事に。

　そのことを忘れた時、人の繋がりがねじ伏せてきた環境というハードルが鋼鉄の壁よりも分厚く高く彼の者の前に聳え立った。

　一人の人間は非力である。

　宇宙にとれば極（ごく）限りなく些細なものでしかない環境の変化に殺される程に。

　そこには愛だの友情だのといった人の想いでは遥かに及ばぬ力が存在する。

「まだ生きてる？」

　もう指一本動かす力は残っていない。

　辛うじて口だけを動かして、僕はふうかに問いかけた。

「眠っちゃいそう」

「生きてるみたいだな……」

「どれが、ベガで……どれが、ベテルギウス？」

「ベガは夏、ベテルギウスは冬。同じ空には……居られない」

「そう……なの……？」

「あぁ……」

　繋いだ手からはふうかの体温が伝わってくる。その温かみを抱きしめることはもうできない。

「お腹……空いたなぁ」

「うん」

「喉もカラカラ……」

「そう……だな」

　うわ言のように呟くふうかに相槌を打つ。

　ますます弱まる少女の命の灯火を、少しでも掬い上げるために。だけど繋いだ指の隙間から零れ落ちるように、少女の声はか細くなっていく。

「あっ……悠里？」

「え？」

「悠里が……悠里がいる……！」

　突然ふうかがそんな事を口走りはじめた。

「優香ちゃん、木戸君……あぁ、みんなが……みんながいる……」

「ふうか？」

「え？ 授業？ うん、待ってね。今……席に、つく……から……」

　異様な言動。

　それが何なのか、僕にはすぐに分かる。

「『夢』、か……」

　ふうかが『夢』を見ている。

　彼女がかつて見ることを熱望した『夢』を。

　彼女は現実（ここ）で生きていくと決意し、『夢』を棄てた。なのに、最後の最後で『夢』は僕からふうかを、ふうかから現実（ここ）での時間を奪いに現れた。

「ふうか、ふうか！」

　必死に呼びかける。

　そんな僕の声にふうかの指がピクリと動く。

「あれ……なんだか人が……足りない？」

「え？」

「大切な人……私の大好きな……彼がいない……」

「ふう……？」

「彼は、拓海くんは……どこ？」

「ふう……ふうか！ ここだ！ 僕は……僕はここにいる！」

　『夢』が彼女を連れ去ろうとしている。

　ふうかが過去の幻想に囚われたままいなくなってしまう。

「そんなの駄目だ！ 僕は……僕を…………ふうかっ！」

　どうすればいい？

　何を言えば、彼女は『夢』から帰ってくる？

　少女の手の温もりが僕の指の間から零れ落ちる。

　けれど今の僕には、それをどんな言葉で堰き止めたらいいのか分からない。

　少女の存在は遥か遠く、僕の手の届かぬ所へと離れていく。

「ふうか……」

　無力な僕は、ただ少女の名前を呼んだ。

　一瞬、強く手が握られた。

「いた……」

「……ふうか？」

「温かい……」

　ふうかは掠れた声で「みぃつけた」と呟くと、僕の手を強く握りしめた。

　そして……。

「ありが……とう」

「え？」

　思いもしない言葉に思わずふうかを振り返る。だけど深い闇に閉ざされその表情は窺うことが出来ない。

　そして、それきり少女は沈黙する。

「……」

「……ふうか？ ふうか！ ふうか！！」

　僕の呼びかけは誰にも届かず、ただ虚空に消えるだけだった。

　ふうかは『夢』の中で死んだ。

「こんな……こんなこと……」

　この世界は残酷だ。

　－－『夢』ではなく、現実に死にたい。

　そんなたったひとつの些細な願いすら叶えられぬほどに。

「あぁ……」

　これでもう木戸も優香も、そしてふうかも……大切な人はみんな先に逝ってしまった。

　僕は独りぼっち。

　この狐日和の世界の中で、僕はついに独りになった。

　一番大切な少女は僕を現実（ここ）に置き忘れて『夢』の世界へ行ってしまった。

　永遠の愛を誓ったはずなのに、彼女は僕を置いて『夢』の中へ……その事に、ただ哀しみが募る。

「ありがとう、か……」

　最後の言葉を反芻する。

　それは彼女が最期に『夢』の世界で幸せを手にしたことの証左だろう。

　その事に僕は少しの安堵と、底無しの哀しみを覚えた。

「……」

『夢』を見ない少女、ふうか。

　彼女は『夢』に憧れながらも現実に生き、そして最期には『夢』に囚われて死んだ。

　それはこの世界と違って苦しみも悲しみも喪失感も惨めさも切なさも無い世界。

　その『夢』の中で彼女は幸せだったのだろう。最期の言葉から察するに、彼女は僕を『夢』の中で捜し求め、そして『僕』を見つけることが出来たらしい。

　結局、彼女の満たされた最期には『僕』がいて、だけどそこに僕はいなかった。

　僕は、そばに居させてもらえなかった。

「ふうか……」

　目の前に広がるのは満天の星。

　その下では枯れ果てたはずの雫が夜雨となり、星屑の光と共に僕の頬に止めどなく降り注いでいた。

　＊＊

　人間はこの残酷な世界で生きるにはあまりにも小さく、あまりにも叡智であった。

　世界の理に抗うことが出来ないほどに弱く、そしてその事を嘆き哀しむだけの知恵を持っていた。

　いや、ひょっとすると知恵の実を食らった代償がこの底無しに深い苦しみなのかも知れない。

　あるいは「智慧」ではなく「知恵」を手にしてしまったから、その道理も見えぬままに苛まれているのか。

　ともかく、僕はついに全てを失った。

「あさ……」

　終末の世界。けれど、陽はまた昇る。

　薄暮の中、二度と見れぬと思っていた彩り豊かな世界が再び僕の目に飛び込んできた。

　そして、右手には……

「ふう……か」

　きのう、僕は失恋した。

　現実（ここ）で最期まで共にいると言ってくれた少女は、僕を置いて『夢』の世界に消えていった。言うなれば、フラれたようなものだと笑いを漏らす。

「……」

　掠れる視界。

　そこに広がるのはどこまでもリアルで生々しく孤独な世界。かつて僕はそんな狐日和の世界の中で恋をした。出来るならもう一度その幸せな時間を『夢』で過ごし、そしてそこで死んでいきたい。

　だけど、僕はもう『夢』の中には旅立てない。そうなった原因の少女は『夢』に死んだというのに。僕の前にはただ生々しく「死」がその鎌を振り上げているだけ。

「あ……」

　東の空が一際明るく輝いた。

　次の瞬間、朝日が僕らを塗りつぶす。

　赤茶けた瓦礫の地面が、紅く静かに燃えていた空が、そして地面に転がるふうかが橙色に輝きだす。

　そしてそれが「死」の振るった鎌の刃の閃きであるかのごとく、一気に意識が遠のき始めた。

「きれい……」

　死の間際。

　照らし出されるふうかの顔が目に入った。

「笑って……る？」

　彼女は微笑んでいた。

　思いもしないその表情にただ呆然とする。

　－－何故、微笑んでいるのか。

「あ……」

　ふと、ふうかの最期が脳裏をよぎる。

　彼女が「いた」と何かを見つけた時、確かにその手が強く僕を握り締めた。

「あ……あぁ……」

　ひょっとすると彼女は最期の一瞬、現実（こちら）に戻ってきていたのではないだろうか。

　あの「ありがとう」は『夢』の中の『僕』ではなく、僕自身に向けられたものだったのではないだろうか……。

「あぁぁ……うっ……うぅ……」

　枯れたと思っていた涙がまた溢れ出す。

　僕は彼女を疑った。

　彼女との時間を疑った。

　だけど、繋がりは失われてはいなかった。

　僕はきのう恋を失い、そして、最期の最期で恋を取り戻した。

「ありがとう……ふうか」

　形を失っていく世界。

　その中で、ふうかだけを感じる。

　そして、ふうかに繋がれていて思い出す。

　僕とふうかは確かに恋をしていたことを。

　僕らは恋をして、誓いを立てたのだ。

　－－その命ある限りそして命が尽きてもなお互いに愛し愛されることを誓う、と。

　きっと、その誓いは果たされるだろう。

「あり……が……」

　もう何も見えない、何も聞こえない。

　ただ、ふうかだけを感じる。

　愛しい人だけを感じて、僕はこの狐日和の世界の中から静かに旅立った。