弐
「あら、ようやく起きまして?」
葵日が起きたことに気付いたお雛様が、葵日の顔を覗き込む。葵日は「ああ」とまだ半覚醒の様子で答えながら起き上がると、自分の隣に敷いてあった二つの布団がすでに片付けられていることに気付いた。昨夜はお雛様を挟み、三人で仲良く川の字になって眠ったのだ。
「ようやく起きたのか、おそよう葵日」
片付けられた布団の跡地で見ていた視線を、そのまま少し上に上げると呆れた顔の
「…おそよう」
まだ頭の覚醒していない葵日は、椿の嫌味にも気付かず、そのまま返す。その様子に、椿は溜め息を吐く。
「まだ起ききらないのか、このだぁほは……」
まだまだ眠い葵日は、再び目を閉じて、座っているのも難しいと言わんばかりに頭が左右に振れ始めた。それを見た椿は再び溜め息を吐き、持っている膳を丁寧に置くと、法螺貝を持ち、葵日の耳元で思いっきり吹いた。
「うおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
危険を察知し、離れて耳を塞いだお雛様ですら五月蝿いと感じた音だ、無防備に耳元で鳴らされた葵日のダメージはいかほどだったであろう。本来法螺貝は山の中で修験者同士が離れた場所から連絡を取り合う為の物、けして人の耳元で吹く為の物ではないのだ。
「五月蝿えっ!!」
流石の葵日も、この音には目を醒ました様だ。
「お前、俺の鼓膜が破れたらどうすんだよ!」
「お前の鼓膜がそんなに柔なわけないだろう?」
「どんな理屈だよ!?」
今回は流石に葵日が可哀想だと、お雛様は思った。
「もう朝食だ、さっさと顔洗ってこい」
そう言うと、椿は葵日を廊下に放り出した。葵日はしぶしぶ洗面所に向かう。
「あぁ、お雛様悪かったな、大丈夫だったか?」
急に話を振られたお雛様は、驚きながらも答えた。
「えぇ、耳を塞いでいましたので」
「そうか、良かった」
そう言うと、椿はふわりと笑った。中性的に整った顔立ちの椿は笑むととても綺麗なので、思わず見惚れてしまう。しかも葵日と違って、素では無表情や仏頂面が多いので、笑顔が毎回新鮮に感じられる、なんともお得感の得られる笑顔だ。
「お雛様?」
急にぼーっとしたお雛様に、椿が声をかけると、我に帰ったお雛様は「何でもありませんわ」と答えました。
「まぁ良いや。あの阿呆が戻って来る前に、朝食の支度を済ませてしまおう」
そう言うと、椿は葵日が寝ていた布団を片付ける。お雛様も頷き、膳を並べる。
「ところで、物忌み中って何するんだ?」
朝食を食べ終え、片付けも済ませて、一息吐いた時に葵日が言った。
「は?」
「だから、物忌み中って何するんだよ? 物忌みの存在は知ってたけど、実際参加すんのは初めてだからよう、何すんのかなぁって」
「物忌みは神道や陰陽道の思想だからな、おれだって専門外だ。大きな声を出しちゃいけないとかは聞いたことあるけどな」
「ふ~ん。
何かしろとか言われてんの? お雛さん」
椿では解らないらしいと見切りを付けた葵日が、お雛様に矛先を変える。
「え? 特に何も言われておりませんわ、ただ香だけは焚いておけとしか……」
「へぇ」
葵日は、香の焚かれた床の間に視線を向ける。香には魔除けの力があるとされている、確かに物忌み中に香を焚くのは、理に適っていると言える。
「神道や陰陽道が専門外って、どういうことですの?」
神道は日本古来の宗教、そして陰陽道は日本でもっともメジャーな呪術と言える。その二つを専門としない呪術者がいるなど、お雛様にしてみれば目から鱗なのだ。
「おれたちの初代が仕えていた人物のことを、知っているか?」
初代、つまり前鬼と後鬼を従えた術者、それはあまりにも有名な人間だ。
「
「あぁ。小角様は修験道の開祖と言われておられる。それと、
お雛様の質問に椿が答える。それを横で聞いていた葵日には、一つの疑問が浮かんだ。
「今の話解かるのか、お雛さん?」
お雛様は、こくんと首を縦に振る。その反応に、思わず激しくツッコミを入れてしまう。
「何で四歳児がそんなこと知ってるんだよっ!?」
そのツッコミに、他の二人はきょとんとしている。
「お前だって四歳の時には、それくらい知ってただろう?」
「うっ、そりゃ朧げだったし、それに俺たちとお雛さんじゃ違うじゃん、立場が」
葵日はたじろぎながらも反論するが、椿にばっさり切られてしまう。
「同じだよ。お雛様もおれたちも、小さい頃からそういった話を聴いて育って来た、頭に入ってて当然だろう。それに、四歳児ってのはもう記憶がしっかりする時期だ、尚更解かって当然だろう。
それとも何か? お前は四歳児がヒーローの名前を言えるのは別段不思議じゃないが、術者の名前が言えるのは不思議だってか? その子どもがヒーローより術者の名前を沢山聴いたことがあるのにだぞ?」
そう言われ、葵日は正にぐうの音も出ない状況だった。
「そういうことだろ、お雛様?」
椿の言葉に、お雛様はこくんと肯定を示した。
「そうかい、そうかい……」
口で椿に勝てないことを理解した葵日は、徐に縁側の方に移動していじけ始める。
「えぇいっ鬱陶しい、いじけるな!」
椿が叱咤するが、葵日は意に介さない様子で呟く。
「ふ~んだ、どうせ莫迦だも~ん。頭の良い方同士仲良くやればぁ? あ~あ、俺は独りで閑してろってか?」
「マジでうぜぇ……」
椿はそんな葵日にうんざりするが、お雛様は責任を感じてか、トコトコと近寄ると、言った。
「一緒に遊びましょう、葵日様」
その言葉を聴いた葵日は、ガバッと頭を上げると、満面の笑顔で「じゃぁ、外で遊ぼうぜ」と言って、そのままにしていたざんばら頭を手櫛でハーフアップに纏め、ゴムで留めた。気合いは充分だ。そしてお雛様の腕を掴んで、ほとんど連行といった形で外へ連れて行った。
「だぁほ」
一連の様子を見て、椿が思わず呟く。
体が弱く、運動神経も良くはないお雛様は、結局ほとんど見ていただけで、ほぼ独りで遊ぶという些か淋しい状況ではあったが、それでも夕食時には葵日はすっかり満足した様子だった。
「それで良いのか、葵日?」
自問する様に呟かれた椿の言葉は、当然葵日には届かなかった。
「それにしても、当然と言うか何と言うか、昼間は何も出なかったな」
行儀悪く箸で椿の方を指しながら、葵日が言う。
「行儀悪いぞ、葵日。
まぁ日中は人の刻限だからな。日輪の下で暴れられる異形は、中々いないだろう」
「
摩利支天とは、日光や陽炎を神格化した神のことだ。
ふと、葵日に疑問が浮かんだ。
「そいやぁ、道切りはしないのか?」
道切りとは、要するに修験道の魔除けの法のことである。
「此処にはすでにご当主の結界が結んであるだろう? 下手におれが道切りの結界を張れば、その結界が相殺されるなんて事態が起こるやもしれん。だからそういうのは、今はしない方が良い」
椿の説明に、葵日もお雛様も納得する。
「なるほど、そりゃそうだ。術の系統も多分違うわけだしな」
「何でも良いけど、お前ら食うの遅いな」
すっかり食べ終わった椿が言うが、実際は食べ始めてから五分と経っていない。当然葵日がツッコむ。
「お前が速ぇんだよ!!」
「今夜も来るかな?」
すでに寝入ったお雛様の頭を撫でながら、葵日が言う。
「さぁ? だが…おそらくは……」
その後に続く言葉は、言わずとも解かった。そしてそれを肯定する様に、二人の背筋に悪寒が走った。
「来た」
「あぁ」
短く言うと二人は視線を一瞬交わし、庭へと飛び出す。二人の手には、それぞれ斧と数珠を手にしている。そして、椿の腰には法螺貝が吊るされていた。
「つか、こいつらどっから入って来んだよ?」
今日も結界が破られる事無く、邪気が内部に侵入していた。
「知らん」
「今日は逃がさねぇ」
「当然だ」
葵日は斧を構えると、斧の文を唱え始める。
「それおもんみれば神力加持の宝斧といっぱ、抖擻修行の密具にして、深山を切り開き煩悩の敵を断絶し、黒白の薪を切り、以って三僧祇劫の修行を積む。これすなわち有漏生死の依身を断焼して本有不生の阿字に帰入せしむるの義なり。かるが故に、有無の二見を焼尽する時んば、薪尽きて火の滅するが如し」
前鬼の斧は鬼の武具だけあって強力だ、今や人間に近くなった鬼頭の血筋には、完全に御するのは難しい。それ故に普段は、力をある程度封じているのだ。そして、宝斧作法をすることによってその力を解放出来る様に施してある。つまり、今の斧はの威力は昨日のそれとは、比べ物にならないのだ。
「悪いが手加減なんかしてやれねぇぞ」
そう言って、邪気を刻み始める葵日を横目に、椿は昨日効果のあった不動明王咒を唱える。
「ナウマクサルバタタギャテイ・ビャク・サルバモッケイ・ビャク・サルバタタラタ・センダマカロシャナ・ケンギャキギャキ・サルバビキナン・ウンタラタカンマンっ!」
再び退いた葵日の目には、迦楼羅焔が邪気を覆い尽くす寸前、白い邪気の一部が黒くなり、迦楼羅焔に突っ込んで行ったのが見えた。
(なんだ?)
葵日がそのことを椿に言うよりも速く、勢い良く燃え上がっている炎に異変が起こった。
「なっ!」
「迦楼羅焔が…消えた……?」
悟りや修行の邪魔をするモノを問答無用で焼き尽くす、その不動明王の炎が消えたのだ。
「どういうことだ?」
「…っ、そうか!」
先程の様子を見ていた葵日の中で、一本の筋が通った。
「邪気が白いのにも、理由があったんだよ!」
「は?」
椿には、まだ解からない。
「だから、こいつ金行なんだよ! だから炎に弱い。そして……」
「そうか、金生水と水剋火か!」
そこまで言われて、解からない椿ではなかった。五行相生と相剋だ。五行、木火土金水は互いに生み合い、征し合う。金行は金属に結露が発生する様に水行を生み、水行は水が火を消す様に火行を征する。つまりは金行の性質を持つ霊気が水行を生み、それが火行の存在である迦楼羅焔を消したのだ。
「だが、いくら水剋火といっても、不動明王の炎だぞ!?」
「向こうさんもそれなりって、ことだろうよ……」
椿には、その葵日の言葉を否定する術を持たなかった。
「認めるよ、おれたち『だけ』じゃどうにもならない」
そう言うと、椿は羅緒から法螺貝を取ると、口元へと運ぶ。それを見た葵日は心得た様に椿の前に立ちはだかり、邪気へと斧を繰り出す。
「吉とでるか、凶とでるか」
アレを呼べば、確実に結界が壊れる。それによりこの邪気の本体、もしくはもっと強力なモノが来ないとも限らないのだ。しかしアレを呼ばなければ、二人だけではどうにもならない。
「それ金剛摩耶の法螺とは、声字実相の義にして三界の大衆を驚かし、六道衆生の妄夢を醒まし、中道不生の覚位に帰せしめんがためのものなり。金剛バン字の螺を立て、自性心蓮の尊を顕わすなり。
三昧法螺声 一乗妙法説
経耳滅煩悩 當入阿字門」
立螺作法の法螺の文を唱えた後、椿は法螺貝を吹き始める。「天狗寄せ」と呼ばれる吹き方だ。その名の通り、天狗を召喚する為の吹き方である。
その音に反応したのか、邪気たちが椿に向かおうとするが、立ちはだかる葵日の斧の露となった。
椿の奏でる法螺貝の音が飛んで行く、遠くへ、遠くへ……。しばしの時間があった後、その変化は起きた。結界が歪んだのだ。
「来た」
葵日がそちらに顔を向ける。余所見をしたとて問題は無い、何故なら邪気の意識も、そちらに向いているのだ。
結界に罅が入る。その罅は結界全体に広がり、そして、とうとう結界が音を立てて割れた。その割れた所から、一人の黒翼を持つ青年が二人の下へと、降り立った。
「
お目当てのモノが来たので、法螺貝から口を離した椿が、青年の名を呼ぶ。
「やぁ、椿、葵日」
青年が答えると、彼の衣の中から五つの小さなが影が、飛び出した。
「
葵日が呼ぶと、五鬼が「葵日様、椿様」と言いながら二人に纏わり付いて来る。
「あれですか?」
その様子を意にも介さないで、相模坊が邪気を睨みながら言った。
「あぁ」
五鬼の登場で少し和んだ二人の空気が、再び硬さを取り戻す。つられた様に、五鬼も邪気の方を見る。
「どうしたいのですか?」
「追い返すのではなく、滅することを望む」
相模坊の問いかけに、椿が答える。
「御意」
相模坊が邪気を阻む。その視線に、邪気が怯むのが解かった。
「椿、不動明王咒で迦楼羅焔を出してください」
相模棒が言う、おそらくこの邪気が金行の力を持っていることを見抜いたのだろう、二人は流石だと思いながらも、それでは駄目なことを説明しようとする。
「こいつが金行だからだろう? でもそれじゃぁ駄目なんだよ、こいつは金生……」
しかし相相模坊は、葵日の言葉の途中で割り込む様に言う。
「金生水で炎を征させてしまうのでしょう? だから私も助太刀しますよ、天狗の団扇の起こす風でね」
「水生木で、木生火を起こすっていうのか!?」
水が草木を育てる様に、水行は木行を生み、薪で火力が上がる様に、木行が火行を生む。そして、風は木行に属するものだ。つまり間に木行を入れることによって、水行の力をむしろ利用してやろうということだ。
「それはまた、随分と力技だなっと」
もう待ちきれないとばかりに襲って来ようとした邪気に、斧を叩き付けながら葵日が言う。
「まぁ、五行だなんだと七面倒くせぇことは、そっちでやってくれ」
そう言うと、再び邪気に躍りかかる。それに続く小さな影があった。
「
五鬼のうちの一人だ。
五鬼は、それぞれ五行を表しているという。そして鬼虎がその身に帯びるは金行だ、葵日の斧の力を強めることが出来る。
「力を貸してくれるって? 良いぜ、行くぞ!」
そう言うと、葵日は邪気に飛びかかる。鬼虎は体が小さく軽いので、葵日の動きの障害にはならなかった。
「ナウマクサマンダ・バサラナ・タラタアボキヤセンダマカトシヤナ・ソワタヤウン・タラマヤ・タラマヤウンタラタ・カンマンっ!」
椿が四臂不動真言(腕が四本の不動明王の真言)を唱えると、これまでのものより勢いの良い迦楼羅焔が飛び出す。その炎に向かって、相模坊は八手の葉の様な団扇を思いっ切り扇いだ。突風が起こり、劫火が邪気に襲いかかる。
「あっぶねぇ~っ!」
間一髪その炎に巻き込まれずに済んだ葵日が、鬼虎と地面に転がりながら呟いた。
「今いた奴らは、焼き払えた様ですよ」
まだ残る風に長髪を靡かせながら、相模坊が椿を振り返る。
「あ」
思わず声を漏らした相模坊につられて振り返った葵日、椿と五鬼の目には、大きな目を零れんばかり見開いたお雛様の姿が、映った。
「まぁ、起きてるわな」
そう、葵日が呟いた。
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