6話 赤い街と巨大な影

 赤い街は、ほとんど自分が住んでいる街と同じだった。

 住人の代わりに、あの真っ黒な人影たちがいること以外は。


 家々に扉はあったが、入るのはどうにも気が引けた。何しろ見た目だけはごく普通の家なのだ。こんなにも空が赤くなければ、普通に人が住んでいてもおかしくない。いや、それ以前に、普通に人が住んでいたはずなのだ。

 それなのに罪悪感を覚えるのは、「よその家に勝手に入っちゃいけません」という子供の頃からの教育のたまものだろう。


 ――ちくしょう……愛奈。いったいどこにいるんだ?


 鞄を抱きかかえて道を歩く。

 いったいどこへ行けばいいのか見当もつかない。

 無意識に足を向けている先は、方角的には家のほうだ。知らず知らずのうちに、家に向かっているらしい。やっぱり俺の家はたった一つなのかもしれない。

 でも、同じように家に隠れている可能性もある。


 ――とにかく、うちに行ってみよう。


 車が通っていない大通りには、代わりに人影たちが時折のっそりと歩いていた。できるだけ奴らの視界に――あるかどうかはさておき――入らないようにして、隅の方を歩く。

 人影は、人間の影のようだった。

 一様に真っ黒で、顔もそれらしい輪郭があるだけでのっぺりとしている。かろうじてスーツを着ているとか、スカートを履いているとか、大人とか子供とかそういうことがわかるくらい。歩き方は非常にゆっくりで、トボトボと下を向いて歩いている。特に何かしてくるわけではない、ただ不気味というだけだ。それはそれで、ありがたいけれど……。


「……うわぁっ!?」


 他のことに気を取られていたせいなのか、目の前に人影が迫っていることに気付いた。

 のっそりと歩く人影は俺の至近距離まで迫っている。


「な、なんだよ、――ひいっ!?」


 ぶつかる――と思った瞬間、何かもやもやとしたものが自分の体を通過していった。今まで体験したことのない感覚だった。冷たくも熱くもない、それなのに蒸気のようなもやっとしたものが自分の中をすり抜けていったのだ。

 閉じた目を開けた時には、もう人影は自分の後ろをのたのたと歩いて行ってしまった。

 奴ら、実体が無いのだ。


 ――よかった……。


 ホッとひといきつく。こんなところで下手に接触するなんて思わなかった。特にこれといった不調は感じられないが、無事だったとしてももうゴメンだ。何をされるかわかったもんじゃない。

 これからは気をつけて進むべきだ。

 それに、おかしなことはもうひとつ。さっきからどれだけ経っても、空の色が変わらない。夕方の時間帯なんて、そうそう長くもないだろう。もうとっくに夜になっていてもおかしくない。これがこの世界の普通なのか?

 ともかく俺がどうこうできることじゃない。気を取り直し、大通りを横切って住宅街へと向かおうとしたときだ。


 ずるるっ……ずるるるっ……


 ――え?


 耳障りな、何か引きずるような音がした。ここに来てからはじめて聞いた音だ。

 体が硬直し、頭に警告音が鳴り響く。曲がり角で身を潜めて縮こまると、急にドクドクと心臓が跳ね上がった。

 異様な音はやがて、地響きのような振動とともに近づいてくる。


 ――なんだ……なんだ、いったい!?


 頭の中の警報はどんどん大きくなり、手に汗がべったりとこびりついた。ズボンの裾で手を拭うと、ごくりと喉を鳴らす。やがて振動はすぐそこまで近づいてきた。

 そっと曲がり角の向こうへと視線をやると、思わず口を手で覆った。


 そいつは、ズルッ、ズルッ、と片足を引きずるように動いていた。


 身長は三メートルほどあり、他の黒い影と違って人間の形を逸脱していた。肩と首、それから顎までが一体化して奇妙に長く、滴型のように胴体につながっている。細い首のようなところをぷつんと切れば今にもちぎれてしまいそうだが、収縮を繰り返して時折ぷうっと太くふくれる。その頭から伸びた触手のようなものが、移動のたびにぶらんぶらんと蛸のように動いた。

 腕と足も同じで、先が大きく膨れていた。腕は触手よりも長く、地面を引きずっている。その音が、時折片足を引きずる音に混じる。触手とともにぶらぶらと揺れているが、違うのはその手先に五本のかぎ爪のようなものがあることだ。それらが時折地面をひっかき、嫌な音を立てる。

 まるで巨大な化け物の影だ。


 ――なんだ……なんだあいつ……!?


 今まで見てきた影とはまったく違う姿に、慌てて隠れる。

 そいつはキョロキョロとあたりを見回したかと思うと――。


「ぐぎぇえええええええ……!」


 一声、啼いた。

 聞いただけで、全身の毛が逆立つような寒気が体を駆け抜ける。


 ――やばい。やばい。やばい……! あいつは絶対にやばい……!


 ぞくぞくと体中を駆け巡る寒気に、思わず両腕をつかむ。縮こまり、息を殺す。カタカタと歯が鳴った。

 見た目が明らかに人間やどんな獣とも違う、というだけではない。生物の本能的な恐怖に爪を立ててくるようだ。

 今まで本やネットで見てきたようなどんな不気味で醜悪なイラストも、あいつの一声にはきっと勝てない。何しろあいつは現実で、そして声だけで心臓を掴んでくる感覚に囚われるのだ。


 あいつはしばらく立ち止まっていたが、再び歩き出した。そのたびに地面が揺れる。

 俺はといえば、情けないことにカタカタと震えたまま何もできなかった。心臓をわしづかみにされたままだった。

 やがてあいつの姿が遠のくと、ようやくちゃんとした息ができるようになった。

 脂汗がどっと流れだし、急激な疲労がやってくる。


 ――行ったか……。


 まだ遠くのほうでずるずると腕を引きずる音が聞こえている。震える体にむち打ち、なんとか立ち上がることができたのは、それからしばらく経ってからだった。

 ちらりと見ると、俺の進行方向と同じ道を進んでいる。


 ――くそっ……しょうがない。なんとか回り道するしか……。


 あたりを見回し、細部までこの街が現実の世界と同じであることを願う。

 そして同時に、まだ死にたくない、と心の片隅で祈った。

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