14
目を覚ましたのは、戸を開く音がしたからだった。母の帰りかと期待した信乃は、しかし漂ってくる人間の匂いに身を潜めた。ぎしぎしと音を立てて歩くのはどうやら子どもではなく大人で、そして、その人間から母の匂いを嗅ぎ付けた瞬間、信乃は我を忘れて飛びかかっていた。人間はそんな信乃に大層驚いた様子で仰け反り、尻餅をつく。信乃は躊躇わず喉笛を噛み切ろうと牙を立て、腕によって防がれた。ならばその腕を食いちぎってやろうと顎に力を籠める信乃の耳に、声が届いた。
「信乃、さん?」
聞き慣れた声。聞き慣れた呼び方。飛び退き逃げようとする信乃を、その人間は覆い被さるように押さえつけた。
「信乃さん、信乃さんだろう?」
じたばたと藻掻く信乃を押さえつけ、そう何度も名前を呼ぶ声は、戸惑いを引きずっていたが、それでも確信をしていた。
やがて信乃は観念した。本気を出せばこの人間を吹き飛ばして逃げることくらい容易である。けれど、その選択を採ることが信乃にとって容易でない以上、諦めるほかなかった。
信乃が暴れるのをやめれば、相手も押さえつける手を緩めた。するりと隙間を抜けた信乃は、その人物と、悠太郎と対峙する。悠太郎は少し疲れたような顔で、しかし興奮冷めやらぬような表情で、信乃を見ていた。
◇◇◇
信乃が目を覚ますと、悠太郎は既に起きていた。起きて、人の髪を弄っていた。
「……おはようございます。早起きですね」
「おはよう。朝は苦手な方なんだけどね」
髪を弄る手を鬱陶しそうに退ければ、その手からガーゼが覗く。それに信乃は気まずそうに目を逸らした。その下にあるのは、誰のものでもない、自身が付けた噛み跡。怒りのままに噛み千切るには、信乃はこの人間のことをよく知り過ぎていた。
あの後、観念した信乃は人の姿にも戻らず、狐の姿のまま不貞寝するように丸くなった。悠太郎が殺そうと思えば簡単に殺せたであろう信乃は、しかしなぜか悠太郎に抱っこされた状態で一緒に寝る羽目になった。理由を問えば「逃げると思った」とのこと。ならば鎖にでも繋ぐのが正しいやり方だ。人の腕の力などたかが知れているのだから。
「普段とはまた違う姿だ」
「家ではいつもこうですよ、気味悪いですか?」
「いいや」
信乃の姿に悠太郎は目を細める。それから、すっと目を伏せた。
「昨日の……彼女は」
「母です」
今さら隠す必要もあるまいと、信乃は言い切る。そう、あそこに死んでいたのは母だ。お前らは、母の亡骸を回収し、埋葬もせず解体した。たとえそれが自然の摂理に適っていたとしても、信乃はそれを許すことはないだろう。
「そう……そうか……彼女が」
悠太郎は、言葉を失ったように口を閉ざした。それも無理はないだろう、悠太郎にとって信乃の母は初恋の人だったのだから。
「……もう過ぎたことです。致し方のないこと。私たちは、人間に正体がバレれば殺されるというのが常でしたから」
「僕は信乃さんを殺すつもりはない」
信乃が冷たく言い放てば悠太郎は慌てて、しかしはっきりとした口調で否定する。
「どうだか」
そんな悠太郎に、信乃は肩を竦めてそっぽを向いた。
信乃は、母の死が悲しい。悲しいのはもちろんなのだが、それ以上に怒りがあった。殺された側の怒りである。それは、今でも消えてはいない。目の前にいるのが、絶対に無実であり、付き合いの長い悠太郎であるからこそ多少は融和の兆しを見せているものの、昨日の今日で消えるほど信乃の感情は柔くはない。
だからこそ、悠太郎に対しては怒りとは別の感情があった。母の死を、純粋に悲しむことのできる人間への嫉妬があった。
いずれ別れがくることくらい、信乃も覚悟はしていた。けれど、このような形になるとは思ってもいなかった。
「……信乃さんのお母さんは、いつも人の姿をしてた」
「そうですね、人前に出るときは必ず人の姿でした。家にいるときは狐の姿でしたよ、とても――」
そう、とても美しい二尾の狐だった。
今でもふとした瞬間に襖を開けて姿を見せそうな母に思いを馳せていれば、悠太郎は不思議そうに言葉を続けた。
「どうして、狐の姿であんな所に?」
「死ねば化ける力もなくなるので、もとの姿に戻るのは当然ですが」
そういえば、確かになぜあんな所に母はいたのだろう。
悠太郎の言葉に信乃は改めて首を傾げた。その耳に、人の足音が聞こえる。こんな朝早くの来訪者は、だいたいにおいて嫌なものだ。
立ち上がり、人の姿に化ける信乃を、悠太郎は驚いた様子で見上げた。そんな悠太郎を、信乃は足で小突く。
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