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 悠太郎が目を覚ますと、隣の信乃はまだ眠っていた。耳を澄ましても、外は静かだ。我ながら随分早くに起きたものだと、悠太郎は不慣れな早起きにどうしたものかと体を起こした。


 昨日、空港に信乃が迎えにきてくれて、悠太郎は驚くと同時に嬉しかった。家族からは事前に迎えには行けない旨を伝えられていたから、ひとりで帰るものだと思っていた。そんな中、空港に少しだけ不機嫌そうな信乃の姿を見つけて、悠太郎は嬉しかったのだ。


「信乃さん、迎えにきてくれたんだ」


「別に、家にいても今日はうるさくて」


 家族が迎えに来られないのも、家に客人が来るからだと言っていたのを悠太郎は思い出す。どうやらその客人は、信乃の家にも訪ねているようだ。


 ならば、すぐ帰っても面倒なだけだろうと、悠太郎は信乃にどこかで時間を潰すことを提案した。お金なんて持ってないですよ、と言う信乃に、おごるよと言ったのを覚えている。


 どこにでもあるようなチェーン店の喫茶店ですら信乃には不慣れなようで、適当に頼んだ三段重ねのパンケーキを不思議そうに眺めていた。ひと口飲む、と差し出したアイスコーヒーは、匂いだけで顔を顰めていた。


 信乃は、不思議な人であった。


 最初に悠太郎がそう思ったのは、信乃が小学校に通っていなかったときである。信乃曰く「私は頭がいいから学校に行かなくて良い」とのことで、当初こそ信乃のその言葉を信じていたのだが、次第にそれはおかしいことなのだと知った。悠太郎の住む地域に私立の小学校も存在しない。けれど、信乃は、悠太郎が家に行けば必ずいた。


 そして、信乃は中学校にも来ていなかった。なんとなく同級生に名前を伏せて聞いてみても、そもそも子どもいたっけ、という風だった。昔一緒に遊んだろう、と悠太郎が聞いても、一同首を傾げるばかりでよく覚えていないと言う。とはいえ、悠太郎自身も、昔一緒に遊んでいた子で覚えているのは、一緒に小学校に上がった子だけだ。悠太郎のように家に遊びに行くこともなければ、みなが忘れてしまうのも不自然とは言えない。


 それでも納得がいかず浩一郎にその話をすれば、浩一郎は「狐に化かされたんだよ」と取り合ってくれなかった。そう、そのときは、取り合ってくれないと悠太郎は感じたのだ。


 今いるのは信乃の家。二人で住んでいたとは思えない、大きめの屋敷。悠太郎は、小さい頃からこの家が好きであった。我が家のような安心感があった。信乃の母には、実の母のような恋しさがあった。幼い悠太郎はその感情を「おとなの恋」と勘違いしたのだ。次第に成長して、そうではないことがわかったときは、あの一世一代の告白を自身の黒歴史としてそっと記憶に蓋をした。とはいえ、信乃には長いこと、それこそ大学に上がるときまで、本気だと疑われていたようだったが。


 寝ている信乃の髪を、そっと梳く。


 いつからか悠太郎は、信乃のことをおぼろげながら「自分とは違う何か」と意識するようになった。それまで呼び捨てにしていたのが、まるであまりに身分違いのことのように感じて「信乃さん」と呼ぶようになったのも、その一端だった。それと同様に、信乃の母にも悠太郎は同様の――あるいは信乃以上の、畏怖に似た何かを抱くようになった。そう意識するようになってから、信乃たちの家は単なる家ではなく、どこか神聖な場所のように悠太郎は感じた。鳥居を抜けた先のような、どこか人界とは離れた何かを感じるようになった。


 けれどそれは、悠太郎にとっては隔絶ではなかった。ここは人の世ではないという、隔たりではなかった。信乃の母に対する慕情は健在であったし、この家が悠太郎にとって心地の良い場所であったことにも変わりはなかった。ただ、ここが「普通ではない」と意識しただけに過ぎず、それ以上でもそれ以下でもなかった。


 今思えば、信乃たちと付き合うならば、きちんとその「違和感」と向き合っておくべきだったのだろう。


 その信乃は、今、隣で眠っている。その髪を撫でる。見慣れた黒い髪ではない。白くて艶やかな髪だ。そこから覗いている耳も人のものではない。動物で言うならば狐によく似ている。


 そう、狐だ。


 悠太郎は、かつて兄の浩一郎が言っていたことを思い出す。この家には狐が住んでいるのだと言っていたのを思い出す。それは、冗談でも揶揄でもなく、本当のことだったのだ。


 信乃が学校に来ないのは当たり前であった。信乃が喫茶店などの店に不慣れなのも自然であった。それと同時に、この家が「憑き物の家」と嫌われるのもまた、道理であった。


 彼女は人ではなかった。



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