8




 その日は雨が降っていた。なんとなく、朝から嫌な気分であった。


 そんな日にも拘わらず、信乃の家には珍しく悠太郎以外の訪問者がいた。村の人間だろう、今までも幾度か事務連絡で人が来たことはある。とはいえ、客人の相手は母の仕事、信乃は相手の顔をろくに見ないまま、早々に奥に引っ込んだ。


 母と客人の会話は雨の音でよく聞こえない。客人が来るのも珍しいが、その中でも今日はずいぶん長く話し込んでいると信乃は思った。せいぜい三十分で終わるだろうと思っていたのだが、予想に反して客人が出て行ったのは二時間近く経ってからであった。


 雨の中、帰っていく客人を見送った母は、戸を閉めるとすぐに狐の姿になった。悠太郎のせいで大分慣れていたとはいえ、人の姿はやはり好まないらしい。


「ずいぶん長かったですね、母様」


「そうね」


 信乃の言葉に母は短く返し、それから思い出したように信乃を見た。


「信乃、今日は悠太郎さんが帰ってくる日よ」


「……で?」


「迎えに行ってあげたら喜ぶと思うわよ」


「なんで私が」


 そもそも、ただでさえこの雨で外に出るのも嫌だというのに、誰が好きこのんで人を迎えに行かなければならないのか。


「そもそも家族が行くでしょう」


「行かないみたいよ」


 母の言葉に、信乃は振り返る。


「今来ていたのは、悠太郎さんのお兄さんで、今日は村に客人が来て石倉家はその方たちのもてなしで忙しいんですって」


 それでなくとも、あの家は今、父親が病気で大変そうだから。


 そう続ける母に、信乃はそんな情報をいったいどこからと思いつつ、同時に自分の知ったことではないとそっぽを向く。


「まさか、それで悠太郎の迎えに行けとかいう、そういう話じゃないですよね?」


「そういうお願いはされてないけど、信乃ちゃんが行ったら喜ぶと思うわ」


「行きません」


 ふふ、と笑う母に信乃はぴしゃりと言い放つ。普段ならばそれで話は終わるのだが、しかし今日は少し違った。断った信乃に、母が顔を寄せる。


「信乃、今日は、私もその客人とお会いしなければならなくなるかもしれないの。それで、少し忙しくなりそうだから、席を外してくれてると助かるのよ」


「母様が関わらなきゃいけないなんて、そんな偉い人なんですか、その客人は」


 過去に母が村の行事に参加したことなど、数えるほどしかない。そもそも村の側から呼ばれないことが大半あると、むしろ引っ込んでいろという気配の方が強いこともある。


「うーん……私もできれば出たくはないのだけれど、土地の開発? 道路や線路を通す? とかそういう話みたいで」


 なるほど、土地の利権の問題かと信乃は納得した。無論、信乃たちのいるこの家の土地は、ずっと住んでいるというだけであって誰のものでもなく、当然所有を示す証書などもないので、人間側に出て行けと言われたら出て行くしかないのだけれど。


「必要があれば、この家に来るかもという話を事前にしに来てくれたのよ。というわけで、人がたくさん来るから信乃は出てってちょうだい」


 しっしと、尻尾で追いやる母に信乃は「わかりました」と溜め息をつく。


 確かに、聞く限りにおいて面倒なことには違いない。家の中を人がたくさん行き交う中にいるよりかは、この雨でも外に出ていた方がマシというものだ。幸いなことに、面倒事は母が引き受けてくれるというのだから、ありがたく母に任せてしまおう。


 ついでに、行先も特にないから悠太郎の迎えにでも行ってあげよう。


「悠太郎さんは、少し離れたところの空港からこの村に帰ってくるみたいよ」


 信乃の心を読んだように母が言う。それに信乃は「雨の中、外にいるよりはどこか屋内にいる方がいいですから」と、言い訳がましく言った。




 信乃は母の美しい毛並みが好きであった。真っ白でありながら、陽光を浴びると赤銅色にきらめく毛並みが好きであった。幼い頃から自分を包み込んでくれたその毛並みと、その温もりが好きであった。




 悠太郎を迎えに行った家までの帰り道、雨も止み、太陽が差し始めて林道の途中で、一匹の狐が横たわっていた。この地域では珍しい、真っ白い毛並みの狐であった。既に絶命しているのであろう、その体はぐったりとしたまま、動く気配はなかった。頭上の木々には、烏が新たな餌を見つけて集まりつつある。


 木々の隙間から陽光が差し込む。息絶えた狐の濡れた毛並みが赤銅色にきらめいた。




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