別れの記憶

5




 信乃にはずいぶん変わった友達ができたのね。


 そう笑う母に、信乃は「違います」と膨れて返した。


 どうやら悠太郎少年は、滅多に人前に出てこない母の姿をたまたま見てしまい、幼心に一目惚れしてしまったらしい。人間の精神の成熟はそんなにも早いものなのかと感心しかけた信乃であったが、悠太郎に対する母の態度に「これは違うものだな」と悟った。


「母様はずるいです」


「あら、何が?」


 悠太郎を家に帰し、とっくに狐の姿に戻っていた母は、ゆったりとふたつある尻尾をくゆらせている。


「私には人を騙すなと言いながら、母様は人を誑かしてるじゃありませんか」


「あらあら」

 苦笑と共に信乃の頭を尻尾で叩く。そんな母に、信乃は膨れた様子で自身の尻尾を揺らした。


「私は誑かしたつもりなどなかったのだけれど」


「彼は母様のことを好きですって言ってましたけど」


「人前に出るのにこの姿では殺されてしまうもの」


「もっとこう、年相応の老婆にでもなればいいじゃないですか」


「ふふ、何百年も生きた人間は見たことがないわ」


 そういう意味ではないのだけれど、ころころと母親の手のひらで転がされる感覚に、信乃はさらに膨れていく。


「それよりも、あなたこそどうしたの? そんなに膨れて、嫉妬かしら」


「あんな子供に興味はありません、騙すのは楽しそうですけど」


「あら、人間なんてあっという間に大きくなるわよ? うかうかしてたら、ほかの子に取られちゃうわ」


「ただの遊び相手です!」


 からからと笑う母親に、信乃は尻尾で床を叩きながら訴える。そもそも、妖狐の世界ではまだ子供扱いすらされるとはいえ、信乃は百年以上生きているのだ。対する相手はたったの五年。遊び相手にはちょうど良いが、惚れたなんだは論外である。


 そんな信乃に、母は静かに微笑んだ。


「そもそも相手は母様に惚れてるんですから、母様が責任取ってください」


「あら、信乃ちゃんもお父さんが欲しくなる年頃かしら」


「は?」


 母の言葉に信乃は目を丸くする。父親、そうだ、確かにあの石倉悠太郎という子供が本当にこの母親と結婚したら、あれが私の父親ということに……


「それは、人間の世界の決まりじゃないですか!」


「人と結婚するんだもの。ある程度は相手に合わせないと、不自然になってしまうわ」


「だったら私は家を出て行きます」


「ふふ、いつまで経っても親離れができない信乃ちゃんも、ようやく独り立ちができそうね」


「結婚しないなら残ります!」


 ぽふぽふと、母の尻尾が信乃の頭を優しく叩く。白く、滑らかな、美しい毛並み。これが、陽の光を浴びると面白いことに赤銅色にきらめくのだ。信乃はそんな母の姿を美しいと思うし、好きである。自身が狐の姿になってもまた、同様の毛並みにはなるものの、年月の差なのかいまいち母と比べると見劣りする。そもそも、信乃はまだ尻尾が一本しかない。妖狐は成長を経て妖力が高まると、自然に尾の数が増える。母も尻尾が分かれるにはそれなりの年月を要したというけれど、やはり妖狐たるもの尾は複数あった方が見栄えがするものだ。


「信乃」


 母の声に、信乃は顔を上げる。琥珀色の目が信乃を見ていた。


「信乃、いずれは出て行かなければならないのよ」


「……わかっています、母様」


 信乃は母の言葉に頷く。


 そう、いずれは出て行かなければならない。いつまでも親の庇護下でぬくぬくとはしていられない。


 妖狐は人語を解するが、人ではなく、社会は築かない。彼らの基本は個体での生存である。もちろん、同族同士で出会えば会話もする。交わることもある。子をなせば今の信乃と母のように、親子で過ごすこともある。けれど、基本は個体で生きる。早い個体は百年を待たずして親元から離れることもあるという。


 それでも、信乃はまだ母のもとを離れたくはなかった。




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