第三章

 ぼくは高校生になってからも気持ちのいい夕方は公園のあずまやで過ごした。ピアノのたどたどしい演奏がその日も聞こえてきた。向かいの家の恵梨香ちゃんに違いなかった。曲はモーツァルトのトルコ行進曲。ぼくはモーツァルトの良さがわからなかったし、まして何故トルコ行進曲なんだろうって思っていた。リクエストできるならベートーヴェンの月光なら良かったのに。

 恵梨香ちゃんは以前はいつも同じところでつっかえて聴いているのが辛いくらいだった。何度も何度も同じところをお復習いして突然弾けるようになったときはぼくもほっとした。いつの間にかメロディーを憶えてしまったから当然続くべき旋律が続かないと気持ちが悪かった。今はたどたどしくはあったが恵梨香ちゃんは通して弾けるようになっていて安心して聴けた。

 不思議だった。今まで無味乾燥だと思っていたトルコ行進曲の旋律が、突然ぼくの心に染みいってきた。ぼくにも、ぼくら家族にも幸せな日々があったのだとピアノが鳴っていた。

 妹がキリンさんだキリンさんだとはしゃいで柵の周りを駆けていく。転んじゃうから走らないでと母がその後を追っている。父は逃げやしないよと笑っている。最初で最後の家族四人揃って行った動物園。

 隣のクマ舎から臭いが漂ってきていたが、妹が譲らないのでキリン舎の前のベンチでお昼をとった。母の手作りのお弁当は綺麗に色分けされていて、ぼくと妹の好きなタコちゃんウインナーや玉子焼き、肉団子、ミニトマトが入っていた。キリン舎にはダチョウもいっしょにいて二羽がぼくらの目の前を行ったり来たりしていた。

 妹はその年生まれたばかりのキリンの赤ちゃんに夢中だった。三歳の誕生日のプレゼントにもらったのがキリンのぬいぐるみで、彼女はいつもそれを抱いて寝ていたし、赤ちゃんキリンのもこもこした感じが確かにぬいぐるみに似ていた。

 キリンの親子は観客から人目を避けるように奥の檻の前から離れなかった。母キリンは子供をかばうように背後に隠そうとしたが、乳を求めて赤ちゃんキリンがしばしばぼくらの前に現れた。その都度妹は母キリンに呼びかけた。

 可愛い! なんて可愛い赤ちゃんなの。もっとよく見せて、お願いだからって。

 妹の声はよくとおるから、見物の家族連れやカップルが妹へ微笑みの視線を残して通り過ぎた。ぼくはそれが恥ずかしくてならなかった。

 何度目の妹の呼びかけだったろうか。突然母キリンがゆっくりこちらに歩いてきた。妹を目指して。それはただの偶然だったかもしれないけれど、ぼくにはそうとしか見えなかった。

 赤ちゃんキリンが母キリンを追ってきた。母キリンは呼び込むように腰をずらしたから赤ちゃんキリンがぼくらの目の前に姿を現した。母キリンはずっと妹を凝視めていた。そして赤ちゃんの顔を長い舌でぺろりとなめた。この子可愛いでしょって自慢しているみたいに。見物客から歓声が沸き上がった。その声を聞きつけて観客が詰めかけてきた。キリンの親子は一瞬ぼくらを見て元の檻の前へゆっくり歩み去った。

 妹がいた頃、TVで偶然キリンの映像が流れる度この日のことが話題にのぼった。今では誰も言い出さない。けれどキリンの前には必ず、目を輝かせた妹がいる。

 音楽って不思議だ。恵梨香ちゃんのたどたどしいトルコ行進曲のテンポが連想させたのだろうか? キリンの親子を見つけて歓声を上げて駆け出す妹と、彼女を追いかける母の姿がありありと目に浮かぶ。幸せだった日々が。

 恵梨香ちゃんの演奏はだんだん間延びしてきて、一度ミスタッチしたあと不協和音が続けざまに鳴り響き演奏が中断された。そしてどこかで聴いたことがある歌謡曲が始まった。恵梨香ちゃんはもう練習に飽きたらしい。なんて曲だろう。ぼくは曲名を思い浮かべようとしたが思いつかなかった。やっと思い出しそうになったときまた違う曲に変わって演奏は突然途切れた。お母さんが食事に呼びに来たんだと思った。ぼくもそろそろ帰らなくちゃって。

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