第4話
二週間くらい、エミリと一緒に様々の賭場を周った。
無論、連戦連勝だ。早くも俺とエミリのコンビは『レッドアンドシルバーデビル』などと通り名をつけられ、箱根中の賭場から目をツケられ始めていた。
そして――ターニングポイントは突然に訪れた。
朝六時に起床。エミリは隣で、すやすやと眠っている。
昨晩、エミリはまた遅くまでチンチロリンをやっていたようだ。枕元に大量の千円札や小銭が散らばっている。……よく盗られなかったな。そいつらを財布にしまう。また大勝したのか。なんとも頼もしいことだ。
(……それはいいが。なんか服が肌にくっつくってゆうか)
どうも寝汗をかいてしまったようだ。朝風呂にでも行って汗を流すとしよう。すぐ近くだ。エミリを起こす必要もあるまい。
銀色の上着のポケットに財布を突っ込み、大部屋を出た。
ヨセキから歩いて三分。日帰り温泉ウミガメは、一説には一五〇歳を超えるとも言われる、スーパーひい婆ちゃんが経営している老舗だ。
五〇〇円玉を親指でピーンと弾いて、番台の婆ちゃんの手のひらに落としてやった。風呂の入り口の暖簾。左側には青地に白で『男』、右側には赤地に白で『女』と書かれている。湯本ホテルの風呂もこの表記であれば俺も裸を見られずに済んだのに。
服を脱ぎ捨て。ガラガラと引き戸を開く。風呂場には誰もいなかった。貸し切り状態なので思いっきり足を伸ばす。洗い場があって、岩風呂がひとつあるというだけのシンプルな風呂だが、このドロっとした泉質と、強烈な硫黄の匂いがお気に入りだ。ただ岩風呂の感じは、今は女湯になっている右側の風呂のほうが好みだけどな。
体が温まっていく。キモチがいい。眠気が去来する――。
湯船で目を覚ますと、とてつもなく汗をかいていた。危ない危ない。一歩間違えたら溺死するところだった。喉がカラカラだ。上がってコーヒー牛乳でも飲もう。
――そのとき。脱衣場からロッカーが閉められる音がする。このタイミング、このパターンは……。いや、まさか。ここの暖簾はちゃんと『男』『女』と書いてある。第一ガイジンの女の子なんかそうそういるわけもない。俺は脱衣場に戻るべく立ち上がった。
そいつは引き戸を開けて入ってきた。茶色のロングヘア―、パッチリとした瞳、白い肌、そして大きく膨らんだ胸。――思わずアッと声をあげた。女はキャっと短い悲鳴を上げながら体を折りたたみつつ、小さなタオルでいろいろと隠そうとした。
「すすす、すまん! ワザとじゃない!」
俺は全速力でそいつの横を通り抜け、驚愕のスピードで服を着て脱衣場を出た。
番台にいる婆ちゃんに文句を言う。
「婆ちゃん! 俺、まだ入ってるのに暖簾入れ替えるなよ!」
「あー?」
番台の横の休憩所。三人掛けのソファーに座って映らないテレビを眺めていると。さっきの女がゆっくりと『女』と書かれた暖簾から出てきた。
俺を見ると少し困ったように笑った。コーヒー牛乳のパックをぽーんと投げて渡す。
女は少し驚いた顔をしながらも、それをしっかりキャッチした。
「お詫びだ」
「ありがとうございます。でも別に怒ってないですよ」
「俺は他人に借りを作るのが嫌いなんだ」
女はストローを刺しながら俺の左に座った。
「あんた箱根大黒のツボ振りの姉さんだろ? この間ちょっとしゃべったよな」
長い髪をサラっと下ろして、黒のニットにジーンズという格好。この間のド派手な和服のときとは違い、どう見てもカタギ、普通の女の子にしか見えない。
「はいそうです。ツボ振り以外にも色々やってますけどね。湯舟さつき(ゆふね さつき)と申します」
相変わらずふわーっとした喋り方だ。
「あなたは?」
「星月健太郎。ただの博打打ち。『温泉狂』だ」
「一緒にいた可愛い女の子は? もしかして今男湯に入ってらっしゃいますか?」
クスクス笑いながら言った。
「あいつは来てないよ。このすぐ近くのヨセキっていう宿で寝てる」
「いつもそこに泊まってらっしゃるんですか?」
「ああ。大体な」
定期券とか回数券とかそういうサービスが欲しい所だ。
「しかし箱根大黒の高給取りでもこんな安い日帰り温泉にくるんだな」
さつきはお婆ちゃんの方をチラっと見て苦笑する。
「泉質が好みなんです」
「ほう! なかなか通だな」
彼女は口に手を当てて笑った。上品なような、子供っぽいような。不思議な笑い方だ。
――しばらくなんてことのない会話をした。
「じゃあ私はそろそろ」
「おう。今夜もサイコロ振るのか?」
「いえ。今日は別の者が担当なんです。その代わり」
そういいながらハンドバッグに手を突っ込み、財布を取り出す。
「ここで働いてます。良かったら」
財布から二つ折のカードを取り出した。表面には『麻雀荘 かまぼこ』という文字と店内の写真。裏面には湯本駅からの道順の地図が書かれている。開くと『50ポイントでゲーム代一回無料!』などという文字と判子を押すマス目が書かれている。要はポイントカードだ。
「この店内写真。もしかして旧ルールの雀荘か?」
「そうなんです。いまどき珍しいでしょう」
「面白そうだな」
「ぜひぜひ」
さつきとやらはそう言いながら立ち上がった。
「失礼しますね」
そして軽く振り返って手を振りながら、ガラガラと引き戸を開いて出ていった。
俺もヨセキに戻ろう。もうエミリが起きているかもしれない。
「どうだ。この体は寒いのに足だけが暖かいことによる、圧倒的寒暖差のヒヤアツ感がいいだろう」
「うん! ヒヤアツ感がいい!」
新箱根名物足湯カフェで昼食を取っている。
二人とも、看板メニューのソフトクリームを乗せたトーストを注文した。大変旨い。
「山が真っ赤でキレイ。あれはなんていう木なの?」
ベランダ状の高台に小さな湯船が三つ横に並ぶ。
そこに足を突っ込んで下に広がる山景色を見下ろすことが出来る。
「イチョウだ。実は奴ら、葉っぱが赤いのは今の季節だけなんだぜ」
「えー? なにそれウソだー!季節によって色が変わる木なんてあるわけないじゃん!」
「本当だって! 紅葉っていってだな」
「怪しいなー、疑わしいなー、いぶかしいなー」
足をばちゃばちゃさせながら言った。
なんて疑り深いヤツ。まあその性質は博打向きじゃないこともない。
「……まあそんなこたあどうでもいい。なあ。おまえさ、麻雀わかるか」
「分かるよ。ゲームでなら結構やってた。面白いよね」
「よし。それなら。今日は雀荘を攻めるぞ」
「いいね。面白そう。麻雀荘行ってみたかったんだ」
「いいかサインはな――」
店のナプキンにサインの表を書き、エミリに渡していく。
「夜八時ぐらいには始めたいんだが覚えられそうか?」
「頑張る!」
エミリは勝負の時まで、一生懸命ナプキンを眺めていた。
麻雀荘『かまぼこ』は新箱根湯本駅から徒歩二十分。とポイントカードに書いてある。このの寒さの中歩くのはなかなか辛い距離だが。俺の精神テンションは浮き立っていた。
(久しぶりに麻雀ができる!)
麻雀は俺が最も得意とするギャンブルだ。かつては今はなき『新宿』の雀荘で『歌舞伎町の健』『赤髪の健』『甘党の健』『不死鳥の健』などと恐れられていた。
少々時間が掛るためか、新箱根では麻雀はあまり流行っていない。嘆かわしいことだ。
「ここか。麻雀荘『かまぼこ』」
「変な名前―」
店の前で立ち止まり、エミリと作戦会議をする。
「卓に着くのは俺ひとりにしよう。牌をサインで全部伝えようとするとさすがに混乱するからさ、俺が引く牌だけ教えてくれ。敵の手牌も俺が聞いたときだけ教えてくれればいい。それぐらいで十分だ」
「りょうかい!」
レトロなレンガ調の三階建てのビル。『かまぼこ』は二階。木製のドアに手をかけた。
「いらっしゃいませ! あら本当に来てくれたんですね」
さつきは緑色のエプロンの下に黒のオフショルダーセーターという格好だ。丁半のときと同様、髪の毛をポニーテールに結んでいる。
小さな部屋に麻雀卓が四つ。その内、窓側にある二つの卓は席が埋まっている。
さつきは奥の卓に座って客と対戦している。
麻雀荘は、基本的には客どうしが四人で対戦し、一ゲームごとに場代を店に払うというシステムになっているが、メンバーが足りない時は今のさつきのように店員が入って人数を合わせたりする。
「すいません。こちら南場(後半戦)なのでちょっと待ってもらっていいですか?」
そして客が来たら、次のゲームから店員が客と交代する。
エミリと一緒に空いている雀卓に座って待機する。さてひまつぶしでもしようか。
卓にはすで牌山が積まれている。俺は目の前の山を崩して、そのうちの一枚を対面に積まれた牌山に向かって指でデコピンをするようにしてシュートした。シュートした牌が牌山に当たると、牌山の牌はピーンと弾かれ、卓の縁に当たった。よし。成功だ。
俺がひまつぶしに熱中しているところにエミリが話しかけてくる。
「ねえあんなキレイな女の人だったんだね。温泉で会ったって人」
「ん? ああ、そうだ。そういえば女だって言ってなかったか」
「キレイな人好きなの?」
「え?」
「だってわざわざこんな所まで会いに来るなんて」
なんだかよくわからないが、エミリは大変憮然とした顔をしている。
「お待たせしましたどうぞー!」
さつきと入れ替わり、俺は卓に着いた。
麻雀牌は全部で三十四種類の牌がある。
萬子という種類の牌が、一萬~九萬までの九種類。
筒子という種類の牌が、一筒~九筒までの九種類。
索子という種類の牌が、一索~九索までの九種類。
字牌という種類の牌が、『東』『南』『西』『北』『白』『發』『中』の七種類。
この内赤色が含まれる牌は、
萬子:全て
筒子:一筒、三筒、五筒、六筒、七筒、九筒
索子:一索、五索、七索、九索
字牌:中
但し以下の制約がある。
・萬子は『一萬』『二萬』などと牌に掘られているが、『萬』の部分のみが赤色であるため、『萬子である』ということだけは分かるが数字はわからない。
・但し四枚の『五萬』の内一枚は『赤五萬』と言われるアガリ点数にボーナスがつく牌でありこれは『五』の部分も赤いため判別可能。
・三筒と五筒は赤色の位置だけでは判別不能
・但し四枚の『五筒』の内一枚は『赤五筒』と言われるアガリ点数にボーナスがつく牌でありこれは絵柄全体が赤いため判別可能。
・六筒と七筒は赤色の位置だけでは判別不能
俺ほどの天才雀士がこれだけの有利を持って打つ。これは負ける理由がどこにもない。
「お姉ちゃん、ごめんね。他のお客さんの手が見えないところに座ってね」
さつきがエミリに話しかけた。
「わたしハ・タ・チ! 子供扱いしないで!」
エミリがさつきを睨み付ける。さっきからどうも機嫌が悪いようだ。
「エミリ。こらこら」
一応咎める。
「……ふんだ」
さつきは苦笑している。ふてながらも、エミリは言われた通り俺の右後ろに座った。
最初の局の配牌(最初に各プレイヤーに配られる牌)はまずまずだ。
俺は卓の上に積まれた牌山から牌を一枚引いて、不要な牌を捨てた。
これを四人のプレイヤーが順番に繰り返し、『役』と言われる特定の形(ポーカーの役のもっと複雑なヤツと思って差し支えない)を作ることができればアガリとなり点数がもらえる。最終的に多くの点数を持っていたものが勝ちとなる。
ちなみにアガリには二種類ある。
牌山から引いてきた牌でアガリの形ができた場合は『ツモアガリ』と言い、他のプレイヤー三人全員からアガリ形の種類に応じた点数を貰うことができる。
もうひと種類はあと一牌でアガリの形ができる状態(これを『テンパイ』と言う)で、他人がその一牌を不要だと言って捨てた場合、その牌でアガることができる。これを『ロンアガリ』と言いこの場合はその牌を捨てた人のみが点数を払う。
俺は順調に手を進めた。――そして。
「ロン! タンヤオピンフイーペーコー。三九〇〇点だ」
そんなに高い手ではないがアガることが出来た。(アガることができた場合はこのようにドヤ顔で『ロン』または『ツモ』と叫び、アガリの役の名前と点数を自己申告する。この瞬間が麻雀打ちの一番幸せな時間である)まずまずのスタートだ。対面のおっさんから『五千点棒』を貰い、一一〇〇点お釣りを払う。点棒というのは、人生ゲームのお金のようなものだ。自分がアガればもらえるし、アガられれば支払う。一ゲームが終了したときに、この点棒を一番多く持っていたものが勝者となる。
支払いが済んだので卓の真ん中にあるボタンを押す。卓の真ん中が落とし穴が開くようにして、観音開き状にパカっと開いた。その穴に今使っている牌をザーっと流し込む。そしてもう一度ボタンを押すと、卓は閉じ、次の局で使う牌が卓の下からせり上がってくる。エミリが身を乗り出してそれを見ている。
「なにコレ! すごい! 超ハイテク! 超未来的!」
「そっか自動雀卓見るの初めてなのか」
未来的どころか二十世紀の大昔からあるシステムだけどな。
好奇心に目を輝かせるエミリをさつきはにっこりと見つめていた。
「ロン。ホンイツホンロートイトイドラ3。一六〇〇〇点だな」
現在三連勝中。そして四戦目もほぼ勝ちは確定。
恐ろしいほどに好牌が押し寄せてくる。自分が有利であるという心の余裕がそうさせるのであろう。変な話これだけツクならエミリのサポートなんかいらないぐらいだ。
「ロン。ハネ満だ。一二〇〇〇」
相手の腕も大したことない。無難に打っているだけでちっとも突っかかってこない。
「かー! どうなってんだ全く!」
対面のオッサンが点数を支払う。これで四回連続でこのおっさんからアガっている。次で四戦目のオーラス(最終局)だ。
「オーラス頑張ってくださーい!」
さつきが言った。なぜか雀荘の店員は定型句のようにこのセリフを吐くが、いつもなんだかなーと思う。麻雀なんて頑張ったからってどうにかなるもんでもないし、第一四人全員に頑張れってのもおかしな話だ。……まあどうでもいいけどさ。
「ロン。チートイツドラ4。悪りいな」
結局、またまた俺のアガリ。五連続失点のおっさんは苦笑いして卓に突っ伏す。
もちろん偶然ではない。狙い打ちだ。
「終了ですねー。またトップですかーすごいなー」
四連続トップで勝ち金はすでに十五万円以上。
「さつきちゃーん。すまん俺もうパンクだよ。わりいが入ってくれや」
対面のおっさんが負け金の四万円を出しながら言った。
――よし。狙い通りだ。奴を、引っ張り出してやった。
さつきは一瞬、俺を獣のような眼光で睨み付けた。そしてすぐに柔らかく微笑んだ。
「お手柔らかに。です」
「楽しみにしてたぜ。おまえと打つのを」
「ええ。私もです。どうですか。レートアップしてオモテウラの二回勝負なんて」
さつきが喫茶店にでも誘うような気楽な口調で言った。
「望むところだ。いくらにアップする?」
「千点五千円でいかがですか?」
Vサインのように指を二本立てながら言った。
これは一回最下位を引けば下手すれば一気に五十万ぐらいトバされるレートだ。
「なるほどなるほど。一気に十倍とはな。ワザと勝たせて調子づかせてレートアップで一気に潰しにかかるってわけか」
おっさんたちを見回す。
「おめえらもただの客じゃなくて、箱根大黒の息がかかってる人間なんだろ? なかなか悪質だなァ。あんた可愛い顔して大した悪党だ」
「あ、ありがとうございます。で、でも可愛いなんてことはないと思います」
さつきは顔を伏せながら言った。
「悪党は否定しねえのか……。でもナマぬるいな。そんなんじゃ。だっておまえとヤルためにわざわざこんな所まで来たんだぜ!」
俺は親指と人さし指を立てた。
「……千点二万円だ!」
「えー⁉」
エミリが驚きの声をあげる。さつきはくすくすと笑っている。
「ちょっとヤリすぎじゃないですか?」
「いやそんなことはねえな。このくらいじゃなきゃ話にならない」
「話にならないと申しますと?」
「いいか。順を追って説明してやるからよーく聞きやがれ。まず! なぜ俺がこれほどまでに強いと思う?」
「わ、わかりません」
「それはな。この俺が他の『温泉狂』の連中とは違い、漫然と博打を打っているのではなく、明確な目的を持つからだ!」
「は、はあ……。それは?」
「てめえらの首だよ」
「くび?」
「箱根大黒、引いては大黒天グループをぶっ潰すことだ。そのためには箱根大黒直属のてめえからがっさりと取らないとなあ。従って、千点二万円!」
さつきは一度目ん玉を丸くし、それからけいれんするように笑い始めた。爆笑だ。おっさん三人も笑っている。
「まあ、冗談だと思ってくれてもいいぜ。但しレートは冗談じゃあねえぞ」
「ちょっと! 健太郎! 大丈夫なの⁉」
「任せておけって!」
さつきを睨み付ける。奴はフワっとした笑顔を浮かべている。
とてもこれから一〇〇万単位のバクチをする人間の顔とは思えなかった。
――第一回戦。
まずはさつきの手つきを見る。これでほぼ相手の技量を見誤ることはない。
「ほう。思ったよりしっかりした手つきだな」
「ありがとうございます」
「もっとも『歌舞伎町の雀王』『牌に愛された雀聖』『ナチュラルゾウゲマスター』星月健太郎と対等に戦えるレベルではまだないがな」
「なんか……健太郎って麻雀のこととなるとキャラ変わるね」
「そうかな?」
「ま、まァ、私もなるべく頑張ります」
「ああ。頼むぞ。俺の『勝負』という芸術に水を差さないようにな」
「あっ、ロンです! 八〇〇〇点」
「あっ……」
俺が捨てた牌でさつきがアガった。
「あんだけフイといていきなりロンされてやんのー」
エミリが煽ってくる。
「うるさい! 麻雀ってこういうこともあるんじゃ!」
どうも雲行きが怪しい……。
「ツモ。リーチ一発ツモドラ3。一二〇〇〇点ですね」
――理不尽とも言える圧倒的なさつきのツキが続く。そして俺の手はまったくオハナシにならない手ばかり。だが理不尽を嘆いても仕様がない。必要なのは打開するためにモガくことだけだ。エミリの顔を凝視してサインを拾う。
(視線移動二回、まばたき一回。次に引いてくる牌は一筒……)
作戦を変更し、エミリから見える全ての牌を教えて貰っている。もう混乱するなどと言ってはいられない。必死で記憶するしかない。
「お二人、そんなに見つめ合っちゃってどうしたんですか?」
「な、なんでもない。こ、こいつ可愛い顔してるなーと思って」
「えーなにそれー。そういう関係なんですかー? あ、ごめんなさいそれロンです」
さつきのアガリをじーっと見つめる。まただ。明らかに合理的ではない判断によりつむぎ出された絶妙なアガリ。カンがいいの一言で片付けるのは簡単だ。麻雀の強豪の中にはときおりこうした合理的判断に逆らったアガリを見せるヤツもいる。――だが。
(……やっぱりこんなに連発するのはどう考えたっておかしいぜ)
となると。やはり『イカサマ』だろうか?
(まさか……ガン牌?)
麻雀牌の背の部分に意図的に小さな傷などの『しるし』をつけ、牌を判別してしまうイカサマワザ。麻雀小説や漫画にはよく使い手が登場するが――
牌の背を凝視する。どう見たって『しるし』がついているようには見えない。
「どうしたんですか? 今度は牌と見つめ合っちゃって」
「いや。いい牌だなと思って」
「ありがとうございます」
「でも俺さ、この黄緑色よりも隣の卓の青色の方が好きだなー。代えてくれねえかな?」
「はい。いいですよ」
一応牌を代えさせてみる。とはいえ、ガン牌をやるのであれば店にある全ての牌にやるのが普通であろう。これはせいぜい揺さぶりをかけるという程度だ。
「あとな、暖房強くしてくれないか。ちょっと寒い」
「ええ。エミリさんもいいですか?」
「うん、いいけど……」
エミリは怪訝な顔をした。
「大丈夫? 私全然寒くないけど。風邪引いてるんじゃない?」
「寒がりなだけだ心配すんな」
――一回戦オーラス。あのあとも神懸かり的なアガリを連発され、三〇五〇〇点のリードを奪われている。もはやなんらかの手段で、ヤツには牌が分かるということは疑いようもない。しかしその方法が分からない。
分かってきたのは奴が変なアガりをするのは大抵、「萬子」「筒子」「東南西北」がらみだということぐらい。
「オーラス頑張ってくださーい!」
なんとかまだ役満(麻雀で一番高い役)でアガれば逆転できる点差だ。
「自分が勝ってるからって、頑張ってとかイヤミだよね!」
「エミリ、やめとけって」
エミリはちょいちょいさつきに突っかかっていく。
「ご、ごめんね。コレ癖になってて」
さつきは困った笑顔を浮かべている。
まあそんなことはよいとして。俺は五筒から捨てていく。役満の国士無双狙いだ。萬子、筒子、索子の一と九を一枚ずつ、それに字牌七種類を一枚ずつ集めるという役だ。これをアガることができれば逆転。あと、九萬、南、西、撥が欲しい。
四巡目で九萬、五巡目で西を引いた。これはもしかすると、もしかするかもしれない。
「ねえ、そうやっておっぱいアピールするのやめなよ。やらしいよ」
「ご、ごめんなさい!」
「エーミーリー」
確かにさつきはさきほどからエプロンの下のセーターの襟をめくってはうちわで風を送り込んでいた。俺も正直気にはなっていたというか、はっきり申し上げてありがたく谷間のようなモノを見学させて頂いていた。さつきは顔を紅潮させる。
「ちょっと暑かったもので……」
「すまんな。暖房切ってもいいぜ」
「いえいえ。健太郎さんの方こそ平気ですか? 先ほどから咳をされていますが」
「大丈夫だ。でもそういう風に言われると意識しちゃって余計に咳出るからやめてくれ」
牌を引く。『東』。そのまま捨てる。
「あの、エミリさんがずっと私を睨んで……」
さつきは『白』を捨てた。
「エミリちゃーん」
エミリの方を振り返る。知らん顔をしてそっぽを向いた。
「いえ、いいんです。焼餅を焼かれてるんですかね? かわいいです」
「そんなんじゃないし!」
「その辺にしとけ」
そんなことは非常にどうでもよろしい。次の巡。俺が引いてきたのは『撥』! 国士無双テンパイ! 待ちは『南』!
だがさつきもテンパイをしている気配だ。さつきが牌を引く。奴はほんの少し、しまったという顔をした。気がした。その牌を奴はそのまま捨てた。『白』だ。さつきの捨て牌に『白』が二枚並ぶ。
俺に番が回る。万力のような力を込めて牌を引いた。引いたのは――『西』。クソ! おしい! 俺はそれをそのまま捨てた。
「ロン! ごめんなさい。チートイツドラ四。一二〇〇〇点。一回戦終了ですね」
――一回戦は大敗。負け金を支払う。――約二百万円。ほぼ全財産に近い。
もう払う金はない。二回戦は。勝つしかない。
俺はさつきのアガりを見つめていた。一枚目の『白』を捨てずに手に持っていれば、奴はもう一巡早くアガっていた。俺に一度も国士無双をアガるチャンスを与えることなく。これはどういうことか。奴は全ての牌がわかるわけではない。ではどうだろう。こちらが『見える』牌をもっと増やすことができれば。二回戦。勝機はあるかもしれない。
「ごめんなさい。ちょっと化粧室に」
さつきはおしっこをするべく、静かに席を立った。
「健太郎、大丈夫……? 顔色悪いけど」
「大丈夫だよ」
エミリの発言を軽く聞き流す。そんなことよりなんとか手を考えないといけない。さつきのトイレ待ちの間に。
「ずーっと打ってて疲れてるんじゃない? ちょっと休ませてもらったほうが……」
そしてそれ以前に流れが悪すぎる。まずはコレをなんとかしないと話にもならない。
「ねえ聞いてる? ちょっと休んでさ――」
流れか……。エミリのツラを見る。ひとつ閃いた。
「そうだな。ちょっと疲れた。休ませてくれ。お前が」
「へっ? わたしが?」
――さつきがトイレから戻ってきた。俺はやおら立ち上がり、エミリに席を譲る。
「よし頼んだぞ」
「う、うん」
入れ代わって、エミリが座っていた小さいイスに座る。
「ホントにいいのー?」
「ああ大丈夫だ。なにも最後までやれって言うんじゃない。流れを変えたいだけだ」
そして少しは休憩にもなるだろう。
「ここから引けばいいの?」
「ああ」
エミリは山に手を伸ばし、左手の親指と小指で牌を挟んだ。
「おいおい、そんな持ち方をする奴があるか! 親指と中指でしっかり持て」
「うるさいなあ。だって初めてなんだもん本当の麻雀は」
さつきはぷくーっとほっぺたをふくらませて笑いを堪えている。
――手つきこそ拙いが、エミリの捨て牌の選択は悪くはない。順調に手を進める。
「リーチです!」
しかしさつきから先にリーチがかかってしまう。
リーチとはテンパイであるときに「リーチ!」と叫びそれを宣言するというワザだ。相手に警戒される代わりにアガったときの点数が大幅にアップする。
卓に並べられた、さつきが捨てた牌を凝視する。九萬、北、中、一索、八索、四萬の六枚。この捨て牌をヒントに相手がなにを待っているか、なにでロンしたいのかを『ヨム』。これも麻雀の大きな醍醐味のひとつだ。ピッタリと相手が待っている牌を当てることが出来ると、ことによっちゃ自分がアガる以上に嬉しかったりする。俺はこの捨て牌から、『五萬』が大本命と推測した。
次のエミリの番。奇しくもエミリもここでテンパイ。
「よし! リーチ!」
エミリもリーチをしようとするが。
「ちょ、ちょ、ちょっと待て!」
口出しをする気はなかったのだが、ついエミリの手を止めてしまう。
「どうしたの?」
「そいつは危険過ぎやしねえか」
エミリが捨てようとしていたのは、『五萬』。しかも『赤五萬』だ。通常の五萬とは違い、数字の部分も真っ赤になっている。
これはいわばボーナス牌で、アガったときに持っていると点数が大幅にアップする。これを捨ててロンされた場合も同様だ。従って通常は安易に捨てることはできない。
「そうかなー。でもコレ捨てないとリーチできないし」
だが待てよ。もしかしてセキトウガンで待ちが分かっているのか?
「いや、まあそれが安全だという『根拠』があるならいいんだけどな」
「ないよ。そんなの。でも大丈夫! トオるよ! 予感がするの! 私が『赤』でしくじるもんか!」
などとホザきながら。エミリは卓に赤五萬を叩きつけた。
さつきは――無言。そして苦笑だ。
「ほらね。通ったでしょ」
「めちゃくちゃやりやがるなあ」
「女は度胸!」
振り返ってVサイン。まあいい。通ったならそれが大正解。麻雀は理屈じゃない。
「見てろ。多分あいつ次でおまえのアガリ牌ツカむぞ」
対面のデカチチを指さして言ってやった。さつきは牌山に手を伸ばす。その牌を指でこすりながら言った。
「うーん、こいつはイケないですねえ」
牌をポロっと手からコボした。
「ロ、ロン! えーっと……健太郎、何点?」
「リーチ一発サンショクドライチ! 八〇〇〇点だ!」
エミリは破顔一笑。頭にポンと手を置いてやった。
よし。先発の助っ人外国人投手はなかなかの活躍。ピッチャー交代だ。
そう思いイスから立ち上がったのだが――
「ゲホッ!」
また咳が出る。あっ――これは少々まずいタイプの咳だ。喉がカーッと熱くなる。ゲホと一度咳をするごとにちくちくと刺されるように痛む。そしてそれが何度も何度も。
「け、健太郎!」
「だ、大丈夫ですか⁉」
俺は口を両手で抑えながらトイレに向かった。
――咳は止まった。両手の掌にはべっとりと血糊がついている。
「健太郎」
エミリがトイレに入って来る。俺はとっさに掌を内側にして血を隠した。
「大丈……うわ! 血が……!」
そうかこいつに対して赤色のモノを隠してもダメか。ん……?
「ねえねえ。病院に行ったほうが……」
――俺の脳内に電流が駆け巡った。
「あれだったら私がお薬とかもらって――」
エミリを壁際に追い込んで両手を壁についた。
とてつもなく古い言い方をすると壁ドン状態だ。
「ど、ど、どうしたの? は、恥ずかしいよ」
「とんでもないことを思いついた。耳を貸せ」
耳打ちをする。エミリは目をまん丸くした。
「よし行くぞ。俺が打ちに出る。頼んだぞ。おまえのセキトウガンにかかっている」
「うん……。でも本当に大丈夫なの?」
「わりといつものことなんだ。大丈夫だよ。言っただろ。ちょっと病弱なんだ」
「あっ……大丈夫ですか? なにかお飲み物でも? あったかいお茶なんかは……」
「大丈夫だ。すまんな待たせて、次からは俺が打つぜ」
「は、はい。顔色すごくわるいけど……」
さつきは本当に心配してくれているようだ。根はそれほど悪いヤツじゃないのかもしれない。――まあそんなことはどうでもよろしい。大事なのは次の局だ。
この局はまだ準備段階の局になる。じっくりと準備を進めていく。焦る必要はない。俺は一牌一牌ゆっくりと引いて捨ててを繰り返す。
エミリにさっき決めたサインを要求した。先ほど話した作戦がイケそうかどうかを確認するためのサインだ。イケる場合には髪を触れ、イケそうにない場合にはヒザに手を置けと言ってある。
エミリは――前髪をかき上げた。『イケる』のサインだ!
どうでもいいけど、オデコを出すとさらに子供っぽいなァ。
「ツモ。ピンフツモドラ1です」
さつきがツモってアガった。
「いやー俺もテンパイだったのになーどこにいたのかなー」
そういって自分の前の牌山をひっくり返してどこに自分の待ちがあったのか探すフリをした。ついでに左に座っているおっさんの山もひっくり返した。
「なんだーどこにもねえじゃん」
準備は順調に進んでいる。
次の回、その次の回と安い手だが、さつきにアガられてしまい、エミリが取ってくれたリードもあと少しになってしまった。
しかし問題ない。なぜなら。準備は整った。残りの局は全て俺の独壇場だ。
次の局。エミリの目には、そして俺には――全ての牌が見える。
(たまらねえこの全能感! もうだれも俺を止められねえぜ!)
引いてくる全ての牌を予知する俺は神。卓上の神だ。
「リイイイィィィーチ!」
思わずバカでかい声を出してしまう。ブラッドガンパイからのゴッドリーチ! 待ちは『八筒』と『撥』!
(恐れおののきさらせ! 今の俺にとっちゃアガるのは息をするのとおんなじこった!)
「ツモ! リーチイッパツツモヤクハイサンアンコードラ3! 倍満だ!」
「うっ……!」
無論。こいつはイカサマだ。名づけて――『ブラッドガンパイ』。
赤い部分がなくてエミリが見通すことができない牌。それらの牌の図柄が彫られている部分にさっきの血を塗りこんでやった。するとエミリのセキトウガンにはどう映るか。言うまでもない。牌の図柄が赤く浮かび上がる。
塗り込んだ血はほんの微量。自分でもよく見なければわからないくらい。それでも赤のみを見通すエミリには十分な量だ。
「偶然じゃないんでしょうコレ。あなたのその表情を見ればわかります」
「さあな」
勘のいい奴。さつきはこの勝負、初めて険しい表示を見せた。
エミリはなぜかあまり浮かない顔をしている。俺を心配そうに見つめて。
「あんまり心配すんなよ。終わったら病院行くよ。時代的にヤブ医者しかいないけど」
それに。あまり気持ちの良いものではないか。人の血がついた牌を凝視するなんて。
さつきの打ち方が変わってきた。さっきまでのような落ち着きを欠いている。明らかに精神的に動揺して焦っている。こうなってしまえばこちらとしては楽だ。自分だって全部でないにせよ、相当数の牌がわかるのだ。なにも焦る必要はない。この辺りは経験の少なさが出てしまっていると言えるだろう。俺は悠遊と高い手を作っていく。
「ロン! 一二〇〇〇点」
「しまっ……!」
さつきからアガる。これで点差は一気に五〇〇〇〇点以上に広がった。
まだまだこんなもんでは済まさない。一回戦の負けも取り返し、ヤツの財布が……いや、この雀荘がブッとぶぐらいの圧勝をキメてやる。
「ちょっと……トイレに行ってきます」
さつきは再び席を立った。多分今度はなにも出ないであろう。
ツカないときはとりあえず席を立つ。これはいい判断だ。野郎もなかなかに手ごわい。
「あいつ、遅いね」
「ああ。もしかしてホントに大きいほうでもしてるのかな」
そういいながら胸ポケットからタバコを取り出した。
だが、エミリにババっと奪われてしまった。
「ダメ! どういう神経してるの! さっきあんなに咳……」
――タバコを持った左手を上に挙げた状態でエミリが停止する。
「どうした?」
「……あいつを呼び戻してくる」
「へっ?」
エミリが俺の耳に口を近づける。
(……赤色が見えなくなってきてる。たぶん血が変色してる)
牌を良く見てみる。確かに血が黒く変色しかかっている。
エミリはトイレに走っていく。止めるべきだろうか。わざわざ呼び戻しにいくなんてのは『長引くと困る』とこっちから宣伝するようなもんだ。とはいえなにもせずに帰ってくるのを待っていても手遅れになるかもしれない。エミリの言うとおり、奴を呼び戻すしかないのか。
「どうしたの一体⁉」
「はやく、はやく続きやろ! よく考えたらこの後用事あったの」
エミリがさつきの手を引いてトイレから戻ってきた。
俺は見た。さつきが牌に目を落としたその瞬間。ニヤリと笑ったのを。
「まあまあ。待ってくださいよ」
「ダメ! 早く席に着く!」
「しょうがないなー」
さつきはゆっくりと歩き、席についた。エミリが牌に目をやる。そして立ったままヒザに手を置いた。これはさっき決めた『NG』のサイン。牌についた赤い血はすっかり変色しきってしまったようだ。
「飲み物のお代わりはいかがですか?」
さつきは尚も時間を稼ごうとしている。
「ああ。頼む」
こうなりゃもう一回シコむしかない。
手が滑ったフリをしてグラスを床に落とした。音をたててグラスが割れた。
「おっとすまねえ」
俺は破片を拾うフリをして親指に思いっきり擦り付けた。
「痛ってえ!」
自分でやっといてアレだが、予想以上に痛くて思わず叫んでしまった。
「大丈夫ですか! 血が噴き出てるじゃないですか! 早く絆創膏を!」
「い、いや大丈夫だ。こんなもん。ほっといてくれ」
「そういうわけにも行きませんよ! めちゃくちゃ痛そうですもん! 半泣きですし!」
さつきはポーチから絆創膏を取りだした。
「第一、血でベタベタじゃあ牌が握りにくいでしょう?」
さつきはニヤリと笑う。そしてバンソウコウを無理矢理俺の指に巻き付けた。
この作戦はもうダメだ。見抜かれている。多分。エミリの能力ごと――
次の局が始まってしまう。それでも五〇〇〇〇点も差があり、元々赤い牌は相変わらず見えるのだ。こちらの有利は変わらない。はずなのに。
「ロン。メンゼンチンイツジュンチャンリャンペーコー。二四三〇〇点ですね」
俺のリードはあっという間に吹き飛んでしまった。――そしてさらに。
「ロン。ごめんなさい。一六〇〇〇点です」
「ロン。八〇〇〇です」
――麻雀、いやギャンブルとはなんと恐ろしいものであろうか。
心理的に後手に回ると転げ落ちる。あっという間に。
(いやしかし。それだけじゃあねえな。野郎、明らかにキレがあがっている)
その証拠に。次の局も。
「リーチ!」
(そうか。もしかしたら奴の『イカサマ』のタネが分かったかもしれねえ)
またもさつきのリーチがかかる。エミリに奴の手牌を確認する。幸い奴の手牌はセキトウガンで殆どが分かる形であったのだが。
『一筒』が三枚、『九筒』が三枚、『五索』が三枚、『三筒』が二枚、残り二枚は不明。
……これは役満の四暗刻という役の可能性がある。そんなものアガられたら最後である。そして。奴が次引く牌は『三筒』。これでアガリの可能性は非常に高い。
(……スリ代えるしかない!)
俺の捨て番。さつきだけでなく両隣のおっさんも目を光らせている。スキはない。ないなら作るしかない!
(アレを食らわしてやるか……!)
俺は右手に捨てる牌を握るとそれをコイントスのように親指で弾いた。牌はふわっと浮き上がり、そして落下してくる。それをサッカーのボレーシュートの要領で、空中で人差し指のデコピンに捉え、さつきの顔面に向かって弾いた。ヤッコサンもさすがに驚いた顔。ほっぺたにピチっと当たった『八筒』はポーンと卓上に落ちた。
右隣りに座るデブのおっさんが俺の胸グラを掴む。
「おいおいやめてくれよ。ほんの冗談じゃないか。聞いてただろ? 俺たちけっこう仲良しなんだ。軽口を叩くくらいには……ゲホっ!」
ちっ。喉を圧迫しやがるもんだから咳が。
「……大丈夫ですから、放してあげて下さい」
さつきの制止により開放された。
この騒ぎに乗じて既に『三筒』は俺の手中であることは言うまでもない。
「もう! 顔はやめて下さい。一応嫁入り前なんですから。それで、この『八筒』が捨て牌でいいんですか?」
「ああ。すまんな」
――さつきが手牌を倒した。
「ロンです。これだと四暗刻にならないけどまあいいや。リーチ一発サンアンコートイトイドラドラで倍満。一六〇〇〇点ですね」
目の前が暗くなる。そしてまた喉が詰まる感覚。
「ゲホッ! ゲホッ!」
エミリが泣きそうな顔で俺の背中を撫でる。
「すまん。すぐに戻る。エミリ。代走を頼んだ」
「ええっ⁉」
トイレの個室に入ってカギをかけた。咳は。すぐに止まった。
もはや勝ち目は一切ない。このまま戻ったら、俺はどうなるのか。箱根大黒相手に払いがない。これは終わりを意味する。
しかし最後の手段。本当に最後の奥の手がある。
――トイレブランチャー。
建物は古そうだが、結構広いトイレだ。窓も十分に大きい。
そしてここは二階。落ちても死にやしない。
(こんなことは今まで何度もやってきた。俺はこうしてシノいできたんだ)
俺は。そんなことを自分の胸に言い聞かせながら。――飛んだ。
――時刻は深夜二時。
なんでかわからんけど俺は新箱根湯本駅の足湯に浸かっていた。木製のベンチに座り岩の浴槽に足をつける。底に丸い石が転がっていて、踏むと気持ちがよい。
「痛って……」
俺としたことが着地にちょっと失敗して足を捻った。じわじわ痛い。ムカツク。
本当ならとっとと箱根からトンヅラしないといけないのに、そんな気になれない。
なんか頭もボンヤリとする。長時間気を張りすぎた反動だろうか。
(やけに明るいと思ったら。今夜は満月か)
ボーっと。ただ空を見上げる。キタねえ空だ。それにクソ寒い。足だけは暖かい。
いいや。足湯につかったまま寝っちまおう。起きていてもいいことなんてなにもない。
さすがに昨日の今日じゃ箱根大黒の追手もまだ来ないだろう。
その前にニコチンを一服しよう。胸ポケットを探る。しかしタバコはない。
(ちっ……あいつに取られたんだった)
タバコはいいや。体を横に倒しベンチに横たえた。
目にはなぜか涙がたまっていたため、それがこぼれ落ちてしまった。
(これはなんの涙だ? 悔し涙だろうか?)
(自分でレートアップしといてボロ負けしてトンヅラ。確かにダサイな)
(しかしこうしてシノいだんだ。なにも泣くこたあねえ)
(なんだかよくわかんねえけど。モヤモヤしてムカつくんだよ。蛸)
頭はぐちゃぐちゃだったが。あんまりに体が疲れていたからか、案外すぐ寝ちまった。
――夢を見た。最近の夢だ。ここ一週間ぐらいの夢。
変なガイジンがやたらとしゃしゃり出てくる変な夢だった。
楽しいような悲しいような夢。
「こんなところにいた」
肩を揺さぶられ目を覚ます。ゆっくりと目を開き上体を起こした。
夢に出てきた女が立っていた。一瞬幽霊かと思った。
月が明るく、顔がよく見える。
「カギかけてずっと出てこないんだもん。ムリヤリ開けたらもういないしさ」
手に一万札の束を握っている。二十万ぐらいあるだろうか。それを俺の手に握らせた。
「勝ったの……か?」
「なんとか二着。でもすごいのアガったんだよ。記念に写真撮ったから見る?」
パーカーのポケットからスマートホンを取り出した。画面には、麻雀卓とエミリのアガりと思われる牌。
「九連宝燈⁉」
九連宝燈。萬子を『一一一二三四五六七八九九九』と揃える役満だ。(萬子じゃなくてもいいというルールもある)麻雀の役満の中でも特に難易度が高く、そして最も美しいと言われる役だ。すべて萬子なので手牌が真っ赤っ赤である。
「あの人の驚いた顔。ケッサクだったよ。そっちも写真とればよかった」
「……そりゃあ驚くだろうな。お前の強運。やっぱりホンモノだな」
俺はエミリの顔をジッと見た。二度と見られないと思っていたその顔を。
「どうしたの?」
エミリに渡された金をつき返しながら言った。
「俺を殴れ」
「ええっ⁉」
「俺はおまえを置いて逃げたからな。殴れ」
エミリは顔をうつむかせてつぶやいた。
「意外だなー。おおすまんすまんとか言ってなに食わぬ顔でお金受け取るかと思った」
俺は足湯から出てエミリの前に裸足で立った。
「どういう風の吹き回し?」
「殴ってくれたら話す」
「うーん。じゃあ殴ろうかなあ。どれがいい?」
グー、パー、チョキを順番に出す。
「チョキはやめてくれ。おまえも指折るぞ」
「体調悪い人にグーは気が引けるからパーにします」
エミリは体を斜めに構え、足を肩幅に開いた。
「ロッツ・インゲルベルナブレセスーーー!!」
奴はなにかを叫んだ! ブオンと音をたてて生ぬるい風が発生し、俺の前髪をなびかせた。遠心力と手首のスナップが十分に乗った凄まじいビンタ。俺の頬が燃えた。そして俺の体は二・五回転し、足湯にうつぶせにダイブする結果となった。
「ごめん! あのね、お菓子作りって重労働だから意外とパワーが!」
「足湯じゃなくて、コンクリに落ちてたら死んでたぞ」
ザバーっと足湯から上がる。
「ホ、ホントごめんなサイ……」
「いいさ。これぐらいじゃないとビンタの価値がない」
びしょ濡れの状態でエミリの右に座った。
「さっきのはロイスチェン語か? なんて言ったんだ?」
「『大馬鹿野郎』」
「なかなか言ってくれるな」
「だってバカなんだもん」
「否定はしないけどさ。なんでそう思う」
「私を捨てようとしたから!」
口を尖らせて俺を指さす。なんだか人聞きが悪い。
「あなた言ってたよね。大黒天をギャンブルでぶっ倒すって。奴らが抱えてるギャンブラーってさ、あのさつきって人みたいなバケモノみたいに強い人ばっかりなんでしょ?」
黙って頷く。
「じゃあ私がいなくちゃさ、奴らに勝てるわけないじゃん。そう思わない?」
「そうかもしれない。でもそれじゃあお前もバカになるな」
「なんで?」
「そんな甲斐性なしの所にわざわざ戻ってくる奴はバカだ」
エミリはふくれっつらをして横を向いてしまった。
「バカかもしれないけどさ。意外といろいろ考えてるんだよ」
ぽつりとつぶやき、こう続けた。
「あのね。わたしが健太郎と組もうと思った理由。ホントはね。利用してやろうと思ってたの。日本の賭場のこととかちっともわからないから。ついて行って教えてもらおう。それで、ある程度稼ぎ場所教えてもらったら、一人で稼いじゃおうかなーなんて」
「なるほど悪りィ奴だ」
そんな権利はどこにもないのだが。お仕置きをするように頭にチョップをした。
「でもおかしいな。それなら尚更なんで戻って来た」
「簡単に言うとね。あなたを見ていたくなったから」
「……それだけじゃよくわからん」
「あなたがあのさつきっていう人に必死になって立ち向かっていくのを見てね。感動しちゃったの。牌をギローって睨み付けて、私が出すサインを真剣に見つめて、血まで出しながら戦って、どんなに追い込まれても、もがいてもがいて、挙句の果てにみっともなくトイレから逃げ出しちゃう!」
思わず吹き出しそうになる。なにをそんなに目を輝かせて語っているんだか。
「たぶん女ってね。感動しちゃうともうダメなんだ。損とか得とか考えられなくなっちゃう」
「スポーツの試合じゃあるまいし。博打打ちが博打打ってるの見て感動する奴があるか」
「いいじゃん! なにで感動するかなんて人それぞれじゃん! ……それにね。わかったの。あの人との闘いで――」
自分の右目を指さした。
「これだけで勝てるほど甘くない。私にも健太郎の力が必要だ」
俺の左肩を叩く。
「健太郎は私のことどう思ってるの?」
アゴに手を当てて、少し考えた――。
「おまえはやっぱり俺と違ってバカじゃないな」
「どうして?」
「自分の気持ちが自分でちゃんと理解できている。俺はわからねえんだ自分でもよく」
「それでもいいから話してみてよ」
「俺はおまえを裏切って逃げた。他人を裏切るなんて今の時代に勝負をして生きてりゃあ当たり前のことさ。今までだってなんどでもある。あの技にトイレブランチャ―なんて技名をつけているくらいだ」
「そりゃあ、そうだろうねえ」
「でもな。今回はなんでかな。苦しかった。後悔した。自分を責めた」
「それで殴ってくれなんていったの?」
「ああ。でな。さっき目を覚ましたらおまえがいて。嬉しかった」
エミリの顔をまっすぐに見る。彼女は照れくさそうにすっと顔を逸らした。
「それ以外はわからん」
「そ、そっか」
エミリは肩をそわそわさせながら下を向いている。
「また。一緒に麻雀してくれる……か?」
「うん!」
得意のコドモみたいな笑顔を俺に見せてくれた。
「じゃあさ、握手、握手」
エミリは立上がり、手を差し出した。
俺も立ち上がり、手を握った。
「今度ァ、あのクソ女ブチ殺すぞ」
「うん! サツガイする!」
エミリはすごい力で握り返してきた。
「レッドアンドシルバーデビル。再結成だな」
「もう裏切らない?」
「裏切らない」
「ホントかなー」
「ああ。今日でよく分かったよ。お前が俺の勝利の女神だってな」
「へへへ。恥ずかしいセリフ!」
エミリはふにゃーっとした笑顔だ。
「でもなー裏切らないっていう証拠がないなー」
「しょ、証拠⁉ そう言われてもな……じゃあ……」
俺は握手の手を離し、エミリの首に腕を回す。そしてググっと顔を近づけた。触れ合ったとたんエミリはキョトンとした顔をした。そしてややあって。俺は再び猛烈なビンタを喰らい足湯にダイブした。
「信じらんない! なに考えてんの! なんでそんなことが証拠になるの! 本当にバカなんじゃないの!」
「じゃあ他にどうしろって言うんだよ」
足湯から上がりながら、俺は正論をホザいた。エミリは深く溜息をついた。
「……もういいよ。風邪引いちゃう。お風呂入りに行こうよ」
「そうだな。じゃあ銭湯に行くか。すぐ近くにウミガメっていう店が」
「うん! 行こう」
エミリは俺の手を取って歩き出す。
「あ、そうだ。おまえな、明日神社行かないとダメだぞ」
「なんで?」
「九連宝燈はアガるとな、お祓いしないと死ぬとか呪われるとか言われているんだ」
「ウソだー」
「ウソじゃねえって! 有名な話だ。実際、麻雀放浪記っていう小説でもな、主人公の坊や哲の師匠格の出目徳は九連宝燈をアガって死んじまったんだぞ」
「……小説じゃん」
「うるさい! 行かないと死ぬぞいいのか!」
「わかったよ。じゃあ連れってってよ」
「よし! 明日アサイチで行こう。早い方がいい」
「でもいいのかなー。お祓いしちゃって」
「なんで?」
「九連宝燈のおかげで、私達また一緒になれたのに」
「ああそっかー……うーん……」
「じゃあ、またアガれますようにってお願いしにいく?」
「え、でもそれだと呪いも二重に……なんかもうわけわからなくなってきた」
「ね、そんなことよりさ。写真撮ろうよ写真」
そういってスマートホンをまたポケットから取り出す。
「なんの写真だ?」
「わたしたちのに決まってるでしょ。コンビ結成の記念だよ」
「今更か?」
「だって。今、私たちは本当に仲間になったんじゃない」
エミリはVサインを出してニカっと笑った。
ピロロローンと懐かしい音が鳴る。スマートホンのカメラのシャッター音。
空にはサイコロの『一』か麻雀牌の『一筒』みたいに月が浮いている。
月が綺麗だなんて思ったのは産まれて初めてかもしれない。
――昔の夢を見た。一個下の弟の夢だ。
奴は大変ツマラナイ野郎だった。元々頭がいいのに、あろうことか一生懸命勉強して一流の大学を出てしまった。しかも運動神経も抜群で体育祭では女の子にキャーキャー言われ、サッカーの全国大会かなんかでもまあまあの成績を残しやがったらしい。
俺と違ってイケメンなのもまたムカつく。そっくりだねなどと言われることもあるがそんなことはない。絶対に弟の方がイケメンだ。髪が真っ赤なところだけは残念だが。
そんなクソ野郎と両親が死んで以来ずっと同じ施設で育ってきた。しかしこのところ、俺はいつもふらふらしててちっとも帰らないし、奴は奴で就職活動やらなんやらで多忙な毎日を送っていた。奴の顔をしばらく見ていなくて大変体調が良かったのだが。
今日は久々に俺の部屋で麻雀でもしようという話になってしまった。
普通ならウゼーっつって断るのだが。就職して明日からは社宅に入るからとか言われたらさすがに断りづらい。
「しかし面白くない就職先だな。無難すぎる。『大黒天製作所』なんて」
「うるせえよ。いいんだよ面白くなくても。死ななければ」
「ま、そりゃそうだ」
牌の音が響く。勿論就職祝いに負けてやる気は毛頭ない。
「兄ちゃんはこれからどうするんだ? フラフラしてるのも似合ってるけどよ」
「わからん」
「兄ちゃんはサラリーマンってガラじゃねえよな。そうだ。最近菓子は作ってんのか」
「作ってる」
「アレは金取れるレベルだと思うがな」
「冗談」
「本気なんだがなァ。まあいいや。とにかく死なないでくれりゃあなんも文句はねえよ」
弟はそう言いながら『五筒』を指でピーンと弾いた。
「ああ。死にゃあしねえよ。ロン。二四〇〇〇点」
「ちょっとは手加減しろよ! クソ兄!」
――結局徹夜麻雀になってしまった。弟は負け金の五〇〇〇円を支払った。
「やっぱり兄ちゃんには敵わねえな。麻雀」
「ああ。百年はええよ。だがまあ今日は頑張った方じゃないのか」
「……そうだな。じゃあ。そろそろ出るぜ。まあたまには顔出すさ」
弟はスーツケースを持って部屋を出ようとする。
「おい待てよ。餞別」
クッキーの缶をヤツの顔面に向かって投げ渡す。
「はは。兄ちゃんらしいな餞別にお菓子なんて……バカに軽いな」
弟がそういいながら缶を開ける。おどろく顔を想像してニヤニヤする。
「おい! なんだよこの大金」
缶の中にはたくさんの一万円札、五千円札、千円札、それに小銭。
「やるって言ってんだよ」
「どうしたんだよこんな大金! こんなもん気が引けるだろ!」
「ところがなんにも引く必要はない」
「そうは言ったってよお」
「もともとおまえの金だからな」
「え?」
「今までおまえから取った麻雀の勝ち金。全部ためておいたんだよ」
弟は再び缶の中身を見る。
「……よく負けたなあ」
「ああおまえは雑魚だ」
「ありがとよ」
「なに」
さらに今渡された五千円札も缶の中に投げ入れる。
「これも持って行け」
「いやいい。そいつは取り返しに来るからな」
「生意気な」
「今度会うときまでに練習しておくぜ。震えて待ってろ」
「けっ。ホザきはよせ」
「俺はホザくよ」
「まあいい。じゃあこれは取っておくぜ」
「ああ。そんじゃあな」
弟は出ていった。――それからすぐに戦争が始まっちまって。
奴はこの五千円を取り返すことは生涯できなかった。
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