第29話

 車のエンジン音だけが聞こえる。どれくらいの時間が経ったのだろう。

 私は芋虫みたいに車の後部座席に転がっている。最初のウチは恐怖に駆られ、んーんーと喚いたり、足をジタバタさせて暴れてみた。でももう疲れたので諦めた。静かにおとなしく横たわっている。エクリプスも一言もしゃべってくれない。試合の格好のまま、すなわちペイントをして上半身裸という状態で車を運転している。変態そのものである。

 やがて車が停まる。エクリプスは私をお姫様抱っこで抱え上げた。なんだか体温がやたらと暖かく感じられる。彼はひどく疲れた顔をしていた。

 辺りを見渡す。どうやら住宅街らしい。物音ひとつしない閑静な住宅街だ。

 ふらふらと歩きアパートの前に立つと、私を左手に抱え直し、右手でカギを開けた。ドアを開き中に入る。パチンと音がして明かりが灯った。

 六畳一間のアパートのようだ。ネオ新百合ヶ丘の我が家と同じような作り。

 部屋の中は殺風景そのものだった。布団が敷きっぱなしにされ、枕元に時計がひとつ。クッションがひとつ。それからゴミ箱。それ以外はなにもない。

 布団の上にそっと降ろされた。

「ごめ、すっげえ疲れてて……明日……」

 もごもごと口を動かしたかと思うと。

 彼はうつ伏せでクッションにアタマを埋めてしまった。

(えっウソでしょ! まさか寝――)

 ぐー。すぴー。と寝息が聞こえる。私はフローリングを踏み蹴って大きな音を立てた。

 ぐー。すぴー。いっさい起きる気配がない。

(起きろ!)

 今度は彼の背中を踏んでやった。

 ぐー。すぴー。ジワリと涙が出てきた。

(クッソー! どうすりゃいいのよ! こっちは!)

(こんな状態で眠れるわけないし!)

(気晴らしできるものもなんもないし!)

(布団がなんだか男臭くてドキドキするし!)

 結局朝の五時ぐらいまで眠ることができず、ひたすらに天井を見上げていた。


「おはよー!」

 やたらと爽やかな声で目を覚ました。時計を見る。時刻は午前十一時ちょうど。

「良く寝てたね」

 ヤツはいつのまにかチャラチャラしたピンク色の長袖Tシャツとイージーパンツ姿になっていた。朝シャンでもしたらしく髪の毛がツヤツヤしている。

「いってええ!」

 顔を近づけてきたので思いきり頭突きを食らわせてやった。それだけでは済まさない。奴の肩口に嚙み付いてやる。産まれて初めて八重歯が役に立ったかもしれない。

「いてててて! わかったわかった! 今解くから暴れないで!」

 手首の拘束が解かれ、猿ぐつわがはずされる。

「ぶハっ!」

 私はヤツの顔面に一切手加減なしのパンチを放った。クリーンヒット。床に背をつけた所にのしかかってさらにパンチを打つ。いわゆるマウントポジションからのパウンドだ。こういった総合格闘技的な動きもマチジョで学んでおいてよかった。と心底思った。

「いてててて!」

 感情を言葉にしようとするのだが。なかなかまとまらない。

「な、な、な、なんなんだオマエはー!」

 それが精一杯の言葉だった。

「ちょ、ちょっと落ち着いて!」

 びびりきった情けない顔になっていた。私はなんだか気がそがれて彼の上から降りた。

「ホラこれでも食べなよ」そう言ってコンビニの袋を渡してくれる。

 私の好きな薄皮クリームパン。それからラムネ菓子だった。

 猛然とパンにかじりつく。とてつもなくオナカが空いていたからだ。なにせ昨日の昼から二十四時間近くなにも食べていない。

 彼は私の食事風景を微笑みながら見ている。なんかイラっとするなあ!

「飲み物ぐらい出しなさいよ!」「麦茶でいい?」「バカじゃないの! パン食ってんだから牛乳がいいに決まってるでしょ!」「じゃあ買ってくるよ!」

 苦笑しながら立ち上がった。バタンとドアが閉まる音がする。

「今どき手動のドアかァ」

 いや! そんなことより!

(今、逃げられるじゃん!)

 彼のたまーにぶっこんでくるド天然が出た! 私は慌ててパンを飲み込むと立ち上がった。――だが。

(私が逃げたら。無重力マニア2はどうなるの? 彼はアラタくんと闘えるの。かな)

 座りなおした。

(よく考えたら。ここがどこかもわからないから、事務所にも帰れない。アルホンもないから誰にも連絡できない)

 ラムネ菓子の袋に手を伸ばす。

(警察にこのレフェリーの格好で行ったら、怪しまれそうだし。隣の人に電話借りる――コミュ障だからできればやりたくない)

 結局。私はバカみたいに彼の帰りを待っていた。ラムネ菓子をポリポリ食べながら。


「もうちょっと家具とか揃えなさいよ」

「だって一週間前に越したばっかだし」

 ユウヤくんはコンビニで買ってきた牛丼弁当を食べている。

「どうやってリングの下に隠れてたの?」

 私は彼のパーカー(とてつもなくデカイ)に着替え、追加で買ってきてくれたおにぎりをパクついていた。

「クレーターアリーナーはね。リング設置場所の下に、地下室に繫がるマンホールみたいなのがあるんだ」

「なにそれ。欠陥住宅じゃん」

「通常なんの問題もないと思うけど。住宅じゃないし」

 牛乳をグイっと飲みほす。

「で。どうするの? これから」二つ目のおにぎりの封を開けながら尋ねた。

「まあ見てなって。えーっと。今十一時四十五分だから。もうあと十五分か」

 なんだかよくわからんことを言っている。なんかもう心労がひどい。ヤンデレになりそうだ。アタマを抱え、ふーっと溜息をつく。

「溜息をつくと。幸せが逃げるぞ」

 そういって私のアタマをポンポンと叩いた。「やめろ!」と叫んで振り払った。

「喜ぶかと思ったのに」「そういうのはね、好きな人にされた場合だけなの! 嬉しいのは!」「好きじゃないの? 俺のこと」「嫌いだわバカ! こんな誘拐みたいなことしやがって!」「あっそろそろ準備しないと」

 ヤツはボストンバッグから例の金色の鉄仮面を取り出し、それを被った。

 アルホンのプロジェクターアプリを起動。汚い壁に映し出されたのは『MOON SPORTS LIVE』のホーム画面だった。

「なにを見ようってのよ。昨日の試合?」

「違うよ。無重力マニア2の『調印式』だよ」

 プロレス団体においては、タイトルマッチの前には『調印式』をやるのが通例である。

 チャンピオンと挑戦者がそれぞれマスコミの前でタイトルマッチの誓約書のようなものにサインをし、場合によっては舌戦や乱闘を繰り広げたりもするイベントだ。

 なぜそんなことやる必要があるのかと言われるとちゃんとした答えは出て来ない。ようはトクベツな試合っぽい雰囲気作り。あとは『MOON SPORTS LIVE』で配信して少しでも宣伝するためだ。

 予定では本日の十二時から行う予定。その配信の様子を見ようと言うのだが。

(一体なにを企んでいるやら)

 ややあって配信が始まった。

「これより。十二月九日開催の無重力マニア2にて行われる、MSP無差別級選手権試合の調印式を開始致します」

 以前お世話になったムーンライトテレビの坂中さんが司会を務めてくれているようだ。

 社長とアラタくんが入場しマイクが置かれた机に座る。社長はニワトリみたいに挙動不審。アラタくんはひどい仏頂面である。

「えーこれから調印式を開始したいわけなのですが。そのなんと申しますか。どうなってしまうのでしょうか?」

 坂中さんが尋ねる。社長とアラタくんは顔を見合わせる。どちらもマイクを握ろうとしない。

「ま、まずは私のほうから昨日の試合での経緯を説明いたしましょうか。えー昨日の興業にて無重力マニア2挑戦権争奪マッチと銘打たれた試合にルナ・エクリプス選手が勝利。そして改めてリング上で挑戦表明。ですがこれをこちらにいらっしゃるチャンピオンの橋爪アラタ選手が拒否。それを受けてエクリプス選手がレフェリーの兎月ラナさんを、えーっと誘拐……? して人質に取った。今現在も取っている。そういうわけでよろしいでしょうか?」

 社長が頷く。

「れ、連絡が全然つかなくて」とうとう社長は泣きだしてしまった。「こうして何回も連絡してるんですけど」

 そういいながら社長がアルティメットホンを操作する。映像を映している、エクリプスのアルティメットホンから着メロが流れた。

「じ、自分の入場曲着メロにしてんじゃないわよ」

 MOON SPORTS LIVEで配信されているものだ。会員はダウンロード無料。

「とにかく、ラナちゃんとユウヤくんが心配で心配で……」

 メガネを外し、ハンカチで目を拭いている。

「アラタ選手はその、どうしてエクリプス選手の挑戦を拒否されたんですか?」

 冷静沈着な坂中さんもこの空気には困り果てた様子である。

「だってよ、あいつの手のひらの上で転がされたくなかったからさ。あんなことになるとは思わなかったんだよ……」

 さすがのアラタくんも声が小さくなっている。エクリプスはそれを見ながら『フハハハ』などと邪悪な笑いを発している。

「さてと。じゃあ。そろそろ仕掛けてやるかな」

 エクリプスはアルティメットホンのテレビ電話アプリを起動させる。連絡先を選択し通話ボタンをタッチした。画面の中の社長のアルホンがブルブルと震動する。社長がそれに触れると、画面の中、調印式会場の壁に金色の鉄仮面が大写しになった。

「ユウヤくん⁉」社長が叫ぶ。

「てめえどういう◎%**△■?*‘+>〇×△〇☆!!!!!!!!!!」

 声にならない声を上げながらアラタくんがユウヤくんの顔面を蹴る。顔面というか壁を。

「おいブタ野郎。貴様にひとつ進言がある」

 エクリプスがぼそりと呟いた。アラタくんのラッシュが止まる。

 ヤツは私の後頭部をガっと掴んだ。思わずギャっと叫ぶ。アルティメットホンの前に顔を出させられた。調印式会場の壁に私の顔が大写しになる。

「兎月ラナはこのとおり預かった。返して欲しければ俺の挑戦を受けろ」

 私は恐怖に身を震わせていた。さっきまで穏やかな表情で食事をしていたユウヤくんと、今の『エクリプス』。『前者が本当の彼』とは言い切れない気がして。

「いいだろう仕方がない」アラタくんは腕を組みながらそう呟いた。

「だが! ひとつ条件がある!」

「言ってみろ」

「勝ったらラナちゃんは俺のものだ!」

 マイクがキーンと鳴った。私はポカンと口を開けるしかない。

「いいだろう。負けたらオマエにやろう」

「よくなーーーーい!」

 よくなーいと言う声が、私の口とアルホンから二重に響き渡った。

「そもそもお前のモノじゃねえし!」

「よっしゃ! もちろん性的な意味でだぞ!」

「依存ない」

「依存しろ!」

 また二重に響く。私の声キモチ悪いな。なんかカン高くて。

「それでは明日。サインは社長の代筆で問題なし」

 そういいながら通話をブッチぎった。

「なんて約束してくれてんのよ! あのバカ本気にしてるよ絶対!」

 そうねーなどといいながら仮面を外した。仮面の下にはニヤりとした笑顔。アタマを抱えて髪をかきむしる。

「髪痛むぜ」

「ねえ。なんでこんなことするの」小さな声で呟いた。

「だってこうでもしねえと挑戦受けなかっただろ。あいつガンコ大魔王だから」

「それはこの際いいわ。そうじゃなくて全体的に」

 彼はキョトンと首を傾げた。

「なんで『エクリプス』になったのかって聞いてるの!」

「そりゃあ。分かるだろ」そういいながら仮面をつけて見せた。「俺が一番目立つためさ。それがプロレスラーの仕事ってなもんだろ?」

 なにせ『無重力マニア1』以来、第一試合で前座のタッグマッチばっかりやってたんだぜ。と付け足した。

「だからって。あんなことばっかりやってブーイングばっか貰ってたらしょうがないでしょうに」

 それを聞いて。彼は含みがありそうにニヤりと笑った。

「まあ。分かるよきっと。当日になれば」

 頭にポンと手を置かれた。乱暴に振り払った。

「勝つ自信はあんの? 相手はあのアラタくんだよ」

「当然あるさ。新必殺技『ジャイアントインパクト』で息の根を止める」

「なかなかいいネーミングだけど、さ」

『ジャイアントインパクト説』という天文学用語がある。月がどのように形成されたかを説明するもっとも有力な説だ。地球が巨大な天体と激突し、その衝撃で地球の一部が欠けるように分離。その破片が月として形成されたとしている。

「相手はアラタくんだけじゃないよ。たぶん。オソ松四兄弟もアナタにキレまくってるからね。きっと乱入してくるよ」

「まあカレら、元々俺よりアラタの方がスキだからな。その点も対策は考えてある」

 そういいながら私に耳打ちをした。

「ああそう。まあそうね。彼なら協力するでしょーね」

「あともうひとつ」

 彼の言葉に。私は耳を疑った。

「……本気で言ってるの」

「いい考えだろう」

「呆れてモノも言えない」深い溜息をつく。「なんでそんなになんでも自分の思い通りになると思うわけ?」

「そんなこと。思ってないよ」

 そういいながら。私を後ろから抱き絞めた。彼の腕はゾクっとするほど冷たかった。

「でもさ。そうなった方が面白いと思わないか?」

 耳元でささやいた。そっと腕を離す。

「じゃあ。オレはジムにトレーニングに行くから。留守番よろしく」

 そういいながらボストンバッグを持ち、玄関に向かって歩く。

「いいの? 逃げるかもよ」

「逃げないよ。キミは」こちらを振り返り、ニヤりと笑った。「だって見たいだろう。俺とアラタの闘いを」

 そう言ってドアを閉じた。私は彼の布団の上でうつ伏せになった。

(結局。私も彼の手のひらの上か)

(それもいいかもな)

 枕に顔うずめた。

(いや! ――違う!)

 ガバっと立ち上がる。

(私だってプロレスラーだぞ! やられっぱなしじゃいられねえ!)

「いいだろう! エクリプス! お前の手のひらで踊ってやる! でもな!」

 私は固めた。闘う決意を。

「全部思い通りにはさせねえぞ! 最後に笑うのは私だ!」

(見てやがれ! オマエなんかとはプロレスの年期が違うんだよ!)

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