或る葉書 四幕
「こちらが、配達を依頼する年賀状になります」
般若面の老人から渡された紙の包みを開くと、三十枚程度の年賀葉書が包まれていた。
「一枚だけじゃないんですね」
「毎年、複数人から無造作に投函されているらしくてな」
それなら悪戯で投函されたのも混ざっているのではないか。
「しかし、全て神々から大年神に宛てられたものである、と立証されている」
「どうして判るんですか?」
「子細を説明するには時間がいるでな。簡易的に説くと……まあ、うむ、矢張難しいな」
「そうですか」
結論が聞き出せないまま事は進む。
僕は前嶋さんと一緒に黄泉比良坂に立つ牛頭馬頭の元に行き、事情を説明して通してもらう様願い出た。
本来は通行に必要な証明書やらが必要なのだけど、この場合毎年恒例の特例として扱われる。その為何もいらない。
確認が取れると快く通してくれた牛頭馬頭に礼を言い、なだらかに続く黄泉比良坂を、前嶋さんと歩いた。
「ここから先に出ると、私は本当に同行出来なくなる。……大丈夫かい?」
「大丈夫です」
「気分悪くない?」
「大丈夫です」
「本当に?」
「大丈夫ですってば……僕も子供じゃないんですよ?」
「でも私からすれば、たった十六年生きただけではまだまだ子供なのだよねえ」
「四桁の、しかも五千歳以上に言われたくないですよ」
いつか国木田さんに聞いた話では、六千歳を越えているのだとか。
今の地獄の基盤を支えた世代でもある前嶋さんは、快活に笑って、その話誰から聞いた? と問う。
言わないです、と笑みを浮かべて断ると、前嶋さんはいつにも増して口角を上げた。
あ。
「そっかそっか。何でもないや、忘れてくれたまえ」
そうこうしている内にも、黄泉比良坂の終わりは確実に近づく。
出口に見える光は徐々に強くなり、この手を離す時が迫っていた。
懐に入れた葉書の束に空いている手を当て、ゆっくりと息を吐く。
深呼吸しながら歩いていると、前嶋さんが唐突に足を止めた。そして僕の目線に合わせて屈み、両手で僕の手を包み込む。
「大丈夫。怖くない」
「僕は本当に大丈夫ですから……前嶋さんも心配しないでください」
安心させたい一心で、鬼面の下に浮かべた不安を快活な声で繕った。
前嶋さんは暫く伺う様に沈黙していたが、不意に僕の鬼面を奪った。
「何するんですか」
取り返そうとしても、手がひらりひらりと蝶みたいに舞って逃げられる。
「不安が隠せてないよ? そんなんでこの私を安心させるつもりだったのかい。敬老精神には五千年早い」
いつにも増して神妙な面持ちで、幼子を諭す様に言った。
確かに僕はまだ未熟過ぎるかもしれない。だけれど、大役を任された以上逃げ出す訳にいかない。泣き言を言ってはいけない。
何も言い返さず黙って俯いていると、前嶋さんは僕の顔を無理矢理上げさせた。
ぱっと表情を変えて笑顔を浮かべ、僕を抱き締める。
「私はやっぱり怖いよ」
「──……へっ?」
「大切な息子が、二度も目の届かない所へ行ってしまうんだ。それも、前回と同様に人格が変わって返されるかもしれない」
藍生さんの事を言っているのだろうか。その声は低くて、暗く重い。
抱き締める腕に力が籠って少し苦しくなる。
「私はね、今回の儀式で万一君が失敗した時見殺しにする役を担っている」
「見殺し……とは」
「監視役だよ。ただ事の成り行きを監視するだけ。事が失敗すれば『失敗した』と手帳に書き記して、それで終わり。側に居るのに助けられないんだ」
前嶋さんの言う事を直感的に理解する事は出来なかったけど、前嶋さんが迷っていることは解った。
僕は手を伸ばし、前嶋さんの背中に回す。
「新美くん?」
「僕は大丈夫ですから、きっと前嶋さんも大丈夫です」
「! …………しかし」
「前嶋さんが見ていてくれるなら、側に居てくれるなら、僕はきっと成功させます。なので──」
「大丈夫、か……」
言葉の先を取られた。
「私は新美くんを見守ることしか出来ない……」
そう言って前嶋さんは僕を手離すと、立ち上がって黄泉比良坂の終わりを見やる。
なだらかな上り坂の向こうに、神がいる。
そして、何かをぐっと我慢する様に目を閉じ、開いた。
「親ならば、行ってらっしゃい、と言うべきなのだろうね」
ああ。
そんなに悲しそうな目をしないで。
前嶋さんが次に口を開く前に。
「行ってきます。……お父さん」
言い残し僕は、鬼面を奪い返して駆け出した。
子を親が見送るなんて悲しすぎる。
見送りの言葉を送る前に、僕は黄泉比良坂を登りきった。
*
目を開くと、雑踏の中に茫と立っている。
見渡す限りの人、人、人。
黒一色の空から粉雪が降り、遠方に鐘が鳴っていた。
甘酒の匂いがそこら中に漂い、きゃあきゃあと騒ぐ声、賽銭箱に小銭の投げ入れられる音、鈴の声に乾いた柏手の音。提灯は灯り人の表情に笑顔が咲く。
ああそうか。
ここがそうなのか。
多分僕は、黄泉比良坂を抜けた瞬間に大年の神を奉る神社に飛ばされたのだと思う。
辺りを見回すと、どうやら今居るのは街道らしく、鳥居は更に階段を登った先にあった。
鬼面を着け直し、参拝客でごった返す中進む。
この人達に僕は見えていないのかと疑問に思ったが、此岸の人間に彼岸の獄卒が──一度は死んだ幽霊の様な存在が、見える筈もないか。
本殿に向けて進んでいると、一人の幼子とふと目が合う。
僕の方に気になる物でもあったかと背後を振り向くと、何もない。
出店があった訳でもなく、街路樹に大きな虫が止まっていた訳でもなく、その子は唯真っ直ぐに僕を見詰めていた。
『ねえお母さん、あそこにお面つけたお兄ちゃんがいる』
ああやっぱり。
見えているんだ。
僕は提灯の灯りが届かない暗闇へ逃げ込む。
背後から高い声と、それを宥める母親の声が聞こえた。
もしかしてこれ見つかったらまずいのだろうか。
一抹の不安が頭を過る。
しかしその程度で悩んでいる場合ではない。
階段を駆け上がり、大年の神が奉られている本殿に向かう。
三十段はあった階段を登りきる頃には息を切らし、息苦しさに鬼面を外そうとした。
その時急激に胸が締め付けられる様な不快な感覚に襲われ、一気に動悸が激しくなる。
刺す様な耳鳴りと、鈍器で殴られた様な頭痛に苦しみ、胸を押さえて蹲り、すがる様に再び鬼面をつけた。
すると、次第に呼吸も楽になり、耳鳴りと頭痛も消える。
鳥居をくぐった今、少しでも間違った行動をすれば命に関わる。
そう直感した僕は、深く息を吸って前を向いた。
懐の紙包みを取り出し、参道の中央を避けてゆっくり歩く。
参拝客に混じって拝殿に、二拍一礼。
お賽銭を投げ入れて、御神体が奉られている本殿に向かった。
裏の方は灯籠や提灯の灯りは無く、更に面をつけているから視界が悪い。
せめて神様の眷族でも歩いていればいいのだけれど。
見かけ次第捕まえて道案内してもらいたい程暗い。
僅かに届いて物体に反射する光を頼りに歩を進めた。
そして拝殿から離れた場所に本殿を見出だす。
入口の扉は関係者の出入りが激しい為か開け放してあり、侵入は酷く容易だった。
下駄を脱ぎ揃え、室内に入る前に一度頭を下げる。
冷えた床に身震いしながら周囲を見回すも、時折関係者らしい神主さんや巫女さんを見掛けるだけ。
神様本人はどこにいるのだろうか。
眷族すら居ない社とは思ってもみなかった。
管理しているのは人間だけで、一年の中でも重要な節目の日にも関わらず眷族さえ来ない社。
本当に目的地は、配達先はここなのだろうか。
きょろきょろと見回すのも無礼だと思うけど、眷族にさえ見放されたこの場所が不憫に見えて。
見放された静寂が耳に痛い。
歩き回っている内に小さなお堂に祀られた御神体を発見したので、一礼して紙包みを取り出し手前に置く。
立ち上がって再び一礼。静かに踵を返し、出入口に向かった。
その瞬間まるで心臓が潰された様な鈍痛が全身に走り、膝から崩れ落ちる。
視界がぐにゃりと歪み、肺から空気が絞り出されて、内側からがんがんと殴打される様な激痛に襲われた。
何が起こったのか状況把握もままならず、地面に伏しもがく。
雑音とノイズの飛び交う頭で、本能的に不可視の何かに襲われている事を理解した。
逃げないと死ぬかもしれないけど、少し身動きするだけでも辛い。
脂汗が吹き出し、吐きかけたものをこらえる。
もしかしたら、これが『配達物を守る必要がある』事態なのだろうか。
ああだとしたら、手紙を守らないと。
お堂の前に置いた紙包みはまだ無事だろうか。
僅かしか入らない力を振り絞り、後ろに寝返りをうつ。
そこに『何か』が何もせず立ち尽くしていた。
それは僕をただ黙って見下ろすだけで、危害を加える気配はない。
それは異常に背丈が高く、真っ白な狩衣から覗く四肢は細く長く、そして顔に大量の札が貼り付いていた。
札の群れの隙間から覗く顔は、常に揺らぎ蠢く糸の様な物で構成されており、決まった形を持たず瓦解している様にも思えた。
それが僕に触れようと手を伸ばすと鬼面が割れ、僕は右目を抉られた。
── * ──
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