或る葉書 三幕

 空が白む前に着替え等の支度を済ませ、社員寮まで迎えに来ていた馬車に乗る。

 前嶋さんも正装して同伴し、馬車は閻魔庁へと走った。

 葉書が保管された手提げ金庫を膝に載せ、眠くなりそうな馬車の揺れに耐えつつ背筋を伸ばす。

「そう言えば前嶋さんは、以前も同伴したんですよね」

「そうだけどまあ……本当に途中までだよ。最後は何がどうなったか情報の開示もされないから、知らないんだ」

「せめて判る所だけでも教えてくれませんか?」

 今は緊張を解す為にも、少しでも事前情報が欲しい。

 前嶋さんは言葉選びをする様に視線を空中にさ迷わせ、たっぷり二分かけて答えた。

「まず閻魔庁に到着したら、清めた着物に着替えさせられる。それから、祈祷を済ませたら漸く現世に行ける。でも私と会えるのはそこが最後だ。あくまでも、一人で任務を完遂させる事に重きを置いているから、らしいんだ。つまり独りで立派に配達物を守れるかどうかだね」

「……配達物を守る必要があるんですか?」

「うん。葉書は、神へ宛てられたものだろう? 誰が出したかは判明していないけど、神の益が添加されたそれを、狙うやつは確かにいるんだ」

 無意識に、ホルスターに入れた拳銃に手を添える。

「怖い?」

「そりゃあ……」

「私も護衛としてついて行ければ、一番良かったんだけどね」

 ぽつりと溢した前嶋さんの言葉には、後悔の念が滲んでいた。

「どう言う訳か、上は融通を通してくれないのだよ。私上に掛け合って駄々捏ねてみようかな」

「やめてください」

 いい年した大人が両手足を地に投げ出してバタバタさせているのを想像する。

 前嶋さんならやりかねない。と言うか以前、国木田さんと藍生さん相手にそうしていた現場を、目撃した事がある。

「外部に漏らしちゃいけない事の一つや二つあるでしょうし、我慢してください」

「はあ~あ。どうして保護者が同伴しちゃいけないかなあ。ねえ、鈴」

 そんな遣り取りをしていると御者さんに睨まれたので、ぐずり始めた前嶋さんを宥める。

「局長、静かにしてください」

「やーだ。お父さん鈴と離れ離れになったら死んじゃう!」

「死にません、局長」

「私もう絶対に離さないからな!? 大切な息子を行かせてたまるもんか」

「局長、抱きつくのも止めてください」

「鈴まで何てこと言うのさ! はっ、まさかこれが早すぎる親離れ……? パパの言うことが聞けないのかい!?」

「局長、僕たちは血の繋がりすらありませんよ」

 ぎゃあぎゃあと騒ぐ前嶋さんに対し、冷た過ぎる僕との様子が可笑しかったのか、馬車を操る御者さんが苦笑しているのが小窓から見えた。

 そんな調子で前嶋さんをあしらっている内に、閻魔庁が見えたので準備を、と声が掛けられる。

「はあ~。閻魔庁なんて滅びてしまえ」

 遂に物騒な事を口走り始めたので、抱きつかれたまま好きにさせる事にした。

 鳴沢さん達曰く、この人は酷く寂しがりで構われたがり、なのだから。


          *


 閻魔庁前に到着すると、馬車は音もなく制止する。

 扉が開かれるとまず先に前嶋さんが降り、その次に僕が降りるのに手を貸してくれた。

 僕は低身長故に、未だに一人で馬車や電車の高いステップから降りられない。もっと背丈を伸ばしたいな。

 空の白み始めた、閻魔庁前に広がる広場には人影一つない。

 瓦斯灯の灯も心許なく、闇夜と孤独とが僕達をすっぽりと覆ってしまう。

 石畳に響く靴音が、酷く耳に刺さった。

 閻魔庁の仰々しい門の前には、英国近衛兵の様に背筋を伸ばした門番が一人立っている。

 その人は歩いてくる僕達を認めると、神妙な顔で会釈し、脇の小さい戸を開いて進む様促した。

 それに従い進むと、般若の面をつけ黒の束帯を身に纏った背丈の高い人が待ち構えていた。

 怒気を孕んだ般若面に一瞬怯んで足が止まる。

「大丈夫。今回の儀式関係者だよ」

 前嶋さんは臆する事なくその人に歩み寄り、丁寧に会釈して一言二言挨拶を交わした。

 お久し振りです、とか聞こえていたから、顔見知りなんだろうか。

「……そちらが、今回の者ですか」

 不意に、般若面がこちらを向く。存外に嗄れた声をしていた。

「そうです。以前にも私の愚息が選出されましたが、また再びこの様な機会をいただけるとは光栄です」

「は、初めまして! 新美鈴と申します」

 深く頭を垂れると、鬼面の人が楽し気に笑ったのが頭上から聞こえる。

「はっはっは、いや実に愛らしいですなあ。これ、それ程硬直せずともよい。顔を上げよ」

 直ぐ様顔を上げると、そこには般若面を外した初老の老人が、翁の様な柔らかい笑みを浮かべていた。

「やあ初めまして。儂はこの前嶋密の知人でな、二度もこいつの子にこうして逢えるとは思わなんだ」

「えっと……あっその、お世話に、なります……」

 再びぎこちない動作で頭を下げてしまう僕を、心配しているのか面白がっているのか、鬼面の老人は、笑いながら僕の頭を撫でる。

「坊主、これから執り行われる儀式が怖いか?」

「いいえ。そう言う訳では、ないんですが」

「心配せずともよい。此度は前嶋のやつも神官として参加出来るからな」

「えっ本当かい!?」

 僕よりも驚いた声を上げた前嶋さんは、食い気味に般若面の老人に詰め寄った。

「ああ、儂が上に掛け合っておいた。どうせお前は、放置しておくと煩くなるしな」

「ありがとう~! 矢張前回の失敗から、多少は上層部も学んでいる様子だねえ私の面倒臭さを!」

「お主それ自覚しとるのか」

「当たり前だろう? 自分について識っている事は全て武器だ」

 般若面の老人は深い溜め息を吐き、眉間の皺を揉んだ。

「はあ~……まあよい、行くぞ。新美殿、お主日常的にこんなのを相手にしておるのか」

「はい。まあ……」


 般若面の老人の案内で閻魔殿の奥へ進むと、今度は巫女装束に身を包んだ女性の獄卒が廻廊に並んでいた。

 ただしその巫女袴は黒染めで、控え目ながら華やかな紅白のそれではない。

 そして、全員般若面を顔に着けている。

 般若面の巫女達が僕達に歩み寄り、一斉に会釈をする様は壮観だった。

「此処からはこの物達が、お主達の衣更えを受け持つ。頼んだぞ」

 そう言い残し、般若面の老人は僕と前嶋さんを残して更に奥へと消える。

 それを合図に、般若面の巫女達が僕達に駆け寄り僕と前嶋さんとをそれぞれ別室に連れ去った。

 般若面の下から、くすくすと笑い声が漏れている。

 通された十畳程度の和室には、打掛や大量の帯やら装飾品やらが整然と並べられており、机に収まらずいくつか床に並べられている物もあった。

 部屋は衣服の日焼けを防ぐ為なのか窓がなく、畳張りの床はやや湿気っている。

 中央には大きな三面鏡があり、鏡台には白粉や紅などの化粧品がこれもまた大量にあった。

「新美鈴殿」

 小鬢に白い物が目立つ、年長者らしき般若面の巫女さんが、重い声を発する。

「此度、私共が着付けを担当させていただきますので。新美殿は極力動かない様御協力願います。でなければ着付けが崩れてしまいます故」

 地の底から響く様な重厚な声に気圧されて、はい、としか返事が出来なかった。

 しかし、僕の返事を皮切りに後ろに控えていた巫女さん達が一斉に動き始める。

 一人は僕に羽織を合わせて袖を縫ったり、一人は帯を取っ替え引っ替え、一人は髪を整えたりと、一瞬で大騒ぎになった。

「やっぱりこれじゃ大きくて縫ってもぶかぶかだわ。ねえもっと小さいの持ってきてよ」

「背丈が低いから足も小さいわね。足袋も縫い直さなきゃあ」

「ねえこの子に帯が長過ぎるからいっその事切っても良いかしら?」

「寸法はちょうどいいのに丈が合わないわ。もう少し大きいのある?」

「ちょっとそれ貸してちょうだい、二着とも縫っちゃうわ」

「元々肌が白いから白粉つけると白くなりすぎちゃう。あっ! ねえそこの薄藤色の白粉取って!」

「髪がさらさらで縛っても逃げちゃうのだけど……」

「あの高い下駄持って来て!」

「そんなに白粉を塗っちゃ駄目よ。紅が主張し過ぎちゃう」

「帯をもうちょっときつく締めたいんだけど……腰が細いから余ってしまうの。結び目を変えてもいいかしら」

 あっちこっちで声が飛び交い、人が移動し衣服が散乱していく様に目が回る。

 最終的に完成したと太鼓判を押されたのは支度を始めて一時間後だった。

「やっと完成したわ……」

「あちらの殿方を着付けるのも良いけれど、小さい子も良いわね」

「試行錯誤した甲斐があったわ」

 そんな会話が飛び交うのを横目に、鏡に写った自分をまじまじと見詰める。

 黒染めの狩衣と袴を身に纏い、小型の頭巾を頭に載せ、短い髪は整髪料で押さえられている。

 いつもより白くなった肌と、目許に引かれた赤い線。

 丈が完璧に調整されているので、見た目に反してとても動きやすく、うっかり裾を踏んで躓くと言う事もなかった。

「新美殿、最後にこちらを着けていただきます」

 そう言って、年長者らしい巫女さんが桐箱をその手に持って来る。

 蓋を開くと、そこには赤黒い鬼面が収まっていた。

 鬼面が手渡され、ちゃんと視界の確保出来る位置に固定して欲しいと言う。

 言われた通りにすると、後頭部で紐を縛ってくれた。

 視界が急激に狭まり、少しの段差でも転びそうになるので年長者の巫女さんに手を引いてもらう。

 部屋から出ると、先に着付けを終えていた前嶋さんが迎える。良く見れば前嶋さんも似た様な鬼面を着けていた。

「やあお疲れ様。随分と時間が掛かっていた様だけど、何かあった?」

「僕の体型に合う物がなくて、縫い直したりしてくれたので……」

「あっはっはっは! まあ仕方ないさ。こう言う事を想定して用意しない方が悪い」

「御二人とも、参りますよ」

 笑い飛ばす前嶋さんに、年長者の巫女さんがぴしゃりと短く言う。

「はいはい。あ、出来れば私に新美君の手を引かせて欲しいんだが」

「宜しいでしょう」

 選手交替して、僕の歩幅に合わせてかつ慎重に手を引いた。

 年長の巫女さんが先導して更に歩いた先には祈祷場が設けられてあり、前嶋さん曰く、毎年急拵えの突貫工事なのだと言う。

 それにしては立派な祭壇があり、神具も一通り揃っている様に思えた。

 その祭壇の前に、閻魔庁に到着した時に逢った般若面の老人が待っている。

 どうやら祈祷の主体となって執り行うらしい。

 前嶋さんと年長者らしき巫女さんは補佐、残りの人は参加せず後片付けや雑用なのだと、教えてくれた。

 般若面の老人は、僕に祭壇の前に座す様促す。

 従うと、般若面の老人が一つ頷いて儀式が始まった。

 祝詞が上げられたり、植物の香が焚かれたりしたけど、僕には何が行われているのか全く検討がつかない。

 後で判った事だが、任務の最中に連れ去られない様に、無事に帰還出来る様に、と祈りを捧げていたのだと言う。

 手紙を届けるだけなのに、それほど手厚くする理由も、後で知る事となる。


       ── * ──

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