追いかけた背 終幕

 朝、羽毛布団の中で目が醒める。

 あの奇妙な体験記憶は明確に残っていた。

 部屋のカレンダーを見ると、きさらぎ駅を通りすぎたあの日から一日経過している。

 地蔵菩薩の下りまでは覚えているのだが、その後どうやって家に帰ったか解らない。

 考えても仕方がないので、いつも通り朝の支度をする事にした。

 箪笥を開け仕事着を出す。

 そう言えばあの血がついた着物はどうしただろう。

 大方フラウさんが洗濯してくれたのだろうが、あの汚れが落ちるだろうか。

 いつか読んだ科学本で、セスキ炭酸ソーダで綺麗に落とせると言っていた気がする。

 白いシャツを着て、紺のジャケットに袖を通しベルトを締めズボンと黒の靴下を履いた。

 局長が着用する腕章をつけようとして、箪笥にない事に気が付く。

 いつも制服と一緒に置いていたのだが。

 じっくり捜す時間もないので、郵便局にある予備を出す事にした。

 洗顔を済ませて髪を整え、眠い体に鞭打って階下の食堂へ向かう。

 道中、玄関からポストを探り新聞を取った。

 欠伸を噛み殺して食堂に入ると、先に起きていた国木田を始めとした面々に迎えられる。

 挨拶を返し、珈琲を入れようと厨房に向かった。

「おはよう千尋」

「……おはようございま──」

 そこに居たのはフラウさんではなかった。

「ああ、フラウなら今は洗濯室にいるよ」

 妙に聞き慣れた声。向こうが透ける様な白い肌に、銀の混じった黒髪は編み込まれ、眼鏡越しに見える紫の曇り水晶の瞳を持った男。

 足が悪いのか杖をついているが、背筋はしゃんとのびている。

「何であんたが此処にいるんだ……」

 間違えようのない前島密の姿がそこにあった。

「そりゃあ我が子に、生きていて、なんて言われたら私頑張るしかないじゃあないか」

 前島さんは意地悪そうに笑みを浮かべる。

 どうやら過去世界において前嶋さんと接触した事により、前嶋さんが生存している世界へと分岐したらしい。

 あの時すがったのが全ての間違いだった。

 本来なら自力で事の真相に気付き、自力で死因を調べ、自分だけ元の世界に戻るべきだったのに。

「いやあ、あの時未来の千尋に頼られるとは夢にも見ていなかったけれど、どうやらまだ私が必要な様だね」

「いらねえって……」

「我が郵便局にも人が増えた事だし、これからも纏めて私が面倒見よう」

 謎に張り切っている前嶋さんを見ているだけが頭痛がする。

 極度の貧血からは回復している筈なのだが。

 無視して珈琲を入れようとすると、前嶋さんが不意に俺の頭を撫でる。

「は?」

「君が今まで生きた世界は、私が死んでいたのだろう? ……よく頑張ったね」

 細くした紫水晶の瞳は慈愛にも取れた。

 甘えても良いと言う事だろうか。

 取り敢えず前嶋さんの気の済むまで撫でさせておこう。

 昔、事ある毎にこうして撫でてくれた。

 懐かしい感触に涙が零れそうになる。

「所で前嶋さん」

「んー?」

「事実を知っているのは、現状俺と貴方だけですよね」

「今はね」

 今は、と断言された言葉に俺は顔をしかめた。

「今は話さないでいいと思っている。話しても信じてくれるかも怪しい。それに、私が危険因子として処分される可能性もある」

「同感です」

 過去溯行によって、一度死んだ筈の未来が消えた事実は変わらない。

 それに、きさらぎ駅は過去溯行出来る様な白物でも無かった。

 ヒトの言動によってその性質が変化したのだろうか。

 兎も角二度とこの様な事態を引き起こさない為に、最悪列車が走る事も無くなるかもしれない。

「秘密にしてくれるかい?」

 悪戯めいた笑みを浮かべ小指が差し出される。

 俺はこの共犯にこれからも世話になるのだ。

 そう悟り、小指を差し出す。

「ええ」

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