追いかけた背 三幕

 結局一晩泊まってしまい、考えも今一纏まらないまま夜明けを迎える。

 普段は何よりも睡眠欲の勝る俺だが、今日ばかりは眠れず終いだ。

 一つ判った事は、こちらの俺が途方もないお人好し──悪く言えば自分を主張出来ない性質である事。

 その途方もないお人好しにより、こちらの俺は俺に羽毛蒲団と敷蒲団を譲り、自身はソファで毛布を一枚被って一夜を明かしたのである。

 既に霜月なのに毛布一枚だけでは寒かろう。

 いや待て。もしかしてこちらの季節までも異なるのか?

 此岸に来た時点で時間軸が大きくずれていたのだから有り得る。

 足早に昨日の卓上カレンダーに目を向けると、そんな事はなかった。

 何故時間軸だけが綺麗にずれているんだ。

 ここまで大きくずれるのなら、せめて暖かい夏であってくれよ。

 内心でのみ我が儘を吐いていると、こちらの俺が起き上がってきた。

 時計は朝四時を指している。

 確か昨夜寝たのは、日付変更線を跨いでからだった。

「あ”あ”……。おはよう…………」

「朝から疲れてんな」

「開口一番に言う事がそれかよ」

 こちらの俺は後ろ頭を掻きながら、奥歯が見える程の大きい欠伸を一つ。

 ふらつく足で台所に向かう俺を余所目に、俺は蒲団を畳んで部屋の隅に追いやった。

 これもまた隅に追いやられていた自分の着物を取り、少々狭いが手洗い場の鏡を借りて着付ける。

 そのままの足で玄関に向かおうとすると、こちらの俺に呼び止められた。

「おい、朝飯も食わずに何しようとしてるんだよ」

「何って……調べものに」

「図書館の開館時間は六時間先だぞ」

「それでもいい。俺が帰るのに付近も調べなきゃならねえ。それで時間は潰れる」

「朝食が先だ」

「いや、調べもの──」

「先に飯食ってからな」

 まるで子供に言い聞かせる様な口振りに苛つくが、ここで言う事を聞かねば先には進めないだろう。

 大人しく机について待っているのだが、全く食欲が湧かない。

 無理にでも胃に押し込むべきだろうか。

 取り留めのない事を考えている内に、二人分の朝食が運ばれる。

 バタートーストに葡萄ジャムサンド、それとサラダ、珈琲が一杯。

 しかし、トーストの香ばしい香りと、開封したてのインスタント珈琲の匂いをもってしても食欲が戻る事はなかった。

 用意してくれた手前、残すのは無礼にあたる。

 兎に角甘いものなら入るだろうと、ジャムサンドに口をつけた。

 少し時間をかけて食べ終わり、丁度良い塩梅に冷めた珈琲を啜る。

「お前も珈琲はブラック派なんだな」

 不意にこちらの俺に声を掛けられた。

 そうだな、と生返事をし、嗜好性は生前と変わらないのか、と脳内に控書を残す。

 ふと、こちらの俺の首からかかる社員証が目についた。

 或る商社の営業員らしいが、驚いたのはそこではない。

 『相生千尋』

 社員証には確かにそう記されていた。

 俺の名前とは多少字面が異なるものの、全く同じ名前だ。

 数百年のズレがあるから、時間の経過fr字が変わった可能性もある。

 しかし、俺の生前と思われるこいつが、同じ名前なんだ。

 獄卒には生前の名前が与えられるのか?

 だとすればなんと言う嫌がらせだ。

  自身の過去に繋がる手掛かりが、これ程身近にあるとは思わないだろう。

 珈琲を半分飲んでトーストに手をつけようとすると、何故か胃が受け付けなくなっていた。

 ならサラダはどうか、と手を伸ばしてみるが、体は明らかな満腹を訴え拒否する。

 何故だ。

「ん? 入らないなら残してもいいぞ」

 また、子供に言い聞かせる様な口振りで言う。

 暫く足掻いてみたが、入らないものは入らず、結局残飯にしてしまった。

 珈琲を飲み干し、皿を下げる。

「突然、何処かも判らない場所に無理矢理連れて来られたんだもんな。具合悪いなら寝ていてもいいぞ?」

 我ながら気持ち悪い。自分だけに。

 ここまで他人の世話をする余裕があるのに、何故自分の世話をする余力が残っていないのか。

 他人を世話している内に体力が尽きているのだろうが、その献身は美談にも出来ない。

 こんな人間を美しいとする環境で育ったんだろうか。

 それに関して首を突っ込む気はない。

「いや結構だ。それより周辺地図はないか?」

 首を振って拒否すると、俺は一瞬困った様な、諦める様な表情を浮かべる。


 貰った地図を袂に入れ、明け前の街を歩いた。

 線路沿いに伝い歩いてみたが、伊佐椥隧道など存在しない。

 諦めて帰るべき時を待つ事にする。

 図書館に足を運んだり、山道に踏み行ってみたが、これと言った収穫はなかった。

 強いて言うなら、彼岸へと至る黄泉比良坂の門を発見した事だがここを通っても数百年前の彼岸に至る。

 踵を返そうとした所で、ふ、と思い付く。

 ──今なら、先代に再会出来るのではないか?

 数十年前に彼岸から居なくなってしまった先代。

 伝え損なった言葉、悔やみきれない想いが、まだ残っている。

 それにあの人なら何か識っているかもしれない。

 足取りに迷いはなかった。

 救いを求める幼子の様に、門の向こうへと手を伸ばす。


          *


 黄泉の国へと至った俺は、そこから下層へと足を向けた。

 地獄は黄泉の国よりも地の底にある。

 地の底であるが、太陽も射し込めば雨も降る。ヒトから見れば奇怪な土地だろうが。

 夕方までに辿り着けるだろうか。

 辿り着いてもそこは数百年前の地獄で、見知った建築物があるかどうかも怪しい。

 下へ下へと歩く内にも日は傾き、それは焦燥と酷似している様に思えて。

 昔読んだとある文豪の著作に、太陽が沈むよりも早く走った男があった。

 言葉のあやなんだろうが、今だけそれくらい早く走れないだろうか、と。

 その期待は、泡と化した人魚姫の如く淡く消える。

 そして日が完全に沈んだ頃に、漸く地獄の入口に辿り着いた。

 門番の牛頭馬頭に話をし、無事通してもらう。

 仄暗い道を歩み行く。

 先代に会えたら何から話すべきか。

 それに信用してもらえるかも知らない。

 未来から来ました、と言ってその先の話が通じるのか。

 不安に押し潰されそうになって、堪らず通路の壁にもたれかかる。

 あの暖かな家に帰りたい。

 その為なら生前の自分も殺すが、自分が干渉した事によって、自分が消えた未来を辿るのが恐ろしくて。

 失敗したが最後あいつらにも会えず、記憶にも残らない。

 どうしたら正解なのかも判明していないまま、無様に他力本願を試みる。

 仄暗い道は出口に差し掛かっているが、このまま進んでいいものか。

 考えあぐねて立ち尽くしていたその時。

「──もし」

 唐突にかけられた声に心臓が裏返った。

 素早く背後を振り向けば、そこに物腰の柔らかそうな男が立っている。

「大丈夫ですか?」

 そう言ってへにゃり、と笑った。

 向こうが透ける様な白い肌に、銀の混じった短髪を編み込み、眼鏡越しに見える紫の曇り水晶の瞳、仕立ての良い厚い外套を着こんでいる。

 足が悪いのか杖をついているが背筋は伸びており、細い指に黒手袋を嵌めていた。

 見間違い様のないその姿。

「──……前島密」

「おや。貴方とはどこかでお会いしましたかな」

 何十年も前に居なくなった先代だ。

 俺は首縦に振って首肯する。

「そうでしたか。私、人の顔を覚えるのがどうにも不得手でして……いやはや、失礼しました。では改めて、私、前嶋密と申します」

 前嶋密。それが先代の本名だが、名前を口にすると辛くなるからと、先代が死んでから暫くは敢えて先代と呼んでいた。

 それがすっかり定着してしまった今、改めて呼ぶ事の無かったその名を呼ぶ。

「……俺は、藍生千尋です。前嶋さん」

 あなたがくれたこの名前を口にすると、前嶋さんは酷く驚いた様子で目を見開いた。

「偶然だね。うちに全く同じ名前の子供がいるんだよ」

「それが俺です。判ってるでしょう前嶋さん」

「そうだよ」

「この野郎」

 全てを識り、解っている上でからかう癖のある人だった。

 今更思い出しても、既に前嶋さんの予測通りの反応を返した後である。

「とすると、君は恐らく未来のあの子なんだね?」

「そうなります」

 前嶋さんは俺をじろじろと眺め、背、伸びたね、と呟いた。

「今の千尋君は、私の腰くらいの背丈なんだけど越されてしまったなあ」

 あっはっは、と快活に笑う前嶋さんは本当に楽しそうだ。

「あなたが縮んだんでしょうよ。年ですから」

「ええ~あんなに可愛い子がこんなに口悪くなっちゃうなんてお父さん悲しいなあ~。そんな事言ってると私、心労で早死にしちゃうのだけれど」

「あと数百年は生きてますから」

「そうだねえ、君が寂しがって泣いちゃうだろうからまだ死ねないなあ」

「もう泣かねえよ」

 俺は残念でした、と言う風に溜め息を吐く。

「じゃあ泣いてる時を撮影して絶対見つからない場所に隠しておくか」

「おい」

「国木田あたりに見つけてもらえる様手掛かりを残して、深夜に観賞会でも開くと良い」

「どんな嫌がらせだよ」

 暫く漫談をして盛り上がっていたが、不意に前嶋さんが真剣な目付きになって俺に問うた。

「所で……私が見る限り、君にはさほど時間が残されていない様だけど」

「……はい、その通りです」

 出来る事なら、このままずっと喋っていたかった。

 我儘を言っても仕方無いのは判っている。

 俺も泣きじゃくっていたあの日の子供ではない。

「ちょっと移動しようか」


 前嶋さんに連れられたのは、閻魔庁に併設された役所だった。

 何故此処に? とは考えたが、この人の事だ。何も案がないと言う事はないだろう。

 その証左に、前嶋さんは迷いなく足を進める。

 俺はその後ろに黙って従った。

 閻魔庁併設の役所は一日中開いている。

 報告書や提言書の提出、罪人の処分に獄卒の管理と、何かと用事が絶えないからだ。

 あらゆる問題が投げ込まれ、それらを処理するには二十四時間では足りない。

 今回用事があるのは獄卒管理課なのだと、前嶋さんは言う。

「鬼籍を見せてもらおう。それに生前の死因が記録されている筈だ」

 地獄に暮らす獄卒の戸籍は「鬼籍」と呼ばれる。

 一度死亡している事と、ヒトではない鬼として振る舞う者として扱われる事を掛けたものだ。

 受付の男に、藍生千尋の籍を、と一言。

 それだけ言うと、男は直ぐ様椅子から立ち上がり奥にある情報室へと俺達を通した。

 情報室に入り、男が何かの盤面を操作をすると、本棚が一人でに移動して俺達の眼前で停止する。

 受付員の男がその中から一冊の綴じ本を手に取り、前嶋さんに手渡すとその場から去った。

 どうやらこれが俺の鬼籍らしい。

 と言っても、この時間軸において俺はまだ幼いので、数枚の書類が挟んであるだけだ。

 頁をぱらぱらと捲る前嶋さんの手を目で追っていると、最後の頁でぴたり、と動きが止まる。

 今度は頁の文字を追いかけた。


 名: 藍生千尋

 登録日: 2050/11/7

 歴: 生前は商社に営業員として勤めていたが、他殺により死亡。死亡から一ヶ月後に自宅で発見され、天涯孤独であった為無縁墓地に入る。

 享年27歳。

 その後地獄で50年の浄罪を経て、獄卒として受け入れられる。


 ごく簡潔に纏められた文書はいっそ残酷で、酷く読み応えのないものだった。

 それも自分の事だけに、こうも簡素化されると複雑な心境である。

「……ふーむ」

 前嶋さんにじっくりと眺められるのも些か恥ずかしい。

「成る程。他殺かあ……となると、やる事は解ってるね?」

「はい」

 死因が他殺なら、己が手を汚すだけ。

「俺が自分で──」

「いや、君は手を下さなくて良い」

「は?」

 前嶋さんは考え事をする時の癖で、両手の指を軽く組んだ。

「……恐らく、死因は君が手を下した事による他殺ではない」

「と言うと?」

「私の推測としては、何らかの犯罪に巻き込まれて殺されたのだよ君は。未来など不確定要素で構成されている様な物だ。つまり未来の君がわざわざ殺しに来るとは考え難い」

 前嶋さんの言いたい事は恐らくこう。

 現時点で西暦は2500年代まで進んでいるが、俺が死亡した時点では2000年だった。

 2500年まで進んだからこそ、未来の俺が過去へ溯行出来たのであって、2000年時点で未来の俺は居ない。

 そこから導き出される結論は、俺に生前の自分の殺人は不可能だと言う事。

 ならばやるべき事は一つ。

 第三者に自分を殺害させ、正しい結末まで導くのだ。

 出来るだけ狂いなく、未来が分岐しない様に。

 観測されなくなった予測未来は、そこまでだ。

「自分ではなく誰かにやらせろって事ですね」

「そうとも、理解が早いじゃないか。流石私の生徒だ」

 そう言って嬉しそうに、わしゃわしゃと俺の頭を撫でる。

「? 嬉しそうではないね」

「当たり前ですよ」

 手を下すのは、導かれている自覚の無い第三者だが、それでも間接的に俺が手を下すのだ。

 それで未来が変わる事が恐ろしい。

 手が震えて喉が渇く。

 呼吸も浅くなって、重圧で窒息しそうだ。

「大丈夫だよ」

 前嶋さんがかける声も、気休め程度にしか聞こえず嫌になる。

 黙って俯いていると、不意に手が伸びてきて俺を包み込んだ。

 前嶋さんに優しく抱かれているのだと気付いたのは、一瞬後である。

 柔らかく俺の頭を撫でるその手は慈愛に満ちていた。

「大丈夫。例え未来が変更されたとしても、いずれ獄卒になった君を私が捜して迎えに行ってあげる」

「…………それまで死ぬなよ」

「私の心配をしなくとも、君の生きた数百年を、きっと私は見守ったのだろう? だったら私も大丈夫さ。だからね、早くいきたまえ」

 言って、俺を抱いていた手が離れる。

「行って来る」

「ああ、行ってらっしゃい」


          *


 押された背中の感覚がまだ残っている内に此岸へ戻った。

 腕時計は午後十一時半を示している。

 殺害手段を考えつつ、夜の街を歩いているのは俺くらいのものだろう。

 安アパートを目指して歩いていると、ふと、道端の掲示板が目についた。

 いつか、こちらの俺が口にしていた強盗殺人のポスター。

 何とはなしに眺めていたのだが、そこで天啓を受けたかの様な案が浮かぶ。

 そうだ。

 こいつに殺害させれば良い。

 家に虚偽の金品がある事を隠に知らせ、手配犯に押し込ませる。

 そこに俺を引き合わせれば、揉み合いの末に刺してくれるかもしれない。

 いっそこちらから捜し出し依頼でもするか。

 これは最終手段だが、自ら手を汚した上で部屋を荒らし、強盗殺人の仕業に見せ掛けるか。

 その他に黙々と手段を考えている内、例の安アパートに到着する。

 外出前に持たされていた合鍵を差し込み、回すも鍵は開いていた。

 あいつが既に帰宅していたのだろう。

 それにしても不用心な。

 戸を開くと、部屋に灯りがついていない。

 もしや寝てしまったのか。

 就寝中にしても、鍵を開けておくものか? 

 靴を脱いで奥へ進む。

 暗い中、途中何かに蹴躓いた。

 手探りで壁を伝い、電灯のスイッチを捜し出した。

 かちり、と小さい音を立て灯りが灯る。

 目の前に、包丁の切先が突き付けられた。

 ぎりぎりで避けた包丁が、ふぉん、と空を切り、包丁を手にした輩が均衡を崩しこちらに倒れてくる。

 脳で情報が整理されるより、骨髄反射に身を任せた。

 包丁を手にした男は興奮しているのか、肩で息をしている。

 迫り来る脅威をどうこうする力は持ち合わせていない。

 男と俺は向かい合ったまま膠着した。

「う…………」

 ふと足許から、蚊の鳴く様な細い声がした。

 見れば、こちらの俺が腹を抱えて蹲っている。

 よく見ると衣服に血が滲んでおり、包丁にも血液がこびりついていた。

 俺がこちらを見上げると、声にならない声を上げる。

『逃げろ』

 力の限り繰り返されるその言葉。

 視界の端で振り下ろされる包丁。

 誘うまでも無かったのは助かったが、俺まで巻き添えにされるのはだるい。

 そんな下らない事を考えながら、迫る包丁を避ける事なく受け止めた。

 脇腹を一突き。

 突進された勢いで眼鏡が吹き飛び、どこかに当たる音がした。

 あれ割れたな。

 次に包丁がぐりっ、と捻られ、傷口が拡張される。

 肉がぐちゃぐちゃに切れ、神経が掻き回される痛みに声も掻き消えた。

 大きな怪我をするのは一体何年ぶりだろうかと、現実逃避にも似た思考を巡らせる。

 男が包丁を抜き取ろうとした時、はっと覚醒した。

 俺は腹に刺さった包丁を掴み、離すまいと抵抗する。

 せめて俺の死後、犯人を捕まえられる様に証拠の一つも残したい。

 暫く激痛に耐えて揉み合っていると、刺した男は諦めたのか、素早く包丁を残し退散する。

 俺は壁に体重を預けてもたれかかった。

 目の前で倒れている俺はもう動かない。

 俺は腹の包丁を、少し勢いをつけて抜き取った。

「ぁ”あ”っ……」

 生理的な涙が一筋頬を伝う。

 衣服の隙間から、腹に空いた傷を見た。

 深く抉る様に開いた穴からは出血が絶えず、放置すれば数分で出血多量で死ぬだろう。

 追い討ちとばかりに、貧血による酸欠で酷い頭痛に襲われた。

 耐えきれずに目を閉じ、浅い呼吸に任せて意識を手放す。


 或る時ふっと覚醒して目を醒ました。

 上手く息を据えずに咳き込む。

 何度か深呼吸すると咳は治まったが、動き始めた肺が未だ適応しきれていないのが判る。

 獄卒は死なない。

 だが、俺は蘇生の際どうしても呼吸の仕方を忘れかけてしまう。

 こうして死ぬのも何十年ぶりだろうか。

 激しかった動悸も徐々に治まり、平衡感覚も戻って来た為ゆっくりと起き上がる。

 しかし直ぐ様動ける訳ではないので、暫く床に座り込み回復を待った。

 体感で五分程経過した頃には立ち上がれる様になった。

 視界が心許ないので、吹き飛ばされた眼鏡を捜す。

 物の形状がぼやけて見辛い。

 床を這っていると、何かが手にこつ、と当たった。

 手探りでそれを掴み探ると、恐らくそれは眼鏡だった。

 レンズが粉砕されていない事を祈って眼鏡をかける。

 ピントが合うまで時間を要したが、レンズにひびが入っただけで無事な様だ。

 改めて室内を見回すと酷く荒らされており、時計の秒針が立てる音は、室内に充満した静寂をより一層引き立てている。

 床に転がる死体の俺に手を合わせて部屋を出た。

 外は地平線が僅かに白んでいる。

 血濡れの服を見られない様、路地裏を歩いた。そのまま線路を目指す。

 暫く歩いて線路沿いまで到着した。

 フェンスをよじ登り線路内に侵入し、今度は隧道に入る。

 振り返ると、空は半分まで白んでいた。

 足早に隧道を駆け抜ける。

 夜明けを迎えればまた帰れなくなるだろう。

 その前に、せめて境界線まで辿り着きたい。

 息を切らせながら走ると、暗い隧道が突然途切れて光の射している部分が見えた。

 そこに入ると、今まで歩いてきた隧道が閉ざされ、目の前に背中を向けた地蔵菩薩が立っていた。

 地蔵菩薩は地獄と此岸の境界に立っている。

 そして地獄から哀れな魂を救い出すのだ。

 つまり、この地蔵が向いている方向こそ地獄。

 俺は躊躇なく足を踏み入れた。


       ── * ──

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