追いかけた背 序幕

 先代局長からその座を引き継いでから、早五十余年。

 カレンダーを捲り、諸々の予定を書き込みながらふと思う。

 来年には先代と同じ年齢になる、と言う事も。

 つくづく短命な人だった。

 俺や国木田、鳴沢を育て終えるとすぐ息を引き取ってしまったのである。

 せいぜい数百年程度ではなかったか。

 自分はもうすぐ四百と九十六歳になる。

 来年また年を取ればお揃いだ。

 先月から何かと慌ただしい日々が続き、まるで時間が矢の様に過ぎ去って行く。

 以前から要求していた人員補充がようやく叶ったのだが、真逆あんな子供だとは思わなかった。

 まだ勉強したい事もあったであろう、十六ぽっちの若輩が三人。

 自分とは一桁も違う子供らを寄越す程、この地獄も困窮していると言うのか。

 聞けば、学校からは名誉ある特別卒業生として送り出されている。

 そのまま勉学に励んでいたら、もっと違う道に進んでいたのかもしれない三人だ。

 こんな武器も無しに前線へ立たされる職場よりも。

 そう言えばフラウさんは、世話を焼ける子が出来て良い、と言っていた。

 彼女とは昔からの付き合いで俺もあの人に育てて貰ったから、あの三人が来てくれて嬉しいのだと。

 ついでに、俺達の世話を焼けなくなって、焼かせてもらえなくて寂しい、とも溢していた。

 ただ、フラウさんに任せていれば、あの三人が精神面でやられる事はないと思う。

 カレンダーに一ヶ月分の予定を書き終え、出勤の準備を進める。

 時計に目をやると午前五時。

 まず洗面所に向かい、顔を洗って少しでも目を醒ます。

 その次に着替えを済ませ、寝癖のついた髪を整えた。

 目の下に刻まれた隈を、化粧で誤魔化す。

 橙を隈に被せ、その上から肌色のクリームを重ねて肌に馴染ませれば完成だ。

 隈が出来ていると、新人や罪人への第一印象が悪くなるので面倒でもやるしかない。

 局長職を始めてから、激務に流されて隈を作っていたが、見かねた鼓美を中心にやっていた。

 今では技術を教えてもらって俺も出来る様になった。

 支度を済ませて階下に降りると、先に食堂へ来ていた鼓美が俺を見るなり、

「あーっ! 千尋また自分でメイクしてる。俺がやりたかったのに~」

 開口一番にごねる。

「うるせえ。朝から大声出すなよ喧しい」

 あしらい、まだ眠い体を引き摺って厨房の暖簾をくぐった。

 厨ではフラウさんが朝食の準備をしている最中で、俺に気付くと、手を止めてふんわりと微笑み、おはよう、と言う。

 おはようございます、と返した。

 そしてフラウさんは、再び忙しく調理を進める。

 俺はインスタント珈琲をドリップして、黒砂糖を三杯入れ、クリームを注いだ。

 匙でかき混ぜたらカップを持って食堂に戻り、椅子に腰を下ろす。

 机に放置されていた新聞紙に目を通しながら、熱い珈琲を啜った。

 国木田などには甘過ぎると言われる珈琲だが、俺が甘党なので仕方ない。それに、糖分の摂取で仕事の疲労が軽減されると、以前どこかで目にした事がある。

 俺の対面に座る鼓美は、朝から眠くなりそうな紅茶を飲んでいた。

 その内に国木田と鳴沢も起きて来て、最後に、件の新人三人が食堂に集まる。

 三人共ここの生活には慣れた様子で、先月まで暑いと言って半袖の私服でいたのに、最近は長袖を着込んでいる。

 適応能力が高いのだろう。

 全員揃うと漸く朝食を食べるのだが、実は先代局長が始めてからずっと続いている事なのだ。

 非効率でも、俺の代で絶やす気はない。

 今朝は鶏の蒸焼きと白米に味噌汁。

 フラウさんの作る朝食は高確率で、主食と汁物が和食に、主菜が洋食になる。

 時々卵焼きもあるのだが、それは副菜なのだと言う。

 完食し、歯を磨いて弁当を持たされる頃には午前七時。

 七時十分、停車駅で始発の路面電車を待った。

 局員全員が遅刻する事なく、人のいない電車に乗る。

 大元の駅がすぐ近くにある為なのか、この時間帯は大概人が居ないか、誰か乗車していてもまばらだ。


 郵便局に到着すると、まず三階の事務室に集まり本日の予定を確認する。

 自分達の様な配達員以外はまだ出勤時間ではないので、俺達しかいない。

 各々手紙の配達先を確認し、銃の手入れをしたら、午前七時半、いよいよ仕事が始まる。

 俺は他の局員が出勤してくるのを待ち、局員達に声を掛けてから事務作業を片付け、それから配達に出掛けるのだ。

 配達は午前十時までに終わらせ、郵便局に戻ったら次は溜まった書類を捌く。

 請求書から口入れ屋が持ってきた中途採用の履歴書に、銃弾の補填申請、銃の所有許可証の更新通告。

 押印が必要な書類には特に価値の無い判子を押して封筒に纏める。

 判子なぞ糞食らえ。

 自動で押印部を認識して押印する機械があればいいと、何度考えた事か。

 十一時に書類仕事を済ませ、再び配達に向かう。

 出先で弁当を食べ、一服し、また郵便局へ戻った。

 午後からは中途採用の面接と書類審査。その後で口入れ屋に手紙を書く。

 午後一時になると、午前から配達に行っていた国木田達が帰ってくるので、次の配達先を確認して再び送り出した。

 俺以外の配達員は一度に大量に運び、尚且つ遠方の刑場まで足を運ぶ。

 俺は局長職と配達員を兼任しているが、どうしても局長としての業務に時間を持っていかれてしまうのだ。

 合間を縫って細々とした配達物を届けているが、どうにも、仲間の助けになっている感覚がない。

 重要書類に目を通し、また価値の無い判子を押して、不必要になったのは纏めて処分。

 今日の面接を合格にした奴へ通知書を書く。

 鍵盤の滑りが悪くなったタイプライターを叩いた。

 手紙の終わりに、これもまた特に意味の無い署名を入れたら便箋に包む。

 日が沈んだ頃──と言っても今の時期は日の入りは早いが──報告書を書いていると、配達員が全員仕事を終えて戻った。

 書類仕事の手を止め、全員に今日の記録をつける様に呼び掛ける。

 罪人が暴れた為に発砲しただとか、手紙を破損されたとか、時間も事細かに記録を残す。

 それから明日の業務内容を口頭で説明し、国木田達を先に帰らせた。

 他の事務員や受け付け業務員なども帰路についている。

 俺は人気の無い事務室に一人居残り、途中だった報告書を完成させた。

 報告書を持って十九時十五分発の列車に揺られ、閻魔庁へと向かう。

 週に一度の報告定例会に書類を出すだけなのだが、何しろ閻魔庁が八大の中心部にあって遠い。

 郵便局は刑場に程近いが、閻魔庁は安全確保の為にもより離してある。

 そして定例会があるのも、郵便局やその他諸々が閻魔庁の管理下にないからだ。

 閻魔庁が管理するのは地獄全体の統括。つまり行政、法律、裁判だ。

 三権分立などない。

 閻魔庁は独立した人事機関を創設し、そこに俺達獄卒の一切を任せている状態だ。

 言わば下請業者の様な立ち位置で、獄卒は働き、今日も地獄は廻る。

 獄卒人事機関に報告書を届けると直ぐ様列車に飛び乗った。

 嗄れ声の車掌が、時刻は八時を回りました、と告げる。

 明日はもっと早く帰れるだろうかと、淡い期待を溜め息と共に吐き出した。

 一度郵便局に戻り、消灯して戸締まりを確認し、漸く帰路につく。

 欠伸を堪えながら列車を待ち、ふらつき始めた危なっかしい足取りで社員寮に辿り着いた。

 その途端、急激な眩暈に襲われて世界がぐるり、と回る。


          *


 寝心地の悪い夢から覚醒する様にのっそりと起き上がる。

 蒲団から這い出、立ち上がろうとするもふらついて力が入らない。

 無理に体を動かそうとすると、床に勢いよく倒れ込んでしまった。

 諦めて体の力を全て抜き、蒲団に寝そべる。

 時計の秒針に耳を澄ませていると、階下より駆け上がって来る足音が、振動と共に伝わる。

 それは段々と俺の部屋に近づいており、遂に扉の前で止まった。

「入るわよ」

 軽やかなノックと共に、フラウさんが入る。

 粥を載せた盆をその細腕に支えて。

 フラウさんは俺に近寄ると額に冷えた手を当て、熱はないわね、と昨夜飲ませたと言う解熱剤の効果を確かめた。

「俺……昨日何かありました?」

「千尋ちゃん、昨日熱出して玄関でいきなり倒れたのよ?」

 未だぼんやりとした脳で記憶を反芻する。

 定例会に報告書を提出して、ようやっと社員寮に辿り着いたはいいものの、その後の記憶がない。

 恐らくそこで倒れたのだろう。

「急に倒れちゃうのには慣れてるけど、毎年この時期になると、千尋ちゃんは体調崩しちゃうわね。やっぱり季節の変わり目は油断出来ないわ」

 確か去年も同じ様な日に熱を出し、その時はよりにもよって職場で倒れたんだったか。

 年末調整もあり、徹夜組に仲間入りしていたのが原因で。

 年末調整、と言う単語にはっと頭脳が覚醒する。

「年末調整の書類やってねえ!」

 ガバッと起き上がった途端強い眩暈に襲われ、耐えきれず蒲団に倒れ込んだ。

「ああくそっ……」

「何やってるの千尋ちゃん。残した書類なら国木田ちゃんと鳴ちゃんが処理するから、ちゃんと休んでなさい」

「だが書類仕事であいつらの時間を割かせる訳には」

「千尋ちゃん」

 フラウさんは威圧的に俺の肩を押さえる。

「今は書類仕事より安息よ。……目許の隈もこんなに深くしちゃって。局長として皆を支えるのも大事だけど、皆に支えられるのもあなたなの」

 一瞬、フラウさんの瞳が潤んだ。

 しかしすぐに首を緩く振って、先の言葉を嘘にしたいかの様に微笑する。

「お粥とお薬、置いておくから食べたらもう少し寝ていなさいね」

「……判かりました」

 言い残し、ぱたぱたと足音を立てて階下へ戻っていった。

 ふと、時計に目をやると十二時をとうに過ぎており、昨晩から十二時間以上眠っていたらしい。

 ぼさぼさの頭を掻いて、フラウさんが残した粥に手をつける。

 食欲はあまり湧いて来なかったが、無気力に完食した。

 それから薬を服用し、水で流し込む。

 遮光カーテンが開きっぱなしの窓の向こうは、絵に描いた様に泣き出しそうな空だった。

 以前も同じ様な空模様の日があり、その時新美達が、そろそろ雪がふるのだろうか、などと言っていた。

 この八大地獄に雪は降らない、と一蹴した記憶がある。

 一方八寒産の三人曰く、向こうではもう雪深くなる時期なのだと。

 俺は生まれてこの方雪など見たことも触れたこともないが、一度は目にしてみたいと人知れず願う。

 触れれば凍え、頭痛がする様な純白に囲まれるのは一体どういうものだろうか。

 寝過ぎたのか一向に眠くならないので、ストーブに火を入れ、暖かくなるのを待って蒲団を被る。

 時間をかけて暖かくした部屋へ這い出し、電気を点け、乱雑に散らかした棚から幾つか本を手に取った。

 「山月記」「恩讐の彼方に」「猫町」「病床六尺」

 適当に任せて選出したので、年代もジャンルも全くの別物だが、本を媒介に旅をするにはいいかもしれない。

 眼鏡をかけ、ストーブの前に陣取り、蒲団を被れば準備完了。

 いざ、空想の旅へ。


          *


「君は読書を一層好いているとみえる」

 いつか言われた言葉。

 その時は確か、先代の局長とは初対面の日だった。

 まだ俺が、身体的にも精神的にもずっと幼かった頃の話。

 その時も、人間による彼岸世界の忘却が発生し、俺の両親が消えた。

 俺にも影響があったのか、両親が消えたその瞬間から二人に関する記憶も抹消されている。

 臨時で増設された粗末な保護施設に入った俺を、入ってから数日も経過しない内にあの人は俺に目をつけた。

 他に行く宛もなく、施設職員の判断も甘かったので、翌日には里子として先代について行く事にした。

「──私は東雲密と呼ばれている者だけれど、君の名前は?」

 忘れてしまった、と簡潔に答えた記憶がある。

 密はそれに対し、特に驚いた様子もなく、では新たに名付けてあげよう、と明るく言ったのだった。

 これには俺も驚いた。

 本当は、元の名前が気に入っていない為に吐いた嘘だと言うのに。

 今となっては本当に忘れてしまって思い出せないが。

 密はその時その辺に生えていた藍を見て名付けた。

「藍生千尋。これからはそう名乗りなさい」

 この奇怪な運命も、なるべくしてなったのだと今思う。


 ふ、と気が付くと、俺は再び蒲団で目を覚ました。

 どうやら寝落ちしたらしい。本は片付けられ、ストーブも消えている。

 恐らく、様子を見に来たフラウさんに世話をしてもらったのだろう。

 立って歩ける程の体力が戻ったので、取り敢えず階下へ足を向けた。

 居間に入ると既に国木田達が帰宅しており、俺を見るなり、鼓美が飛び掛かってきた。

「千尋大丈夫だった~!?」

 それを回避してあしらう。

「うるせえ、こちとら病人なんだ静かにしろ」

「元気じゃん」

 そこへ新美達三人も駆け寄って来、

「局長、もう平気なんですか?」

 と心配そうに俺を見上げる。

「千尋、無理して歩かないでいいんだよ」

 鳴沢までそんな事を言うものだから、まるで介護されている気分でむず痒い。

 兎も角全員揃っているので夕食にする事とした。

 俺だけは別の献立だったが、こうして全員揃って夕食を食べるのは随分と久しい様に思う。

 夕食を完食し、簡単にシャワーを浴び、少しだけ新聞を読み進めようと思ったら早く寝る様促され、自室に戻った。

 蒲団に潜るも、今日の半分を寝て過ごした為か、全く睡魔が襲ってこない。

 夜風でも浴びようかと、ベランダに続く引戸を滑らせると冷気が飛び込んだ。

 堪らず戸を閉め、諦めて部屋のストーブを焚く。

 本でも読んでいればいずれ眠くなるだろう。

 ストーブが放つ橙色の光を頼りに文字列を追い掛けた。


       ── * ──

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