コブレンツガイドの日本女性

 一年くらい前のことだ。

 日本の雑誌社から、ドイツにもワインの名産はあるんだということを書いて、ドイツはソーセージとビールばかり思い込んでる日本の読者の観念を崩す記事を欲しい、と頼まれた。

 でも実際ドイツのソーセージとビールは格別だし、とささやかに反論したら、そんなこと知っとるわ。お前はドイツのワインの事を書けばいいんだ、と怒鳴って厳しく命令された。最初からワインの事を書いてくれ、と頼めばすむのに。

 その時の僕は、雑誌記者としてドイツに移り住んだばかりで、ドイツ語辞典とドイツの日本のハーフの通訳の方と連れ立っての取材行が続いていた。

 どこに行っても慣れない言語に溢れていて、心が休まる暇も場所もなく、自分が精神的に疲弊していくのを気付いていた。

 次の取材の出来次第で帰国しようか、とも考えていた矢先に、ドイツワインの取材を依頼されたのだ。

 通訳の人にドイツで有名なワインってどこ? と訪ねるがワインは嗜まないらしく、捗々しい答えは返ってこなかったが、ラインとモーゼルの沿川が産地とは聞いたことあるよとのことで、僕は通訳とともにコブレンツに向かうことになった。

 後日コブレンツに到着したが、街の空は生憎の濃い曇りで、街の中を流れる川とその左右の景観もどんよりと淀んで見えた。

 曇り空のせいか浮かない気分で、コブレンツの観光課を訪ねると、明日なら日本人ガイドの案内が可能だと言うので、一日待つことにした。

 翌日。空は未だ濃い曇りのままだった。僕と通訳は再び観光課に待ち合わせの時間に行った。

 そこで僕は彼女に出会った。

「ガイドを務めさせていただきます。木下このか、です」

 厚手のニットと足首まで垂れたフレアスカートの出で立ちの木下さんは明るく微笑んで、丁寧な挨拶とお辞儀をした。

 綺麗な人だな、と僕は初対面にも関わらず、琴線に触れるような感覚を覚えてしまった。

 通訳が僕のわからないドイツ語で、木下さんに訊いている。木下さんが首を傾げて通訳に返答をすると、通訳の顔がニヤニヤと愉快そうに歪んだ。

「あっ、どうしよう」

 通訳が不意に声を上げる。

「何かあったのか?」

 僕が尋ね返すと、通訳は切羽詰まった様子で言う。

「急用を思い出したんだ。俺は先にベルリンに戻ってる」

「急用って、何?」

「説明している時間がない。さらばだ、イタクラ」

 急用がどういったものか教えてくれずに、背を向けて通訳はホテルの方へ駆け出していった。

 通訳の姿が街角に見ななくなってからも呆気に取られていると、板倉さん? と後ろから透き通るような声で呼ばれた。

 振り返ると木下さんが、気遣いの目で僕を見ている。

「あの通訳の人。今日恋人とのデートの予定が入っているって言ったましたよ。あの急ぎようを見ると、外せない約束なんですねきっと」

「恋人?」

 はて、通訳に恋人がいたのか。それらしい女性の気配は見たことがないんだけど。

「大丈夫ですよ。ガイドの私が通訳も兼ねますから」

 意気込んで言って微笑んだ。

「お願いします」

 僕は彼女に深々と頭を下げた。

 話が通じないと取材は成立しないので、有難かった。


 取材の要旨を明かすと、木下さんはしっかりと頷いた後、少し喜色を浮かべた。

「取材にお誂え向きのワイン農家を知ってますよ。案内しましょうか?」

「お願いするよ」

 他愛もない歓談をしながら彼女の後に着いて、川を渡り、芝生に挟まれた坂道を上った。

 坂道を上り詰めると漆喰と木組みで出来た平屋の住宅が一棟、曇り空の下でぽつんと建っていた。

「この建物は?」

「ワイン農家の住んでいるお宅です」

 家の前で話す僕と木下さんの声が聞こえたのか、粗末な木板を継ぎ合わせたような造りの朱色のドアから、小柄で黒い顎髭を蓄えている日本人の男性が現れた。

 男性は僕と木下さんに目を注ぎ、

「電話をくれた、取材の方かな?」

 と髭をもぞもぞを動かして日本語で訊いてくる。

「はい。こちらの板倉さんがドイツのワインについて取材したいそうで、こちらまで案内してきました」

「うむ、了解した。まずは中に入ってくれ」

 俺と木下さんと手招きして、男性は家の中へ戻った。

 促されて敷居を跨ぐと、ワイン農業に携わる人らしい特別な器材や装置は見当たらず、漆喰の床にキッチンや食卓やベッドなどがあり、少々手狭な感じもするが、基本的に一般的な家庭空間と何ら違いはない。

「とりあえず一服するといい」

 男性はそう言うと、キッチンの下の棚からワインボトルを一本とワイングラスを取り出して、食卓にちょっと粗雑に置いた。

「うちで作られたワインだ。ぜひとも賞味してくれ」

 僕が返答するより前に、そう言って螺旋型の刺し込み針のソムリエナイフを使ってコルクを外しにかかる。あっという間にコルクは外され、グラスに深紫の醸造酒が注がれる。

 男性は僕の前にグラスを押し滑らした。中の液体が微かに揺れる。

「どうぞ」

「いただきます」

 思わず頭を下げてから、ワイングラスの細い部分のステムをつまんで唇に縁を当てる。小さく傾けると口内に緩やかに流れ込んできた。

 最初は渋みを舌に感じるが、グラスを立てて流入を止めると、徐々にほんのりとした甘みと酸味が広がっていく。

「美味しい」

 至極率直な感想が口を衝いて出た。

「でしょうよ。なんせ、自慢のワインだからな」

 男性は愛娘を褒められた父親みたいな声音を出す。

「それに俺のワインには、根底に日本の味が含まれてるからな」

「日本の味ですか?」

 僕は思い当たることがなく首を傾げて訊いた。

 男性が僕の表情に違和を覚えたように疑問符を浮かべる。

「うん? お前、うちのワインには日本の葡萄が入ってることを知ってて、取材に来たんじゃないのか?」

「日本の葡萄? いいえ、初耳です」

「なんだよ。てっきり誰かから伝え聞いてるもんだと思ったのによ」

 不服そうに鼻に皺を寄せる。

 失礼を働いたと思い、僕は慌てて詫びる。

「僕の勉強不足です。存じ上げなくて申し訳ありません」

「謝らないでくれ。お前が悪いんじゃないからな。俺のワイン作りの力量が至っていないだけの話だ」

 そう悔しさの滲んだ声で言った。

 失礼は働いていなかったとわかり、僕はゆっくりと顔を上げた。男性から自慢の色が消えていて、思い悩んだ顔つきと対面する。

「どうかされました?」

「まだまだ知名度がないんだな。俺のワインは……」

「いえ、そんなこと――」

「無理なお世辞はやめてくれ。悲しくなる」

「すみません」

 きつい口調で差し止められ、僕はすぐに謝った。

 お互いに言葉を接ぎ穂を逸して、室内に沈黙が降りる。

「板倉さん」

 薄いドア一枚隔てた部屋の中から、木下さんの声が聞こえ、僕は声の方に顔を向ける。

 ドアを開けて木下さんがダイニングルームに入ってくる。彼女の外見が大きく変わっている。さっきまで厚手のニットと足首まで垂れたフレアスカートだったのが、ゆったりとしたトレーナーとデニムズボン、その上に足まで覆うデニム生地のオーバーオールをしている。

「板倉さんも着替えてください。畑を案内させていただきます」

「え、木下さんがですか?」

「おかしいですか?」

「木下さんはガイドさんで、ここで働く農家さんではないですよね?」

「あっ、そうでした。言い忘れてました」

 うっかりしていた、という少し照れる笑みを浮かべ、

「私、その人の娘です」

 と言って、男性を指さした。

 男性は顎髭が崩れるかと思うほど深く頷く。

「このかの言ってることはホントだ。俺はこの農場を経営している木下雄司で、このかの実の父だ」

 僕は目を瞠って木下親子を見比べた。

 これが僕と木下農家との出会いだ。

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