ワイン農場の見学
僕もオーバーオールを着衣した後、木下親子に農場見学として随伴させていただくことになった。
平屋住宅の後ろに回ると、なだらかな斜面の上に整然とした幾つもの列になって、緑の葡萄畑が広がっている。
「この斜面、全部が葡萄畑ですか?」
僕は驚きとともに尋ねる。
雄司さんはそうだ、と頷く。
「今は収穫期を終えたばかりで寒々しい景色だが、繁忙期には何十人の人が集まって作業してんだ」
「その作業をする人達は、皆さん雇い人なんですか?」
「知り合いか知り合いの友人が多いな。とはいえ、ちゃんと賃金は払ってる。その分、ワイン造りの責任も少しばかり課してるがな」
「そうすると葡萄を収穫するのにも気が抜けませんね。不器用な僕には葡萄じゃなくても農業そのものを失敗しそうです」
「そんなことはない。俺も親父から畑を継いだばかりの頃は、虫害だとか植木の病気だとかで収入が二束三文にしかならず、借金まみれになったこともあったんだ」
「やはりご苦労されてるんですね。そういった被害と言うのは現在も?」
「今は気を遣ってるからな。ここ十年被害はなかった」
破顔して誇るような口調で言った。
木下さんがお父さん次行きましょ、と父親の腕をつついて促す。
そうだな、と娘に頷き返して、僕の方に顔を戻す。
「それじゃ板倉さん。次は収穫した後に葡萄が運ばれる場所へ案内しますよ。きっと驚く」
自慢するような顔つきで、雄司さんは斜面の右下隅の茶色の二階建ての建物を指さした。
雄司さん、木下さん、僕の順で斜面を建物を目指して降りる。
建物の外回りが詳しく見えるようになると、雄司さんは建物を再び指さして、僕の方に諷り向く。
「あれは収穫した葡萄を一時的に貯蔵しておく建物だ。うちで造られたワインを年代別に保管してもいる」
「へえ、すぐに潰さないんですね」
「潰す以降は従弟のグループが担当してるからな。俺は専ら葡萄の栽培と収穫が仕事だ。とはいっても新鮮な方がいいからな、収穫期には一日で二回も従妹のとこまでトラックで往復してるよ」
説明した後ははは、と陽気に笑った。
二階建ての建物の雄司さんを先頭に入り口を開けて入ると、僕の胸くらいの高さの木樽が二つ、入って左手のところに靴入れの棚のように自然と置かれている。
「その樽に収穫した葡萄を集め、決まった量に溜まったらトラックに載せて、工場まで運ぶんだ」
「樽には大体どれくらいの量が溜められるんですか?」
「100キロは超えてるかな。樽一つを二人掛かりで運んでるからな、大体そんなぐらいだろう。このか二人分だと思えばわかりやすい」
ヒヒ、と嫌らしい顔つき笑った。
恥ずかしいからやめてよお父さん、と木下さんが微かに顔を赤らめる。
土足のまま樽を通り過ぎ、奥へと進む。
「この先には何が?」
僕が尋ねると、木下親子は二人で目配せをする。
目線だけの打ち合わせの後、親子揃って身を翻して僕に身体を向け、厳しい面持ちで足を止めた。
雄司さんが口を開く。
「板倉さん。ここから先は不必要に動かないようにしてください。動いた拍子にボトルに当たったりして落ちて割れたりしたら、この世の最後の一本であるものが多い故に取り返しのつかないことになるからご注意願いたい」
「は、はい」
途端に緊張して、僕は声が上擦った気がする。
「よろしい。それじゃ進むぞ」
「安全のために横に並ばないようにして、私達に着いてきてください。木下農家の年代別のワインが保管してある場所に入ります」
木下さんの声までも厳粛で、今から自分が歴史ある年々の産物を拝見させてもらうと思うと身が引き絞まる。
無言で足を進めてすぐに、頑丈そうな水密扉のような鉄扉が道途を立ち塞がった。
雄司さんは扉に付いている円環を回してから、円環を掴んで引き寄せながら扉を開ける。かなり扉の形状は違ったが、小学生の頃に自衛隊の護衛母艦の中を、父親と共に見学した記憶が蘇った。
「この先だ」
雄司さんは先に入り、表情だけで後に着いてこいと僕に言う。
僕が扉を潜ると、後ろで木下さんが扉を閉める気配がする。
「板倉さん。あれがうちで造った初年度のワインだ」
長く奥へ続く部屋の右手の壁に、矩形に窪んだ鉄壁に象嵌のように透明のケースごとワインが嵌め込まれている。
「厳重に保管されてるんですね」
「数年前、保管場所にしていたここの倉庫が老朽化と安全性の配慮で改修をしたんだ。以前はもっと管理体制が緩くてな、親父の代の時に一回盗まれたことがあるって聞いたな」
「盗まれたワインは、その後どうなったんですか?」
「さあ、俺も盗難後のことは知らん。しかもよ、その時盗まれた年度のワインは、うちで造られた中でも最高のワインって誉れが高かった」
盗まれたワインの事を思い返すとじくじくと痛むものがあるのか、深い悔恨の籠った口調で漏らした。
「え、私、初めて聞いたよその話」
唐突に木下さんが虚を突かれたような声を出す。
「すまない、このか。時期が来たら話そうとは思っていたんだ」
「その時機、っていうのが今なの?」
疑わし気に木下さんは父親を訊ねる。
「実はな、これには理由があってだな……」
雄司さんは娘の耳に口を近づけ、僕の聞こえない声で何かこそこそと話している。
木下さんが驚いた様子で口を手で覆う。
「どうしたんですか?」
僕が訊くと、二人はそっくりな取り繕うような苦笑いを向けてきた。
「板倉さん、親子の間のつまらん話です。あなたに聞かせるようなことはない」
「お父さんの言う通り。それより板倉さん、他に見たい年度のワインはありますか?」
質問を煙に巻かれている感じがしたが、この時の僕は木下親子の取り繕うような笑みを気に留めなかった。
「それじゃあ、順々に見て回っていいですか。僕にはどの年のワインが凄いとか悪いとかな知らないので」
自分の勉強不足を恥じながら、僕は返事をした。
それからゆっくり二時間ほど、年度別のワインを一つ一つ見たり、ワイン農家親子によるワインの甲乙をつける成分基準などの解説を聞いたりした。
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