第二の邂逅

「私が十九歳の時です。

 故郷を離れ東京に出てきてまだ日の浅い下町工場の人夫でした。

 工場勤務が終わって、照明用の裸電球を切らしていた私は、帰り道を外れて電気屋へ足を運びました。

 他の場所にも電気屋はあったのかもしれませんが、当時の私は街に慣れておらず不案内でしたから、わざわざ寄り道したのです。

 電気屋が店先が見えだしてくると、店先に明らかに日本人でない西洋人が、電気屋の隣の居酒屋から乱暴に追い出されているところに出くわしました。

 背が高いなあ、と思いながら西洋人の横を通り過ぎようとすると、西洋人の背中に見覚えのある瓢箪のようなものが負ぶられていました。

「Ein Glas Bier trinken!(ビール一杯くらい飲ませてくれ!)」

 何を喚いているのか、さっぱり理解できませんでした。とりあえず背が大きいので恐いなあ、と感じたぐらいです。

 踵を返そうとした西洋人が、横を通り過ぎようとした私と身体が接触しました。

 私の方が背は低いはずなんですが、当たり方が悪かったのか西洋人は尻もちをついて倒れました。

「あっ、すいません」

 即座に私は謝りました。

 西洋人は私の顔を見て、強い驚愕を受けたように目を見開きました。

「Die Japaner damals(あの時の日本人)……マタアエタネ」

 私は彼が五年前に夜の境内で会ったグリジッドだとは、その時思いつきませんでした。

 彼の使っている言語が解せず返事できないでいる私に、グリジッドは尻にバネでも装着していうように飛び起きて、両手を大きく広げました。

「オボエテマスカ、リヒャルト・グリジッドデス」

「え、あの……」

 名乗られても私の記憶に彼の名前は蘇ってきませんでした。

 グリジッドの方はしきりに頷いて、再開の感慨にふけっています。

「オドロキデコエガデナイノモ、シカタナイデス」

 随分日本語が達者だなあ、と感心しながら彼を見ていました。

 その時、本来の目的を思い出しました。

「失礼します」

 頭を下げて隣の電気屋に爪先を転じると、私の肩をグリジッドが掴んできました。

「マッテホシイネ」

 私は顔を向けずに困惑しました。

 腕力を振りかざしてカツアゲされるんじゃないかと、歯の根が合わないほど身体が震えました。

「コワガルコトナイネ。ワタシドイツジン」

「えっ、ドイツ人?」

「ソウ」

 グリジッドは無害な微笑みを浮かべました。

 私は安堵して、彼に向き直りました。でも何を喋ればいいのか、わかりませんでした。

「キミ、コノヘンスンデル?」

「ええ、隣町です」

「ヨカッタ」

 何が良かったのだろう。私が訳を尋ねるより先に、彼の瞳が懇願する色に変じていました。

「タスケテホシイネ」

訴えるように言います。

「コンバンダケデイイカラ、キミノイエニトマラセテホシイネ」

「そんな急に言われても」

 当時私は工場長とその弟さんが住んでいる自宅に離れで下宿していたのです。

 オネガイネ、オネガイネ、と頼み込んできました。

「わかりました。とりあえず家に行きましょう」

 人助けだと思って母屋の工場長と交渉の上泊めてあげることに決め、私は彼を家まで案内しました。

 門扉を開けて広い庭に入ると、辺りを物珍しげに見回すグリジッドを連れて真っすぐ母屋に向かいました。

「工場長、いらっしゃいますか?」 

木戸の前で家主を呼ぶとガラガラと木戸が開き、常から辛気臭い表情の工場長が居間から降りてきて顔を覗かせました。

「なんだ、青坊か」

 青坊とは工場に勤めていた頃の私のあだ名です。瞳が青いので、と由来でした。

 突如工場長がギョッと細い目を大きく開けました。

「米国人!」

 工場長は戦時中に太平洋の島嶼で米軍と戦で血を塗り合った経験と記憶がありましたから、心内から消えてなくならない戦場での怯えを超克するように、私の背後のグリジッドを睨みつけました。

 工場長の鬼気迫る眼光に、グリジッドは及び腰になって訴える。

「ノーノ―、ワタシドイツジン。ワタシドイツジンネ」

「ドイツ、人だと」

 工場長は継ぐ言葉に詰まった。即断にも限度がある。

 視線が私の方に戻る。

「誰で、どういうわけだ?」

「一夜でいいから僕の住処に泊めて欲しい、とのことです」

「ほう、この男が」

 グリジッドに腹を探るような目を向ける。

 工場長の追及する目に背筋を正して、視線に応える。

「泊めてもよろしいでしょうか?」

「少し待て、この男が背負っているものはなんだ」

 グリジッドの背中側を指で示す。

「さあ?」

 私は肩をすくめました。

「シリタイネ?」

 グリジッドは自ら開陳したそうに微笑して顔を近づけてくる。

 私と工場長は頷いた。

「ワカッタ」

 グリジッドは了承して、そっと両肩から背負っているものを下ろした。金具が付いているところを見ると、どうやら何かのケースのようだ。

 ケースの金具を開かれると中身が姿を現した。栗毛色で左右がくびれた部分と、そこから弦を張り渡して細長く飛び出した黒い部分がある。

 工場長がケースの中身に目を凝らす。

「バイオリンか?」

「ノー、バイオリンジャナイネ」

「だそうだ、青坊お前これが何かわかるか?」

 考えるのを放棄して、私に別の解答を促す。

「僕も知りませんよ、音楽なんてこれっぽっちもやったことありませんから」

「ホントニワカラナイ?」

 グリジッドがしきりに首を捻る私と工場長に驚いた顔をしました。

 お手上げ状態でしたので、視線で解答を教えてくれるよう乞いました。

「コレハ、ヴィオラネ」

「うん、ビルマ?」

 工場長の脳内には、戦争が色濃く残っているらしい。

「ノー、ビルマジャナイネ。ヴィオラ」

「ヴィオラ。なんじゃそりゃ、青坊お前わかるか?」

 またしても私に答えを委ねる。

「知りませんよ」

 持ち主のグリジッドさんに訊けよ、と言い返したかったです。とはいえ曲がりなりにも上司でしたから、歯向かうわけにはゆきません。

「バイオリンノスコシオオキイヤツ」

 グリジッドが短く説明してくれる。

 ふむふむ、と工場長はおざなりに首を縦に振っている。

「それで、泊まるのか泊まらないのか?」

「トマラセテクダサイ、ワタシオカネナイネ」

「謝礼はいらん。泊まるなら青坊のボロイ離れじゃなくて、俺の母屋に泊めてやる」

「Oh, Vielen Dank!(おー、ありがとうございます!)」

 どういう意味を言っているのかわからないが、つい口慣れた言語が衝いて出たのだろう。でも感謝しているのは充分に伝わってきた。

 その後、私も工場長の家の夕食に混ざらせてもらいました。グリジッドさんは工場長の弟さんが供した料理に、これまた口慣れた言語で、Sehr lecker(とても美味しい)と度々感激していました。

 夕食が済んでからは、代わる代わる入浴して皆でグリジッドさんにあれこれ質問して時を過ごしました。

 工場長がいつの間にか就寝の仕度を整えて、グリジッドさんを呼び寄せました。

「どこで寝たい、グリジッド?」

「ミンナデザコネシタイネ」

「なんだ、ベッドじゃなくていいのか。まあ、もともとベッドなど無いんだがな」

 そう言って、工場長はガハハハと快活に笑う。すっかり打ち解けていました。

 客人の提案に沿って、私は上司とグリジッドと居間で雑魚寝して夜を越しました。

 朝を迎えると、工場長の鼓膜に痛い手拍子で目覚めました。

 グリジッドは「geräuschvoll!(うるさいね!)」と、耳を手で覆って布団の中で背を丸めました。

「何を怠けておるか。起床時間だ!」

 起きるまでやめんぞ、とばかりに工場長は叫ぶと、しつこく手拍子を打ち鳴らした。

「ヤメルネ、ヤメルネ」

 グリジッドはもはやダンゴ虫のように背を丸めて、耳に届く音を妨げようとする。

 さすがに可哀そうで見ていられなかったので、私は工場長を宥めにかかりました。

「こんな風にだらしがないから、ドイツは負けたんだよ」 

宥めたおかげで工場長は手拍子をやめたが、グリジッドが起きないことに顔を顰めて憤然と言い放つ。

 だらしないことが戦争の敗因なら、何故日本は負けたんだよ。と言質を取りたくなるのは、私だけではなかったでしょう。

 そんな一悶着もありましたが、朝食を食べてグリジッドさんが帰る時には、工場長は笑顔で門のところまで見送りに出ました。

 グリジッドさんは去り際になって思いついたように、携えている弦楽器をケースから取り出して、弾くための弓を片方の手に持って構えました。

「オレイニイッキョクヒク。ナニカヒイテホシイキョクアル?」

「ほう、なんでも弾けんのか?」

 工場長が嬉々として尋ねる。

 予想以上の期待の眼差しに、グリジッドはたじろいだ。そして急に傍から見ても明らかに気を落とした。項垂れて首を横に振る。

「弾けんのか?」

 呆れた顔で訊かれ、しょぼんと肯定する。

「なら仕方ねえ。お前の十八番を弾いてくれ」

「オハコ?」

 グリジッドさんは『十八番』の意味がわからないらしく、疑問符の浮かんだ表情になる。

「十八番っていうのは、一番得意な芸とか、そういう意味です」 

 私が説明を加えると、グリジッドは力強く頷きました。堂に入った動きで構え直しました。

 次の瞬間、彼の弾くヴィオラから清澄で嫋々な音色が奏出され、やがて音色は連なり楽曲としての形を成しいきました。風雅で魅惑的な音楽が私の耳朶を打ちました。

 私は彼の演奏に心打たれて、音楽に関心を持つようになりました」

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