第三の邂逅
「喉が渇きましたな」
長く話したからか喉の渇きを申告すると、老紳士は懐旧談を中断してその場を離れた。
カウンター内に備え付けてのグラスラックから人の拳が二つ嵌りそうな大きいジョッキ、マースを手に持つと、そのジョッキに樽のビールを注いで僕の席に戻ってきた。
ジョッキ本体だけでも一キログラムの重さになるものを、加えて縁ギリギリまでビールを注いである状態で軽々と持ち上げている。
「ドイツの飲料はビールに尽きますな」
「僕はドイツのワインも好きですよ」
正直な好みを述べる。
老紳士は頭を横に振った。
「ドイツのワインは取るに足りない飲み物じゃ。フランスに比べちゃ小僧の真似事と受け取られかねないですよ」
「いやいや、ドイツのワインも負けちゃいませんよ。ライン河方面では良質なワインが作られてますからね」
「ライン地方を出されると弱りますね。私は西ドイツに行ったことがないんです」
「そうなのですか。機会があれば行くといいですよ」
「そう言われるのなら、近いうちに足を運ばせていただきますか」
ライン地方のワインに老紳士は興味を持ったらしいが、だいぶ話頭が逸れたことに気が付いて、関係のない話をしていまいしたな、と苦笑して懐旧談の方に戻る。
「どこまで話しましたかな?」
「リヒャルト・グリジッドさんが、宿泊させてもらったお礼に曲を弾いて、あなたが演奏に感動したところです」
「それではここからが話の佳境、ということですな」
期待を抱かせるように含んだ口調で言うと、ビールを一喫してから回想の続きを始める。
「その日以来三十年間、グリジッドとは会っていませんでした。
当時の私は五十が間近に迫った年相応のおじんでしたが、趣味で音楽鑑賞をしていましたが、自分で演奏というようなことは腕に自信がなく試すこともせず避けていました。
ところがある日、音楽鑑賞の趣味で知り合った友人から、楽器演奏のレッスンを体験しないか、と誘われたのです。
私は変てこな音を友人に聞かれるのが嫌で遠慮したのですが、ペアじゃないと参加できないと口実を立てて頼み込んでくるので、結局断り切れず参加することに同意しました。
体験当日、友人に案内されて到着したのは、ありふれた雑居ビルの三階でした。三階と四階は期間契約で提供される空スペースでした。
三階の『楽器演奏レッスン』と素っ気ない黒文字だけのプリントが入り口のドアに貼り紙された部屋に入っていきました。演奏の腕をおだてて、素人目には良し悪しのわからないことを浸け込んで、ぼったくりな額で楽器を売りつける新しい悪徳商売なんじゃないか、と疑いたくなるくらい怪しいブースでした。
幸い私の懐疑のとおりにはならず、参加者は少人数でしたが何ら後ろ暗いところのない親切心に溢れたレッスン内容でした。体験だけならば参加費は無料でしたしね。
そのレッスンで、私はグリジッドと再会しました。
彼は数名いる講師の中の弦楽器を担当されていたのです。
受講するレッスンが楽器別に分かれており、選択した楽器で一つの班を作り、班ごとで担当講師に指導を受ける、という形式でした。
希望選択の前に講師の紹介がされていたので、私は旧交の思いに惹かれてヴィオラを、友人は楽器の類別が近しいヴァイオリンを選択し、程なくして楽器演奏体験が開講しました。
「ヴィオラの担当講師、リヒャルト・グリジッドと言います」
私以外にヴィオラ受講者はたったの二人で、皴の寄った顔の老人夫婦でした。
「皆さんには、選択されたヴィオラだけでなく演奏そのものの楽しさを味わっていただきたいです」
グリジッドは日本に長く滞在しているのか、私が知っている三十年前の彼とは段違いに日本語が上達していて、外国人によくある訛りがほぼ消えていました。
レッスンは週末の日曜に行われて、私と友人は意欲的に参加しました。月日がそぞろに過ぎていき、時に休講の日もありましたが、レッスンは四十回にもなり初レッスンから一年が警戒していました。
私と友人以外会費を払ってまで参加する人もいなくなっており、ある日講師陣全員(とはいっても三人でしたが)から、次回を持って閉講することに決まったと通達されました。
ついに閉講に至って、それから私とグリジッドは個人的な交友で時折片方が呼び出して会うようになりました。
私が五十五歳の誕生日を迎えて二か月、六月の終旬のことでした。当時、私は職場で閑職に回され無為な勤務を続ける傍ら、新設されたばかりのオペラ団体に所属して、グリジッドに教えてもらったヴィオラでオーケストラの一翼を担っていました。
「ヨシオ、君に相談がある」
その時、グリジッドは七十歳手前の高齢でした。硬い声音が聞こえると、彼が大病を患ったんじゃないかと不安になって呼び出しに応じました。
「演奏旅行をしたい」
彼の住まいから程近いカフェで落ち合うなり、そう告げられました。
思いも及ばぬ意思表示に、私は彼の老体を案じて、「当てもなく長旅をするのは身体に毒ですよ」と婉曲的に意思を変えるように伝えました。
グリジッドは諫める私に首を横に振りました。
「この演奏旅行は、私の生涯を締めるものだ。たとえヨシオに止められても、私はやる」
「ご自身の身体に気を遣った方が……」
「果たさなければならない演奏旅行です。ヨシオが心配することはありません」
これは頑なに断念しようとしないだろう、と思った私は気を変えさせるのをやめて提案をしました。
「どうしても行くと言うなら、私も連れてってください」
同行したいという提案はグリジッドには予想内だったみたいで、表情を動かさず私の顔を見つめました。
「Yosio.Danke shöen.(ヨシオ。ありがとう)」
「Bitte shöen(どういたしまして)」
以前グリジッドさんの頼みで、多少ですがドイツ語を勉強していましたので、合の手を返すだけは出来ました。
「少しはドイツ語が使えるようになりましたね」
「ええ、グリジッドのご教示のおかげです」
「私はドイツ語に関しては何一つ教えてないです」
「いえいえ。学ぶきっかけを作ってくれたんですから、ドイツ語に理解が持てたのもグリジッドのおかげだよ」
相談はいつの間にかよもやま話に移ってしまい、意図的か偶然か彼にお茶を濁された形になりました。茶話会でお茶を濁されてはかないません。
私の同行の諾否が有耶無耶のまま、グリジッドと別れました」
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