バイロイトで出会った混血の老紳士
ワーグナー曲を流す店主
日本にいる音楽好きの友人が高校時代、夢見る口調でこんなことを言っていた。
「ワーグナーって贅沢好きだったんだな。俺も音楽で一発当てて贅沢生活をしてみたいぜ」
なぜ今になって高校時代の友人の何気ない一言を思い出したのか。
それは現在僕がいる町に謂われがある。
日本の雑誌社からドイツのオペラについての記事を書いてほしい、と依頼されて、ドイツオペラを調べているうちにこのバイエルン州北部のバイロイトの町に行き着いた。
ここバイロイトは、世界的にも有名なバイロイト音楽祭が開かれるバイロイト祝祭歌劇場がある町だ。
バイロイト音楽祭は別名リヒャルト・ワーグナー音楽祭というらしいが、音楽には疎遠な学生だったから、ワーグナーと言われても名前ぐらいを知っていただけだ。音楽の国ドイツを取材元にしている記者としては、我ながら無知が情けないとつくづく思わされた。
だから今回の取材は日本に帰った時に、音楽で夢見ていた友人に自慢するつもりだ。日本に帰るのがいつになるのかは、目処も立っていないが。
街並みを楽しみながら夜のバイロイトをそぞろ歩きしていると、急な雨に見舞われた。
ブルゾンの肩を濡らして雨宿りできる場所を探すと、店が軒を並べる右手に小さなビヤホールが目についた。
一も二もなくそのビヤホールに駆け込んだ。
店内に入ると客はまばらで、どこかのオーディオから高校の卒業式で卒業生入場の際に流れていた、弦打楽器の音階を昇っていくような重奏が、店内に溶けこんで響いている。
僕はカウンターの正面のテーブルが空いていたので、そこに席を取った。
このビヤホールでは日本人の客が珍しいのか、まばらにいた客がこちらにちらちらと視線を向けてくる。
他の客の視線を気にしつつ店内をじっくり眺め渡した。
内装は凝ったところのなさそうな板張りで、中央の大木を伐り出してきたような逞しい角柱が天井を貫いている。
「お客様は、初めてですね?」
背後から突然声をかけられ、店内の各所に向けていた目を声の方に移す。
静謐な雰囲気を漂わせた老紳士だ。僕よりも多分背が高く、一瞬日本人だと思われたが、瞳が水色だ。目鼻立ちにも異国の血筋が見て取れる。おそらく混血なのだろう。
「ええ、初めてです」
僕が答えると、老紳士は微笑を浮かべる。
「初めてだとすれば、自己紹介させていただかねばなりません」
他の客の視線が一斉に老紳士に集まった。どの視線も温和で恩師に向けているようだ。
老紳士は片腕を腰に沿う形で当てて、深々礼をする。
「この店の経営者兼給仕を務めております、木村義男と申します」
「……ああ、初めまして。僕は日本の雑誌記者をしています。板倉朋音といいます」
老紳士の所作があまりにも謙譲なので、僕は戸惑って自己紹介を返すのが遅れた。
そんな僕の戸惑いも見越していたようで苦笑いされる。
「どなたもあなたのような驚いた反応をなさります。なのでこれ以降はどうぞ気楽に話しかけてください」
「は、はい」
老紳士本人はあくまで僕に敬意を払ってくれる。
相手が物腰低く接してきているのに、僕の方だけ礼を弁えないというのは、いささか無作法だ。
僕が無礼のないよう意識して次の言葉を考えているうちに、老紳士が口を開ける。
「不躾ではございましょうが、板倉さんは何故バイロイトに?」
「日本の雑誌の取材で、オペラを調べることになりまして」
「オペラですか、音楽雑誌でしょうかな?」
「いえ、他国の文化や風俗を中心に取り上げています。僕はそのうちのドイツ担当記者なのです」
へえ、と木村さんは感心した声を出す。
「それはさぞかし人気のありそうな雑誌ですな」
「売り上げはそう芳しくないようですが」
担当記者としては絶版になっては仕事が無くなると路頭に迷ってしまう。
昨今の日本国内経済を知らない様子で、木村さんはそういう時もありますよ、と励ましてくれた。今までそういう時しかなかった。
その刹那、店内で流れていた曲が切り替わった。
誰かが何かを追いかけるようなせわしい曲調だ。
「この曲は?」
「ワーグナーの『タンホイザー』序曲です」
「ワーグナー!」
その者の名前を耳にして、僕の取材魂が昂った。
この老紳士は、ドイツオペラについて詳しいかも知れない。
「あの、あなたにお聞きしてもよろしいですか?」
「はい、なんでしょうか?」
「オペラに御詳しいのでしたら、是非とも色々と教えてくれませんか」
老紳士は僕の真剣な頼み事に、微笑を浮かべる。
「確かにワーグナーの楽曲はほとんどが歌劇曲ですが、私は別段オペラに精通しているわけではありません」
「そうですか」
言下に貴方様の取材に協力できるほどの見識ではありませんので、と断られたのだ。
「しかし、音楽のことならば詰まらないですが身の上話があります」
「自身で詰まらないなんて言わないでください」
誰にも生涯ストーリーと言うようなものを持っているのだ。僕はドイツに来て、様々な生涯ストーリーを聞かせてもらった。
これまでに聞いた生涯ストーリーを思い返すと、遮二無二老紳士の身の上話がどんな話か関心を抱いた。
取材から外れた私的な行為だが、機を逃してはいけないような彼への興味に駆り立てられた。
「よろしければ、その身の上話を聞かせてください」
「本当に詰まらない単なる老人の回想ですぞ」
「構いません、ぜひお聞かせください」
老紳士は僕を真っすぐに見つめた。僕が真面目な気持ちで懇請しているのが伝わったのか、わかりましたと承知して頷く。
「あれは七十年前の夏のことです……」
老紳士は往時に思いを馳せ、滔々と語り始めた。
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