第五ラウンド 唐澤一徹

 愛朽竜也の辞書に「神頼み」という文字はない。ある日突然不思議な力がはたらいて自分を勝利に導いてくれる、という他力本願的な思考は小学校の頃に寛解している。

 この考え方は問題だらけだ。

 神に頼らない視線というものは、時折世界を恐ろしく残酷に見せた。

 唐澤一徹と自分の間に横たわる圧倒的な実力の溝を誰よりも正確に見通せていたのは他でもない愛朽竜也だったのである。

 パソコンやビデオ機材を用いた分析。トレーナーによる肉体改造。方々の格闘家による技術指導。それらを組み合わせて作られた愛朽竜也という格闘家。

 愛朽竜也の持ち得る技術、哲学、身体能力。その全てを客観的に踏まえて算出された結論。


「勝てない」


 現実は無慈悲だった。努力とは自分を成長させるものであって、勝利を約束するものではない。この現実は竜也の精神を不安の泥沼に引きずり込む。

 あのいじめっ子たちの幻影が頭に纏わりついて離れない。立ちはだかる敵の肉体をトラウマが借りて竜也に襲い掛かって来るかのようだ。

 怖い。

 怖いからこそ戦う。

 戦うのが怖い。

 竜也の人生を貫く矛盾の螺旋。

 今回もそうだった。


 試合の一週間前、トレーニングルームにはファイヤーストームのスタッフがミーティングのために集まっていた。

「明日までにセコンドの申請をしておかなくてはならない」

 車座の中心でそう言ったの株地だ。彼の顔からはいつもの快活な笑顔は消え失せていた。カイリをはじめとする他の面々も同じだ。ミーティングというよりは最後の晩餐のように陰気なものだった。

「カイリとアレクは確定だ。あと一人は、アレクの希望で桜義となった」

「お、俺っすか?」

 桜義はきょとんとして人差し指を自分の顔に向ける。

「おい、コイツは駄目だろ」「不適格」

 とその場にいたコーチが一斉にダメ出しを始めた。

「ちょ、みんな酷くないスか?」

 株地は浅いため息を一つついて

「陣原のデビュー戦の時、二ラウンド目の中盤に駆け込んできたのどこの誰だったか」

「いや、あれは、その」

 桜義は視線を泳がせる。

「でも途中からでも入れたからいいじゃないスか」

「そう言う問題じゃないですね」陣原の鋭い視線が桜義に向かう。

「セコンドに立つからにはしっかり責務を全うしてください」

 桜義はどうも陣原には強く出れないらしく、分かったよ、と弱気に肯定した。

 ペルセウスのセコンドをする場合は全員が研修を受け、ライセンスを取得する必要があるが、アルゴンの場合は研修を受けた者が一人いればあとは誰でもコーチング、アドバイスに限りセコンドになることが出来る。これはセコンドの参加障壁を和らげることで、未成年にも色々な経験をさせることが目的らしい。

 とにもかくにもセコンドのメンバーがカイリ、アレク、桜義で決定する。

 試合までに竜也は減量しなくてはならなず、この一ヵ月はそれなりの食事制限を強いられた。身体は塩分を取ると水分を温存するため太るらしく、減量は塩分の制限がメインとなる。こうした食生活の変化で竜也は「今から俺は戦うんだ」という自覚を深めていく。

 どういうわけか、今回は死刑を待つ囚人のように暗澹とした気持ちになったけど。


 試合が近づくにつれて練習は技術を高めるのではなく、技術を確認する作業になっていく。今まで覚えた技、そして試合中に起こりうるシチュエーションを想定したスパーリングなど、より実践的になる。竜也は緻密に設定されたタスクを着実にこなしていった。

 そして減量当日の日は容赦なく訪れる。

 減量の会場は都内のホテルの会議室を貸し切って行われた。いつもは選手しかいないロッカールームのような殺風景極まりない部屋で体重計に乗って終いだが、今回は青く燃え盛るアルゴンのエンブレムの描かれた旗の前で計量が行われる。メインイベントということもあってかかなり豪華な仕様だ。

 会場の様子を見てきたカイリは控室に戻るなり

「すごい記者の数です」

 竜也は「うげえ」と不味いものでも食ったように舌をだす。

「これも格闘家の仕事の一つです。何か当たり障りのないこと言っときゃいいんです」

「何も思いつかない」

 どうせ記者に対戦相手のことを聞かれるんだろうなと思っていると、スタッフの一人が控室に顔を出す。

「愛朽竜也選手、準備ができました」

「はーい」

 竜也は緊張感のない返事をしてえっちらおっちら会場に歩いていく。

 会場に入るなり、すごい量のフラッシュに竜也の視界が漂白される。竜也は目を細めて、体重計の前まで歩いていく。上半身の服を脱ぎ、体重計に乗った。

「65キロ。おっけーです」

 竜也は無表情のまま体重計を降りる。その後、エクスプロージョンジムのローブを羽織った唐澤が入場してきた。すると竜也が浴びた数倍ものフラッシュが煌々と閃いた。シャッターを切る音が耳にやかましい。

 唐澤は勢いよくローブを脱ぎ捨て体重計に乗ってポージングをした。

「66キロ。オッケーです」

「向かい合ってファイティングポーズお願いします」

 竜也は記者に言われるがまま唐澤と向かい合ってファイティングポーズをとった。勿論報道陣向けの演出である。もっと規模の大きな試合となればこれに記者会見が付くのだから格闘家という仕事も大変である。

「あの、唐澤選手、今のお気持ちを一言で」

 と当然ここが記者会見のような役割を果たすのだが。

「いつも通りです。試合に出て相手をぶっ倒す」

「愛朽選手、今の質問を聞いて何か一言」

 いきなり話をふられて竜也は一瞬焦った。しかし、大会でコメントを求められるのは初めてではなかったのですぐに頭がうまく回る。

「当たればいいんすけどね。拳が」

 まだオタクっ気の抜けきらない、少し気弱そうな青年が発した意外な言葉。そいつに一瞬会場がざわついた。

「もうすこし詳しくお聞かせください」

「く、口だけは一人前ですが俺の相手じゃないでしょう」

 今度の言葉で周囲が凍り付く。竜也はどちらかというと空気の読める人間だったので、記者が望む様な言葉を的確に選んでいた。この場合は「とにかく過激な発言をする」である。

「い、今の言葉を聞いて唐澤選手からは何かありますか?」

「餌が狼を前にして虚勢を張ってるだけだな。試合が始まれば食われる」

 記者の質問を待つのがまどろっこしかったので竜也は直で返答した。

「狼? 狼如きじゃ獅子に勝つことはできないよ」

「言ってろ。雑魚が」

 唐澤は獰猛な笑顔で竜也を挑発し返す。竜也は冷静に

「俺の鉄拳で血の海を渡らせてやる」

 竜也は唐澤とタイミングを見計らい、殴りかかる素振りを見せた。唐澤も拳を振り上げ、竜也に歩み寄る。それをカイリと相手のセコンドが大げさに止め、二人は互いの控室に連れていかれた。

「負けたら新聞にめちゃくちゃ書かれますよあれ」

 控室でカイリが溜息をつく。

「あれで少しでも怒ってくれたら勝つ確率が上がるんだけど、やっぱり冷静だったな」

 唐澤も完全にパフォーマンスと分かって乗ってきた。レスラーの娘たるカイリもそれは分かっていたが

「え、あれ芝居だったのか!?」

 と桜義だけは一人動揺を隠しもしなかった。


 計量が終わった後、体重を戻すため近所の飲食店に行った。取りあえず食いまくらなくてはならないのだが、食ベ物が喉を通らない。

 カイリや桜義の心配そうな視線が痛かったので、竜也は逃げるようにホテルに帰った。

 この日は実費で都内のホテルに泊まり、明日の試合を待つ。当然だが、一人ベッドに入っても眠れない。竜也はスウェットにパーカーを羽織り、部屋を出た。

 時計の針は十時を回り、開いているのは最上階のラウンジだけだ。ラウンジの窓際の席で、夜景を眺めながらホットミルクをすする。夜景と言ってもそれほど背の高いホテルではないので、コンクリートジャングルの間を走る車くらいしか見るものは無い。

 竜也は自分の拳に視線を落とした。

 ランドセルを学校の窓から捨てられ、殴られ、上靴を隠され、そしてまた殴られ、あの時にぶつけるはずだった拳がそこにある。この拳は殴る相手を失い、自分より遥かに強い相手にぶつかろうとしている。

「滑稽な話だよな」

 竜也は自嘲する。いじめられっ子がかつてのトラウマのせいでより過酷な修羅場に飛び込もうとしているのだ。だとしても竜也は戦うしかなかった。心に無限に沸いてくる劣等感を鎮めるには、闘うしかないのだ。

 竜也は目を閉じ、自分の額に握りしめた拳を当てる。

 瞼の裏に、いじめっ子の顔が描かれ、それが折り重なって唐澤の顔になる。

 誰にも聞かれないよう、竜也は声を発した。

「……怖ぇ」


 薄雲を透かして降り注ぐ朝日が町を薄い血の色に染めた。竜也は予定よりも一時間早く、ホテルのチェックアウトを済ませて会場に向かう。鋭い寒さがダウンジャケットの間に入り込んで竜也の皮膚を這いまわる。竜也は目を細め、小さく歯ぎしりをした。

 会場は都内の総合体育館で、いつもやる会場よりも二回りほど規模が大きい。観客も数千人は収容できるだろう。

 竜也は会場入りして大人数で設営される金網のリングを一人離れた場所から眺めていた。スタッフたちはそこかしこで入念に打ち合わせをしている。映像機器や音響設備などの調整も行われていた。それを見学するにしてもどうも居場所がない感じがする。仕方ないので竜也は控室に移動した。

 控室は西と東の大部屋に分かれていて、竜也の西の控室には数人のスタッフ以外には誰もいない。竜也は一人で何もせず部屋の隅で蹲っていた。

「大丈夫か」

 最初に声をかけたのは

「アレク?」

 膝に埋めていた顔を上げると革ジャンを着たアレクが立っている。アレクも随分と早い入りだった。アレクは竜也の横に腰を下ろした。

「不安か」

「ええ。試合中のパフォーマンスに影響しないとは思いますが」

「頼もしいな」

「アレクは、何故ここに?」

「胸の裏を掻きむしるようなストレスにお前が悩まされているだろう、と思ってな」

「それ、当たりです」

 竜也は力なく笑った。

「アレクもそうだったんですか?」

「ああ」

 とアレクは答える。

「特に若い頃は試合の度に思ったよ。何故神は毎日教会に行ってる俺をこんなに苦しめるんだってな」

「そういう時、プロテスタントはなんて考えるんです?」

「人によるな。信仰心が足りないと思う奴もいるし、イエス様に失望する奴もたまにいる」

「アレクは?」

「当時はこれは神が俺に与えた試練だと考えていた。この試練を乗り越えなければ救済はいのだとな。アウグスティヌス的発想ってやつだ」

 このキリシタンの救済という考え方は竜也には少し難しかった。

「信仰の良い所はどうしようもない時にも救いを与えてくれることだ。人が本当に窮地に陥った時、信じる者があればそれは力になる」

「アジア人の俺にも分かりますかね」

「分かるさ」

 アレクは竜也の肩をポンと叩いた。

「下馬評を覆すには強固な意志がいる。相手の雰囲気には呑まれるなよ」

 そう言うとアレクは立ち上がり、「時間を潰してくる」と言ってどこかに立ち去った。

 チャンピオンを逃した彼なりのアドバイスだったのだろうか。

 信じる者が何か分からなくても、彼の背中はアレクにとって頼もしく見えた。

 

 意外にもカイリが到着したのは予定時刻を二分ほど過ぎたあたりだった。カイリは少しやつれていて、普段はあまりしない化粧を少し厚めにしていた。妹のイオ曰く、昨日から顔色はかなり悪かったそうだ。

 オープニングセレモニーは滞りなく終わり、他の選手と一緒に大部屋で試合を待つだけとなった。竜也は決められた量の糖分を摂取し、ボクサーパンツに着替え、その上からシャツとウィンドブレイカーを羽織る。バンテージを巻くタイミング等は全てアレクが指示することとなっていた。

 控室の空気は異常なまでに重苦しい。ある女子格闘家はぶつぶつと何かをぼやきながら壁を殴り、ある男性格闘家は気を紛らわせるために絶え間なくコーチと会話をする。何人かは笑顔を浮かべているが無理をして表情を作っているのがバレバレだった。

 廊下の外で足跡が聞こえると、皆の視線が一斉にそちらへ向く。扉が開くと選手全員が肩を竦め、名前を呼ばれた格闘家がまるで三途の川を渡るように暗い面持ちで退出する。試合後の控室は別になっているため、彼らは二度と戻ってくることは無かった。

 そして彼らが出ていった数分後にスタッフがスマートフォンを見乍ら

「ミナカタ選手、判定勝ちです」

 などと淡々と結果を報告する。変に緊張するからやめてほしいと思ってたのは竜也だけではないだろう。というか試合会場の様子を映したテレビでも置けばいいのに。

 そんな中

「君、いくつ?」

 三十歳くらいの大人の格闘家だった。さっきから竜也の周りをうろうろと歩き回っているから気にはなっていた。

「え、十六です」

「へえ。偉いね。僕はウジヤママモル」

「あ、はい。愛朽竜也です」

 マモルは弱弱しい笑顔を浮かべた。

「若いっていいね」

「はぁ」

「僕は、もう今年で三二歳。なかなか、格闘家として芽が出てなくて」

 マモルは浪人生のように覇気のない眼をしていた。

「今日勝てないと引退しようと思うんだ」

「引退、ですか」

「親に孫の顔も見せてやりたいし、いつまでも格闘技ばかりやっているわけにはいかないからね。だから、僕はこの試合に全てを注ぎ込んできた」

 キッとマモルの目が飢えた獣のように鋭くなる。

「勝つ。それも完璧な形で」

 燃えるような闘志、とはこのことだった。三二歳の男が熱く拳を握りしめている。

「君、唐澤と戦うんだろ?」

「はい」

「昨日の記者会見見たよ。そんなに若いのにあんな奴と戦おうとする君を見て僕は力をもらったんだ」

 竜也の胸にも熱いものがこみ上げてくる。

「が、頑張ってください。おれ応援してます」

「うん。ともにアンダードック同士、世間に目に物を見せてやろう!」

 丁度その時「ウジヤママモルさん、入場の準備をお願いします」と声がかかる。

「じゃあ、先に行ってくる」

 竜也は力強く頷いた。最初は弱弱しく見えたマモルの背中は、飛び立つ鷹の様に頼もしく見えた。自分の存在が誰かの力になることもあるのか、と竜也は嬉しく思う。

 マモルが退出して十分後、会場の方で大きな歓声が上がるのが聞こえた。

 控室にいたスタッフがスマートフォンを見て一言、

「ウジヤマ選手、一ラウンドKO負けです」


 ウジヤマはスポーツとはかくも残酷な世界であるとその身を持って竜也に教えてくれた。

 彼が「三途の川」を渡って一時間後、ついに竜也の前の選手が退出した。すでに竜也はバンテージを巻き終え、その上にオープンフィンガーグローブを装着している。どうしても、心臓は高鳴るのをやめないので竜也は緊張を抑えることを止めた。

 前の選手は一ラウンドでKO負けを喫した。

 暫くすると、廊下から足音が近づいてくる。

 心臓はのたうつように高鳴った。

 足音が止まる。

 己が心臓の拍動が耳に聞こえる。

 扉は音を立て、ゆっくりと開く。

 会場の熱気を含んだ生暖かい空気が顔にかかった。

 死刑宣告を待つ囚人の様に全てを覚悟し、竜也は前を向いた。

「愛朽選手、そろそろ準備お願いします」

 ぞわ。全身の毛穴が開くのが分かった。それは緊張というよりはむしろ戦慄だった。

 幾千の思いを込めて竜也は口を開いた。

「はい」

 冷たいリノリウムの廊下を歩いていく。歓声と熱気が大きくなるにつれ、竜也の五臓六腑が蠕動する。そんな竜也の背中をさすったのはカイリだった。

 カイリもまた、もう片方の手で拳を握りしめている。

「ここでお待ちください」

 スタッフの指示に従い竜也は足を止める。暫くすると、会場のほうからリングアナウンスのコールが聞こえてくる。滔々とした語りで、想像していたものよりも幾分か落ち着いた声だ。

『西、愛朽選手の入場です』

「入場してください! 頑張って!」

 スタッフが叫ぶと、竜也は重い足取りでゴルゴダの華道を歩いて行った。体育館は満員で、観客の喧騒が土石流のように竜也の身体を飲み込んだ。スタッフが用意した入場曲が殆ど竜也の耳に届かない。聞こえてくるのは近い所にいた観客の声。

「てめえ、ガキのくせにいい度胸じゃねえか!」「頑張れ!」「判定になったら褒めてやる!」「生きて帰ってこいよ!」「いっそ殺されちまえ!」

 時折聞こえる辛辣な声がいちいち肩に重い。

「すっかりヒールだな」

「そりゃあんだけ挑発すればそうなりますよ」

「弱者は身の程を弁えろってことか」

 竜也は階段の下でシャツを脱ぎ、ボクサーパンツとファウルカップだけの身軽な姿になる。顔にワセリンを塗布された後、金網の中への扉が開かれる。竜也は一歩、また一歩と階段を上り、金網の中に入った。竜也はリングの中央で拳を掲げた。拍手はまばらだった。竜也は当たりを見渡す。レフェリー以外には誰もいない。

 続いて唐澤の名前がコールされると、大歓声が上がって竜也は肩を竦めた。音の暴力に竜也の総身が震える。声の大渦の中、唐澤がセコンドを引きつれ入場してくる。会場のビジョンには相手を射殺す様な鋭い眼光が映っていた。その先にあるのはもちろん愛朽竜也だ。

 いつしか歓声は一徹コールに変わり、それに後押しされるように唐澤がリングに入って来る。唐澤は金網の中を一周回った後、拳を高々と掲げた。

 拍手と声援の波濤が空間を揺るがし、会場全体が震撼する。ここの会場にいる人間は、皆唐澤がKOするのを見に来たのだ。

 誰を? 

 そんなの決っている。ここにいる数千人の客は、竜也が大の字に倒れる姿が見たいのだ。

「呑まれるなよ」

 アレクが金網越しに声をかける。竜也はそれを耳に入れただけで言葉は返せなかった。

 二人がリングインして向かい合うと、リングアナウンサーが竜也の名前をコールした。

 まばらな拍手と小さな「がんばれよー」という声がきこえただけ。

『東、身長172センチ、65キロ、エクスプロージョンジム所属、唐澤一徹』

 静まり返っていた会場が再び沸騰した。野太い男の声援、黄色い女性の声援、老若男女の格闘ファンの期待がすべて唐澤に注がれている。圧倒的な実力を兼ね備えたカリスマ。それにメディアの露出が加わった人気たるや、竜也の想像をはるかに超えている。

 二人は中央に歩み寄り、レフェリーの説明を聞いた後、元のコーナーに戻る。

 竜也は会場の照明をなんとなく見上げた。額に熱を感じるほどの明るい照明が会場に降り注いでいる。

「あー、もう逃げられないんだなぁ」

 竜也はふと、そんなことを考える。少しだけ間があった。竜也は目を閉じ、肩の力をふっと抜いて、外部の音を遮断した。雑音が消え失せ、竜也の身体が臨戦態勢に入る。

 ――怖いけど、闘えないわけじゃない。

 竜也は前を向いた。向こうのコーナーから唐澤が今にも飛び掛かってきそうな前かがみの姿勢から眼光をギラつかせている。彼を抑える鎖がいま、引きちぎられようとしていた。

 レフェリーはゆっくりと両手を広げ、息を大きく吸った。その一秒後、両手を交差させる。

「ファイッ!」

 二人は鎖から解き放たれた。凄まじい声援に後を押され、唐澤がにじり寄って来る。そして竜也も前に出る。まるで磁力でも生じているかのように、二人は一瞬で間合いを詰めた。

 ――仕掛ける

 竜也はさらにステップで距離を詰め、唐澤の顔面に前腕を当てた。

「おい、肘だぞ!」

 相手側のセコンド抗議をするがレフェリーは取り合わない。肘打ちは反則だが前腕を当てるのはルール上問題ない。 

「チッ」

 唐澤の呼吸と動きが乱れた。竜也はさらに前に出る。

 ――傷口を広げる

 竜也は交代する唐澤を前に、後ろ足を強く蹴って間合いに突入した。

「な――」

 空手仕込みの一足飛びで間合いに入った竜也は大振りのフックを唐澤のガードの上に叩き込む。左のフック。その後、右のストレート。あえてセオリーから逸脱したコンビネーション。

 右ストレートの後、すぐさま唐澤の右フックが帰ってきた。竜也は素早く左のガードを上げて防御――

「っ」

 唐澤の放ったフックが竜也の上腕を叩いた。骨が軋み、痛覚のパルスが腕全体に広がって痺れを持つ。

 鋭い。まるで刃物で突き刺したような凶悪な打撃だ。だが

 ――恐れるもんか

 竜也はステップインしてジャブを放ち、右に回り込んだ。その位置取りは慣れているとばかりに唐澤は完全にタイミングを合わせて左のジャブで迎撃してくる。竜也はそれを捌いて、ジャブを撃ち返し、距離が離れるとミドルキックを放った。だが唐澤はすでに間合いをはなれていて蹴りは空振りに終わる。

 ファーストコンタクトは互いに有効打無しで終わった。

 カイリの読み通り、唐澤は優れたディフェンス技術を持っている。意表をつく一撃を入れて相手のペースを崩す。それが竜也の建てたプランだが見事に対応された。唐澤は冷静に、竜也を狩るための位置取りを開始する。

 唐澤は竜也のやや左に回りながらジャブを放ち外堀を固めていく。鋭い拳の横時雨が竜也を襲う。唐澤のジャブは肩が動いたと思えば既に顔の前にある。もし、カイリが須磨との練習を提案してなければ、今頃竜也の顔は血まみれだっただろう。

 ――外から攻撃して間合いを測るつもりか。ならば

「シッ」

 破裂音が場内に轟いた。唐澤の動きが止まり、瞼を細めて竜也を見やった。その太ももは少し赤みを帯びている。

 破裂音の正体は竜也の繰り出したローキックだった。相手の足を蹴るこの技は、一見地味に見えても侮れない。何故ならダメージが蓄積すれば機動力が落ち、尚且つ踏み込みの力が弱体化して攻撃力まで落ちる。そしてこの攻撃の利点はもう一つある。

 竜也は執拗に唐澤の前足を蹴り続けた。攻めてこればガードを固めて距離をとる。竜也やジャブの牽制を上手く使い、唐澤を固めてローを重ねていく。

 倒しきるのではない。倒すために、相手を削る。

「糞が、」

 唐澤の動きは完全に封じた。唐澤の反撃を竜也の巧みなディフェンスと勘が退ける。序盤の一分は完全に竜也がペースを握った。


 ……唐澤の足が痛みと熱を持つ。唐澤は内心で苦虫をかみつぶす。

 唐澤は昔からローキックをあまり蹴られ慣れていない。というよりここまで徹底したローキック攻めを経験していないからだ。ローキック自体は空手で何度もやられているが、竜也のようにジャブとのコンビネーションで打ってくる相手は殆どいなかった。

 ――こいつは、やっぱり侮れない相手だ。けど、自分から引き込んどいて負けるのは最高にだせえよな。

 唐澤は、試合が決まった時から今まで竜也を侮ったことは一度も無い。獰猛な狂犬の面の下ではいつでは冷徹な殺戮マシーンが牙を研いでいる。

 だから、唐澤には二の矢、三の矢があった。


 竜也の目の前で唐澤の身体が沈んだ。それは丁度ローキックを放った直後のことだった。

 竜也の心の中に浮かんだのは「やられた」ではなく「ついに来たか!」である。竜也の身体が浮遊感を覚える。唐澤の身体は一本の槍の様に、竜也の足に組みついていた。

 ローキックを狙いすましたタックル。

 打撃に拘る唐澤がこの手を打ってくるかどうかは分からなかった。だが予想はしていた。

 竜也は素早く足で唐澤の身体を挟み、クローズドガードのポジションに移行し、唐澤の頭を手で抱えた。

「この動き、察していたか! キレる! 貴様はキレるぞ!」

 唐澤は自分の頭と竜也の手の間に自分の腕をねじ入れ背筋と腕の力を使って腕を振りほどく。唐澤の上半身と竜也の上半身が離れた。

 二人の身体に距離が生まれるのは竜也にとっては最悪を意味する。

 ――やべ

 唐澤の拳が顔面に落ちてきた。ぐしゃ。と肉が潰れたような音がした。痛みはない。あるのは眼底が脳を圧する衝撃だ。

 パウンド。

 寝ころんだ相手を殴る技術。パウンドはその威力もさることながら、別の効果を受ける側にもたらす。

 それは恐怖である。

 竜也を見下ろす唐澤は黒い摩天楼のように見えた。悪夢の塔からは隕石の様に拳が降り注ぐ。隕石と違うのは、竜也の顔面を目がけて降って来るところだ。

 ――恐れに負けるな、やることをやれ

 竜也は降って来るパウンドを腕で内から外に受け流す。そして隙を見て唐澤の身体に組みついた。膝を立て、強引に立ち上がろうとする。

「逃げるなよ、もうちょっと遊ぼうぜ」

 逃げる竜也の足を再び抱え込み、金網に押し当てるように押し倒す。

 立ち上がる技術。

 それはカレッジレスリングから受け継がれる総合格闘技必須の技術である。それは逆に相手を「立ち上がらせない技術」があることを意味していた。

「打撃馬鹿は寝技が出来ないとでも思ったか?」

 ――口数の減らない奴め!

 唐澤は竜也の右手を掴み、尻の付け根に横から膝を押し込み、竜也を金網に漬け込んだ。     

 身体を支える腕を封じられ、立ち上がるための足もコントロールされている。しかも、

「おらよ」

 竜也の顔面が大きくのけ反った。唐澤のパウンドが竜也の顔面に相次いでヒットする。

 ――糞が!

 竜也は素早く身体を反転させ唐澤に背を向ける。それが悪手と知りながら。

 竜也の背後に唐澤が組みついた。するりと蛇のように唐澤の腕が回って来る。

「貴様の意識、もらってくぞ」

 竜也が察した時にはもう、唐澤の腕の仕掛けは終わっていた。唐澤の腕が喉を締め上げる。 

 観客は一斉に声を上げた。それは彼らの望んだ勝利が近い事を意味する。

 竜也の腕は完全に首の防御を怠っていた。竜也の赤くなった顔が天を向き、照明の眩い光が目の底まで流れ込んでくる。

 ――まだ、俺は、負けない。

「いいぞ!」

 そう叫んだのはアレクだ。この寝技の達人は竜也が人知れず防御をしていたことに気付いている。竜也の左手。それが唐澤の左足を制していた。

 裸締め。即ちチョークスリーパーとは背後から相手の首を絞め、相手の身体の前で足を組んで完成となる。つまり、相手の足が自分の身体の前に回って無ければまだ逃げるチャンスはある。

 竜也は首が締まりきるまえに、錐を揉み込むように身体を左方向に捩った。強引にクラッチを振りほどき、頭を抜いて立ち上がる。

「オォ!」「アイツあそこから立ちやがったぞ」

 寝技のディフェンスなら何度もやった。これくらいは凌いで見せる。竜也は前を向いて唐澤と向かい合う。

 なおも闘志を失わない竜也の顔面。

 それを、唐澤のストレートが綺麗に射抜いた。

 相手の間合を図る距離感。その、一度設定した距離感が壊れるケースはいくつかある。その一つが、寝技の攻防が終わって立ち上がった直後だ。

 完全に竜也は不意を突かれた。寝技から逃れることに精いっぱいで唐澤の打撃への警戒心が薄れていた。

 ――やるじゃねえか

 だが致命傷じゃない。続く左のハイキックをブロックし、ステップを踏んで距離の調整を図る。その間にレフェリーが割って入った。一ラウンドが終わったのだ。

 竜也は肩で息をし、鼻から流れた血をグローブで拭って自分のコーナーに引き返す。

 この時点で、唐澤の建てた処刑プランに竜也は気付いていなかった。


「惜しかったな」

 唐澤のセコンド、松田が唐澤に声をかける。

「無いな。アイツは俺がバックに着くことを予想して動いてやがった」

 練習した動作、というものは意外と相手にも伝わるものだ。ガードの早さといい、相手の愛朽竜也は唐澤対策をしっかり練り上げてきている。

「プランは実行できそうか?」

 唐澤は水を飲み、それをバケツに吐き出してから

「ああ。問題ない。ちゃんと、俺達の思惑通りに事は運んでる」


「よくしのぎました」

 カイリの力強い言葉が竜也を待っていた。扉を開け、椅子を用意し、アレクが素早く打たれた箇所に氷のジェルが入ったビニール袋を当てアイシングを施した。

「凄いな隙がない。思考時間が0.5秒ってのはマジみたいだ」

 マウスピースをバケツに吐き出し、竜也は大きく息を吸う。身体が酸素を欲しているのが良く分かる。皮膚は遠に痛みを失い、身体の表皮を熱が覆っているような感覚だけがあった。

「ローキックは引き続き打ちましょう」

 竜也はカイリの方を向いた。

「正気か?」

「ええ。ただし今までのように連打はいけません。遠くから牽制のつもりで時折入れつつ、ジャブとローで距離をとって相手が飛び込んで来たら防御してカウンターを狙っていってください」

「つまり自分から積極的には攻めるなと」

「打ち合いは唐澤の土俵ですから付き合う必要はありません」

 カイリは客観的かつ冷静に自分の意見を述べていた。竜也はいわば最善策を示される形でカイリの意見を受け入れる。戦略における二人の役割分担。試合前の戦略は竜也、試合中の戦略はカイリの方に権限があると二人で決めていた。

「お前がそう言うのなら」

 竜也は立ち上がる。

「行ってくる」

 竜也は立ち上がり、背後で金網のドアが絞められる。また竜也の目の前には唐澤が立っている。竜也は地獄の窯の底で鬼と向かい合っている、そんな気分になった。

 何故、この男が大物を喰らってきたか、竜也は分かり始めていた。唐澤という男の厚みは想像以上なのだ。頭はずっと賢く、打撃は予想していたよりも強く早く、そしてその背後で彼を支えるスタッフは非常に優秀である。あれは獣というよりも、複数の人間によってつくられたバトルマシーンだ。そんな相手に、製造されて間もない張りぼてのロボットが立ち向かおうとしている。

 ――呑まれるなよ?

「ああ」

 竜也は誰にするでもなく返答した。


「ラウンド2、ファイト!」

  

 竜也は相手の間合に入ったと思った瞬間、いきなり唐澤の太ももを強く蹴った。

 ――お前のタックルなど恐れていない

 その布告を脛に乗せて唐澤の太ももに叩き付ける。唐澤は少し身体を固くして竜也を睨む。

 唐澤は、序盤は様子見とばかりに攻撃をしてきたが、竜也はそれを凌ぎ切った。

 ローキックを完全に捨てなかったことで、唐澤の攻撃にはまだ躊躇がある。竜也は唐澤の攻撃を最初の内はなんとかしのいでいた。そう、最初の内は。

 戦況に変化が生じたのは2ラウンドが始まって一分が過ぎた頃だった。

 竜也が隙を見てローキックを放った瞬間だった。唐澤の伸びのあるパンチが竜也の顔面目がけて投擲されたのだ。拳は風を切り裂き大きな弧を描いて竜也の蟀谷目がけて飛んでくる。

 ――ヤバイ、これは、死ぬ

 肉が肉を叩く重い音がした。じん、と手がしびれ、竜也は僅かにバランスを崩す。竜也の左手が辛うじて防御に間に合っていた。

 ――ロシアンフックか

 こんな奇策も使えたのか。竜也は試にジャブからキックのコンビネーションを使おうとするが、ジャブをいなされ、またキックにパンチを返される。

 竜也は悟る。

 コンビネーションの癖とタイミングを読まれている。これ以上使えば、確実にカウンターをもらうだろう。

 竜也の目の前で獰猛な悪魔が笑みもせず近づいてくる。「お前のローキックは完全に死んだ。さぁ、次はどうする」そう言っているかのようだ。

 竜也は自分から攻めにはいかず、「待ち」を選ぶ。草陰で伏せる虎のように、相手が攻めてくるのを待つ。当てた数はこちらの方が多い。無理に攻める必要はない。

 竜也は隙の少ないジャブをばらまきながら、唐澤をけん制する。唐澤はジャブを捌きながら、竜也の間合の外から少しずつにじり寄って来る。

 嫌な相手だ。

 唐澤は周囲の人間が不思議に思うほど、慎重に攻める。それは、大方の人間が予想したように、赤い嵐の前触れだった。

 2ラウンド二分一八秒。唐澤が動いた。

 唐澤は突然ガードを固めて間合いにぐっと近づいて来た。竜也はガードの上にジャブを撒きつつ、ステップで距離を取る。だがなおも唐澤は接近してくる。

 ――急にどうした。何故攻撃しない

 なおも近づく唐澤。竜也はその突進をジャブでとめつつ距離を取ろうとした。

 ふと、竜也の頭にデジャヴのような既視感が過った。竜也と唐澤の間に空いた、パンチが届くか届かないかの絶妙な距離感。竜也の放った左のジャブ。唐澤の右足を踏み込むフォーム。そして竜也の腹に迫りくる左の脛。これは……

 ――ミドルキック

 ガードを上げすぎた距離の設定を間違った相手の蹴りに無警戒過ぎた

 脳裏に浮かんだ無数の後悔は、次の瞬間、苦痛に塗りつぶされた。

 唐澤のミドルキックが竜也の腹を横殴りにする。

 真鍮のこん棒で殴られたようだった。臓器を貫き骨揺るがす鈍痛が思考を無にする。だが思考はすぐさま戻ってきた。竜也は反射的に右のストレートを返した。

「チッ」

 唐澤は舌打ちを交えて右のストレートをヘッドスリップでいなすと間合いに深く侵入してきた。至近距離で向かい合う二人。竜也の右脇腹にボディブローが突き刺さる。

 竜也は唐澤に密着して投げようとしたが、先に脇を制された。竜也は身体が浮いたように錯覚した。バランスが崩れ、竜也は投げ飛ばされた。

 ――読まれていた!

 だが、唐澤からの追い打ちはない。唐澤は王の様に竜也を睥睨して佇んでいる。

「立て。お前の棺桶が出来上がった」

 竜也はその場に立ち上がり、唐澤と向かい合う。唐澤は落ち着いてその身体のどこにも緊張が生じていない。その双眸から放たれる鋭い殺気はまさしく冷徹な殺戮マシーンを思わせた。

「貴様の血文字で勝利の凱歌を綴ろう」

 唐澤の踏み出した一歩に音は無い。三歩目で構えを作り、後はすり足で近づいてくる。巨大な壁が近づいてくる来るようなプレッシャーに竜也は襲われた。それは唐澤が一切の手加減と様子見を捨てて襲い掛かって来る、前触れだと竜也は思った。そして、それは事実だった。

 唐澤の左ジャブが竜也の顔を襲う。稲妻のように鋭いジャブが二度三度と飛んでくる。竜也はそれを死にもの狂いでいなしながら反撃の機を窺った。四発目のジャブに右手が反応する。パーリングで弾こうとしたその腕の下を、唐澤のパンチが潜り抜けていった。

 ――フェイント!?

 重いボディブローが竜也の腹を抉った。腹部に穴が開いたのかと思うほどの衝撃だった。肺の空気が全て吐き尽され、アドレナリンの防壁を突き破った鈍痛があらゆる思考を蹂躙する。この世の地獄を集めたような苦しみだった。

 これが拷問の序章。

 悶絶する竜也の顔面を唐澤の右ストレートが打ち抜いた。意識が一瞬飛んだ。だが、致命傷じゃない。竜也はすぐさまガードを戻し、足を動かし距離をとる。唐澤は間髪入れず距離を詰めた。竜也の左に素早く移動するとジャブ、ストレート、ハイキックと連撃をこれでもかと浴びせて来る。防御した腕の骨まで響く強烈な蹴りだ。

 ――これを貰い続けるのはマズイ

 相手の疲労を見て反撃して流れを引き戻すしかない。

 そんな竜也の予想は見事に裏切られた。唐澤の回転力がさらに上がったのである。 

 拳、蹴り、拳。拳、拳、蹴り。数多のコンビネーションが丁度間合いの円周上から爆撃のように降り注ぐ。颯と化した鬼はガードだろうがなんだろうがお構いない。

 思考猶予0.5秒と言われる極真打撃の真髄が竜也に牙をむく。

 パンチと蹴りのスコールは竜也の卓越した防御技術を徐々に、徐々に機能不全に追い込んでいく。まるでダムに亀裂が走るように、竜也の顔が一度、二度ととのけ反り始め、鋭く早い攻撃が腹や蟀谷に刺さり始める。防御に生じた亀裂は少しずつ大きくなり始めた。

 ――やばい、このままじゃ

 鬼神となった唐澤は獰猛な笑みを浮かべ、なおも回転力を上げた。左ジャブ、から撃たれた必殺のストレート。

 ――これをもらうのはまずい

 竜也はとっさに手を前に出してブロックしようとする。意識はそこで消えた。

 

 ……。

 肉が削られていく。

 削られた部分から血が流れる。

 身体が上げた悲鳴を、竜也はどこか遠くで聞いていた。

 ……

 

 ……滝のように降り注ぐ歓声が遠く聞こえてくる。やがて感覚はこの世に帰還する。取り戻した意識が最初に見たモノは、自分の顎に食らいつかんとする唐澤のフックだった。

 ――やべ

 竜也は一髪の差でダッキングで躱し、八の字を描くようにウィービングを使って唐澤の攻撃を躱す。身体が鉄の様に重い。息も苦しい。何故か視界が赤い。

 竜也は唐澤の左脇を潜り抜け、なんとか一瞬の間を取ることに成功した。場内の至る所で炸裂した歓声に気が付いた。竜也の視界は、どういうわけか右眼だけが赤い。水の中に

いるかのように呼吸が浅く、胸は酸素を欲して大きく膨張と収縮を繰り返す。手足が痺れる過呼吸の症状がある。

 ――何が起きた

 頭の片隅で推理をしようとした。

「駄目です! 動き続けて下さい!」

 竜也が見たのは、目の前で大きく飛翔する鬼の姿だった。唐澤は助走をつけ、一撃必殺の飛び膝蹴りを繰り出した。竜也は身体をのけぞらせて防御を固めた。それが正解なのかもわからない。飛び膝蹴りは防御の上から竜也の鼻っ柱を押しつぶす。

 唐澤は勢い余って転倒したが、竜也には追い打ちをかける気力すらなかった。ぼたぼたと鼻から血が零れ、足元を赤く染める。竜也は足がふらついていることに気が付いた。

 ――駄目だ、押されれば倒れる

 唐澤はすっと立ち上がり、淡々とトドメを刺しに来た。竜也を救ったのは、間に割って入ったレフェリーだった。

 二ラウンド目が終了したのだ。

「え、もう?」

 感覚的には三分くらいしか経っていない。竜也は亡霊のようにふらふらと歩く。だがその先にあったのはただの金網の壁だ。

「こっちです!」

 カイリの声だけが頼りだった。なんとかカイリの元に帰還し、椅子に腰を下ろす。身体が重い。もう二度と立てないのではという気になった。

「もう、三分、経ったのか」

 死ぬ間際の人間のような声が出た。

「きっとハイキックで記憶が飛んだんです。それでよく凌ぎました」

 竜也はアイシングをされながら、目だけをカイリに向けた。

「ハイキック?」

「右の前手を出してハイキックを出すテクニックです」

 途切れる前の記憶に焼き付いている唐澤のストレートはフェイントということか。

「さっき、カイリが声を出してなかったら、多分倒れてたと思う」

「女の高い声は大歓声の中でも通りやすいんです」

「なんか、策ある?」

 カイリは絶句して竜也を見た。その悲壮な視線から彼女の無力感が伝わってくる。気休めなんか言いたくない。嘘もいいたくない。かといって、最善策があるわけでもない。竜也はカイリの感情を一瞬で察した。

「そうか。なんとか頑張ってみる」

「あ、相手のペースに乗せられないでください。有効な一撃が入れば相手のリズムを崩すことができます」

 竜也は弱弱しく首を縦に振った。顔は赤く腫れ、カッティングした傷には血が滲み、鼻には乾いた血が固まっているような状態だ。打たれた腕も腹も胸も赤くなり、所々青く内出血している。それがどれほど酷いか、死にかけの猫を見る様なカイリの表情が物語っている。

「そんな顔しないでくれよ」

「……そういや桜義さんまだ来ないの?」

「アイツは来ない」

 そう言ったのはアレクだった。アレクは表情を変えず竜也を見ている。

「来ない、って?」

「アイツは来ない。そういうことになってる」

 ……?

「セコンドアウト!」

 そのアナウンスでカイリとアレクがリングの外にでる。

「私、まだ諦めてませんから」

「おうよ」

 背後のカイリがどんな顔をしていたのか分からない。でも、唇を引き結んで眉間に皺を寄せているんじゃないかと、竜也はそう考える。少しでもカイリを喜ばせてやりたいな

 ――出来る事なら、勝ちたいけど

「ファイッ」

 レフェリーが処刑再開を宣言する。唐澤はもう様子見などという真似はしない。ずけずけと間合いを侵略してくる。

 竜也は唐澤の戦略にようやく気付いた。唐澤のプランは、こちらの攻撃を全て無力化した上で攻撃する手段を無くし、その上で安全にこちらを嬲り殺そうというのだ。この男は苛烈さと狡猾さと冷徹さと知的さを兼ね備えている。

 ――そんな周到に戦略を練るってことは一応評価されてるんだな

 唐澤の強さの真髄を見誤った者は皆リングに打倒されてきた。今度は、自分の番かと観念する一方で、まだ戦う気力は残っていた。

 竜也は距離を取るために足に動けと命令を出した。幸か不幸か、足はまだ動く。身体はまだ戦える。竜也は前を向いた。唐澤の身体のどこにも傷は無い。身体が汗ばんでいる程度だ。

 唐澤の動きは衰えることなく、速射砲のような左のジャブを浴びせて来る。竜也の左手は動いた。パーリングでジャブを弾きながら、距離を取る。

「死ね」

 顔面に迫りくるジャブがふっと消え、蛇のようなボディブローに変わって竜也の腹を打ち抜いた。

 ――またフェイントかよ

 だが急所ではない。僅かにずれた。だがそれがどうしたとばかりに、唐澤は再び打撃の雨を浴びせ始めた。

 拳を受けた額は再び血が滲み、鼻は出血を再開し、殴られるたびに竜也顔から汗と血の飛沫が散華する。痛覚は完全に消え失せていた。まるで重い鉄の箱に魂が憑依したかのように、身体が自分のものではない感覚がある。でも苦しさだけは空気を読まずにやってくる。酸素が欲しい。身体がだるい。もう十分頑張った。そう自分に言い聞かせて斃れてしまいたかった。

「ま、負けるか!」

 だが竜也の意思はまだ折れない。隙を見てパンチを打ち返し、なんとか唐澤のリズムを崩しにかかる。

 ――何故俺は諦めない。

「まだ死なないか」

 唐澤は竜也のストレートを躱して距離を取る。

「勝つのは戦う者の至上命題だ。俺は腕がちぎれてもお前に勝つのを諦めない」

 唐澤は抑揚のない口調で「そうか」とだけ言った。

 唐澤のギアが上がった。剣のようなミドルキックが竜也の脇腹目がけてスイングされる。竜也の腕が防御していたのは左の側頭部だった。

 ――しまっ

 竜也の腹に蹴りが刺さり、竜也の動きから躍動感が失われた。ハイキックとミドルキックは途中までその軌道が分からない。キックボクシングでは膝と腕を同時に上げて防御する方法があるが、総合でそんなことをすれば最悪転倒させられる。

 ジャブ、キック、その全てがフェイントに見え始めた。

 そこで唐澤が冷徹に口辺を上げた。「お前の防御も封じてやった」と心の声が聞こえたかと思った。

 唐澤の攻撃を凌ぐ術は最早消極的なステップだけになった。竜也は出来るだけ唐澤の攻撃範囲から逃れるため、サークリングとバックステップを使った。「逃げるな!」「男らしく戦え!」「この臆病者!」当然の如く竜也には会場から猛烈なブーイングと罵声が浴びせられた。

「ハンターはな、追う事には長けてんだよ」

 唐澤は上手くコーナーに追い詰め、一足飛びで間合いに突入する。

 ――速い

 唐澤の何の変哲もない左ジャブから右のコンビネーションが竜也の額を打った。額は唐澤のグローブに血糊が付くほどの壮絶な出血を見せ、竜也の顔は真っ赤に染まる。竜也の意識がもうろうとし、地面が恋しくなる。

 レフェリーは竜也を凝視し、今にも止めに入りそうだ。

 ――止めちゃだめだ――いや、止めろ。もう楽になれ――駄目だ――

 竜也は隙を見て唐澤に抱き付いた。死にもの狂いのクリンチだ。脇を絞め、必死に唐澤の身体にすがりつく。唐澤は冷静に竜也の腹にボディブローを入れ、強引に竜也の腕と身体の間に腕をねじ込んで竜也を引き離す。

 ――負けない。勝ちたい。お前を倒して、俺は呪縛から逃れる

 ――いや、もういい

 ――いや、勝ちたい!

 竜也の強い思いは何ら戦況に変化を与えない。唐澤は距離を取るとジャブで竜也を壁に押しやり、竜也を殴り、そして蹴る。竜也の防御技術の高さが、地獄の時間を引き延ばすという皮肉な結果となった。観客はもうじき訪れるであろうKO勝利に唐澤コールを上げ続ける。

 竜也の目には、自分をコケにした連中の顔が薄らと見えていた。こいつらに屈服するのは死ぬよりも辛い屈辱だった。だけど、竜也にはもうどうしようもない。この場にいる誰もこの圧倒的な戦力差を埋めることができない。

 ――ああ、血が止まらねえよ――俺はまた、上がれないのか――もう、楽になっても、いい頃か……

 竜也の心に亀裂が入り、その時がきた。来るはずだった。


 竜也は恐らく、幸福な人間なのだろう。竜也が本当に窮地に陥った時は、必ずアイツが傍にいたから。今回も、竜也は一人じゃなかった。


「竜也! LWの大パンを振れ!」

 そのドスの効いた女性の声が喧騒を切り裂き、竜也の鼓膜を僅かに揺らした。それを受け取った神経が脳にその到来を布告する。脳は全身に異常事態のパルスを発信。竜也の身体に電光のようなものが走った。

 身体は自然と動いた。いままで右の拳で返していたカウンターを左に替えストレートに近い強いパンチを打ったのだ。

 ジャブが竜也の顔に当たるも、左の拳は唐澤の顔目がけて飛んでいく。唐澤は右のストレートを出そうとしたその瞬間だった。

 ――当たる

 だが唐澤は寸でのところで頭を傾がせた。唐澤の右のストレートはこつんと、竜也の顔に当たった。威力の乗らない、弱いパンチだった。身体の軸がずれ、踏み込みの甘さが威力を減殺したのだ。

 唐澤は防御姿勢をとって距離をとった。終わることのないかのように思われた拳の嵐が小休止を挟んだ。

 ――今の声

 LW。それはleft weapon の頭文字を取ったとある格闘ゲームの用語だ。

 唐澤はすぐに気持ちを入れ替え、蹴りを打ってきた。竜也は蹴りを被弾するも、致命傷は避ける。

「近づけ!」

 言われた通り竜也は自ら間合いの中に入っていった。すぐさま迎撃のパンチが飛んでくる。

「ファジー!」

 左のパンチがボディブローに化けるが、竜也の腕はそれを防いでいた。続く右のストレートを左に避けて躱す。

「LW、反確!」

 強引に左のフックを出すと、なんの威力も無いパンチが唐澤の顔面をこついた。タイミングも合わず踏み込みも足らないフックだ。だけど、唐澤の顔には当たった。

 唐澤は過剰に距離をとり、幽霊でも見たかのように目を張った。その遥か背後で、こちらに近づいてくる幸律虎子の姿を、竜也はたしかに見た。

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