第四ラウンド READY TO FIGHT

愛朽竜也は金網のリングに立ち続ける。だけど、そこに殴りたい人間はいない。ずっと抑えてきた暴力は、今日も獲物を探し求めて彷徨っていた。

 相手は可児満(かにみつる)という大学生の男だった。身体はこの階級では長身で、その代り細身だった。ドレッドヘアに浅黒い肌と派手な見た目だったが、その割に幼い顔をしている。ここまで四戦四勝。これに勝てば一つ上のプロリーグ、『アルゴン』への約束されていた。それは竜也とて同じ立場だ。

 リングの中央で竜也がレフェリーからルールの説明を聞いていると、可児が一言

「お前を倒して上に行く」

 勝負に勝てば上にいけるのだから、目の前の試合に集中すればいいのに。と竜也は冷静に思った。

 自分のコーナーにはカイリがいた。カイリの髪はスポーティーなショートカットになっている。身に着けているのはレギンスにハーフパンツ、白のパーカーにインナーにはファイヤーストームのロゴが書かれたシャツを着ている。

「緊張は、していないようですね」

 カイリは何が気に食わないかのような厳しい表情をしている。もっとも彼女の表情が刺々しいのは普段かとて同じだ。これでも最近は表情が柔らかくなったほうだ。

「ここまでいい感じで来てるから、波に乗りたい」

「今日勝てば私の奢りです」

「マジか!」

「嘘は言いません。さぁ、さっさと昇格の切符を掴んできてください」

「最速で仕留めてくるわ!」

 振り返ると可児が鬼のような形相でこちらを睨んでいる。さっきの話が聞こえたらしいが、煽ってきたのはあっちだし、と竜也は開き直った。

「それでは両者見合って、ファイト!」

 レフェリーが両手を交差し、試合開始を宣言する。

 竜也はスタンスをやや広く取り、重心を低くして相手を迎え撃つ。可児はドレッドを揺らし、ガードを高く上げて近づいてくる。背筋は少し丸まっていて、自分の腹部を守りやすい姿勢になっていた。

 ――やっぱボクサーっぽさがまだ残ってるな

 可児は元々アマチュアボクシングの出身だ。インターハイでベスト4に入る実力者で、戦術は強い打撃を活かすように組み立てて来る。要するに寝かされないように、なるべく接近して、という具合である。

 ――とっとと近づいて殴りたいって顔してるな

 仕掛けたのは竜也だった。遠間から一足飛びで相手の間合に入ると素早いジャブと右の正拳を叩きこむ。するとすぐさま可児の矢のようなストレートが返ってきた。竜也は冷静に拳を捌いて距離を取る。

「速っや」

 いままで対戦した相手の誰よりも速いストレートだ。

 ――さすがはインターハイベスト4

 パンチは伊達ではない。可児は自分から近づいてきたが、竜也はその分距離を取りつつ小さな攻防を積み重ねて少しずつ相手の間合を把握していく。

 試合開始から二分。

 再び竜也が動いた。

 竜也が右手を微動させると可児の拳がフッと顔を守った。瞬間、足を一瞬クロスさせ素早いミドルキックを放つ。竜也の左足が腹筋を横殴りにし可児の顔が大きくゆがんだ。

 ――クリーンヒット!

 相手の腹筋を叩くいい手応え。竜也は全身に総攻撃の命令を下した。竜也の身体が津波のような勢いで可児の間合に突入する。

「こい、つ」

 可児は出合い頭に左のジャブを出してきた。それは牽制でもない不用意な一撃だ。そして竜也はそれを読んでいた。

 竜也の身体が深く沈み、可児の腹部目がけて強烈なタックルをかました。相手のひざ裏で両手を組んで足を狩り、可児は背中からグランドに叩き付けられる。あわててガードに入ろうとするもアレクのそれに比べれば足の防御動作はスローすぎる。竜也はあっと言う間に仰向けになった可児の横に組みついた。

 サイドポジション。

 寝技をかけやすく、相手をコントロールしやすいポジションだ。竜也は巧みに可児を抑えつけながら、その腕に狙いを定めた。手首を掴んで「キムラ」という技に強引に持って行こうとする。可児は当然下から暴れて反対側の腕で竜也の手を無理やり引きはがそうとする。

 ――カイリの分析通り寝技のレベルは低い 

 竜也は素早く腕をほどいて狙いを可児の頭に切り替える。可児の頭と上腕を抱え込むと、腕を三角に組んで締め上げていく。竜也の腕の筋肉が膨張し血管が隆起する。竜也は相手の腕と首を締め上げたまま相手に背中を向けるように自分の体をねじった。竜也の腕の中で可児の首と腕が圧縮されていく。

 腕三角。

 自分の腕で相手の頸動脈を二の腕ごと締め上げる絞め技。

 ――極まった

 可児の手が竜也の手を三度叩く。竜也は腕をほどき、立ち上がり、拳を上げた。コロシアムの観客席に散っていた観客がぱちぱちとまばらな拍手で竜也の勝利を湛えた。

 ――口ほどにもない

 竜也はさも当然と言うように勝利を受け入れた。

 カイリの元に帰ると、カイリとハイタッチを軽く交わした。

「もうこのランクに相手はいませんね」

「何かがかみ合えばここまで勝てるもんなんだな」

「それだけあなたのポテンシャルが高いってことですよ」

 とはいうものの、竜也は独力で勝てたとは微塵も思っていなかった。

「可児の情報分析も、スパーリングの相手探しもカイリがやってくれたから勝てたんだよ。寝技だって毎日アレク達と練習してたから素早く仕掛けることが出来た」

 カイリは口元に微笑を浮かべた。

「そういう謙虚な姿勢、嫌いじゃないですよ」

 カイリの笑顔を見届け、竜也は更衣室で着替えを済ませてアリーナの二階席に行った。いつもの体育館よりも二回りほど大きな体育館で、時間が経つにつれて少しずつ客が増えていく。

 二階席にはカイリの他、アレクや陣原などファイヤーストームの面々がいる。

「オツカレー!」「いい試合だった!」「強くなるのはええよ」と皆が各々の仕方で竜也を褒めたたえた。竜也はそれらの言葉にひとしきり照れながらカイリの横に着席する。

「アルゴンの試合って何時からだっけ」

「三時ですね」

「桜義さん緊張してるかなぁ」

「そんなデリカシーがあればいいんですけどね」

 この日はアマチュアとアルゴンの二部構成で第二試合にウェルター級の桜義の試合が組まれていた。さらに

「唐澤は最終試合か」

「ええ。ランカー一位、神床大我との対決です」

 リングの周辺にはいつもは見かけない報道陣がいる。

「地上波のテレビ局のクルーか」

 アルゴン及び母団体のペルセウスはテレビ局とタッグを組み、ゴールデンタイムで若い格闘家に密着したバラエティー番組を放送している。番組の名前は「ブルファイ」でアメリカのリアリティ番組を日本のバラエティー番組のフォーマットで放送し、若いファンを獲得することに成功した。格闘家を目指す若者を集め、プロ格闘家の指導を受け乍ら一つ屋根の下で共に暮らし、その仲間同士がトーナメント形式で半年間戦い最後まで残った一人がアルゴンのリングに上がることが出来る。

 そんな「ブルファイ」トーナメントで、ライバルを全て一ラウンドで蹴散らして注目されたのが唐澤一徹である。

 極真空手、アンダー一五で世界大会優勝という輝きを持ち、その烈風の如き打撃力を持つ珠玉のストライカー。

 何かの間違いで普通のバラエティー番組にも出演し、格闘技に難色を示す大御所芸能人相手に「あそこはフニャってるのに頭は固いんだな」と暴言を吐き、司会の芸人が腹を抱えて笑うという珍事で人気を博した。彼の強気な言動と実力がかみ合っていた点も人気の理由の一つだろう。

「これでもし勝つようなことがあれば、一躍スターでしょうね」

 カイリはどこか気に食わなさそうだった。

 カイリがこの時とは比べ物にならない程激高するのは、まだもう少し先の話である。


 アルゴンはいわばアマとプロの橋渡しのような団体だ。アマチュアで結果を出した強豪がひしめく魔境とも言われる。会場に設置された大型のモニターには煽りの映像が流れ、選手の入場には曲が流れ、その際に会場が暗転してスポットライトが当てられるという贅沢な演出がなされた。

 それはかなり金がかかっているように見えた。そもそも、金網リングからして四角いロープのリングよりも設置に金がかかるという。

「中国やアメリカの金持ちが出資してるってのはマジなんだな」

 竜也は、厳つい表情で入場してくる桜義を見下ろしながらぽつりと言った。

「なんで海外の企業が日本の団体に出資したんでしょうか?」

「昔日本の格闘技番組見てファンになったとかそんなんだろ」

 ゲーム会社でも似たような事例はある。

「なんでも手広くやっとくもんですね」

 などとカイリと竜也が雑談してる間にしれっと試合が開始し、「どおおりゃあああ」などと叫びながら突進していった桜義がフック一発で相手をぶちのめした。

「「あ、終わった」」

 あまりにも豪快なKOだったので周囲の関係ない人間も拍手や声援を送る。

「勝つとこんな盛り上がるのか」

「KOは特に、ですね」

 毎日のようにマススパーリングに付き合っている竜也としては桜義の勝利はどこか誇らしかった。ジムの人間も「おーいいぞ!」「若大将!」「はよ彼女と別れろ!」「この前貸した百三十円返せ!」などと野次か称賛か分からない言葉を投げかける。

 その後、試合はテンポよく消化され、唐澤とランカー一位神床大我の試合を控えるのみとなった。会場が暗転し、仰々しいリングアナウンスに合わせて音楽が流れ、唐澤一徹が入場してくる。会場からは黄色い声の交じった歓声が上がった。

 それは会場が揺れたと感じるほどの歓声だ。それまでのものとは質が違う。

「人気あるな」

「テレビで放映されれば悪くも良くも知名度は高くなりますから」

 続いて神床大我が入場してくる。アルゴン、フェザー級一位。岩肌のようにごつごつとした筋肉。武将ひげと太い眉毛は「猛将」という二つ名の通りだ。

「神床大我。二八歳。もともとは柔道の出身です。ここ数戦はKOか一本勝ちのみです」

「寝技も出来るってことか」

「足が長いので三角締めなど下からの絞め技を得意としていますね。もともと柔道家なのでその辺は慣れているのでしょう」

「このところはKO勝ちも追いようだな」

「レスラーや柔道家は足腰がしっかりしているので、強いパンチを打てる人が多いんです」

「完全無欠のオールラウンダー対新鋭の若手ってとこか」

 二人は息をのんで試合が始まるのを待った。

『東、神床大我!』

 会場から野太い野郎どもの歓声が上がった。神床は仏頂面で右拳を高々と掲げている。

『西、唐澤一徹!』

 今度は野太い野郎の声と女性の黄色い声が混ざった大歓声が上がった。唐澤は野性味のある獰猛な笑みで応えた。

 リングアナのネームコールが終わり、二人は互いのコーナーで試合開始の時を待つ。

『第一ラウンド、開始!』

 唐澤はガードを身体の高さに構え、身体を少し半身にして前に出る。対する神床はややガードを高く、腕の間から相手を覗き込むような構えを見せる。

「両方ともバチバチに打ち合うつもりですね」

 二人とも静かに、ゆっくりと距離を詰めていく。二人の間合が掠った瞬間、唐澤が動いた。相手の懐に飛び込むと素早くパンチを浴びせて左のハイキックに繋ぐ。

 ――おぉ、

 と会場がどよめいた。

「速っ」

「ですが神床もガードしてます」

 唐澤は神床の間合の淵をステップで縦横無尽に移動しながら打撃を浴びせていく。神床はその攻撃を熟練したガードで凌ぎながら拳を一つ、次は二つと返していく。ガードの上からでも火花が散るような衝撃音が辺りに轟くほどの威力だ。唐澤はその攻撃を恐れず拳をさらに返していく。いつしかそれは、目まぐるしい打撃の応酬と化していた。

 神床の攻撃が一撃必殺の斧とすれば、唐澤の攻撃は二刀流の小太刀といったところか。

 拳と拳が入り乱れ、時折蹴りが飛び交う。それは打撃の乱気流。驚異的な攻撃密度。素人でもその次元の高さがありありと分かるだろう。

 二人は三分間丸々フルスロットルで動き続ける。二人の身体から汗が飛び散り、客席からは声援が爆発した。

「互角か、いや」「互角じゃないですね」

 荒れ狂う声援の最中、竜也とカイリは冷静にそれを見極めた。一度、二度と、神床の顔がのけ反るシーンが増えた。少しずつ、少しずつ、神床の背中が金網に近づいていく。

「神床が打撃を嫌がりだした」

 いつしかそれは誰の目でも分かる劣勢となった。神床は唐澤の身体に抱き付く様にしてクリンチに逃げる。その顔は赤く腫れあがっていた。

 唐澤は神床の脇に腕を差して神床の背中でクラッチを組むと、足をかけて転倒させる。

「小外掛けですか」

 柔道家が立ち技でこかされた。

 唐澤は寝技の攻防にはいかず、仰向けに倒れた神床を見下ろし、くいと人差し指を引いた。それで観客がまた盛り上がる。再び立ち上がった神床に唐澤の連撃が襲い掛かる。その勢いは衰えるところをまるで知らず、むしろ破壊力を増しているようにさえ見えた。

 これは小太刀どころではない。

「まるで重機関銃だな」

 一撃必殺の破壊力を持った拳が嵐の如く吹き荒れる。

「凌ぐのがやっと、って感じですね。カウンターを取ることすらできてない」

 打ち返せば即座に致命傷を貰う。それを神床は誰よりも理解しているだろう。神床はガードを固めて距離を取る。ここは凌いでラウンドを跨いで体制を立て直すつもりだ。

 そんな神床の身体が横に大きく傾いだ。唐澤が放った渾身のハイキックだった。その衝撃はガードを貫通し、神床の身体は酔いつぶれたようにふらついた。神床は逃げるように唐澤の両足に組みついた。

「タックル」

「苦し紛れですね。勢いもスピードも無い」

 唐澤は神床の頭を抱え込むと、腹部に毒針のような膝を突き刺した。

「効いた」

 神床の身体から躍動感が失われ、唐澤の身体にもたれかかっているだけになる。唐澤は二発目の毒針を放った。今度は腹ではない。顔面である。

 汗の飛沫が空中に散るのが遠目でも分かった。神床の顔が跳ね上がり、次の瞬間には糸くずのように力を失ってうつぶせに倒れ込む。鼻をやったか、顔と地面の間からスゥと血が這い出してきた。神床の身体はもう動かなかった。

 高々と拳を掲げる勝者と、骸のように気絶する敗者の、動と静。

 歓声が雨のように降り注ぎ、その中で唐澤はガッツポーズをした後マイクを片手に持つ。

『打撃得意な奴がタックルに逃げたら負けっしょ。拳で最後まで語らないと』

 この一言で会場の客のボルテージがもう一段階上がった。

 唐澤の顔に攻撃的な笑みが浮かんだ。この痛快なキャラクターが世間には受けるのだろう。

「あれを、いつかあなたが倒すんですよ」

「胃がキリキリしてくるな」

 言いつつも、竜也の決意は揺るがない。

「大丈夫です。時間はあります。段階を追って強くなっていけばいつかあの位置に立てます」

 しかし、カイリの発言には誤りがあった。

 それが分かるのは一週間後のことである。

 

 竜也はアルゴンに昇格し、ヘッドギアの呪縛から解放された。メディカルサスペンションにおいても問題なしとされ、一週間後には練習を再開する。

 日曜日の、そよ風が笹の葉を揺らす静かな正午だった。その静穏を切り裂く様にファイヤーストームの電話が鳴った。それに少し遅れて、竜也の携帯電話にメールが届く。

 アルゴン事務局から次のマッチメークが決定したという旨のメールだった。

「……早いな」

 竜也は額の汗をタオルで拭いながら、椅子に座ってメールを開く。

 それを読んだ瞬間、竜也の頭は真っ白になった。


【アルゴンへの昇格おめでとうございます。我々アルゴン事務局はあなたの入団を歓迎します。さっそくですが、貴方の対戦が決定しました。これはペルセウスエンターテイメントと青年格闘技倶楽部、ブルファイのディレクターが熟議を重ねて決定に至りました。以下に試合の日時と対戦相手を記します。詳細な情報はファイヤーストームのジムに通達しています。我々の力が及ばず、大変申し訳ありません】


 ※対戦相手※ アルゴン・フェザー級一位・唐澤一徹


「どういうことだ!」

 憤慨してトレーニングルームに入ってきたのは株地海宝である。いつもの穏やかな笑顔はなく、眉間に深い影を作って怒りをあらわにしている。

「どうしたんですか?」

 陣原が少し脅えた様子で聞いた。株地はメールを印刷した用紙を床に叩き付ける。

「ランカー一位と昇格したばかりの新人が戦うだと!? こんなバカな話があるか!」

 紙を受け取った選手やコーチの顔も豹変した。

「これ、マジのやつっすか?」

 動揺した面持ちで桜義が尋ねる。

「すでにスポーツ新聞はこのマッチメークを報じている」

「アルゴンのスタッフって、こんなバカなことする人達じゃないっすよ」

 アルゴンのメールに書かれていた「これは親会社であるペルセウスエンターテイメントと青年格闘技倶楽部のディレクターが熟議を重ねて決定に至りましした」という文言の意味。

 竜也に宛てられたメールを見た株地は

「要するに事務局ではなく上の決定という意味なのだろう」

「でも上はなんでこんなマッチメークしたんスか」

「せっかく手に入れた唐澤一徹というスター。それを高いレベルの相手に当てて負けでもしたら団体の人気に水を差すことになる。主力商品の傷もつかず、より商品価値を高めるには」

「……咬ませ犬が必要」竜也は重々しく言った。

「唐沢をMMAの地位向上の起爆剤にしたい団体側と、唐澤の豪快なKOで視聴率を稼ぎたいテレビ局。その思惑が一致したってことだ」

「俺が試合を受けるかどうかは考えなかったのか」

「格闘家というものはどんなクソなマッチメークでも受ける生き物だ。何故なら、どんな不利で馬鹿馬鹿しい条件でも拒否すれば逃げたとみなされるからな」

 格闘技団体は格闘家の「男気」に甘えてきた。それは、カイリがよく言っていた台詞だ。

 ……カイリ?

「そういえばカイリは?」

「まだ来てないののか?」

 竜也は首を左右に振る。今日は朝からミーティングだと言ってたのに。

「まさか」

 株地の顔が青くなった。

「俺は出かける。竜也お前も来い。着替えなくていい」

 部屋を出た株地を竜也は早足で追う。

「カイリがどうかしたんですか?」

「アイツの父親はプロレスラーでな。昔はよく外国人格闘家の咬ませ犬にされていたんだ。そんなアイツが今回のマッチメークを知ったらどうなると思う」

「ブチギレる、でしょうね」

「ペルセウスの本社に行くぞ。死人が出る前にな」


 二人は車と新幹線を使ってアルゴンの母団体、ペルセウスの本社に急行した。窓口でカイリの事を聞くと「さっきお見えになられて企画運営部のほうに向かわれた」と言った。二人が後を追うと、部屋の前で殺し屋のような冷たい表情を浮かべるカイリの姿があった。

 竜也の背中が寒くなるほどの殺意が目に宿っている。

「か、カイリ」

 竜也は小さな声でおそるおそるカイリに歩み寄る。

「邪魔しないでください」

 機械の様に抑揚のない声だ。そして唸るように低い。

「ここで抗議しても何も事体は好転しない」

「そうやって格闘家が泣き寝入りするからこんなことがまかり通るんです」

 カイリは立ちはだかる竜也の脇を通り過ぎて部屋に入ろうとする。竜也はその肩を掴んでカイリを制止した。

「感情に任せて抗議したって意味はないだろ。まずは冷静になれ」

「冷静になれ?」

 カイリは振り返る。見開いた目には涙の膜が張られていた。竜也は言葉を失った。

「無理ですよ。無理にきまってるじゃないですか」

 涙の膜は厚くなり、目尻に逃れて頬を伝う。

「見てる人はあなたが初心者だとか、無謀なマッチメークだとか、そんなこと気にしたりしないんですよ? 見てる方はただ結果にしか興味が無い。どんだけ理不尽なことがなされても、唐澤が勝ったという美談で終わるんですよ? あなたまでもが都合の良い踏み台にされると分かっているのに、冷静でいられるなんて、無理ですよ」

 竜也はカイリに何と言っていいか分からなかった。この事態を誰よりも重く見てるのは誰か、ようやく気付いたのだ。竜也は自分のためというよりは、むしろカイリの為に団体を説得しなくては、と考えていた。

 そんな時、竜也の背後の扉が開いた。誰が中から出てきたのかを理解し、竜也は目を鈴の様に張る。

「ん、あ」

 それは、小汚いパーカーを着た唐澤一徹だった。唐澤は一度竜也を見た後、暫く間を置いて口を開く。多分、竜也が誰か一瞬分からなかったのだろう。

「ああ、試合ならもう無理だぞ」

「無理?」

「お前、このマッチメークをどうにか変えたかったんだろ?」

「ああ」

 それを正面から認めるのは癪に障る。かといってこんなことで意地を張るのも嫌だった。

「今直談判してきた。もっと強い奴とやらせろってな。だけど、もっと上の方の決定だから無理だってよ」

 上? そういえば件のテレビ局はペルセウスの主要株主だった気がする。もしかしたら役員クラスの決定なのかもしれない。

「そういう事だ。俺、手加減とかできないからせいぜい死ぬなよ」

 パーカーのポケットに手を突っ込み、唐澤が遠ざかっていく。屈辱的な物言いだったが、竜也は意外にも冷静だった。冷静だから竜也は自分が何を言うべきか知っていた。

「勝つぞ」

 唐澤の歩みが止まった。

「あぁ?」

「お前をぶっ倒すって言ってんだよ」

 唐澤はゆっくりと踵を返して竜也と向かい合った。その眼には怒りと殺意を混ぜた感情が焔の様に揺らめいている。

「雑魚を倒してのぼせ上がったか?」

「そうかもな」

「ちと気が早いと思うんだが」

「はしたないようだけど、前菜じゃ満足できなくてな」 

 唐澤は獰猛な笑みを浮かべながら竜也に近づいてくる。このままいつぞやのように殴られるのではとも思ったが、唐澤は竜也から三歩ほどの所で止まった。

「俺がメインディッシュってか」

「せいぜい俺の腹を膨れさせてくれ」

「お前がどう出ようが今まで通り、俺は相手の血を飲み干して上に行くだけだ」

「俺の血はひどく不味いぞ」

「俺と戦うまでに砂糖でも飲んでくるんだな」

 言うと唐澤は背を向け、どこか軽快な足取りでその場を立ち去った。

「ちょっと、何やってるんですか」

「もう戦うしかないんだったら挑発しようが何しようが変わらないだろ」

 竜也は目を眇め、唐澤が立ち去った後の廊下を見つめた。

「どうだった?」

 と聞いたのは株地だ。

「意外に冷静な奴でした。格下の挑発には乗らないし、ジョークを返すだけの知恵もある」

 思っていたよりも厄介だな、と竜也は胸の中で独語する。

 もっと感情的な人間かと思っていたが、そうではないらしい。何故あの時竜也を殴ったのか不思議なくらいだ。

 竜也はさっきまで唐澤が歩いていた通路をしばらく見ていた。ずっと、倒したいと思っていた「アイツら」の背中。気付けばこんなにも大きくなってしまった。

 いつか終わるとも知れないこの劣等感の螺旋を断つことは出来るのだろうか。


 大人の都合というやつのせいで竜也は生贄に捧げられた。せめて五ラウンドを凌いで判定まで持ち越せば御の字というような戦いだ。だけど、当の本人は戦うからには勝たねばならないというのが信条だった。敗北に付随する美談など些末なことだと彼は幼少の頃よりその身に叩き込まれている。

 カイリと竜也はいつものように休憩室でミーティングを行っった。

「試合までの期間は四カ月です」

 カイリの顔色は悪く、声にも覇気がない。アスカの話では昨日は全く寝ていないそうだ。

「四カ月か。意外と開いたな。で、その四カ月に出来ることは」

「覚えている技の質を上げてもらいます。今回は付け焼刃が通用するような相手ではありませんから」

「具体的には?」

「寝技と組み技の方はアレクが優先的に見てくれるそうです。他の会員の方も協力的です」

「で打撃の方は?」

「こちらで何人かスパーリングパートナーを用意しました。ボクシングの元世界チャンピオンや極真空手の選手とやってもらいます」

「手回しが早いな」

「一流の打撃に慣れておくと、唐澤と戦って面食らうリスクを減らす事が出来ます」

「たしかに、何の対策も無しにアレと戦っても生き残れるきがしねえ」

「唐沢の強さの秘密は極真空手というバックボーンと、その無尽蔵のスタミナにあります」

「極真空手、か。異種格闘技じゃあんまり強いイメージがないな」

「最近は防具の発達によって小学生でも直に殴るような試合を経験しています。侮ると痛い目を見ますよ」

 竜也はすこしげっそりとした面持ちで

「ガキの頃から人を殴ったり蹴ったりしてるわけか。そりゃ強ぇわけだ」

「唐沢のラッシュを受けた相手の思考的猶予は平均でゼロコンマ五秒。驚くべき身体能力ですね」

「吐きそ」

「貴方ならできますよ」

 竜也はカイリの表情を注意深く観察する。心なしか顔色が良くない気がする。

「……あんま気負うなよ」

 カイリは目を逸らす。図星か。

「もっといつも通り手厳しいこと言ってくれた方が安心する」

「……ごめんなさい」

 これは重症だ。

「ちょっと海見に行こうぜ」

「え?」

「いいから! 気分転換だ!」

 竜也はカイリの手を引いて外に出た。カイリを連れてきたのは近くの砂浜だ。このビーチはどういうわけか砂が黒い。風は穏やかで、海原をそっと撫でたあと竜也とカイリの傍らを吹き抜けていった。潮の臭いと風の音が耳と鼻に心地いい。

「相変わらず良い立地だなあのジムは。少し歩いただけで海が見れるんだからさ」 

 カイリはなおも浮かない顔だ。

「あなたは、不安にならないんですか?」

「なる」

 竜也は即答した。

「俺はどこまで行ってもいじめられっ子だからな。戦う時はいつだって弱者だし不安だ」

 カイリは何も言わなかった。竜也も少し黙った後、自分に語り掛けるように言葉を紡いでいく。

「俺はイジメられた時から何も変わってない。あの時、俺は自分でアイツらをぶん殴らなかった。だから、あの時に殴るはずだった拳を誰かに向けてるだけなんだ」

 竜也は今でもイジメられてた時のことを夢に見る。あの時の屈辱が、痛みが、苦しみが、まるでその時のことのようにフラッシュバックする。今戦えばアイツらを倒す事が出来る。それほど強くなった。でも、今奴らを殴っても空しいだけだろう。それは強者が弱者を痛めつけただけで、決してイジメを自力で跳ね除けたわけじゃない。

「この劣等感を俺は一生背負って生きていく」

 竜也は俯き、暫く潮風の音を聞いていた。潮風の囁きに口を挟んだのはカイリだった。

「だからあなたは成長出来るんですよ」

 竜也は顔を上げてカイリを見た。

「ニックディアス、フランクエドガー、ジョルジュサンピエール、皆、過去にいじめられた経験を持つ偉大な総合格闘家です。劣等感は大きな才能だと、私は思いますよ」

「あ、ありがとう」

 カイリは「はぁ」と小さくため息をついて視線を海原になげた。

「ったく、逆にフォローされてどうするんですか」

「すまん」

「謝罪の言葉はいらないので行動で示してください」

 カイリの肩から力みが抜け、笑顔の上を潮風に吹かれた髪が靡いた。

「たしかに、身近な人がネガティブになるのは気分が悪いですね」

「え?」

「よし。せっかく強い相手と戦えるチャンスだと前向きに考えましょう」

 話の文脈が竜也にはよく分からなかったが、取りあえずカイリは吹っ切れたようだ。

 いつもの調子を取り戻したカイリはキッと表情を固くして竜也を睨んだ。

「で、前から言おうと思ってたんですが、アナコンダチョークの入り方、あれはなんですか?」

「なにって」

「入り方が悪すぎてあれじゃタップを奪えません!」

「じゃあどうしろってんだ」

「いいですか。アナコンダチョークはキリシタンになるんです」

「お前の言い方はいつも分かりづらい!」

「五月蠅い。ここで特訓です」

「ここで!?」竜也の声が裏返った。

「ここでです。さあ、私を練習台にしなさい!」

「唐突だなおい!」

「油断してると」

 カイリは突然身体を低くして竜也の両足に組みついて来た。

「テイクダウンしますよ!」

「このやろ! 負けねえぞ!」

 カイリと竜也はがやがや何かを叫び合いながら浜風の中でトレーニングのような何かをやった。効果があるかどうかは分からないが、沈んだ気持ちがほんの少しだけ軽くなった気がした。


 竜也はその日は軽い柔軟とアレク達を交えてビデオで分析をしただけで一日が終わった。竜也が帰ろうとすると、ビデオ資料室でパソコンを操作しているカイリを見かけた。

 彼女の着ているパーカーは昼にハッスルし過ぎたせいで砂に汚れている。

 竜也は扉を開けて資料室に入った。

 カイリが見ていたのは唐澤が戦っているシーンを集めたビデオだ。

「何してるんだ?」

「打撃の攻防をデータ化してるんですよ。どの打撃が当たったか、どの打撃が相手を仕留めたか、を全て書き出して後で分析するんです」

「あいつの試合全部同じようにデータ化してるのか?」

 カイリは画面を睨みキーボードを叩きながら

「それで勝つ確率が少しでも上がるなら」

 カイリは打撃の攻防を記号化し、譜面のような図に一つ一つ書き込んでいく。

「本当は、専用の解析ツールがあればいいんですが、あれは高価ですから」

「ちなみにいくらだ?」

「一年のライセンス料で二十万円です」

「にじゅ……」

 しかも商品そのものではなく、一年のライセンス料。

「だから私がその二十万円分の労働をするんですよ」

「で、何か分かったか?」

「フィニッシュは圧倒的に右のブローが多いですが、それよりも気になることがあります」

「なんだ?」

「被弾率が少ないんです」

「攻撃を貰わないってことか?」

「ええ。金網のリングに上がってから有効打を受けたことは一度もありません」

「意外とディフェンスがいいってことか」

「最初の攻防で流れを掴んでそのまま相手を完封する試合が多いですね。もう一つ」

「もう一つ?」

「ワンツーパンチの使用頻度が多い」

 唐澤は拳をぶんぶん振り回しているイメージがある。データというのは、人間の印象に左右されないという長所があるというが

「ただ、それが何故多いのか、いつ使うかまでは分かりません。ただ、彼の土台にはしっかりとした基礎技術があるのは間違いないでしょう。勢いだけの若手だと思って挑むと痛い目に合うでしょうね」

 言動とファイトスタイルの割に真面目な人間なのかもしれない。つくづく、人の第一印象というものはスポーツにおいて役にたたない。

「あ、今日の施錠お前らしいぞ」

「分かりました」

「俺、もう上がるから」

 カイリはパソコンに目を向けながら帰ろうとする竜也の袖を掴んだ。

「なんだよ」

「今日は私が奢ります」

 やけに気前がいい。昼のお礼だろうか。

「じゃあ駅の本屋で待ってるから」

 カイリは再び竜也の袖を強く引いた。

「まさか、お前、一人でここに取り残されるのが怖……」

 カイリは画面を睨んだまま

「それ以上言ったらぶん殴ります」


 その次の日、四か月後の大会で竜也と唐澤のワンマッチが正式に発表された。その大会のメインイベントでラウンドはいつもより二つ多い五ラウンド。一ラウンドが五分だから最大二〇分以上も戦い続けなくてはならない。これを戦い抜く持久力の増強は喫緊の課題だった。

「じゃあここを全力で一周してください」

 カイリが連れて来たのは近くの小学校のグラウンドだった。

「インターバルか」

「あなたの持久力はまだまだ発展途上です。とにかく試合は長丁場になることが予想されるので出来る限り持久力を鍛えて下さい」

「これ嫌いなんだよなぁ」

 カイリの目がキッと鋭さを増した。

「あなた、試合に勝ちたいんですか?」

「分かった、分かった、やるから」

「なんか私のこと面倒くさがってません?」

 馬鹿な、何故ばれた。

「だいたいインターバルごときで音をあげるなんて根性なさすぎですよ」

 竜也は口を尖らせ、訝し気にカイリを見た。

「じゃあお前も俺と同じメニューこなせんのかよ」 

 奇遇にもカイリはスポーツパーカー仕様である。

「で……できますよ。できますよ!」

 カイリはずいと前に身を乗り出してきた。

「おい、言い出しっぺの俺が言うのもなんだが、止めといた方が」

「うるさいです。つべこべ言わず走りなさい。私はその後をついてきます」

 カイリは変な所で負けず嫌いな所がある。竜也に隠れてこそこそと格ゲーの練習をしているのを竜也は知っている。目標は打倒妹だろう。

「仕方ないな」 

 竜也は準備運動をしてからトラックを走り出す。このインターバルはかなり一般的な持久力を鍛える方法で、全力ダッシュ→流してジョギング→全力ダッシュを交互で繰り返し格闘技に必要な間欠持久力を鍛えていく。単純なトレーニングだがこれが地獄の苦痛を伴う。普通にマラソンをするのとはまた苦しみの質が違うのだ。

 四週目に差し掛かる頃には竜也は目を見開き、口をあけっぱなしになっていた。顔から噴き出す汗はなおも止まらない。さらに全身から力が抜けるような感覚に襲われる。酸素が欲しい。とにかく酸素が欲しい。

「やっぱこれキツイわ」

 これに加えて、ミット打ちを二〇分感続けて試合用の持久力を作り上げる方法もある。

「持久力を鍛えるってのも楽じゃねえな」

 ふと、二週目までは竜也の背後にあったカイリの気配が無くなったので竜也は後ろを振り返る。

 見ればサッカーゴールの前でカイリがのたれ死んでいた。

「ちょ、」

 竜也は大慌てでカイリに歩み寄る。カイリの身体は風呂でも入ったかのように汗で湿っている。

「大丈夫か」

 カイリを仰向けにすると、カイリは目を点にしてはるか遠くの空を見つめていた。

「……天使が舞い降りて来る。私を手招きしている。あの人が生まれ落ちた金輪際(ぎわ)の楽園へ」

 竜也は大声で叫んだ。

「誰か、救急車ぁ!」


 週末金曜日は伝統派空手の道場に出向いて打撃のトレーニングを行う。道場の床は茶色の板張りで、道場奥には「一心不乱」と筆で書きなぐられた掛け軸がかかっている。

 竜也はジャージ姿で遠い間合いから茣蓙を丸めた的に向かって拳を打っていた。後ろ足で床を蹴り、一足飛びで的の間合に入り打撃を浴びせてすぐに間合いから逃れる。

「ちょっと外れとるな」

 そう言ったのは髪の無い丸い頭の男性だった。道着に包まれた身体は中肉中背で、顔には皺やシミが目立つ。道場の主、高木勘助である。

「足で前に出るイメージ持っとるやろ。それやとな、拳に体重のらんねん」

 勘助は竜也の尻をぎゅっと片手で握った。

「うおっ」

「尻や。尻」

「尻?」

「尻をボーンと前に出す感じにしたほうが人は遠くに飛べるんや」

 竜也はいまいちピンとこない。

「例えば背中曲がっとる子供に背筋伸ばせ言うても、背筋はのびひん。頭の位置を高しろ言うたら背筋のびよんねん。人の身体ってのはそういうもんや。ほれ、やってみい」

 竜也は的から少し離れて構えを作った。

 ――尻を前に出すイメージ。

 竜也は床を蹴って跳んだ。着地の瞬間、前足がパーンと小気味のいい音を響かせ、体重の乗った右拳が的を打った。的を打った感覚がしっかりと拳に乗っている。

「さっきよりも遠くに」

「な、いうたやろ。これを意識せんと出来るようなったらおもろなるで」

 勘助の指導法は漠然としながらも身体で理解しやすい。指導者としての経験の深さがうかがい知れる。

 勘助はその後、道場生と組手をさせてくれた。

 勘助は意外と柔軟な性格で、総合格闘技についても色々と事前に勉強してくれていた。だから、分からないことは竜也が逆に教えることもある。

 竜也は道場生と道場の床で車座になって夕食を食べた。この日は「食べてもいい日」でよかった。勘助は木造住宅の木の床の上なのにも関わらず煙草を吸う。なんとも大胆な男である。

「おう相手の唐澤のビデオみたで」

 と勘助は唐突に総合格闘技の話題を振る。

「あ、どうでしたか?」

「意外と真面目な奴や。しっかり基礎練積み重ねた奴の打撃やな」

 やはり見る人が見れば分かるのか。

「強いであれ」

 紫煙の向こうの勘助の目が僅かな覇気を纏う。それは武道家の目だった。

「ちいこい頃からどつきあいばっかりしとる奴の戦い方や。どういう時にどういう攻撃が入るか全部身体でわかっとる」

「どうすればいいですか?」

「んなもん俺に言われたかて知らんわ。俺なら戦うの止めとくけどな」

 そう言って勘助は明後日の方向にタバコの煙を吐き出した。その後どこか遠い目で

「まぁ、そういう訳にもいかんのは辛い話やな」


 そこから一日を挟んでまた出稽古だ。

 赴いたのは都内のジムで、拳虎会というボクシングジムだ。ここには現役の世界チャンピオン、須磨栄一郎というウェルター級の選手が所属している。短髪角刈りという古風な喧嘩屋スタイルで、鼻の下には筋モンのような髭を蓄えている。

 朝の九時。須磨の他には老齢の会長が一人いるだけだ。

「おう、来たかスパーすっぞ」

 須磨はリングのロープにもたれ掛ってリング下の竜也を見下ろした。

「まだ準備運動もしてませんよ」

「軽くやるだけなら大丈夫だろ」

 須磨はこういうざっくりとした性格で、あまり細かい事は気にしないタイプの人間だ。

 竜也はグローブをつけて須磨とリングで向かい合う。

「行きます」

「おう、こいや」

 竜也は遠間から一気に間合いに飛び込んだ。

「うお」

 だが須磨はあっさりと拳を躱して鋭いジャブを一発二発と返してくる。

 ――速い。

 打たれている。というよりは、拳が目の前に「ある」という感覚だ。竜也の拳は軽くいなされ、相手の攻撃は一方的に当てられ続ける。それでも須磨はかなり手加減しているのが手に取るように分かった。

 一五分間スパーリングをすると竜也は汗だくになり、息も上がった。それを見た須磨は涼しい顔でロープにもたれながら

「朝飯でも食っとくか」

 まだ食べてなかったのか。マイペースな男である。竜也は近所の喫茶店に連れていかれ、目の前でトーストを食べる須磨をただ見ている謎めいた時間を過ごすこととなった。

「減量とかいいんですか? もうすぐタイトルマッチですよね」

「ああ、この感じはいける」

「漠然としてますね」

「減量も回数こなしゃ上手くなるんだよ。あ、これ食ってもいけるなって」

 世界チャンピオンが言うからには間違いないのだろう。……間違いがないと思いたい。

 ちなみにカイリはアスカのコネを使って色々な人にスパーリングパートナーのお願いをしたらしいのだが、

「まさか、世界チャンピオンの選手から声がOK貰うとは思いませんでした」

 須磨はもきゅもきゅトーストを頬張り、それを飲み込んでから竜也を見た。

「ま、チャンピオンつっても肩書だけだな。俺が今いる団体は強い奴いねーし、統一戦をこなしてやっと一人前よ」

 本人はあっけらかんとベルトの勝ちを否定した。だけど、そこに至る道のりは険しいはずだ。須磨は世界タイトルを取るまで二〇戦もしている。ボクシングの競技人口を考えれば日本タイトルも選ばれた者にしかつかみ取れない栄光だろう。

「そういや相手の動画見たよ。前田さんとこの娘から貰った。お前死んだな」

 この男の辞書に気遣いはないのだろうか。

「須磨さんから見ても強いですか」

 須磨はサラダのレタスを頬張りながら

「ハンドスピード超速いよ。あの歳であんだけ当てれるのもスゲーわ。ボクシングやってくんねえかな」

「勝てますかね」

 須磨は腕を組み、天を仰いだ。

「分からん」

「ですよね」

「俺は自分より強い奴と戦った事ないから分かんねえからな。まぁ、お前はまだ勝ちの目があるほうだろ」

「本当ですか?」

「ま、もうちょっと癖を強く出来たらな」

「癖?」

 技術的な話に話題がシフトする。

「最高のパンチってどういうのだと思う?」

「分かりません」

「それでいい」

 えぇ……

「脇を絞めろだの、腰を入れろだの、言うけどよ、パンチに正解なんてないんだよ。野球だっていろんな投球フォームあるだろ? 阪神のドリスとか殆ど手投げだぜ。パンチも同じだよ」

「どんなフォームでもいい?」

「当てて倒せればな。俺達は威力の高いパンチを打つことが目的じゃない。勝つことが目的なんだよ。そこが分かってない奴が多い」

「勝つためのパンチ」

「基礎錬も超超超大事だけど、やっぱそれだけじゃ勝てねえんだわ」

 須磨は恐らく自分の経験で感じたことをそのまま口にしているのだろう。

「そー難しく考えんな。要は自分のスタイルを貫けってことだ」

 朝食を平らげた須磨は席から立ち上がる。

「じゃ、もう一丁行っとくか」

 と言いながら伝票を置いたまま店の外に出ていった。

 

 こうした色々なトレーニングをしつつも、最後は総合格闘技の舞台にその技術を活かさなければならない。毎週火曜日水曜日はそれを確認する日だった。竜也は方々で得た知識を総合格闘技の舞台で使えるかスパーリングの中で試行錯誤する。そうして手応えのあったものを取り入れていく。

 それを何度も、何度も繰り返す。

 竜也は確実に強くなっていた。だけど、彼に与えられた時間は、あまりにも少なかった。


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