第三ラウンド ART OF FIGHT

「ねぇ、前田さんってさ、性格悪くない?」

「分かる。言葉遣いとかおかしいよね」

「ちょーっと男子がからかっただけですぐ怒るし」

「アレほんと怖い。あんなに起こることないじゃんて思うよ」

「なんかさ、同じ班にいると気使う」

「ほんとそれ」

「おとうさんがアレだから、きっといい教育受けてないんだよ」

「あー、だから私達と話し合わないんだ」

「私この前、無視したら舌打ちされた」

「何それ、きも。私も話すの止めよ」

「うん、もうあの子と話すの止めようよ」

「そうだね。私、前田さんを無視するようにラインで回しとくね」


 小学五年の時、教室に忘れ物を取りに行った時だった。彼女たちの話し声は教室の外まで聞こえている。カイリは無言のまま、教室の扉を開けた。そこにいた女子たちがカイリを見て肩をこわばらせた。カイリは一瞥もくれず、自分の机の道具箱のなかから教科書を取り出した。

 教科書の表紙には「前田晋作、二分五十秒、KO負け」と誰かのマジックで殴り書きされている。カイリの父、前田晋作はプロレスラーだが、格闘家でもある。日本の格闘技界にはリングにプロレスラーなどの畑違いの格闘家が駆り出されるという独特の文化があった。売り出し中の格闘家の対戦相手がいない場合はそういうことになる場合が多い。当然、総合格闘家としての訓練を積んでいない者が勝てるほど今の総合格闘技は甘くない。

 今回の相手は若いロシア人で身体能力も技術も父より数段上だった。昔ボクシングをやっていた父親は、得意技がボディへのストレートという渋すぎるファイトスタイルだ。当然、そんなボクサーとしても微妙な晋作が勝てるわけもなく、二一歳の新鋭ロシア人に顎を砕かれ、顔中を血まみれにして敗れた。もう四〇を過ぎ、全身怪我だらけの肉体である。

 そんな事情も知らないで、スポーツ新聞や格闘技ファンは相手の選手を持ち上げ、父親に弱者と罵った。

 嫌いだった。

 異種格闘技ごっこをする格闘技界も

 それを支持する格闘ファンも

 父の醜態を広めるマスコミも

 それを面白がるクラスメイトたちも

 カイリは無言のまま教科書の表紙だけを破り、父親の対戦記録をくしゃくしゃに丸めて道具箱につっこんだ。落書きだらけの教科書を落書きだらけのランドセルに入れ、その後は落書きだらけの自分の机の前で首を垂れて立ち尽くす。周りのクラスメイトは何も言わず息をのんでカイリを見つめている。

 カイリは机を思い切りけとばした。

 机は大きな音を立てて転倒し、中の物を盛大にばら撒いた。女子達は竦み上がって数歩後ずさる。一番後ろの気弱そうな女子は泣きだす始末だった。

 カイリは軽蔑の眼差しを一つ投げかけ、教室を後にしようとした。

「な、なによ! 言いたいことがあるならハッキリ言えばいいじゃない!」

 女子のリーダー的な奴が抗議した。名前は忘れた。

 カイリはランドセルを横にぶん投げ、踵を返す。

「な、何よ。手だしたら先生にいうから」

 カイリは拳を握りしめる。その拳を振りかぶると女の顔面にぶちこんだ。手加減無しのパンチだ。拳がいたくなるほどおもっくそ殴ってやった。殴られた女子は顔を抑えて蹲り、めそめそと泣き出した。これまでカイリがされた嫌がらせのことを思えば、これでも足りない。

「言えばいいじゃないですか。言ったらまたぶん殴ってやります」

「ひっ、ひいい!」

 女子達は一様に混乱し、泣きながら教室を出ていった。

 カイリは教室に一人取り残される。オレンジ色の夕日がカーテンの隙間から教室に差し込んでいた。カーテンを跳ね除けてやってくる風が涼しい。少しだけ胸が空いた気がする。

 

 その次の日、父親が学校に呼び出された。父親はカイリが殴った女子生徒の前で何度も頭を下げた。女子生徒の親はこれでもかと父に罵声を投げかけ、校長の仲裁でようやく気持ちを落ち着かせた。父親の懸命の謝罪と管理職勢の説得でなんとか裁判沙汰は免れ、カイリの転校を口頭で約束して事なきをえた。

 カイリはあんな学校行きたくない、と父親に漏らしていたのである意味渡りに船だったのかもしれない。

 父の車の助手席で、カイリは窓の外を眺めていた。窓の外にはオレンジ色に染まった海が広がり、ガードレールが流れている。カイリは父親の叱責を待っていたが、父親は一向に怒る気配がない。

「カイリ、なんか美味しいものでも食べに行くか?」

 カイリは何も言わなかった。

「父さんは大丈夫だぞ! 罵倒されるのはリングの上で慣れてるからな」

 晋作は高笑いをした。その後沈黙を挟んで

「ごめんな、お前に辛い思いばかりさせて」

 父親の優しさが今のカイリには毒だった。涙腺はたちまち緩み、こらえていた涙がこれでもかとあふれ出す。

「お父さんは、悪くない!」

 カイリは大声で叫んだ。

「父さんはプロレスラーだ! 総合格闘家じゃない! なのになんで、アイツら平気で総合格闘技のリングに違う競技の選手を上げるの!?」

「選手を売るには咬ませ犬がいる。誰かがやらなくちゃ」

「そんなの父さんのやさしさに甘えてるだけじゃない!」

 テレビの影響は反吐が出るほど大きい。リングで無様なKOを晒せば、その映像は半永久的に大衆の記憶に残り続ける。カイリはその度にクラスの男子に嫌がらせを受けていた。

 「すいません。無理は承知なんです」「だから強制はしません」

 団体は弱者を装い、うまく下手にでながら前田晋作の善意とレスラーの矜持を利用していた。少なくとも当時のカイリにはそう見えた。

「いつか、日本の格闘技も海外の様に競技化するさ。そうなれば父さんは本望だよ。カイリには辛い思いさせるけど」

 カイリは目に涙をためながらむすっとして窓の外を見た。

「私は大丈夫。いっぱい勉強して、父さんのセコンドになって、試合をひっくり返して、大人たちを見返す」

 そう言うと晋作は呵々大笑した。

「俺の娘は母さんに似て強い奴ばかりだな。アスカもイオも、世間の風評なんぞものともしない」

「強いのはお父さんに似たからだよ」

 そう言うと晋作は運転しながら左手で荒っぽくカイリの頭をかいぐった。

「お前がその気なら、ジムを紹介してやる。俺の友人の株地ってやつのジムだ。アスカもそこで働いてる」

「私、世界で一番のトレーナーになる。強い選手をたくさん育てる」

「その意気だ。金の事は心配するな」

 父は総合格闘家としては決して強くない。それでもカイリにとっては最高の父親だった。

 カイリはストレスを燃料にして格闘技の知識をつけていった。中学の時点で理数は高校生の水準に達し、教科外の本もたくさん読んだ。頭の中には一つの図書館が出来上がり、他のトレーナーも舌を巻くほどだ。

 誰かを勝たせる、という分野では間違いなく同年代では世界一だと自信を持っていた。

 高校一年の夏。とある女が目の前に現れたことで、その自信は完全に打ち砕かれた。

 絶対に愛朽竜也は陣原大和に勝てない。

 それは確信だった。この男を勝たせる方法はない、と心のどこかで認めていた。

 だが、その女は、

 格闘技の知識を持たないその女は、

 たった二、三の助言で愛朽竜也を勝利に導いたのである。


「死にたいんですか?」

 カイリはそんな言葉を彼女に投げかけた。そんな暴言を吐けば吐くほど自分が惨めになるだけだというのに。

 彼女は、幸律は肩を竦めてその場を立ち去った。

 カイリはその後猛烈な自己嫌悪に襲われた。

 ――違う

 自分がするべきなのはこんなことじゃない。自分より上の存在を認めなきゃ、成長できない。

 カイリは胃腸が切り裂かれるような葛藤に苦しみながら、重い一歩を踏み出した。後は勢いに任せ、走って幸律の背中を追った。

 沈みかけの夕日で深い紅に染まった駐車場を幸律が歩いていた。

「待ってください」

 振り向いた幸律は「お、来たか」とでも言いたげに微笑していた。

「何の用だ、デカ乳」

「貴方に話があります、ペラ乳」

 幸律はくすくすと笑ってカイリと対峙した。

「さっき、私に耳打ちした時に言った台詞、あれはどういう意味ですか?」

「そのままの意味だよ。お前とアイツはウマが合いそうだからな」

 非常に不快な発言だったが、カイリは一先ずその話は横に置いておくことを決めた。

「仮に私と彼が組んだとして、貴方は彼の側にいなくていいんですか?」

「よくねえよ」

 幸律はあっけらかんとして言った。

「今はEスポーツ真っ盛り。アイツと組んで世界中のゲーマーをぶったおす、ってのがか弱い乙女たるアタシのささやかーな夢だからな」

「だったらなんで」

「アイツはアタシの奴隷じゃない。アイツにはアイツの道がある。その道にいるのはアタシじゃなくてお前なんだ」

 幸律の目には少しだけ、人間めいた青色の感情が浮かんでいた。

「私だっていつもアイツのセコンドについてやれるわけじゃない。格ゲーの大会や練習だってある。だから、これ以上関わって依存されたら、どちらにとっても不幸な結末になる」

 それが幸律にとって胸を裂くほど辛いことであることは、今のカイリにもなんとなく理解できた。

「アイツはああ見えて人を選ぶ性格だ。曲がりなりにも一ヵ月、アイツと組めたってことは信頼されてる証だよ」

 たしかに最近、愛朽竜也の物腰が柔らかい気がする。というより、当初よりカイリの言葉には従っていた。

「だからさ」

 竹の葉を鳴らしていた潮風がぴたりと止む。小波が遠く聞こえた。

「アイツを頼む」

 丁度、水平線に太陽が沈み、赤い光が海の彼方に吸い込まれていった。幸律の身体が影の中に沈んでいく。幸律の力強い声に、カイリは思わず言葉を失っていた。

 カイリの返答を待たず、幸律は背を向けて遠ざかっていった。

 自分は一体何をしにここに来たのか、カイリは分からなくなっていた。

 幸律とすれ違うようにして、白いワンピースを着た痩せた女が近寄って来る。女はカイリの傍らを通り過ぎた後に足を止めた。

「後悔はない?」

 カイリは走り出す。そうだ。まだ彼女に言っておかなきゃいけないことがある。

「ありがとう、お姉ちゃん」

「どういたしまして」

 カイリは走って幸律の後を追った。

「待ってください」

 幸律は歩みを止めて振り返る。今度は面倒くさそうに顔をしかめていた。

「おい、なんだよせっかくカッコよく立ち去れたのに」

「貴方に言い忘れてた事があります」

 幸律はきょとんとしてカイリを見た。カイリは深呼吸をし、それを言う決心をする。

「私、必ずあなたに追いつきますから」

 何がか、と聞かれれば困る。だけど、カイリは幸律に対して負けを認めた。それが重要だと思った。幸律はニッと人懐っこく笑った。

「そりゃ楽しみだ」

「貴方の力なんか借りなくても彼を勝たせて見せます」

「じゃあ、アイツの面倒見てくれるんだな?」

「うっ」

 本当に抜け目のない女だ。

「見ますよ。彼の事は大嫌いですけど、それが仕事ですから」

「おう、頑張れよ」

 カイリの発言はあっさりと透かされた。

「唐沢一徹」

「からさわ?」

「それが今のアイツの目標だ」

「唐沢、一徹」

「アイツのトラウマを掘り起こした張本人」

 どこかで聞いた事がある気もする。たしかアルゴンの新人格闘家だったか。

「じゃ、今度は本当に退散させてもらう」

 そう言うと幸律は夜の帳に消えていった。

 終始幸律にペースを握られた自己嫌悪からか、カイリはこつんと自分の額を軽く叩いた。


 カイリはその後、ジムのパソコンで幸律に付いて調べてみた。検索欄に「さりつ」と入れた時点で検索候補に「幸律虎子」の名前が挙がった。

「なにこれ、有名人じゃない」

 カイリはディスプレイに顔を近づける。

 【幸律虎子 炎邪】

 【幸律虎子 伝説の三〇秒】

 【幸律虎子 チート】

 【幸律虎子 トゥエルブ】

 など検索候補は幸律と彼女の使うキャラクターや試合の名前がセットになっている。彼女専用のwikiがあったので試しに開いてみると彼女の優勝記録がずらっと並ぶ。その説明を読む限り、普通なら絶対負ける様な試合をひっくり返してきたらしい。

 ためしにアルファベットで彼女の名前を打ちこんでみると、やはり彼女の名前がヒットする。マーブルVSカプコンというゲームの大会では海外に乗り込んで優勝したらしい。

 彼女の名を世に知らしめたのが、ストリートファイターⅢ3rdというゲームの世界大会だった。その動画は再生数二百万を突破している。

 彼女が使うのはトゥエルブという白いタイツを全身に纏ったような怪物だ。このキャラクターは多彩な攻撃とトリッキーな戦法を使うが、威力が弱くゲーム内では弱キャラに位置している。

 当時、中学生だった幸律は冷徹な視線でディスプレイをじっと見つめていた。そしてまるで機械の様にレバーとボタンを操り、《トゥエルブ》を自在に動かしていく。トゥエルブは時に姿を隠し、時に飛び跳ね、相手を翻弄しながらじりじりと追い詰めていく。

 幸律はただの一度も動揺することなく、淡々と全ての敵を倒した。

 彼女とは対照的に会場のアメリカ人の盛り上がりは凄まじい。

 そして幸律は優勝カップを手にしてようやく、肉食獣のような笑みを浮かべたのだった。

 カイリは格闘ゲーム未経験乍ら、幸律の凄さを知った。そして同時に、自分がいかに未熟であるかも再確認させられた。

「この人を越える。何か途方もない目標を立ててしまったような気がしますね」

 そう独語するカイリの表情は、どこか穏やかだった。


 その日の夜、カイリは自宅の居間で何もせずうつぶせになって寝ころんでいた。身に着けているのは中学時代のジャージ、上は白のタンクトップである。髪も皮膚も風呂上りで少し湿り気を帯びている。身体が熱っているからか、ひんやりとした畳が気持ちいい。

「お姉ちゃん、ドライヤー空いたよ」

「もちょっと。畳ひんやりで気持ちいい」

「もう! すぐ髪乾かさないとまた寝癖になるよ」

「めんどくさい。イオおねがい」

 カイリはもぞもぞと身体を捩って文句を言う。

「もー、そんなことだといい人見つかんないよー」

 イオは渋々洗面台からドライヤーを持ってきた。イオはカイリの髪をタオルで優しく撫でた後、ブラシを通していく。

「イオー、ごはんはー?」

「今日はアスカお姉ちゃんが買ってくるって」

「えー、イオの作ったご飯食べたい」

 イオはカイリの髪に優しくドライヤーを当てながら

「お姉ちゃんって、家だと急にダメダメになるよね」

「だめだめでいーし」

 カイリはひどくだらけた声を上げた。

「お父さんは?」

「死んだよ」

 イオはあっけらかんとして言った。

「またか。何回目?」

「四回目かな」

 前田晋作は怪奇派レスラーに路線を変えてから度々「死ぬ」。

「プラス今日はお母さんと外食だから遅いって」

「いいなぁ、外食」

 言いながらカイリはでろーんととろけるようにうつぶせになった。

「まぁたすぐ寝る」

「つかれた」

「ご飯になったらちゃんと配膳手伝ってね」

「ほしょうは出来ません」

 自宅モードのカイリに規律という概念はない。普段気張っている反動で、家だとこうなってしまう。

「ただいまー」

 玄関の方から姉のアスカの声がした。

「あ、ご飯が帰ってきた」

「ちょっと、誰か、これ冷蔵庫に入れといて」

「はーい」

 イオの足音が玄関へ遠ざかっていく。自分も手伝うべきか、とカイリは畳に額を付けたまま考えた。暫く葛藤したのち、まぁいいや、とこのままでいることを決めた。

「わーたしがー、いーなくてもー、大丈夫、だもーん」

 カイリのいる今の扉が開いた音がした。足音の感じからして姉のアスカだろう。

「おねーちゃーん、ちゃんとぷりん買ってきたー?」

 猫なで声でカイリは聞いた。

「いや、あの、えっと」

 男の声が返った来た。しかも知ってる声だ。カイリは一瞬にして戦慄する。カイリは野良ネコのように上半身を跳ね上げ扉の方を向いた。

「よ、よう」

 愛朽竜也が気まずそうに立っていた。

 カイリの顔も身体も見る見るうちに赤くなっていく。その日、前田家の一軒家から絹を裂くような悲鳴が上がった。


 姉のアスカは四人で食事でもどうと、言ったがカイリは愛朽を家に上げるのを断固拒否したためカイリと愛朽は近所のファミリーレストランで外食と相成った。

「で、何しに来たんですか」

 カイリは制服姿だった。一応外に出る服を見繕ったつもりだが、私服でないあたりに混乱の名残がある。

「いや、アスカさんに強引に連れてこられて」

「あんの女狐……」

 姉の前田アスカは度々カイリに対してセクハラまがいの悪戯を仕掛けてくる。いつもは素知らぬ顔で受け流していたが、流石に今回のは効いた。

「あなた、唐澤一徹という人物を倒したいそうですね」

 愛朽は一瞬身体をこわばらせた。

「幸律に聞いたのか?」

「ええ。さっき試合の動画見つけました。見たいですか?」

「もちろん」

「じゃあ一緒に見ましょう」

 カイリは持ってきたタブレットを机に立てかけ、動画を再生した。

 金網に囲まれたリングが俯瞰視点で映し出されそこで二人の格闘家が向かい合っている。赤いトランクスの男、猛獣のような眼光と発達した背中の筋肉、相手をあざ笑うような獰猛な笑み。それが唐澤一徹だ。

 対峙するのは黒髪の、言ってしまえば特徴の無い男だ。ただし、全身をくまなく覆う雄々しい筋肉以外は。

「アルゴンで二勝ですか。もう素人とは呼べない戦績ですね」

 試合が始まると、二人は接近した。田口はガードを高く上げ、対する唐澤はガードを胸の高さまでしか上げていない。最初の一分間はこれといった見どころも無く、淡々と過ぎていった。田口は親族を会場に呼んでいるらしく、心配そうに田口を見守る高齢の女性が度々カメラに抜かれていた。

「どう見る、カイリ」

「まだなんとも。ただ、立ち回りに余裕が見られるのは唐澤のほうです」

 たしかに唐澤は時折ガードを降ろし、肩や腕をぶらぶらさせてわざと隙を見せた。田口はそこに攻め入ることはしない。試合開始から一分二三秒、ようやく動きがあった。

 田口が遠間からジャブを放ち、続くストレートを打った直後。唐澤の左拳が相手の伸びた腕に被せるようにフックを放つ。

「入った!」

 カイリは思わず叫んだ。田口の足腰がぐらつき、たまらず後退する。唐澤の身体は火の様に田口の間合いに突進し、ガードの上から強力なブローの連打を浴びせた。拳がガードを打つ生々しい音が重なり、田口はカメのように金網際で縮こまる。唐澤は悪魔のように笑いながら、体を左右にツイストして強烈な打撃を間断なく叩きこんでいく。

「うお、全然疲れねえ」

「凄まじい持久力ですね。普通なら攻め疲れしていても不思議じゃありません」

 田口は額から血を流し、鼻の辺りで幾つも赤い支流を作って地面に流れ落ちる。隙を見て田口は自ら接近し、唐澤の胴体に組みついた。

『っしゃらくせぇ!』

 唐澤は田口の足を引掻け、のしかかるように田口共々倒れ込んだ。

 立ち技から寝技の攻防へと移る。

「位置取りが上手い」

 下になった田口の足が唐澤の片足に絡みついている。これはハーフガードと呼ばれるポジショニングで、唐澤が足もう一方の足を抜けば胴体に馬乗り――つまりマウントポジションとなる。唐澤はハーフガードの状態から田口にパンチを叩きこんでいく。

「構わず殴るな」

「ハーフガードでも強い打撃は打てますから。逆にマウントポジションはバランスを崩しやすいので、積極的にいかない選手もいます」

 田口の顔面がみるみるうちにはれ上がっていく。額の傷も開き、顔は鮮血で真っ赤に染まった。

「おい、これ止めないのか」

 次の瞬間、唐澤は自足に絡みつく田口の太ももに左足をひっかけ、足を引っこ抜く。そのまま唐澤はマウントとなった。唐澤はロデオを乗りこなすようにバランスを取り、馬乗りを維持したまま拳を振り下ろす。ぐちゃ、と拳が顔を叩く鈍い音がした。

 田口は闇雲に暴れ、唐澤に背を向けるように体を捩ったが、

「あ、」

 唐澤は田口の背中に組みついた。素早く顎の下に右腕を通すと、左手でがっちりとクラッチを組み、田口の喉を締め上げる。

「裸締(チョークスリーパー)か」

「入ってますね。終わりです」

 田口の血まみれの顔が苦悶に染まる。田口は意地を見せたが、それは地獄を長引かせるだけだった。田口の全身から力が失われ、レフェリーが二人の間に割って入る。

 田口は失神し、血まみれの顔は白目を剥いていた。ある意味死体よりもグロテスクな有様だった。

 唐澤は飛び上がると、金網のフェンスに跨り拳を高々と上げた。体育館に詰めかけた観客は大いに盛り上がり、熱狂に陶酔していた。田口の母を抜かなかったのはカメラマンの良心だろう。

 唐澤は金網によじ登ったまま、観客席の一点を指差した。そこには、武将のような髭を生やした厳めしい男が腕を組んで唐澤を見下ろしている。アルゴンのランカー一位、神床大我(かみどこたいが)である。

『お前を仕留めるのは俺だ』唐澤の挑発に、神床は無言を貫いていた。

 アスカはタブレットを鞄にしまいながら

「これがあなたの目標です」

「寝技も出来るんだな」

「当たり前です。現在の総合格闘技は寝技も打撃も組技も全て高い水準にないと勝てません」

「で、どうすればいい?」

 カイリはなんとなく愛朽を見た。顔は青いが、目に力はある。悪い顔じゃない。相手をしっかり恐れているが、必要以上に恐れてはいない。

「それは明日教えます。今日の所は帰って疲れをとってください」

「うーん」

「ハンデがあったとはいえ、たった一ヵ月で陣原さんに勝ったんです。もう少し余裕を持ってもいいと思いますよ」

「分かった。でも、勝ったのはお前のおかげでもあるんだからな」

「え?」

「ちゃんと体調管理のスケジュールも組んでくれたし、練習メニューも作ってくれた。正直、最初はガサツで口が悪くて頭のおかしいだけの女だと思ったけど」

 顔にフォーク突き刺してやろうか。

「今は信頼してるよ。頼むぞ」

 その一言がカイリの殺意を吹き飛ばす。心臓が高鳴り、顔がほてりを帯びる。カイリは暫く竜也にかける言葉を見失ったまま呆然としていた。


「頼むぞ」と一日に二人の人物から言われた。

 果たして、あの女が信頼するだけの力があるのだろうか。いくらそう考えてもあの女は愛朽から離れることを選んだのだ。だから、もうその真意を聞く術はない。

 カイリはトレーニングルームに入った。

「要するにだ」

 聞き覚えのある女の声がした。

「才能の有無なんてのは引退してから考えればいいんじゃないか? そもそも競技が複雑化すれば才能の定義すら難しいし。そんなことを考えるよりも、今自分がどうすれば最善を尽くせるのか考えた方が有意義じゃないか?」

 黒いジーパンと黒いシャツの女が愛朽を前に何かを喋っている。どう見ても幸律である。

「何してるんですか」

 幸律はカイリを見て「よう」と右手を挙げた。

「ようじゃないです! なんで今日もここにいるんですか!」

「いや、それがさ、アレクに格ゲーの遊び相手を探してもらうって条件でセコンドを引き受けたんだけど」

「だけど?」

「どれだけアレクに連絡しても音信不通でさ。なんかアタシと同じ年齢か年下の奴で遊び相手になってくれるような奴しらね?」

「知りません」

「ならここを動かない」

 困った女である。今ここにいるのはプロを目指す人間かコーチだけだ。彼女の趣味に付き合う時間の余裕などない。そんな時、カイリの背後で扉が開く音がした。振り返ると前田イオが立っている。

「お姉ちゃん、今日家でご飯食べる? 人数分の食材買わなきゃいけないから、誰が家で食べるか把握しときたいんだけど」

 幸律の目が魚を見つけた猫のように爛々と輝いた。

「アイツでいいか?」

「どうぞ」

 カイリは無慈悲に即答する。

「よし」

 言うと幸律はイオの後ろ襟を鷲掴みにする。

「え? え? 何? どういう、、、こと?」

「今日からお前はレバーを握って毎日バニコンの練習をするんだ」

「意味わかんな――」

 幸律は混乱するイオを玄関まで引きずっていく。

「ちょ、お姉ちゃあああぁん! なにこれえええ! たすけてえええええぇぇ」

 合掌。

「妹よ。物事を円満に解決するには犠牲が必要なのです」

「鬼め」愛朽はそう評した。

 イオと入れ替わるようにして姉のアスカが顔を出す。

「二人とも、ちょっといい?」

 アスカは二人を休憩室に連れていく。

「竜也君の指導計画が完成したから見てもらいたくて」

 そう言うとアスカは数枚重なった紙の束を差し出した。

「データ化したのも作ってあるから、必要なら言ってね」

「指導計画って?」

「竜也君が成長するための計画書。例えば、どういう身体づくりをして、どういう食事生活をして、どういうトレーニングをして、どういう格闘人生を歩んでいくかを纏めたものだよ」

 見れば協力関係にある医療機関やコーチ、協力してくれるジムの連絡先まで書いてある。

「個別の指導計画ってやつ」

「姉さんはもともと支援学校の教師だったんです」

 アスカはその職歴を活かして選手の育成を統括している。各コーチもトレーナーも彼女の指示で動く。そして定期的に選手とトレーナーと三者面談をして育成方針を修正していくのだ。

「まず竜也くんに大事なのは身体づくりだね。筋力と柔軟性と持久力。これを付けて怪我をしにくい身体を作ってもらうよ」

「実戦はいつになりますか?」

「希望するなら三か月後とかでもいけるかな。参加する団体はペルセウスのアマチュア支部、AMDでいい?」

 AMDはアマチュアの団体でランキング制度を採用している。ここで好成績を収めると、推薦という形でアルゴンに昇格することが許されるのだ。

「はい。アルゴンに上がれるなら」

 愛朽の視線は力強い。自分より遥かに強いであろうあの男を本気で倒す気でいるのだ。

「分かった。一応それで計画を作成する」

 と言ってアスカは席を立った。

「仮に勝ち続ければ、最速で一年、唐澤のいるところに辿り着けますよ」

 愛朽はゆっくりと頷いた。

「俺は負けられない」

 そう言って前を向く。陣原を前にした時よりも遥かに物騒な目つきをしている。その視線はどこか遠くを見ているようだ。彼が見ているのは唐澤か。それとも、


 翠は枯れはて、山は白、北から風が吹く季節になった。寒さに誰もが身を縮めて歩くこの季節、都内のとある体育館は蒸し暑い熱気に包まれていた。

 アリーナに設営された八角形のリングの中で、ヘッドギアを付けた愛朽竜也が立っていた。黒のボクサーパンツ。赤のオープンフィンガーグローブ。あのひょろっちかった身体は岩肌のような筋肉の鎧に守られている。

 相手は中年の男――門真康太(かどまこうた)で、筋肉は愛朽よりも頼もしい。土木作業員らしく、皮膚は冬だというのに小麦色に焼けている。

 二人はレフェリーの説明を中央で聞き、それぞれのコーナーに一旦帰還する。

「ここからですよ」

「うん」

 愛朽は焼香でもするかのような沈鬱な面持ちで頷いた。

 駄目だ、表情が硬い。肩もかなり強張っている。肩に緊張があるとパンチが伸びない。

「緊張しないで。練習の成果を信じて下さい」

 言ってすぐカイリは自己嫌悪になった。こんな誰にでも言えるようなアドバイスでどこの誰の緊張をほぐせるというのか。

「ファイッ」

 試合開始の合図が下った。

 遠ざかる背中に、カイリは何も言葉をかけられない。

 あの時から、自分は何も成長していない。

 幸律は何故自分に「頼む」などと言葉をかけた。

 カイリは人知れず拳を握りしめた。

 竜也は前に出てジャブと右ストレートを放つ。離れ際にローキック。どれも基本に忠実で威力と隙のバランスがいい。理想的な攻撃だ。

 竜也のパンチと蹴りは小気味よく相手のガードの上にヒットする。

「隙も少ない。頭はしっかりと働いてますね」

 竜也は呑み込みが早く、カイリの言うことをよく吸収して技に昇華させる。すでにジャブとストレートには磨きがかかっている。竜也は門真に密着するとその腹にボディを打ちこんでいく。基本に忠実なボディだ。練習の成果がよく出ている。

「そのまま自分のペースを崩さないで」

 相手のボディと足を攻撃してガードを下げさせる。そうなればフィニッシュブローを顔に当てることが出来る。竜也は序盤の二分は順調に攻めた。試合が動いたのは試合時間が三分に差しかかった頃合いだった。

「調子乗んなよガキが!」

 突然門真が怒声を張り上げたかと思うと、ずんずんと前に出てきた。竜也がジャブを放つと荒っぽいパーリングで撥ね除け、続くストレートはヘッドスリップで強引に躱して距離を詰めて来る。

「死ねっらぁ!」

 ヒヨドリのような裏返った声を放ち、門真は竜也の足に組みつき、尻の下でクラッチを組むと強引に足を刈って引き倒す。だが、門真は寝技の攻防には移らない。転倒した竜也を見下ろし、五指を引いた。

「かかってこい坊主」

 愛朽は立ち上がる。

 その愛朽に門真は荒っぽいパンチのラッシュをかけた。軌道もタイミングもハチャメチャなパンチ。だが愛朽は防戦一方だ。

「くそっ、角度の見えづらい邪道パンチ」

 奇しくも陣原にやったのと同じ戦法だ。だが防戦一方になってもフィニッシュブローをもらうような愛朽ではない。巧みな腕とステップワークで時折パンチは顔に貰いながらも致命的なダメージは回避する。しかし、防戦一方となった愛朽の審判の印象は最悪だ。

 愛朽は防戦一方のまま第一ラウンドを終える。

 二人は有効な手立てを打てないまま第二ラウンドを迎えた。竜也はなおも門真のうさんくさいパンチに捕まり続けた。

 このままだと判定負けのリスクは跳ね上がる。

 焦りが、カイリにミスを産んだ。

「あと三十秒! 負けてますよ!」

 カイリは愛朽に発破をかけるつもりでそう叫んだ。愛朽はカイリの声に反応し、相手の連打の中で攻撃を試みる。奇しくもそれは最悪のタイミングだった。

 愛朽が無理に左手のジャブを打とうとした瞬間、ガードが解かれた愛朽の顔面に門真のパンチがヒットした。愛朽の頭は首の骨が無くなったかのように大きくしなり、空中に汗の飛沫を飛び散らせた。愛朽の足から力が失われ、愛朽はひざまずく様に崩れ落ちた。愛朽は動力を失った人形のように動かない。

 普通なら絶対に貰わないようなラッキーパンチ。相手の門真が適当に振り回したパンチが偶然、前に出た竜也の顔にヒットしただけだ。

 ――私の、せいで

 カイリは一瞬放心状態になった。目の前では門真が大きく拳を掲げて仲間にアピールをしている。タンカで医務室に運ばれていく愛朽をカイリは呆然と見ていることしか出来なかった。

 愛朽と再び言葉を交わしたのは、近くの病院で精密検査を終えた後だった。

「これで三連敗だ。悪かった」

 と先に謝ったのは愛朽のほうだ。愛朽は公式戦の一試合目を黒星で飾り、二戦目も負けている。いずれも判定負けだ。そして再起を望んだ今回、KO負けという最悪の結果となった。

 カイリは愛朽に何も言えなかった。

「ごめん」という言葉で責任を取ったつもりになりたくなかった。だからといって自分の無力さがどうにかなるわけでもなかったが。

 カイリはその晩、家に帰ったが何も口にする事はなく風呂に入った後は布団の中で悶々と考えごとをしていた。あの時どうすればよかったのか。自分は最善をつくせたのか。いくら自問しても答えは出てこなかった。


 次の日、ファイヤーストームに顔を出すと、誰も自分からは話しかけてこなかった。多分昨日の顛末を知っているからだろう。また、「まだ高校生なんだから」という言葉が彼女を傷つけるということも皆知っていたから。

 スウェットと黒のパーカーに着替えて愛朽を待っていると、アスカが姿を現した。相変わらず幽霊のような不健康極まる顔色で、白のワンピースも死に装束のようだ。

「ちょっといいかしら」

「うん」

 アスカはまた休憩室にアスカを連れて来る。二人はテーブルを挟んで腰を下ろした。

「現実は厳しいなって、思ってるでしょ」

 カイリは視線を逸らした。

「彼のここまでの戦績は公式試合三連敗。そりゃ、布団の中で一人めそめそ泣きたくもなるよねぇ」

「ちょ、なんでそのことを」

「お姉ちゃんはカイリのことならなーんでも知ってるんだよ」

 ベッドの裏に盗聴器でも仕込んでいるのではなかろうか。この女ならやりかねない。と思うカイリだった。

「持久力もついてきたし、技のキレも悪くない。メンタルだって弱いわけじゃない。でも、不思議と勝てない。カイリはどう思う?」

「まだ半年しか経ってないから、勝てないのは当然だと思う。一般論をいえば」

「うんうん。総合格闘技は一人前になるには時間がかかる競技だからね」

「でも、アイツにはその辺の素人くらいなら倒せるくらいの潜在力はある」

「つまり、カイリは竜也君が実力を出し切れてない、と思ってるわけだ」

 カイリはむすっとして言葉を返さなかった。

「じゃあその潜在能力を出しきるにはどうすればいいと思う?」

「それが分かれば苦労しないよ……」

 カイリは俯き、人差し指で机の上にうにうにと渦巻を描いた。

「相当落ち込んでるね」

「だって、私、アイツがリングに上がった時、何も気の利いたことも言ってやれなかった。あの女みたいに、いい戦術を思いつくことも出来ない」

「戦術家になんかなれなくてもいいじゃない。国力増強と外交が戦争の本領よ」

「そんな突拍子もない話されても」

「戦術が練れなくても貴方には出来ることがあるでしょって言ってるの。現場で戦術家になれなくても気にする必要はないわ」

「でも、私は彼を勝たせることが出来ない」

「そういう時は新しいことに挑戦するの」

「新しい事って」

「あなた、彼の事まだよく知らないでしょ? もうちょっと親密になってもいいんじゃないかなって、お姉ちゃん思うんだけど」

「別に私達そういう関係じゃ」

「だーかーらー、彼のことをもっと知ることが今は先決でしょ? ビジネス的に」

 アスカは悪童の様に悪い顔になる。それで愛朽を勝たせることが出来るのであれば、と考えないわけでもない。

「分かったわよ」

 カイリは大きなため息をついた。

 

 竜也の行動は基本に忠実過ぎる。攻撃も単調だからいくらキレが良くても見きられやすい。そして一度押され始めると、そこから挽回するほどの技術が無い。それは薄々分かっていた。それを極上の料理に味付けするほどの独創性が自分にない事もこの三試合でよく分かった。

 それでも、愛朽はカイリを信じて付いて来た。だからそれに報いるためと、カイリは責任を感じていた。

 愛朽がジムに姿を見せや否や、カイリは声をかけた。

「あんた、今日の夜空いてる?」

「あ、え? 空いてるけど」

「今日、貴方の家に行くから」

 愛朽はポカーンと口を開けた。絶句とはまさにこのことを言うのだろう。

「いいわね?」

 カイリが詰めると、愛朽は呆然としながらも首を縦に振った。


 愛朽がカイリを家に連れていくと、彼の母親――しかも、なかなかの美人――もまた口をあんぐりと開けて絶句した。愛朽が幸律以外の女性を連れ込むのはそれほど珍しいことらしい。錯乱した彼の母親が「竜也、お母さんがゴム買ってこようか」などと血迷ったことを言った時はカイリもどうしていいか分からなかった。

 愛朽の部屋はかなり整頓されていて床には埃一つない。入口向いの壁には本棚が三つあった。右端は漫画と小説、中央はゲームソフト、そして左端はスポーツや歴史の本があった。格闘技に関する本もそれなりにたくさんある。窓際にはベッドが、その反対側には横長の棚があって中にはかなりの数のゲーム機が収納されている。その隣にはテレビがあった。他に珍しいものと言えば

「キィ」

 獣の鳴き声がしたかと思うと、足元にあったケージが激しく揺れた。

「な、何?」

 カイリは思わずぴょんとその場から飛びのいた。

「フェレットだよ」

 愛朽はケージから白色のイタチを出した。イタチは愛朽の上腕ほどの大きさで、身体はかなり成熟しているように見える。イタチは相当懐いているようで、愛朽の身体によじのぼって体をよせて甘えだした。

「名前とかあるんですか?」

 カイリはへっぴり腰で警戒しながら聞いた。

「分母ちゃん」

 糞みたいなネーミングセンス。

「ほい」

 愛朽はフェレットをカイリに放り投げる。

「きゃいあ」

 突然「分母ちゃん」を手渡され、カイリは飛び上がる。分母ちゃんはかなり人懐っこく、怖がるカイリの腕の中でうにうにと首を振った。

「うわ」

 得体の知れない怖さはあるが、そのもふもふとした感触は触っていて気持ちいい。獣の臭いも慣れればあまり気にならない。そして何より、見ていると心がほっこりする。

「で、俺の家に来て何するの? 晩飯でも食う?」

「好きにしてください」

 カイリはフェレットを抱え込んだまま腰を下ろした。

「好きにするたってな」

 愛朽は頭をポリポリと掻いた。丁度そんな時彼のスマートフォンがバイブする。

「あ、幸律がネッタイしたいって」

「ネッタイ?」

「ネット対戦の略。十中八九格ゲーだな」

「どうぞ」

 待ってましたと言わんがばかりにカイリは背筋を伸ばした。

「しゃあねえな」

 愛朽はゲームを起動する。同時に棚から取り出したのはアーケードゲームの筺体を切り取った様な、レバーと八つのボタンがセットになったコントローラである。愛朽が起動したのは《メルティブラッド》というゲームだ。若い女性のキャラクターが多いゲームだな、とカイリはなんとなく思った。格闘ゲームのキャラクターは男ばかりというイメージがあったのでカイリにとっては新鮮だ。

 愛朽がボイスチャットを起動するとテレビのスピーカーから

『竜也さああぁん! 助けてええぇ!』

 と聞きなれた声がする。

「どうした、イオ」

『ヴァンパイアハンターでビクトルってキャラ使わされてるんですけど全然勝てません』

「ハンターのビクトルは勝つように出来てないから諦めろ。あれはキャラクターじゃない。ただの置物だ」

 酷い言いぐさである。

『てめぇ! アタシのビクトルを侮辱しやがったな!』

 と今度は幸律の声が聞こえる。

『……ん? お前誰か部屋に入れてる?』

 なんで分かるんだ。

「前田カイリだよ」

『嘘、お姉ちゃんいるの!?』

「いるわよ」

『丁度いいからお前ら姉妹で戦ったらどうだ?』

「『え?』」

「いいんじゃないか? どっちもメルブラやったことないだろ?」

「私はそもそも格闘ゲーム自体やったことが」

「ものは試しだって」

 という流れでカイリはなし崩し的にレバーを握った。本当は一度やってみたいとは思っていたが、やはり口には出さない。

 キャラクターは「ガタイがいいから」という極めて格闘技オタク的な発想でコートを着た短髪の大男を選んだ。肌は姉よりも血色が悪い。愛朽は彼を「教授」と呼んでいた。

 対するイオは紺のジーパンと白のTシャツを着た赤い髪の女性を選ぶ。こちらは「先生」と呼ばれていた。背は高くスタイルはいい。

「俺の持ちキャラだ。やりづらいな」

 愛朽は顔をしかめた。

『ちなみにこのキャラ、竜也の初恋の相手な』

「お、おい、言うなよそんなこと!」

 愛朽は顔を真っ赤にして身を乗り出している。

「ふーん」

 二次元のキャラが初恋の相手という所もなかなか引っかかるが、一方でこういう女性が好みなのか、と変にがっかりもする。色々髪型やネイルや化粧など細かいとこに気を使っても、スタイルと顔が良ければこういうシンプルな服装な女性のほうがいいのかと。そこまで考えて「何故愛朽の好みに一喜一憂しなくてはならないんだ」とカイリはかぶりをふる。

『おし、イオ、姉だからって手加減すんなよ。教えた通りにやりゃ完封できる』

『うん、、、お姉ちゃん覚悟!』

「返り討ちにしてあげましょう」

 姉として妹に負けるわけにはいかない。料理の腕以外なら、妹に後れをとったことは一度も無い。

 戦いが始まると、先手必勝よろしくカイリはレバーを左に倒して前に出た。

『ごあんなーい』

 赤い髪の女は緊張感のない声を出す。同時に「イオ」の身体が深く沈み込んだかと思うと、せり上がるアッパーが「カイリ」の身体を跳ね上げる。

「くそっ」

 ダウンをもらった。慌てて起き上がったその隙に

 ごあんなーい

 再びアッパーがヒットする。

「また」

 慌てて起き上がって攻撃を試みるも三度

 ごあんなーい

 こちらの攻撃は潰されて相手の攻撃がヒットする。

「こんなモーションの大きいアッパーに翻弄されるなんて!」

 アッパーとは強気に振り回す類の攻撃ではない。だがそんな格闘技的常識は通用しない。これはゲームだ。物理法則も戦術も現実とは違う。結局カイリは何もできないまま妹に完敗を喫した。

「あーあ。ごあんないアッパー判定強いから」

「うぅ、」

 妹にやられた屈辱か、画面が霞んでよく見えない。

「おい、泣くなよ」

「泣いてません!」

 カイリは袖で目を拭った。

「よく見てみ。隙は大きいからしっかりガードして反撃できるから」

「……分かりました」

 愛朽の言う通りだった。ガードをすると相手に「硬直」という隙が生まれて、こちらの攻撃がヒットする。

 カイリの放った攻撃がわずかだが相手のライフゲージを削る。

「当たった!」

「ガードと防御システムを理解するのは重要だよ。格ゲーごとに色んな防御システムがあるからそれを使いこなさないと、相手の攻めを返すことが出来ない」

 闇雲に攻撃を出すことの恐ろしさはさっき味わったばかりだ。

「後は当たり判定を意識して」

「当たり判定?」

「要するに相手の攻撃を受ける領域のことだよ。相手の攻撃の間合いとこっちの攻撃の間合いを意識しないと、攻撃が外れて反撃をもらったり、逆にこっちの攻撃が当たらなかったりする。さっきのアッパーは横と上方向に判定があるから、闇雲に飛んだりすると狩られるよ」

「あ……」

 カイリは気付いた。だから愛朽はディフェンスやステップワークに拘泥するのか。全ての攻防の基本は攻撃よりもガードと間合い。この人の戦いの底にあるのはゲームなのだ。

 などと感心していると、カイリは転倒させられ、起き上がろうとすると光の弾が破裂して怯まされ、そこから猛烈な連撃を浴びせられる。とても素人とは思えない動きだ。

「おい、今幸律がやっただろ」

『ばれたか』

「ど素人が破裂コンなんか使える訳ないからな。……俺がやる」

 そう言うと今度は愛朽がレバーを握った。

『腕は錆びついてないだろうな』

「愚問」

 愛朽は「先生」を、幸律は小さな猫を選択する。ネコといっても二本足で歩いているし、服も来ている。身体がちっこいので多分弱キャラなのだろうと、カイリは例の如く格闘家的発想で結論付ける。

 試合が始まると、愛朽はレバーを激しくそして正確に操った。とても同じキャラとは思えないような軽快な動きで、二人のキャラクターが激突する。幸律は完全に計算しつくされた動きと時に見せる野性的な動きで愛朽を翻弄する。だが愛朽も幸律の猛攻の中から反撃の糸口を見出して切り返す。画面を所狭しと飛び回り、ビームや拳が飛び交う激戦だ。

 ハイレベルな戦いだった。

 操作技術もさることながら、所々で生まれる駆け引きがカイリの目を引き付ける。

「うああ、落とした。相変わらずの糞判定」

『そんだけリーチあるんだから文句言うな』

 それに、愛朽は楽しそうだった。結局キャラクターの差もあって愛朽が勝ち越したが、それでも勝敗に納得いかない二人は別のゲームを起動する。

 今度は3Dのロボットアクション《電脳戦記バーチャロン オラトリオタングラム》というゲームだ。

「なんですかこれ?」

「バーチャロンシリーズの二作目だよ」

「だからどういうゲームなんですか」

「バーチャロイドっていうロボットで戦う、対戦アクションゲームだ。体力のリード取って、後は相手の攻撃を避けまくる。逆にリードされたら冷静に相手を追い詰めていく。とにかくどんな状況でも焦らないで戦況をよく見極めることが重要なゲームだな」

 それだけ聞くと

「……面白いんですか?」

「まぁ見てなって」

 幸律が選んだのはサイファーと呼ばれる桃色と青のツートンカラーの機体だ。フォルムはハリネズミのように刺々しい。

「おいおい、ガチじゃねえか」

『お前とチャロンやる時は100パーセントでやるって決めてるからな』

 愛朽が選ぶはアファームド・バトラーと呼ばれる機体。

「このロボトンファー持ってる……」

 どういう意味があるのか得物は二対の打撃昆である。ロボに持たせる意味はあるのか。見た目も迷彩柄のズボンを身に着けた半裸の男を連想させる塗装をしていた。

 二人は向かい合い、試合開始の時を待つ。

 ――GET READY?

 愛朽が高速で走り出すと画面は衝突事故でもあったかのように荒ぶった。幸律はフィールドを所狭しと飛び回り、愛朽はそれを死にもの狂いで追いかける。二人は縦横無尽にフィールドを走りながら無数の攻撃を雨あられと繰り出していく。

 異常なのはその速さ。人間が反応できるギリギリの速さで、傍目には何が起こっているのか全く理解できない。そして、その速さの中で的確に行動を選択していく二人の信じがたい判断力。よもや言葉もかけられないほどの凄まじい集中力で数秒の中に密度の濃い攻撃の応酬を繰り広げていく。

 カイリも目が慣れてくると手に汗を握り、愛朽が相手を追い詰め、ライフが逆転した時は言葉にできない爽快感に酔いしれた。

 ここだ。

 ここから彼はやってきたのだ。この世界が彼の本来住まうべき場所なのだ。

 この世界、この速さこそが、彼の求める理想。

 二人が一時間ほど戦った後は、何故かカイリは汗をかいていた。身体の火照りが中々収まらない。

 二人はようやく満足したのか、四人で遊べるゲームを起動した。《スマブラ》である。

 これも有名どころで、カイリも名前はしっていた。だが、やったことはなく、イオとカイリは二人に手加減してもらいながら、なんとか試合に付いていくことが出来た。

 二体二のチーム戦では不本意にも幸律と組まされたカイリだった。幸律は腹立たしいことに、偉そうにカイリに命令をする。

『今だでか乳! 爆弾(それ)をぶん投げろ!』

「え、は? えい」

 走りながらカイリが投げたせいかぶん投げた爆弾は四人全員にぶち当たり、四人はそれぞれが別々の方向に凄い勢いで吹き飛んでいった。

 それを見た、カイリの腹の底から何かが込み上がってきた。長い間忘れていた何かは、喉に達すると勢いよく口の外にでた。

 カイリは声を上げて笑った。画面の向こうでイオと幸律の笑いが上がり、竜也も腹をおって笑っていた。竜也の前では威厳を保つとか、今はそんなことどうでもいい。ただ、この時間が楽しかった。

 ひとしきり四人で遊んだあと、竜也は近くのスーパーに晩飯を買いに行った。

 竜也が部屋を出た後ボイスチャットから幸律の声がする。

『どうだ、アイツと組んでみて』

「結果、もう知ってるんでしょ?」

『まあな。最初はそうなると思ってたよ』

「負けるって分かってたんですか?」

『アイツは物事になれるまで失敗を繰り返すタイプの人間だからな。アタシが格ゲー教えた時もそうだった』

「……昔もそうだったんですか?」

『昔ギルティギアってゲームの大会に出てさ、アイツはチップってキャラを使ってたんだ』

「はぁ」

『で、そのチップの起き攻めをずっと練習してきたんだけど』

 起き攻めとは、たしか倒れて起き上がろうとしている相手に攻撃を仕掛けることだ。ちなみに総合格闘技では「際の攻防」というやや近い概念がある。

『いざ大会に出ると緊張して全然成功しないの。で、竜也は一勝もすることなくチームは負けた。で、アイツ大会が終わった後大泣きしてさ』

 幸律でも失敗する事はあるのか。無敗の格闘家ジョンジョーンズも練習ではよく負かされたとインタビューで語っていた。どんな優れた人間も失敗とは無縁でいられないらしい。

『あたしの教え方はダメだったんだ、って本気でヘコんだよ。でも、ずっと同じ時間を過ごすうちにアイツの事が分かってきて、アイツに私を合わせるようにしたんだ。で、一人の天才格闘ゲーマーを作り上げたってわけ』

 極端にポジティブな結論はともかく、幸律の言葉にはヒントがあった。

「私も、さっき彼の格闘哲学の根本は格闘ゲームにあると気付きました」

『うん。いや、今気づいたの?』

「え?」

『お姉ちゃん、、、鈍い』

「えぇ!?」

 今、すごく大事なことに気付いた感じで言ったのに。

『いや、だって、そりゃそうだろ。お前アイツが何の意味もなく防御やステップに拘ってると思ってたのか?』

「いや、なんとなく、そういう性格なのかと」

 誰にも見せられない程カイリは顔を赤くしていた。確かに竜也のバックボーンにあまりにも無頓着すぎたかもしれない。

『お前、意外と天然だよな』

 返す言葉も無い。

『ま、その真面目さも考えようによっちゃ武器になるだろうさ。アンタとアタシは違うんだ。アンタなりにベストを尽くせばいいんじゃないか』

「い、言われるまでも無いです。私はいつだって全力です」

『そうか、ならいい』

 不思議と、画面の向こうの幸律が笑顔でいるのが分かった。

「前から聞こうと思ってたんですが、あなたは何故彼と一緒にいたんですか?」

『あ? 竜也とか? 小坊の頃にアタシがランドセルにつけてたキーホルダーが無くなってさ、放課後の教室で一人探していたら、アイツが一緒に探してくれたんだよ』

「その時に惚れたとか?」

 カイリは少し悪戯気を出してみた。

『あぁ? 勘弁しろよ。すぐ凹むし、気は効かねえし、飯には誘ってこねえし、こっちの誕生日にだっせーリボンよこすし、そっちの方はてーんで駄目』

 どっちの方なんだろう、と思いながらカイリは思わず口元が緩む。

『駄目だけど、アイツは絶対にアタシのことを裏切らない。世界中がアタシの敵になってもアイツだけは私の側にいてくれる、と勝手に思ってる』

 テレビの向こうで頭を掻くような音が聞こえてきた。

『なんつーか、口にしづらいけど、アタシみたいなどぎつい性格の奴の傍にいても嫌がるどころか、居心地がいいとかぬかしやがるんだよアイツ。そういうのって貴重な存在だろ』

 なんとなくだが、カイリも言いたいことが分かる気がした。竜也はこちらが誠実でさえいれば、こちらを否定するようなことは言わない。かくいうカイリも、妹以外の人間に頼りにされたのは初めてだったから。

『アイツと一緒に過ごした時間は本当に楽しかった。ただ遊ぶんじゃなくて、勝つためにどうするか二人で話し合って、作戦とか立ててさ、そういう時間がずっと続けばいいと、願い続けてた』

「そう言う割にはアッサリとこっちに丸投げしたわね」

『だーかーらー、アイツがそう選択したならそれを否定する権利はアタシにはないの! だから、お前にアイツの事頼むって言ったんだよ』

「私にあなたの代わりが務まると?」

『あ? 代わりになんかなってくれなくてもいいよ。アタシとお前は持ってる能力が違うんだから』

 姉と同じようなことを言われた気がする。

『お前なりのやり方でアイツをサポートすればいいさ。もう一度言うけど、頼むぞ』

 カイリは少し自信なさげに呟く。

「……分かってます」

 

次の日、ジムの休憩室に竜也を呼び出した。

「今日は何をするんだ?」

「計画の見直しです」

「見直し?」

「今日から、試合のプランと習得する技はあなたに決めてもらいます」

「はぁ!?」

「私はその習得のサポートをします。それでいいですか?」

「いや、お前はそれでいいのかよ」

「構いません」

 言いながらカイリは鞄からタブレットを出す。そこには「standing」と書かれたカードが映し出されている。そこをタップすると、そこから線が枝分かれしていき、そこにジャブやパンチといった技が描かれる。

「これが今あなたが習得している技術です。最初はスタンディング。そこから使える技はストレート、ジャブ、フックです。青い文字で書かれているのは私がまだ実戦で使えないと判断した技です」

 青い文字にはアッパー、タックル、などがある。

「こう見ると今自分に何が出来るのかが分かりやすいはずです」

「たしかにな。寝技のところは、タックルと腕三角以外は真っ青だ。矢印の大きさが違うのは?」

「各体勢に移行する時の技量です。例えばMMAでは寝た状態から立つ技術も必要になってきます。こういった、繋ぎの技術を忘れて貰わないためこうした図にしました」

 ちなみにこの図の作成には十時間かかった。今もカイリの目の下には大きなクマがある。

「で、貴方はどうした技術を望みますか?」

 竜也は暫く考え、

「欲しいのは遠間から一気に間合いを詰める方法。それと角度をつけたパンチ」

「陣原さんの時に使ったアレですか?」

「うん。もっとちゃんとしたパンチが欲しい。他は、左で強く打てるパンチ」

「前手のストレートですか。習得はかなり難しいですよ」

「頑張る」

「他には?」

「上げればきりがないけど、密着された時に相手を倒す手段が欲しい。この前アレクがグラップリングの組手で使ってた、あの横に振ってこかす技」

「支えつり込み足ですね」

 目の付け所がいちいちディープな男である。

「総括すると、格場面で使える技を一つ。そして後は攻撃の射程を伸ばしたいってことですね。この欲張り」

「一言多い一言」

「所詮技が使えても繋ぎやリバーサルの技術が無いとじり貧ですから、基礎練習をベースに新たな技術を習得していく感じになりますね。打撃に関しては心当たりがあります」

「あるのか」

「貴方の言うように、変則的な打撃と速い飛び込み技を持つ打撃格闘技」

「もったいぶるな。それはなんだ」

「伝統派空手です」

「でんとうは、からて?」

「極真空手などの競技空手が生まれる前の、本来的な空手です。流派は色々とありますが、貴方の希望に合致する打撃技術を持っています」

「で、具体的にどうするんだ」

「姉に頼んで総合格闘技に好意的な団体にアポを取ります。スケジュールの調整は私がやりましょう」

「モノにできるかな」

「してもらわないと困ります。すでに三連敗。株地さんから次はない、と言われました」

 それを聞いた竜也は表情を硬くした。

「そりゃ、頑張らなきゃな」

「気を張っても勝率が上がるわけじゃありません。次の試合まで普段通りでいてください」

「あ、ああ」

「期待してますよ」

 そう言うとカイリは自然とほほ笑んだ。自分の頬が緩むのは新鮮な感じがした。


 誰かを勝たせる。ということは恐ろしく難しい。弱点を列挙し、それを一つ一つ分析し、それに合わせて新しいことを学ばなくてはいけない。それを何回も何回も繰り返す終わりなき学習の連鎖。

 竜也の場合は勝負哲学の癖が強すぎて、彼の性格に合致するファイトスタイルを作ることがそもそも難しかった。

 だけど、そんな不都合などおかまいなしに時間は流れていく。練習に継ぐ練習の日々はあっと言う間に過ぎていく。

 満月を二度迎え、試合の日が訪れた。

 その日はじとじとと雨が降りしきり、体育館の中は蒸籠のように暑かった。

 金網の中央に、また竜也は立ち続ける。相手は二十後半の男で名は志野隆介(しのりゅうすけ)。身体つきはがっしりとしていて、表情は硬くもなく柔らかくも無い。数試合をこなして試合に慣れ始めた、という所だろうか。客席には同じ年代の男女が声援を飛ばす。友か仕事仲間だろう。志野は緊張感の欠片も無く笑顔で応援団に手を振っていた。

 竜也はレフェリーの説明を聞いた後、カイリの所までやってきた。

 丁度相手のコーナーから

「相手は三連敗のお坊ちゃんだ。軽く料理してやれ」 

 と聞こえてくる。

 カイリは「聞こえてるっつーの」と顔をしかめた。

「相変わらず表情が硬いですね」

「そりゃな」

「勝てますよ。結構有利だと思いますよ」

「どれくらい有利か格ゲーに例えてくれ」

「甘ったれんな」

 竜也は眉毛をハの字にした。

「さ、しょげてないで。試合が始まりますよ」

 竜也はカイリに背を向け、相手と向かい合う。

「でも、お前がいつも通りでちょっと安心した」

「それは良かったです」

 いつの間にか竜也の背中は随分と広くなっていた。肩甲骨が貧相な突起を作っていただけの背中も今は、筋肉の厚い板に覆われている。自分は幸律に言った通り、ベストを尽くせているのだろうか。それを証明してくれるのは自分じゃないのだけれど。

 ――ファイッ!

 試合が始まった。竜也はスタンスをやや広く取ってステップを踏む。以前と似たような構えだ。いくら伝統派空手を学んだと言っても、その技術をすぐに使えるわけじゃない。その技を習得しても実戦で、しかも総合格闘技という別の土俵に適応(アジャスト)させるのは難しい。だから竜也のファイトスタイルはあまり変わっていない。

「練習したことを全部出そうとしなくてもいいんですよ……」

 竜也は素早いステップで距離を測る。志野はお構いなしに一直線に攻めて来る。

「三連敗だからって舐めやがって」

 カイリは荒っぽい口調になる。

 竜也の拳が動く。

 相手の右ストレートのうち終わりに、ありったけの遠心力を乗せてその拳を叩きつけた。それはガードを飛び越え、志野の頭部にヒットする。だが

「クリーンヒットじゃない」

 相手の急所に打撃を当てるのは難しい。だが、志野の足は

「止まった?」

 竜也は前に出た。ジャブと右ストレートを用い、丁寧なアウトボクシングで相手を外から削っていく。竜也は攻めを焦らない。一発当てたことで試合の主導権は完全に握った。ジャブジャブストレート。単調な攻撃を繰り返し、相手の目が慣れそうな時に、間合いをわざと外して変則的な打撃を打つ。志野はあからさまにカウンターを狙っていたが、タイミングを完全に外され防戦一方となった。

 竜也の戦い方は完全にベテランの戦い方だ。

「こんのガキ!」

 志野は拳を振り回した。出鱈目なタイミングでタックルも繰り出す。だがその全ては無駄な努力と化した。竜也は拳を避け、タックルしてきた志野に覆いかぶさった。

 ぎこちない動作で竜也は相手の背後に回ると、志野は床に手を突いて馬のように四つん這いになった。

「やらかした!」

 寝技で両手を地面に着くのは最もやってはいけない行為だ。何故なら

「首ががら空きです!」

 カイリが叫ぶとほぼ同時に竜也は裸締めで相手の首を締め上げる。

 周囲から「オォ」とささやかな歓声が上がった。

 竜也の右腕はみしみしと志野の頸動脈を締め上げる。志野はたまらず竜也の身体を二度三度叩く。それを見たレフェリーが二人の間に割って入った。

 立ち上がった竜也の拳を、レフェリーが高々と頭上に掲げた。

「勝者、赤、愛朽竜也」

 竜也は真っ先にカイリを見た。カイリの胸に何かがこみあげてくる。カイリは無意識にリングのドアを開け、竜也に駆け寄っていた。

「やりましたね!」

 心臓が高鳴っていた。

「や、やったのか?」

「やりました! 初勝利です!」

 二人は鼻息荒く、ハイタッチを交わす。

「こんなにあっさり」

「それが、あなたの本来の実力です」

 アマチュアの、技術も拙い相手から上げた一勝。でも、二人にとっては公式戦で初めて取った貴重な勝利だった。

 カイリも驚きを隠せない。

 本当に、戦略を愛朽に委ねるだけでこれほど違うのか。と。


 その日の夜、竜也の提案でファミレスにて反省会となった。二人はドリンクバーで頼んだウーロン茶(竜也)とサイダー(カイリ)で小さな乾杯をする。

「おめでとうございます」

 竜也は照れたのか少し頬を桃色にした。

「お前にそう言われるとなんか、こそばいな」

 カイリはジョッキに入ったサイダーを豪快に呑みながら

「そりゃ勝ったら褒めますよ」

 ジョッキを荒っぽい賞金稼ぎよろしく机に置いた。

「で、手ごたえはどうでした?」

「悪くなかった。相手が舐めて前に出てきたら一発強いのを当てて、動揺したらペースを握る。あとは慎重に相手がミスをするのを待つ、っていうプランは実行できたと思う」

「そうですね。しっかりと練習したことが出来てました」

「カイリはどう見る?」

「初心者にしては上手い戦い方でした。ただ、」

「ただ?」

「覆いかぶさってからバックを取るまでの動き。あれはなんですか?」

「うっ」

「チョークに入るのももう一秒早く出来るはずです」

「手厳しいな」

「でないと反省会の意味がないでしょう。明日は皆で動画を見て分析ですよ」

「へいへい」

「貴方の世界でいうキャラ性能は私達自身で向上させなきゃならないんです。でないとダイヤグラムが下位のままです」

 竜也は目を見開き、呆気にとられた。ダイヤグラムとは、格闘ゲームの各キャラクターの相性を表にしたものだ。

「お前から格ゲー用語が出てくるなんてな」

「ちょっとだけ勉強しましたから」

 本当はネット上のありとあらゆる媒体に片っ端から目を通した。あくまでもその努力はにおわせず、「さも当然」というような涼しい顔を作る。

「ストリートファイターやKOFや堕落天使くらいは知ってます」

「《堕落天使》知ってる女子高生なんて幸律くらいだろ」

「え、そんなにマイナーなゲームなんですか?」

 知名度の微妙なさじ加減は分からない。情報はあるが整理はされていないのだ。

「ドスリュウとか見てみたかったのに」

「ドスリュウとか久しぶりに聞いたぞ……」

 何かすごい大技らしい。レスラーの娘だからかこういう厳ついネーミングは好きだった。

「ダラテンは幸律の家に筺体があるぞ。行ってみたらどうだ」

「行きません」

 あんまり幸律とは仲良くしたくない。……嫌いなわけじゃないのだが。

「でも、そうやって俺の事知ろうとしてくれて嬉しい」

「べ、べつにあなたの為にやったわけじゃ」

 カイリはぷいと顔を背けた。

「たとえそれが試合に勝つためだとしても、やっぱ嬉しいよ。最初は社会性の無い性格悪い糞女とか思ってたけど」

 ジョッキで頭カチ割ってやろうか。

「俺、お前と組めて良かった」

 竜也がそう言った瞬間、カイリの中で名前も分からない感情が高ぶっていった。カイリはどうにもこうにも出来なくなり、顔を赤くして下唇をかみしめる。

「ううう、うるさいです」

 ちょっと泣きそうにながらカイリは人差し指を竜也に向けた。

「私がどんなに頑張っても戦うのはあなたです! だから、今日は私じゃなくて自分を褒めなさい」

「お、おう」

 竜也は圧倒されて背もたれまでのけ反った。

「唐沢を倒すのはあなたです。だから、一番頑張るのはあなたなんですよ」

 そうだ。それを忘れてはいけない。攻撃されるのも、相手を攻撃するのも竜也なのだ。カイリはそれを助ける脇役であって、主役じゃない。

 そうだとしても、カイリの今は充実していた。

 幸律が耳打ちした言葉がふと、カイリの頭に蘇る。


 ――アイツの事、好きになるよ

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