第二ラウンド 竹林インフレイム

 はじめは同じクラスの虐められている子を庇ったのが原因だった。だけど、正義のヒーローがもてはやされるのはテレビの中だけだ。出る杭は打たれるの言葉通り、いじめの標的は竜也に変わった。

 肉体的な苦痛。精神的な苦痛。そんな責め苦を竜也は一〇にも満たない身体で毎日のように味わった。

 それを親にも告げず一人で背負い続けた結果、竜也は学校に行けなくなった。

 毎日竜也は自室に引きこもって何もせずにいた。

 そんな時、一つ上の少女だけがよく家に遊びに来た。

 幸律虎子という名前だった。

 二年生の時、彼女の無くしたキーホルダーを一緒に探したのが縁だった。虎子はその時の恩を何百倍にして竜也に返した。

 虎子はゲームセンターの経営者の娘で格闘ゲーム好きの変わった少女だ。彼女は《あすか120パーセント》とか《バーチャロン》とか少し古いゲームから《ブレイブルー》などの新しいゲームまでなんでも彼の家に持ってくる。

 虎子と、虎子の持ってくるゲームが竜也の世界の全てだった。

 それは一種の現実逃避だったが、ズタボロになった竜也の心を少しずつ修復していった。

 小学三年の夏、竜也は勇気を出して学校に登校した。そんな彼を、いじめっ子は嘲笑った。竜也が何年もかけて築き上げてきた覚悟と勇気を、たった数秒で踏みにじったのだ。だけど、冷笑を浮かべたいじめっ子の背後には、棒切れを抱えた虎子がいた。

 虎子は棒切れを連中の脳天に振り下ろす。竜也曰く「エグイ音」がした。虎子は何のためらいもなく連中に物理的な制裁を加えた。それは血と涙が乱れ飛ぶ地獄絵図で、泣きじゃくるいじめっ子達の中で虎子は棒切れ片手に高笑いをしていた。

 危うく警察沙汰になるところだったが、それは同時にいじめっ子の過去の行いが明るみになることを意味する。結局、いじめっ子と虎子のやったことは学校内の問題として処理され、その少し後に竜也は転校をした。

 竜也は日の光を浴びることが許されたが、その胸に清算されないままの過去を抱え込むことになった。

 いじめられた奴はその傷を一生背負って生きる。

 ただしそれは、毒にも薬にもなりうる。


 竜也を襲った男の名はすぐ分かった。というより、調べればすぐ分かるほどの知名度だった。

 男の名前は唐澤一徹(からさわいってつ)。

 〈アルゴン〉という格闘技団体の売り出し中の若手ストライカーである。アルゴンは総合格闘技専門の団体だ。

 総合格闘技。通称MMA。

 寝技と打撃が許される、一番なんでもありに近い競技だ。なんでもありなのだから格闘ゲーマーを受け入れる土壌があるのかも。と、強引に期待を持って愛朽竜也は近場の格闘技ジムに出かけた。

「プロになりたいの? 格闘技経験は? ないの? いや、まぁいいけど、あんま期待しない方がいいよ」

 一件目は露骨に難色を示される。

 二件目。

「プロになりたいの? 格闘技経験は? 無いの? いや、まぁいいけど、あんま期待しない方がいいよ」

 デジャヴかな、と竜也は思った。

 三件目。

「お前さ、格闘技なめてるの?」

「いえ、舐めてません」

「いや、舐めてんだよお前。大体さ、今時の若い奴は」

 ねちねちとした説教を一時間ほど聞かされ、とぼとぼと家路についた。

 四件目。

「ええけど、ウチのジムにおるの輩と丸暴ばっかやで」

 竜也は丁重に断りを入れてそのジムを去った。

 五件目。

「プロになりたいの? 格闘技経験は?」

 以下略。

 五件目のジムを去った帰り、竜也は近くの公園に立ち寄った。ベンチに腰を下ろし、星の無い濃紺の空を見上げていた。

「いきなりプロになりたいとか言っても、そりゃ困惑するよな」

 と、竜也はなんとなく反省の弁を独語した。やはりアマチュアで入ってからプロになるべきだと、今更気付く。

「よく考えたら何の計画も無しに家出てきたもんな」

 帰ってジムの情報を集めてから訪ねてみるか。そう心に決め手竜也は立ち上がる。

「ん?」

 公園の茂みから何かの鳴き声がした。猫とも犬とも違う。茂みをかき分けると、段ボールに入った獣が毛布の中で蠢いていた。

「いたち?」

 それはフェレットの赤ちゃんだった。毛布の中で小さい手足をばたつかせ、弱弱しく「みー」と鳴いた。フェレットは竜也の気付くと段ボールの淵に前足をかけ餌をねだってくる。

「捨て子かよ」

 竜也は辺りを見渡した。当然飼い主らしい人は見当たらない。

「お袋にどやされるから、お前は連れていけない」

 その場を去ろうとすると、みー、という鳴き声が背中を引き留める。溜息を一つ交えて、竜也は引き返した。

「同じ境遇のよしみだ。今回は特別だぞ」

 家にフェレットの赤ちゃんを連れて帰ると、当然両親は驚いた。が、あっさりと飼育を了承してくれた。竜也の両親は、イジメに気付けなかった負い目があるらしく竜也の我儘は割と聞いてくれる。もっとも、竜也はあまり我儘をいう性格じゃなかったが。

 竜也は自室に段ボールで即席の飼育スペースを作り、そこでしばらくフェレットを買うことにした。

「よしよし、良い子だ」

 フェレットの赤ちゃんは竜也の膝の上で竜也の右手にじゃれついている。丁度てのひらと同じくらいの大きさで、竜也の手を自分の遊び相手と思っているようだった。

 竜也は左手でマウスを動かし、インターネットで情報を集めた。

「結構ジムあるんだな」

 しかし、ジムの説明はどれも似たり寄ったりで、プロ志望に関する事やエクササイズ、そして心身の健康云々といった内容が大半を占める。

「てことは、後は、設備と実績か」

 電車で通える範囲で一番実績のある格闘技ジムは「エクスプロージョン」というジムだった。

「ここは設備も整ってるし、知名度も高いな」

 なんでもプロの格闘家を数人輩出し、その中にはなんと世界ランカーもいる。スパーリングパートナーの豊富だ。入門するならここだ。そう思ったのだが

「期待の新人、唐澤一徹君……」

 あの竜也をボコボコにした格闘家が、入会案内のページで営業用の笑顔をこちらに向けていた。ディスプレイを叩き割りたくなったが、竜也はぐっとこらえてブラウザのバックボタンを押した。

「ここも駄目かぁ」

 しばらく格闘技系のニュース記事などを漁っているとあるジムの情報が目に入った。高嶋勉(たかしまつとむ)というジャーナリストの記事で、「ファイヤーストーム」なるジムの記事だった。

「格闘技経験者のスタッフが少なく、経営者も格闘技未経験者。だが、筆者はあえてこのジムを取材しようと思った……このジムの特徴は設備と敷地の広さにある。また、経営者が格闘技未経験者であるが故に、その懐は深い」

 懐は深い。この一言が竜也の胸に響いた。丁度、竜也の右手と遊んでいたフェレットの赤ちゃんが机に身を乗り出し、パソコンのディスプレイにもたれかかった。

「そうか、お前もここが良いか」

 行き当たりばったりよりは自分で考えて選んだ方が自分の行動に責任が持てる。虎子が昔そんなことを言っていたのを思い出した。


 次の日の昼。空は晴天。電車に乗って自分の住んでいる地域から南に下る。そこからさらにローカル鉄道を乗り継いで目的の駅に向かった。

 海に面した住宅街の中、電車はゆっくり竜也を目的地に運んでいく。座って車窓から空を眺めていると、今自分が格闘家になろうとしていることを忘れてしまいそうになる。この時間は乗客も少なく、竜也の他に乗っているのはブレザーの制服を着た女子学生一人だった。

 髪は肩甲骨にかかるくらいの長さ。背は女性にしては高く一六〇近くはある。スタイルも顔もよく、大人のように落ち着き払ったその立ち姿は目を見張るものがある。

 美人だな。などと思っていると、いきなり女性の目がこちらを向いたので竜也は慌てて目を逸らした。

 しばらくスマートフォンに視線を落としていると、女性はすぐ傍まで歩いて来た。

「何か?」

 冷たく沈んだ声で女性はそう話した。おいおい、初対面だぞ。竜也はかなり心を乱されながら座ったまま女性を見上げた。

「すみません。何もないです」

「何もないならあんまりじろじろ見ないでくれますか?」

「だから悪かったって」

 別に下心があって見てた訳じゃないんだからそこまで突っかかることないだろう。と、竜也は内心少しムッとして答えた。

「そういうの女性はすごく嫌いますよ」

 何か鋭いものが竜也の心に刺さった気がした。なんだお前は。そんなこといちいち言う必要あるか。

「嫌なら近づいてくんなよ」

 竜也が呟いたその言葉を、女性は聞き逃さなかった。

「言いたいことがあるならハッキリ言ってください」

 女性の表情が険しくなる。竜也もだんだん腹が立ってきて理性のストッパーを少し緩めて反撃する。

「いや、ちょっと見てただけだろ。なんでそこまでボロカスに言われなきゃならないんだ」

「私はあなたを非難したわけじゃなく、貴方の態度を改善する提案をしただけです。それを誹謗中傷と受け取られるのは甚だ心外です」

 すこぶる面倒くさい反論の仕方である。初対面でなんだコイツは。こういう空虚な屁理屈で外堀を固めて来る輩との口論など時間の無駄だ。だけど、このまま引き下がっては気が収まらない。竜也は素早く相手にダメージを与えられる言葉を算出し、実行した。

「ばーか」

 竜也はあえて盤をひっくり返し、低俗な罵り合いの次元に相手を引きずり込む。効果は覿面。女性はすごい剣幕で竜也を睨みつける。

「最っ低です! 論駁できないからと子供じみた罵倒で切り返すなどと」

 ペースを掴めばこっちのものだ。竜也はさらなる追い打ちをかける。

「そんな子供じみた罵倒に動揺するってことは、アンタも俺と同レベルだな」

「な……」

 女性は一瞬たじろぎ、次の瞬間には顔を烈火のごとく紅潮させた。竜也はしたり顔でそんな女性を見上げていた。

「こんの」

 いきなり女性は竜也の頭を両手でつかんだ。

「え?」

 女性は一瞬身体をのけぞらせ、竜也の額に頭突きをかました。竜也は目から火花を散らして額を抑えた。

「糞野郎!」

 女性は息を荒げて踵を返し竜也から離れていく。

「痛って。これじゃ本当に同レベルじゃないか」

 女性はむすっとした顔で腕を組み、車窓に視線を投げかけている。まさかパチキをかましてくるとは予想外だった。竜也は自分の見通しの甘さを反省する。

「変人てのはどこにでもいるもんだな」

 にしても竜也が出会う人間はとりわけ変人が多い気がした。

 ほどなくして電車は目的の駅に着く。竜也が降車し、電車が遠ざかっていく。そしてホームには竜也と、頭突き女がいた。二人は目を合わせると「ふん」と顔を背けて別々の方角へ歩き出す。

「顔も見たくない」

 そう一人で毒づいて竜也はファイヤーストームを目指した。海からほどなく歩くと民家が減り、代わりに竹藪が姿を現した。本当に格闘技のジムがあるのだろうか。そんな竹藪の傍らに姿を現したのは大きな一階建ての建物だった。建物自体は公民館ほどの大きさ……というよりは明らかに公民館として建てられた建物だろう。敷地内にはトラックが数台止まれるほどの駐車場を持つ。建物の屋根には『FIRE STORM』の文字と炎を纏った拳のエンブレムが描かれた看板がかかっている。

「ここか」

 たしかに耳を澄ませば竹のざわめきに紛れて拳がミットを叩く音が聞こえてくる。

「ふぅ」

 と深呼吸をして、竜也は中に入った。

「はえ?」

 エントランスの受付カウンターにはジャージ姿、おかっぱ頭の少女が立っていた。少女は竜也を見ると

「あ、え、えっと、あの」

 としどろもどろしながら

「あの、入会希望者、ですか?」

 どうも接客に慣れている感じじゃない。というより、明らか竜也より年下だ。バイトか何かだろうか。

「はい」

「えっと、じゃあ入会希望の案内、じゃなかった、えっと、そうだ」

 少女は竜也に向き直る。

「まずはジムを見学されてはどうでしょうか」

「あ、うん」

 と竜也もなんとなくで応じた。

「こっちです」

 と少女はてててとカウンターからでて竜也を案内した。

「あの、お名前とか伺ってもいいですか」

「愛朽竜也」

「私は前田イオって言います、、、小学六年生」

 体はかなり小さい。この子も格闘家を目指しているのだろうか。黄土色のリノリウムの廊下を二人はひたひたと歩いていく。会話が無いので竜也はなんとか話題を探した。

「ここ、広いですね」

「もともと公民館だったのを、、、買い取ったそうです」

 前田イオの喋り方は独特で、時折言葉の節々に妙なタメが入った。

「へぇ」

「この辺は駅から遠いから土地が安い、、、とかなんとか」

「土地が安い分設備も充実してるんだね」

「ウェイトの機材はもちろん、パソコンルームや食事が出来るスペースもあります。自慢じゃないけど、、、設備は自慢ですよ」

 どっちなんだか。

「どうですか? 気に入りましたか?」

「うん。周りも静かだし、いいと思う」

「よかった」

 前田イオはパッと笑った。

「じゃ、次は練習の風景を見てみましょう」

 前田イオが案内したのは、擦り切れた文字で「多目的ホール」と書かれた部屋の前だった。扉を開けると、熱気を伴う風が竜也の背後に駆け抜けていく。

 学校の小体育館ほどの大きさで、床は一面衝撃吸収用のマットが敷地められている。壁にはマットが設置され、東の一面だけは鏡が張られている。とりわけ竜也の目を引いたのは八角形の金網に囲まれたリングだった。

「あれはオクタゴンと言います。知ってますよ、ね?」

「うん。まぁ、一応は」

 総合格闘技では八方向を金網で囲うリングが主流になっている、というのは知っていた。しかし、間近で見るとかなり広く感じる。中では育ちのよさそうな青年と、金髪短髪という輩同然の男が軽いスパーリングを行っていた。彼等の頭上にライフゲージが見えて竜也は思わずかぶりを振った。気が付けば両手は筺体のレバーを握るような手つきになっている。人が対峙していると嫌でも格ゲーに見えてしまう。

「あれ? 思ったより人が少ない」

「今はフリーの時間。プロ志望の人が汗を流してる感じ、、、です」

「へぇ」

「この後五時から八時まで一般の部です。今日は寝技(グラップリング)のクラスですね」

「プロ志望ってことはプロではないの?」

「プロの人も、一応います。昨日は大きな大会だったので、、、今日は休養日。今いるのは、プロコースに入っている学生の人、だけ」

 前田イオから色々と話を聞いていると、部屋の隅にいた偉丈夫が近寄ってきた。背丈は一八〇強。胸板は厚く、血色のいい顔には大らかな笑顔が浮かんでいる。

「見ない顔だな」

「あ、株地さん」

 株地海宝(かぶちかいほう)。たしかホームページに責任者としてその名前が載っていた。

「新しい入門希望の方です」

「ほう」

 と株地の笑顔がより活発になる。

「見た所格闘技経験者って感じじゃないな」

「あ、はい。未経験者です」

「ひょっとしてプロ志望か?」

「わ、わかるんですか」

「真昼間にそんな堅い表情で詰めかけて来る奴は大抵胸の内に並々ならぬ覚悟を秘めてるものさ」

「あの、駄目ですか?」

 株地は太い首を左右に振った。

「未経験。結構じゃないか。私だって格闘技未経験者だ」

「そうなの!?」

 思わずタメ口になった。

「私は格闘技好きの商社マンだよ。出世して管理職になったら急に仕事がつまらなくなってね。辞めて夢だった格闘技ジムを開くことにしたのさ」

 この体格と筋肉で未経験者とは中々に予想外だ。

「結論から言うと、私達は少年の偉大なる挑戦を支持しようと思う」

「本当ですか?」

「だが条件がある」

「条件?」

 株地はゆっくりと首肯し、金網のリングの方を向いた。

「ヤマトー。ちょっとこっちに来てくれ」

 言われてやってきたのは、竜也よりも少し背の高い青年だった。身体はやや細身だが引き締まっている。髪は黒髪で、太く整った眉毛と合わせて真面目そうな印象を受ける。

「陣原大和(じんばらやまと)。一六歳」

 大和は訝し気に竜也を見つめている。

「体験入門の一か月間でこの男を倒せ」

 大和と竜也を含め、その部屋全体に緊張が走った。そんなの出来るわけがない。だが、不敵に微笑む株地の顔には得体の知れないものがある。何か意図があるのだろうか。竜也は決断の早い男だった。

「分かりました」

 竜也のこの言葉が大和の表情をより硬くさせる。

「会長。いいんですか? 俺、本気で潰しますよ」

「ああ。思う存分叩き潰せ」

 そう言って株地は呵々大笑した。大和の敵意に満ち満ちた視線が痛い。

「当然、右も左も分からない未経験者をリングに上げるつもりはない。ルールは打撃とテイクダウンのみ。体重は大和が彼に合わせる。そして、えーっと、君の名前はなんだったっけ」

「愛朽竜也です」

「竜也君には一人パートナーを付けよう」

「パートナー?」

「ああ。ウチに有望なトレーナーの卵がいてね」

 その言葉にいち早く反応して見せたのは前田イオだった。

「あ、あの、それってもしかしてお姉ちゃんのこと、、、ですか?」

「その通り。カイリと組ませる」

「ででもお姉ちゃんは」

「分かってる。あの子は少々コミュニケーションの取り方に難がある。だからこそ、大人になる前に人の事を思いやる経験をしなきゃならない」

 そんな奴と組んで大丈夫なのだろうか。そんな竜也の心を見透かしたように

「大丈夫さ。教え方は上手いし、変な事をしなきゃ噛みついてこないから」

 変な事をすれば噛みついてくるような女なのか。

 その時、竜也の背後で扉が開く音がした。

「お、噂をすれば前田カイリのお出ましだ。遅かったじゃないか」

 竜也の背後で

「夏季講習が伸びてご飯食べるの遅れたんです」

「なんか、不機嫌そうだな」

「今日、最低最悪な男に会ったんで」

 その声には聞き覚えがある。恐る恐る竜也は背後を振り返る。

「竜也君、紹介しよう。トレーナー志望の前田カイリだ」

 果たして目の前にはあの頭突き女が立っていた。頭突き女は目を丸くして竜也を見ている。

「今日から君達はパートナーだ」

 二人は揃って株地を見て

「「お断りします」」


 大人の権力の前に子供の我儘など無力だ。「無理」の一言で提案を突き返されて二人はトレーニングルームの隅で向かい合う。

「最低最低最低の最低です。こんなデリカシーのない糞男と組まされるなんて」

 相変わらず言葉を毒のオブラートで包んで吐き出してくる。竜也はカチンときて、そっぽを向いたカイリに近づいた。

「おい」

「え?」

 振り向いたカイリの頭を両手で挟んだ。

「FINISH HER!」

 竜也はカイリの額に自分の頭を振り下ろす。

 ごち。と鈍い音がした。

「いっつぁぁぁ」

 カイリは額を抑えて蹲った後、涙目になって竜也を見上げた。

「さっきのお返し。俺は優しいから利子はゼロでいいぞ」

 カイリは鬼の形相を浮かべて立ち上がると、踵を返して部屋を出ていった。

「こらえ性のない奴だ」

 竜也も人の事を言えた義理ではないが、前田カイリはかなり社会性のない人間だ。大人しそうな見た目とは打って変わって、言動や態度はかなり刺々しい。

 再び扉が開くと、そこにはバーベルの棒(シャフト)を片手に持ったカイリがいた。

「殺す」

 カイリは静かにそう言い放った。

「う、うわあああぁ」

 竜也からガチ悲鳴が上がった。カイリはシャフトを振りかぶると竜也の脳天めがけて振り下ろす。竜也は身を捩って攻撃を回避した。鉄の棒はクッションにめり込み、鈍い音を立てた。怒りゲージ全乗せの大斬り。当たれば竜也のライフゲージと額は真っ赤っかになっていただろう。

「当たったらどうすんだ!」

「これしきの攻撃を避けれないようじゃ大和さんに勝つのは夢のまた夢です」

 ふふふ、と麻薬中毒者のように狂気じみた笑いを浮かべるカイリ。

「お姉ちゃん!」

 流石に見かねた前田イオがカイリを羽交い絞めにした。

「傷害罪はまずいって!」

「死人に口なしです」

「本当にシャレにならないからやめて!」

 前田カイリは「冗談ですよ」と言ってシャフトをその辺に放り投げた。一体何が冗談なのか。流石に肝が冷えた竜也はこれ以上カイリを刺激しようとは思わなかった。一触即発だった両陣営は、イオの仲裁によって一先ず矛を収め会話のテーブルについた。

 二人はエントランス横のサロンで腰を下ろす。カイリはブレザー制服の襟を正し背筋をピンと伸ばして竜也と向かい合う。その美貌と佇まいは黙っていれば本当に育ちのいい芸能人のようだ。黙っていれば。

「で、あなた本当に大和さんに勝てると思ってるんですか?」

「ほぼ無理だと思う」

 竜也は正直に答えた。

「戦う前から諦めムードですか」

「じゃあお前は勝てると思ってるのか?」

 カイリは無言のまま竜也を見つめた後、目を脇に逸らした。

「ほら、お前も同じじゃないか」

「だからと言って、競技者であるあなたが戦う前から諦めていたのでは話になりません」

「別に諦めているわけじゃないよ。ただ、未経験者が一ヵ月やそこらで経験者に勝てるほど甘い競技じゃないだろ?」

 もし、格闘ゲーム初心者がストリートファイターで竜也に挑んで来ても百パーセント勝つ自信がある。ましてや格闘技となれば肉体的アドバンテージは向こうにある。初心者が上級者に弱キャラで挑む様なものだ。竜也はその現実が見えない程ボンクラではない。

「ふーん」

 カイリの目から敵意が少し和らいだ気がした。

「よく来る、口だけの不良崩れとは違うみたいですね」

「もっとマシな褒め方できないのか」

「今まで私があなたを褒める要素が一つでもありました?」

 竜也は反論の言葉を飲み込んだ。また絶命奥義をぶっ放されると面倒だ。

「取りあえずジャージに着替えて下さい」

「持ってない」

「じゃあ私服で外に出てください」

 あくまでもカイリは冷たい言い方だった。

「俺に協力するのか?」

 カイリは竜也の胸ぐらを掴んだ。「筋モン」のように眉間に皺をよせ、唾でも吐き捨てるような口で

「協力? 株地さんに言われたから仕方なくやってるだけです。トレーナーになったらアンタみたいな屑でも戦えるようにしなきゃいけないんです」

 コイツ、相当ヤバいぞ。と思う反面、いじめっ子を半殺しにした虎子ほどではないとも思う竜也である。

 竜也は私服のままジムの周辺を五〇〇〇メートル走らされ、次に短距離走、ベンチプレス、など数々の体力テストをやらされた。全身汗だくになり、精根尽き果ててエントランスで倒れ込んだのが午後五時である。そんな竜也にカイリはこういった。

「ゴミですね」

 何の反論も出来ない。竜也の身体能力は平均以下だ。竜也もそのことは自覚している。

「取りあえず今日は一旦家に帰ってください」

「もういいのか?」

「そんな身体で練習しても非効率です」

「たしかにそうだけど」

「もう一般の会員が来る時間です。汗臭い死体が転がってたら皆不快に思うのでさっさと消えてくれると助かります」

「いいけど、お前そんなことばっか言ってたら友達無くすぞ」

 カイリは竜也をキッとにらみつけたあと、何も言わずその場を立ち去った。その背中は、どういうわけか、どこか物悲し気に見えた。一度も見たことの無いはずの、いつぞやの自分の背中のように思えた竜也だった。


 二日目。この日は平日だったが、夏休という学生特権の有効範囲内だ。竜也はカイリが指定した朝十時にジムを訪れる。カイリはスポーツレギンスにミニスカート、上はジャージという出で立ちでエントランスに仁王立ちしていた。

「一応時間通りには来たようですね」

「そらこの時間に来いと言われたからな」

「しょうもない事言ってないでさっさと着替えてきてください」

 竜也は反論するのを諦めて言われた通りジャージ姿に着替えた。カイリが案内したのは、テーブルと自販機のある飲食用のスペースだった。そこにテーブルを挟んで二人は向かい合う。

「まずはミーティングです」

「うん」

 と竜也は慣れた感じで肯定する。

「あなた、格闘ゲームの大会で優勝してるそうですね」

 何か触れられたくないものに触れられた気がして、竜也は肩をこわばらせた。

「しょれがどうかしたか」

 おもっくそ噛む竜也だった。

「そういうことは早く言えと言いたいんです。こちらも好材料は出来るだけ多く把握しておきたいから」

 好材料か。と竜也はカイリの好意的な見解に引っかかった。

「格ゲー出身者が格闘家になりたいと言ったら普通は馬鹿にしそうなもんだけど」

 ここでカイリの目つきの鋭さが一段と切れ味を増す。

「私はあなたが思っているような浅薄な人間ではありません。競技人口が万単位のジャンルで頂点に上り詰めたんですから、当然それ相応の努力はしていることは承知しています」

「いや、まぁそうだが」

 竜也は、中二の時にやった地獄の合宿を生涯忘れないだろう。そもそも竜也は小学生の頃よりコンボの練習から立ち回りの練習、果ては心理戦や駆け引きのテクニックまで徹底的に叩きこまれた。竜也の半生は勝負のなんたるかを教育されていたわけだ。

「そういう努力の厚みを知っているだけで他の人より有利になれます」

「厚み?」

「いるんですよ。腕立て伏せの回数で勝敗が決まると思ってる人が」

 婉曲な言い回しだが、カイリが何を言わんとしているのか竜也もなんとなく分かった。辛い練習とは時にただの自己満足で終わることがある。虎子がよく言っていた言葉だった。

「総合格闘技は格闘技界の魔境です。勝つには質の高い努力が必要なんです。それをよく覚えておいてください」

「わかったよ」

 この時、竜也の中でカイリが暴力的で口の悪い女から、暴力的で口の悪い理知的な女に評価が変わりつつあった。だから、一先ずこの人のいう通りにしてみようか、という気が少しだけ芽生えたのである。


 カイリは一先ず金網リングのあるトレーニングルームに竜也を連れてきた。朝が早いせいか人はまばらだった。

「まずは頭の悪そうな貴方に幾つか注意事項を説明しておきます」

「なんでお前って一言多いの?」

「年上にタメ口を聞くあなたも大概無礼でしょ」

「無礼云々じゃなくてデリカシーが無いって言いたいんだが」

 カイリは無言で竜也の胸ぐらを捻り上げた。

「わ、分かったからさっさと話しに移れ」

 仕切り直してカイリは話を始めた。

「総合格闘技とは知っての通り寝技と打撃を合わせた競技です」

「だな」

「ですが異種格闘技の対決ではありません」

「どういう意味だ?」

 総合格闘技、とは色んな格闘技の経験者が戦う場、というイメージが強い。少なくとも一般人には。

「ボクシングとレスリングを習得した人がいるとします。その人は総合格闘家ではなく、ボクサーとレスラーのハイブリットです」

「うーん、言いたいことがいまいちわからない」

 カイリは「これだから鳥頭は」とでも言いたげに呆れてため息をつく。カイリは竜也から五歩ほど離れた所でファイティングポーズをとる。

「これがボクシングの間合いです」

 次にそこからさらに五歩離れた所でファイティングポーズをとった。

「これが総合格闘技の間合い。わかりますか?」

「距離が明らか違うな」

「その通りです。間合いが違えば有効な打撃やステップの取り方も変わってきます」

 カイリは右手を大きく旋回させてフックを放った。カイリの拳はワンステップで竜也の顔に到達する。

「つまり同じ殴り合いでもルールが違えば駆け引きの内容や使う技術が違ってくる、ということか」

 竜也がそう言うと、カイリは少し表情を柔らかくして鷹揚に頷いた。

「よく分かりましたね」

 とカイリにしては珍しく肯定的な言葉を発した。

「戦う相手ごとに間合いの取り方が異なる。格ゲーでもよくある話だ」

「だから言ったでしょ? 何かの道を究めてると理解が早いって」

 言ったかな? と竜也は疑問に思ったが一先ず口には出さずにいた。

「総合格闘技で勝てるようになるには、総合格闘技の実戦感覚を掴んでおく必要があります。細かい技術はその途中で学んでいきます」

 かなり独特な練習方法だった。普通はパンチやらキックやら初歩的な技術を学んでから実戦に移るものである。

「時間が無いからか」

 カイリは神妙に頷いた。

「普通なら体力トレーニングをじっくりやってから技術習得、その後に実戦訓練に移ります」

「だけど一ヵ月で戦うには邪道を行く必要がある」

「その通りです。……桜義さん」

 ミラー相手に打撃の練習をしていた青年が振り向いた。短く丸く刈られた髪は金色に、パンプアップされた身体は岩肌のようにごつごつとしている。竜也は自分の背筋が寒くなるのがわかった。

「コイツか、陣原を倒そうとか抜かしてる野郎は」

 壊れたエレキギターのようにエッジの効いた嗄れ声である。竜也は戦々恐々で肩をこわばらせる。苦手なタイプだ。

「貴方には桜義さんと軽く戦ってもらいます」

 よろしくな、サンドバック君。と桜義は目を白く向いて笑った。やたらと隙間の多い歯の間から白い蒸気のような息が漏れている。コイツは、本当に人間なのだろうか。

「話は通してあります。死ぬことはないので安心してトレーニングに励んでください」

 と言いつつ、カイリはその場を立ち去ろうとした。

「おい、お前はどうするんだ」

「私は今から他の人を見なきゃいけないので」 

 その目線の先には柔軟体操をしている前田イオがいる。

「じゃ、そういうことで」

「ちょっと待てって」

 カイリを追おうとした竜也の肩を桜義の右腕が引き留める。肩がみしみしと悲鳴を上げる。万力のような握力だった。

「お前の遊び相手はこの俺だ」

 竜也は冷や汗の粒を額に浮かせた。

「俺はお前みたいに格闘技を舐めてる奴が許せねえんだ。格闘技の厳しさ、その身に刻み込んでやるぜ」

 完全に悪役の台詞である。

「準備体操が終わったらリングに上がれ」

 自分にはこういう輩を引き付ける魔力か何かがあるのだろうか、と竜也は近くのスタッフにバンテージを巻いてもらいながらふと考えた。バンテージは拳を保護するために巻く包帯のようなもので薬品めいた臭いが鼻に残る。バンテージで拳を巻くと、拳がきゅっと締まった感じがして少し強くなった気がする。その上に、オープンフィンガーグローブという、ボクシンググローブよりも二回りほど小さな指出しグローブを装着する。

 で、頭部を保護するヘッドギアはというと

「顔面は強く殴らんから安心しろ」

 という桜義の深い深い慈悲によって装着しなくていいことになった。竜也には顔面はという言葉が引っかかったが。

 金網のリングは入ってみると中はかなり広い印象を受けた。鬼ごっこが成立するスペースはギリギリある。その対面には桜義が金網にもたれかかって極道スマイルを浮かべていた。

「よし、準備は出来たようだな。行くぞ」

「え、は? ちょっと待――」

 桜義はずいずいと前に進んでくる。だがパンチの出し方も知らない竜也にはどうすることもできない。

「こいつがボディだ、覚えとけ」

 桜義のボディブローが竜也の左わき腹を打った。腹部から鈍痛を痺れが全身に広がり、竜也は膝を折って蹲る。

「あ、強く打ち過ぎた」

 と桜義は申し訳なさそうに竜也を見下ろした。

「大丈夫、です」

 想像以上の苦痛だった。レバーは急所である、というのは知識としてあった。だけど実際に受けてみるとそれが精神力で耐えきれるものではないと簡単に理解できる。文字通り身体が麻痺して動かなくなるのだ。

 痛みが引くと、竜也は立ち上がる。

「お願いします」

 竜也の目に闘志が静かに燃えていた。それにあてられたか、桜義は片笑んだ。

「思いの外いい顔をするな」

 竜也は見様見真似のファイティングポーズを取った。握りしめた拳を顔の前に上げるだけの構え。

「次はもう少し骨のある所を見せてくれよ」

 竜也は近づいてくる桜義をじっと見ていた。桜義の拳が届きそうなまさにその時、竜也は一歩分、距離を取った。桜義がまた近づこうとすると、竜也は距離を取る。

「逃げてるつもりか?」

 その時、竜也の視線は桜義の足元に向かっていた。なので

「どこを見ている」

 竜也は忽ち接近されて腸に重い拳をもらった。二度目の鈍痛に悶え、竜也は平伏すようにダウンを喫した。だが、瞳が上を向き、足腰がそれに続くかのように竜也の身体を持ち上げる。

「折れねえか」

「勝利への旅はいつだって敗北を伴侶とする。これくらいの挫折は織り込み済みです」

「なまじ思い付きでプロになりたいとか言い出したわけじゃなさそうだな」

「こっちにも深い事情がありまして」

 竜也は笑った。どうやら自分は自分が思っていたよりも痛みに強いようだった。太刀打ちできないのは重々承知している。ここまでは予測した通りだ。

 その後も、桜義の手抜きパンチに幾度となく倒された。しかし、状況は少しずつ変わりつつあった。桜義の拳が空を切り始めたのだ。

 桜義の放った軽いジャブを竜也は後方に退いて躱す。足取りはぎこちない。されども、桜義がパンチを打つその瞬間に回避速度を上げることで竜也は攻撃を回避する。

 一発、二発、三発。

 竜也が攻撃を躱せば躱すほど、倒れるまでの時間は長くなっていく。

 ――なるべく地面に足をつけたまま、追い足は出来るだけ速く。

 練習から三八分。竜也は、桜義の「すり足」を完全にコピーしていた。それに気づいた桜義は冷や汗を浮かべて苦笑する。

「てめえ、本当に素人か?」

 竜也の次なる関心は桜義の胸板に向かっている。攻撃には予備動作がある。それは何か。

 ――呼吸だ

 桜義の胸板が呼吸で膨らむ瞬間、拳が飛んでくる。

「だけどな、逃げてるだけじゃ勝負にならないんだぜ」

 桜義は竜也に接近する。竜也は、その胸板に注目していた。桜義の拳がギリギリ届く距離をとり、その胸板が大きく膨らむ瞬間をただひたすら待つ。

「見よう見まねでいいから、一矢報いてみろよ」

 桜義の胸板が膨らみ右肩が微動する。

「ここだ」

 竜也の身体は落穂のようにフッと右へ流れ、桜義の左ジャブを躱した。直後、竜也の身体は突風のように加速し、凶牙が如き右拳を解き放った。

「な――」

 大振りの右拳が弧を描いて桜義の顔面に食らいつく。

 ――もらった。

 次の瞬間、竜也の視界はブラックアウトした。

 

 失われた意識は時間を飛び越え、瞼の裏に舞い戻ってくる。遠く誰かの話し声が聞こえてきた。

「初心者相手に本気のカウンターを入れる奴があるか」

 株地の声と

「すいませんッス」

 桜義の声だ。

「お前は彼よりも階級が上だ。命に関わる事態になってもおかしくない」

「……はい。反省しています」

「一体、何があった?」

「カウンターを狙われました」

「カウンター? 相手は素人だぞ」

「完璧なタイミングでした。それでつい」

「手が出たと」

「こいつおかしいっすよ。どう見ても素人なのに、」

「なのに?」

「なんか、言葉にできない怖さがあるんス。なんか、殺し屋に観察されてるみたいで気味が悪くて」

「それで防衛本能がはたらいたか」

 瞼が軽くなってきたので竜也は目を開けた。顎には少し痛みが残っていたが、気分は悪くない。

「お、気が付いたか」

 株地が竜也の顔を見下ろしていた。竜也は身体を起こして辺りを見渡した。

「もうすぐ専属の医師が来る」

「俺、気失ってたんですか?」

「ああ。多分大丈夫だろうが、一応医者に診てもらって今日の所は帰った方がいい」

「でも、俺まだ」

「脳へのダメージは馬鹿にしない方がいい」

 説得しても無理そうだったので、竜也は不服そうに首を縦に振った。桜義に一応の謝罪を貰ってその日は一旦家に帰る。

 次の日、朝の十時にファイヤーストームに行くと、今度は桜義が門の所に立っていた。

 桜義は竜也を見るとどこか気まずそうにしながら

「今日、前田は午後からくる」

「あ、はいそうですか」

「その、昨日は悪かった」

 と桜義は深々と頭を下げる。昨日よりもしっかりとした謝罪だった。

「いや、その、そんな」

「なんか初心者が調子乗ってると思ったら、変に気合入っちまってよ。それでついイジメみたいなダセえことしちまった」

 竜也は何て返していいか分からず頬をかいた。

「でも、昨日のでお前がマジだって分かった。だから、俺もお前に協力してえ」

「そうしてくれるなら願ったりかなったりです」

 と竜也は穏やかに笑う。見た目は厳ついが中は芯の通ったいい人のようだ。

 竜也と桜義の二人に「今日は姉の代理、、、です!」と協力を買って出た前田イオを加えた三人で金網のリングに向かう。諸々の準備を済ませ、グローブを付けて桜義と竜也は向かい合った。

「うし、じゃあなんでも聞いてくれ。俺の知ってることなら何でも教えてやる」

「えっと、じゃあ、ディフェンスを基礎から教えてください」

 桜義は狐につままれたように眉をひそめた。

「防御、からから?」

「はい。出来ればステップの取り方も」

「お前変わった奴だな」

「え?」

「普通初心者つったら強いパンチを打ちたがるもんだ。どんなに変わってる奴でも寝技や投げ技を覚えたがる。いきなり防御から学びたいってのは聞いた事が無い」

「そうなのか」

「まぁ、協力するつったからな。いいぜ。教えてやる」

「ありがとうございます」

「つっても、お前は一番有効な防御を身に着けちまったてるんだがな」

「俺が?」

「昨日、俺とのスパーリングで何しようとしてた?」

 昨日、桜義との戦いで竜也が最も重要視したもの。

「相手の間合いを外そうとしました。まず相手の攻撃の範囲を見極めないと、立ち回り様がないと思ったんです」

「そこだよ。空手時代の先生の受け売りだけど、究極の防御ってのは相手との間合いを掴むことだ。相手の攻撃が届かない距離に逃げれば少なくとも一発も貰わない」

「相手の攻撃が当たらない距離を把握していたら、次の行動に余裕を持ちやすい。相手がこっちの間合いを掴んでいなかったら一方的に攻撃することも出来る。ということですね?」

 桜義は苦笑しながら頷いた。

「この距離を掴むか否かが序盤の有利不利にめっちゃ影響する。どういうわけかお前はそれを最初から知ってるし、実践もしてる。基礎錬を繰り返せばサマになる」

 あとは練習あるのみ!

 桜義の猛練習が始まった。基本的な構えを教わり、後は昨日と同じように桜義の動作に合わせて距離を取る。桜義はステップに緩急をつけ、竜也はそれに合わせて常に距離を取った。午前はこれをただひたすら二時間。昼食を挟み、今度もただひたすら距離を取る練習を繰り返す。

 三時を回って、今度はブロッキングの練習である。桜義は休憩タイム。それに代わって竜也の前に立ったのはジャージ姿の前田イオだった。

「ここからは、私が教え、、、ます」

「よろしくお願いします」

「なにとぞなにとぞ」

 前田イオは膝をついて深々と頭を下げた。竜也もつられて同じように頭をさげる。二人は頭を突き合わせてぺこぺこと礼を交わした。

「ブロッキングで最も一般的なのはパーリングです」

 そう言うと、やや伏し目がちになった後、前田イオは竜也を見上げた。

「パーリング?」

「拳を弾くんです。なんか適当にパンチを出して、、、ください」

 竜也はだらりと垂れ下がった腕でパンチを出す。拳はイオの鼻っ柱にヒットした。

「ぴゅにゃん!」

 と妙な悲鳴を出してイオはのけ反った。

「あ、ごめん」

 イオは涙目で

「しっぱい、しっぱい」

 今度はさらに速度を落としてパンチを出す。足腰も入っていないし、伸びもない実に汚いフォームの素人パンチだ。

「えい」

 イオは竜也の拳を軽く弾いて横に受け流す。

「これが、パーリングです」

「相手の拳をはたいて軌道を変えるのか」

「はい。ストリートファイトや中国拳法でも同様のテクニックはあります」

「それだけ一般的な防御技術ってことか」

「プロの試合でも注意してみるとよくやってますよ」

「コツは?」

「出来るだけ強く、出来るだけ小さい動作で」

 要するに隙を小さくしろということか。

 前田イオは裸拳を顔の高さまで上げて構えを作った。

「後は練習あるのみ、、、です」

 まず二人は足を止めた状態でジャブを受け流す練習をひたすらやった。それに慣れてくると今度はより強いパンチであるストレートを受け流す練習をひたすらやる。竜也はその体にパンチを受け流す感覚を深く刻み込んでいく。

 次の日も桜義とイオをまき込んで、ひたすらパーリングとステップの練習である。あまりにも単調な練習だったため桜義とイオが先に音を上げる始末だったが、それでも竜也は何時間も練習に没頭した。同じ動作の反復練習は慣れている。

 二日目になると、今度は動きをつけた練習に移行する。桜義が前後左右に動きながらパンチを出してくるので、それをステップで距離を掴みながらパンチを受け流す。他に、ブロッキングと呼ばれる腕で相手のフックや蹴りをガードする練習も始めた。

 この二日間前田カイリは全く姿を見せなかった。

 そして三日目。

 パンチの防御練習を三人で行っていると、

「お待たせしました」

 昼過ぎになってやつれた面持ちの前田カイリが姿を見せた。

「久し振り」

「ふん」

 竜也の皮肉を鼻であしらい、カイリは三人の前に立った。

「ようやく練習の方針とメニューが決りました」

「それを作ってくれてたのか」

 カイリはキッと竜也を睨んだ。

「何か問題でも」

 いや、それならそうと一言言ってくれよ。と竜也は心の中で愚痴を吐く。

「で、俺は何をすればいいんだ?」

 カイリは子羊を憐れむ様な冷たい視線で竜也を睨んだ。

「素人の貴方には考えつきもしない、独創的な練習メニューです」

「もったいぶらず早く言え」

 やれやれとカイリは首を左右に振る。

「あなたを戦えるようにするには、ズバリ」

「ずばり?」

「ディフェンスの強化! つまりステップとパーリングの重点的な反復練習!」

 カイリは眉尻を凛々しくいからせる。渾身のどや顔だった。

 三人は一言も発さず、冷めた目でカイリを見つめていた。海からの風が竹林を撫でた。アブラゼミがひとしきり鳴いてどこかからかどこかへ飛び去って行く。

「「「もうやってるけど」」」

 カイリはドヤ顔のまま蝋人形のように固まってしまった。今度はクマゼミが窓の外で鳴き始め、好きなだけ鳴いた後どこかへ飛び去って行く。心なしか、カイリの耳が赤みを帯びているように見えた。

「ま、まぁ、桜義さんとイオは先進的な考えを持っていますから」

 カイリは額に冷や汗の粒を浮かせながら、震えた声で言い訳し始めた。そんなカイリにイオがトドメを刺す。

「これ、愛朽さんの提案だよ?」

 カイリは槍のような視線で竜也を睨みつけた。額に血管を浮かせ、竜也の胸ぐらを掴み上げる。

「この野郎」

「流石にそれは理不尽だよな!?」

 カイリは投げ捨てるように竜也の胸ぐらから手を放し、襟を正して竜也と向き合った。

「ま、私は広い心であなたを許しましょう」

「お前の倫理回路どうなってんの?」

 竜也を無視してカイリは話を続ける。

「このタブレットに私が集めてきた動画と雑誌の切り抜きが入ってます。身体を動かしていない時でもこれで勉強が出来る」

 カイリはタブレットを竜也に手渡した。

「いいのか?」

「壊したら弁償ですよ」

「ありがとう」

「ここまでするのはあなたに勝ってもらいたいからです。負けたら刺しますよ。ドスで」

 竜也の耳元でイオが「これマジのトーンです」といらぬ補足情報を添えて竜也を震え上がらせた。

「ちょっといいか」

 声のした方に顔をむけると真面目そうな好青年が立っている。陣原だった。

「俺?」

 陣原は竜也を見て頷いた。陣原は竜也をジムの休憩室に連れていく。そこで陣原が見せたのは、死んだ虫を見る様な冷ややかな視線だった。

「言っとくけど、俺本当に手加減しないよ?」

 辞退しろ、と暗に言っているのが分かった。

「それで君の格闘家生命が断たれても何とも思わない。それでもいいの?」

「はい」

 竜也は即座に返事をした。

「株地さんがどういうつもりか知らないけど、君が僕に挑むのは無謀だ。試合の運び方次第じゃ最悪今後の生活に支障が出ることすらあると思うけど」

 竜也は何も言わず、ただ陣原を見つめていた。というより陣原の表情を観察していた。

「決意だけは堅いようだね」

 そう言うと陣原は背を向ける。

「君がどれだけディフェンスを強化しても、俺がやってきた練習量の足元にも及ばない。ここはゲームの世界じゃない。現実だ。圧倒的な練習量を埋める術は存在しないんだ」

 そう言うと陣原は休憩室から出ていった。竜也は軽くため息をつく。

「知ってる」


 最初の一週間は朝から晩までディフェンスの練習だった。とにかくステップワークの徹底した習練と各種打撃技にたいするディフェンスの強化に時間を費やした。桜義も少しずつパンチの速度を上げていき、竜也のディフェンス力のレベルは上がっていく。

 一週間を過ぎた頃からようやくジャブとストレートの練習が始まった。基本的な型を教わり後はステップワークを含めたミット打ちである。

 そこから一週間を過ぎると、ようやく実戦練習で金網の中で桜義を相手に軽いスパーリングをこなすようになった。その頃には筋肉痛がようやく落ち着き、身体が少しずつ格闘技に馴染みつつあった。

 学校が始業し、陣原との対決を三日後に控えたある日の夜。その日は、竜也の格闘人生を左右する分岐点となった。

 ウォームアップを済ませた後は時間の開いていたアマチュアの打撃コーチ来栖にマススパーリングの練習を付き合ってもらった。その日はアマチュアの教室はなく、プロを目指す練習生しかジムにいない。夕日の茜がジムの天窓から中に溶け込んでいる。その時間になっても桜義はジムに訪れない。

「いつもならもう来てるのに」

 竜也は不安になった。桜義はこの一か月間、献身的に竜也を支えてくれた。言わば師だ。竜也の桜義への信頼は揺るぎない。先に姿を見せたのはブレザー制服に身を包んだ前田カイリだった。

「桜義さんは?」

 と竜也が聞くと、カイリは後ろを向いた。

「多分、大学ですね」

「大学?」

「たまに教授に捕まって研究の手伝いをさせられるんです」

 そもそも大学生だったのかあの人。カイリのポケットでスマートフォンが振動する。カイリは画面を確認した後

「噂をすればです」

 とカイリが画面を見せるとそこには「教授トラップにかっかった。今日は行けそうにない。本当に申し訳ない」と書かれていた。

「困りましたね。休息日を入れると後二日しかないのに」

 この四日間は仕上げの日、とされていて、学んだことを実戦で使えるようにするのが目標だった。ここにきてスパーリングパートナーを失うのはあまりにも痛い。

「今日はアマの人もいないし、スパーリングに付き合ってくれそうな人は限られてますね」

 今回の対決に関して、陣原にも何人かコーチがついている。そちらの陣営に頼むのは流石に気が引ける。

「となると、あの人に頼むしかないか」

「あの人?」

「あなた、嫌いな音楽とかはないですか?」

「無い」

「よろしい。あの人の前じゃ絶対にロックやヘヴィメタルは馬鹿にしないでください」

「脈絡もなくそんなことしないって」

「取りあえず連絡をとってみます」

 しばらく電話でやりとりをした後、神妙な顔つきで竜也を見た。

「来てくれるそうです」

 

 竜也がカイリの罵声と打撃に耐えながら反復練習をしているうちに、外はすっかり紺色に染まっていた。陣原は練習を終えて帰宅し、他の練習生も帰り始めていた。時計の針が八時を回ったころ、練習場の扉が開いた。

「カイリ、いるか?」

 竜也は思わず目を見張った。外人だ。背の高い白人の男が来た。

「ご無沙汰です。アレク」

 男の身体はすらりとしていた。歩くと腰のあたりまである茶髪がさらさらと揺れる。深い眼孔の奥には水色の瞳が虚ろな視線を放っていた。服装は黒のタンクトップに黒のジーパン。そこに革のジャケットを羽織っている。

「メール見てくれましたか?」

「事情は把握した」

 流暢な日本語だった。だが、機械のように抑揚に乏しい。男は竜也を見つけると、歩み寄って長い手を差し出した。

「アレクサンダー・バスティアンセン。ここの人間はアレクと呼ぶ」

「あ、愛朽竜也です」

 男は包み込むように竜也の手を握った。掌はヤスリのようなざらざらとした質感だった。

「では早速スパーリングに移ろう」

「あ、はい」

 アレクは革ジャンを脱ぎ捨て、後ろで髪をくくり、準備運動を始める。それを眺めながら竜也はカイリに耳打ちする。

「誰?」

 カイリは険しい表情になって

「知らないんですか?」

「知らん」

「アレクサンダー・バスティアンセン。ノルウェーのオスロ出身の元総合格闘家」

「そういやなんかホームページに載ってた気が」

「アメリカの第一線で戦ってたファイターです。無冠ながらタイトルマッチも二回経験済み。被KO率ゼロ。文句なしに超一流のファイターです」

 その国で敵なしのトップクラスの選手がメジャー団体では一勝もできずにリリースされる。総合格闘技はそんな修羅の国だと聞いている。そんな所で戦い続けていたとなれば

「超大物じゃないか。それがなんでここにいるの?」

「社長のコネだそうです。変わり者どうし惹かれあうものがあったのかもしれません」

 準備運動を終えたアレクは竜也を見て

「君、メタルは好きか?」

「ヘヴィメタルのことですよ。ヘビメタという略称は禁止です」カイリが耳打ちする。

「好きとか嫌い以前に詳しくないです」

 北欧と違ってこの国ではあまりメジャーなジャンルではない。

「バンドの名前もか?」

「名前、くらいなら、聞いた事は」

 アレクは金網リングの扉を開け乍ら

「言ってみろ」

 これ意味あんの? とカイリに耳打ちすると、カイリは「答え方で最初の好感度が決ります」と返す。ギャルゲーかよ、と竜也は呟いた。

「えっと、その、スレイヤー、とか」

 無駄に豊富な知識はオタクの十八番である。

 アレクは金網の中から感心したように口笛を吹いた。

「ビッグフォーか。デビューから一貫している攻撃的な音楽性は賞賛すべきだ。メタリカやアンスラックスも好きだが、やはり俺はスレイヤーだな。他は」

「テスタメント?」

「ベイエリアクランチ。最近の重厚なサウンドも好きだが、錆びた鋸のような初期の音楽も捨てがたい」

 なにやらうんちくを語りだした。

「ヴェノム」

「あの酷い音質はある意味芸術だ。中指で十字を切るような歌詞もいい」

「カーカス」

「メロデスのパイオニアと呼ばれているが、スワンソングの伝統的なメタルとの融合こそ連中の神髄だと俺は思う」

「ハンマーフォール」

「奴らの……」

 問答はあと五つほど続いた。それが終わると、アレクの亡霊のような顔に好奇的な笑みが薄らと浮かんだ。

「気に入った。お前をヘヴィメタル大使一号生に任命しよう」

「おい、なんかに任命されたぞ」

「お、おめでとうございます」

 嫌われているわけではなさそうなので、まあいいかと前向きに考えて金網に入る。

 アレクはタンクトップ、ジーパンという出で立ちで、拳を胸の高さに構えた。

「お前の知識に敬意を表し、全力で戦ってやろう」

「おい! 全然いいことないじゃねぇか!」「私に言われたって知りませんよ!」

 などと言い合ってる間に、アレクは揺れる陽炎のようにスゥと近づいてくる。

「うわああ来た!」

 シッ。アレクの口が小さな音を放ったと思った。竜也は上を見上げていた。

「え?」

 攻撃を受けた。竜也の身体が思考に先んじて直感する。竜也は慌てて距離をとった。

「全く見えなかった。いや、それよりも」

 なんだこの重さは。鼻っ柱に鉛をぶつけられたかのようだ。

「まだそこは俺の間合いだ」

 アレクの身体が躍動した。竜也の視界の端から迫りくるもの。大きく放たれた左の拳。

 ――はや

 竜也はとっさに右腕をたたんで蟀谷に添えた。

 丸太。

 丸太で殴られたかと錯覚するほどの衝撃だった。竜也の身体が一瞬左に大きく傾いで竜也はたたらを踏む。

 ――足を、止めるな!

 竜也は動いた。すり足で距離を取る。その脇腹一寸先を居合のようなミドルキックが霞めていった。風圧が竜也の前髪を揺らし、冷や汗が竜也の額から弾けた。

 ――動き続けろ

 距離を取り、二秒の間を確保する。アレクを視野に入れ、それでようやく驚きという感情を吐き出した。

「なんつう破壊力とリーチだ」

 いくら階級が違うとはいえ同じ人間でここまで攻撃力に差があるのか。

 ――リーチと攻撃力で勝る相手にはどう対応する。

 竜也はさらに足の回転を上げた。相手の間合いの外で円を描くように移動する。アレクは冷静に距離を詰めつつ、塔のように竜也を見下ろしていた。

 ――攻め気を見せるな。脅えた鹿を装え。

 ガードを少し下げ、せわしなく足を動かす。

 アレクはゆっくりと距離を詰めてきた。その左手が妖術のようなジャブを放つ。

 ――ここは心の問題だ。恐れるな

 竜也は前に出た。鉛のような拳が額を直撃。あまりに衝撃に死神が手招きするのが見えた。だが、それでも距離を詰める。

 ――自分よりリーチのある相手に様子見をしていては相手に嬲り殺されるだけだ

 アレクの右ストレートに合わせ、竜也もつぎはぎだらけのストレートを放った。が、アレクの右ストレートは幻影のように消えた。

 ――フェイント!?

 小刀のように鋭く研ぎ澄まされ左手が、竜也の首を狩りにくる。首が刎ねられるイメージが脳裏に瞬いた。

 一粒の汗が、竜也の顎から地面に落ちる。

 拳は竜也の頬にあと一センチというとこで止まっていた。少し遅れて微風が竜也の頬を撫でる。左ジャブ、右ストレートのフェイント、カウンターの左ショートフック。

「右ストレートの時に左のガードが下がっている」

 アレクの声が竜也の天頂に降ってきた。竜也は勝ち目のなさを自覚し、目を閉じる。自分とアレクの前に横たわる圧倒的な力量差。よく戦った。などと自分を慰める様なことを竜也は一切しようとしなかった。

「どうですか?」

 カイリの問いに、アレクは髪留めをほどきながら

「ヤマトのほうが上だ。力も技術も速度も」

 当たり前といえば当たり前である。

「だが、精神面ではタツヤに分がある」

「精神?」

「発想や戦い方、勇気の出しどころだな。判断の早さや戦略のレベルが初心者じゃない」

 アレクの言う「精神」は日本人の言う「精神」とは少し異なっていた。

 アレクは金網を出て、ジャケットを羽織る。

「光明があるとすればそこだ。弱者が強者に勝つには、己の強みを相手の弱点に深く突き刺す必要がある。それが出来なければ君はヤマトに勝てない」

「弱点を深く突き刺す……」

「会員一号の為に私が少しだけ助力してやろう」

 この際、会員一号なる謎の肩書に拘泥すまい。勝つ確率が少しでも上がるなら、手段は択んでられない。

「お願いします」

 竜也の言葉に迷いはなかった。

「君の師に会わせろ」

 一瞬、竜也は自分が何を言われたか分からなかった。格闘技の師匠などいないからだ。

「師匠?」

「君の戦いの本質を作った者だ。そこに勝利へのヒントがある」

 本質を作った者。竜也の人格形成に最も寄与した人物。

 それは親? 

 違う。

 竜也に「戦い」を教えた師はこの世に一人しかいない。


 ジムを出たアレクと竜也はアレクの車で都市のゲームセンターへと向かった。四階建てのビルで五階は映画館になっている県内屈指のゲームセンターである。ゲームセンターの中は強烈な熱気と喧騒が渦巻き、毒々しくも華やかな青と赤と白の光がそこらじゅうで飛び散っていた。

「すごい音だな」

 とアレクは少し圧倒された面持ちだった。

「なんで私まで……」

 その横でカイリが不快そうに眉を内によせた。

「本当にここにいるんですか?」

 カイリは疑わし気に言う。

「一応ここにいるってメールで言っていたんだが」

 辺りを見渡してもそれらしき人影はいない。

「待ち合わせとか苦手な奴だから」

 というより時間にルーズと言った方が正しいかもしれない。待ち合わせをすると待ちぼうけをくらうのは決って竜也の方だった。

「取りあえず格ゲーコーナーに行ってみるか」

 一時期はゲームセンターの顔ともいえた格闘ゲームだが、ネット対戦が主流となってからはゲームセンターから筺体が姿を消しつつある。

「いないな」

「私帰りますよ」

「好きにしろよ」

 カイリはじぃと竜也を睨みつける。

「せっかく来たんだから顔くらい見ていきたいです」

 なんなんだお前は。

 待っている間、カイリは格闘ゲームに目移りしていた。最初はただ見ていただけだったが、だんだん「あっ」「いけっ!」とか小さく声を出すようになり、表情も喜怒哀楽がはっきりしてきた。

「入った!」

 カイリが見ていたのは《サムライスピリッツ零SP》というゲームだ。半裸で赤い髪の男が相手を吹き飛ばし、壁に跳ね返った敵の身体を下から突き上げるように蹴りを叩きこんでいく。だけど途中で攻撃を諦めたように地面に降りると「ぐるじお」と謎の言葉を放ってがっくりとうなだれる。その隙に敵の攻撃が体力を奪い去った。

「なんであんなに攻撃したのに相手の体力ゲージがこれっぽっちも減ってないんですか!?」

「そういう技なんだよ。六道烈火(りくどうれっか)って言う技で、成功するとチェストーって叫んで凄いダメージが入る。でも、技を完成させるタイミングが難しい」

「どれくらい難しいんですか?」

「成功するタイミングは一フレームだな」

「フレームってなんですか」

「六十分の一秒だよ。しかも、相手の大きさや攻撃が入った位置でタイミングが変わるから実戦で成功させるのは恐ろしく難しい。成功すれば一撃で試合をひっくり返すけど、熟練者でもそれは難しい。だからそのキャラクターは弱キャラなんだよ」

「わざわざ弱いキャラクターを使う意図が理解できません」

「これから来る奴は弱キャラを好んで使うぞ」

「その人自体は強いんですか?」

「強いよ。べらぼうに」

 彼女は零サムで炎邪というキャラで徳川というキャラを倒し大会で優勝したことがある。一般人は「ふーん」と言うかも入れないが、格闘ゲーマーにとってはチョキでグーに勝つくらい在りえない芸当である。

 竜也自身も何度「チェストォ!」の叫び声を聞いたか分からない。

「弱いキャラクターを使うのに?」

「強キャラ使うと勝って面白くないから弱キャラ使ってるらしい」

 勝利のカタルシスこそが生きる糧、とは本人の談である。

「変わった人ですね」

 お前が言うな。と心の中で呟く竜也だった。

 しばらく竜也が立ち回りやキャラクターの性能について解説していると、奥の筺体で野太い男の歓声が上がった。あまり聞きたくない、下品な声である。見れば、酔っぱらった輩数人が筺体を占拠している。対面では親に付いて来たと思われる少年が悔し涙を流していた。

「おいおい泣くなよ~。俺らがイジメたみたいじゃん」

 と赤ら顔の男が高笑いする。

「子供がこんな時間に遊んでる方が問題なんだぜ」

 だからっていい歳こいた大人が子ども相手にイジメみたいなことするなよ。と竜也は顔をしかめる。そんな竜也をカイリが肘でこつく。

「なんだよ」

「あなた仮にも大会優勝者でしょ?」

「だから?」

「あの下品な連中に精神的鉄槌をかましてプライドを圧し折りなさい」

 いつものような剣呑な表現だった。何の義理があってそんなことをせにゃならんのだ、と思う反面連中のことが気に入らないという点では竜也も同じだ。安全圏から弱者を馬鹿にして喜んでいるような奴は嫌いだ。

「分かったよ」

 竜也は子供の肩を叩いた。

「変わってくれるか?」

 子供は小さく頷き席を譲った。筺体に座って竜也は後悔した。《ストリートファイター》から《エイリアンチャレンジ》まで、3D2D問わず大体の格闘ゲームは遊んだことのある竜也である。だから、どんなゲームであってもどうにかなると安易な気持ちで台に座った。だが、目の前には「ブリザード」という文字。竜也が触ったことの無い、いわゆる新台である。

「お、彼女連れじゃん」

「いいとこ見せろよ、彼氏―」

 筺体を挟んで五、六人の男達がはやし立てた。この野郎、と竜也は小さく毒づいた。アベック認定が心に突き刺さったのは竜也だけでなく、カイリも「毒殺してやる」と恐ろしいことを呟いている。

 キャラクターは二〇人。それに加えてサポートキャラクターと呼ばれるアシストキャラ六人の中から一人選択する。だが、正直どれがどういう性能なのか見当もつかない。

 竜也は適当にキャラクターを選択するしかなかった。

『つべこべ言う奴は蜂の巣にしてやる』

 選んだのは大きく丸い腹と顔を覆うガスマスクが特徴的な巨漢で、左手に大きなフックを持っている。

「こいつ豚選びやがった。舐めすぎだろ」

「初心者なんじゃね?」

 対面から小馬鹿にしたような声が聞こえる。どうやら弱キャラを選んでしまったらしい。

 相手が選んだのは細身のサイボーグ。全身が金属で右手に日本刀を携えている。

「見た感じ、スピードタイプっぽいな」

 相手はおろか、自分の立ち回りも技も分からない。だとすれば強気に攻めてごまかしごまかし勝ちをもぎ取るしかない。

 試合開始。

 竜也はレバーを右に倒し、それっぽいボタンを手あたり次第押しまくった。豚のフックがサイボーグニンジャの身体にヒットするも、その後はでたらめな技が暴発する。

「こいつ、初心者じゃん?」

 と開始十秒で相手に悟られる。

 サイボーグニンジャはそこら中を縦横無尽に飛び回り、無数の手裏剣を雨あられと投げ飛ばす。竜也は開始早々画面端に追い詰められ、防戦を強いられる。

 ――やっぱりこうなるのかよ

 敵は常に遠距離からの攻撃に終始する。

「なにやってるんですか、体格差があるんだから攻めればいいでしょう」

 しびれを切らしたのはカイリだった。

「格ゲーに体格差なんて無意味だよ。むしろデカい奴が弱い事の方が多い」

 このまま時間切れを狙うつもりか。ならばどうにかして距離を詰めねば。竜也は攻撃の間隙をぬって前進を始めた。

「馬鹿が」

 敵の身体が空中で消え、突如竜也の眼前に姿を現した。

 ――瞬間移動!

 竜也は反射的にレバーを左に流して防御態勢を取る。遅れて敵の蹴りが竜也の膝目がけて迸った。攻撃が当たる瞬間、白い閃光とともに青い火花が飛び散った。

 ――防御が間に合った。

 嵐のような猛攻が竜也を待ち受けていた。一秒に数発の圧倒的攻撃密度をもって相手は竜也に襲い掛かる。だが、竜也は経験と反射神経のみでこれを凌ぎ切る。

「よく見えますね」

「世の中にはもっとえげつない固めがあるからな。それに」

 それに、ゲームならいくらガードしても腕が痛くならない。竜也は痣まみれの腕を巧みに捌いてレバーを動かし、敵の攻撃を凌ぎ切る。

「雑魚にしてはよく守るじゃん」

 筺体の向こうで「やっちまえ」との声が上がった。突如画面が暗転し、眩いばかりの光条が炸裂した。

『我が剣に宿るは、竜神の烈牙!』

 サイボーグ忍者のスピードが突如として上がり、攻撃はさらに苛烈になる。息もつかせぬ居合の連撃が遂に竜也の防御に歪を入れた。

 閃く刃が豚の胸元に一文字を刻む。

「中段かよ!」

 豚はのけ反り、十を超える斬撃が竜也のライフゲージを根こそぎもぎ取った。

 体力に大きく溝を開けられた。竜也はええいままよと起き上がりに反撃を試みる。苦し紛れにぶん回したフック。忍者は刃を横一文字に構えてそれを受け流す。

 ――当身か!

 当身、相手の攻撃に対して確定で反撃を入れてくる技。攻撃の主導権は忽ち忍者に移り、そこを起点に夥しい量の連撃が叩きこまれ竜也のライフをゼロに圧縮した。

 一ラウンド取られた。

「おいおいおい、マジかよ。正義のヒーローみたいに出てきてボロ負けしてやんの」

「あいつら」

 カイリが鬼の形相で相手を睨みつける。

「負けた俺が悪い」

 竜也の心中は地獄の窯のように煮えたぎっていたが、怒鳴り散らして勝てるものでもない。このキャラクターを選んだのは失敗だった。動きも攻撃も遅く、切り返しにも乏しい。経験の差も相まって勝利への出口が全く見えない。新しく作戦を立てる時間も無い。

『ラウンド2が開始されます』

 という淡々とした女性のアナウンスを皮切りに第二ラウンドが開始される。

「おら、攻撃してみろよ初心者!」

 敵はこちらの頭上を飛び越え、素早く後ろに回り込む。

 ――めくられた

 レバーを反対方向に入力してガードをするも、こちらがしゃがんだ隙を狙って中段攻撃を当てられる。そこを起点にコンボを叩きこまれ、起き上がった隙にさらにコンボを重ねられる。開始十秒ですでに竜也のライフは半分を切っていた。

 まずい。負ける。あの筺体の向こうにいる男の顔が、かつてのいじめっ子にクロスフェードし、それは入り混じって奴の顔になった。

 負けたくない。負けたくない。でも――


「昇竜大パン」


 背後で声がした。荒野の風が如き、凍てついた、やさぐれた声だ。竜也は別人格を起動させたかのように落ち着きを取り戻し、反射的にレバーを入力する。豚はフックを素早く跳ね上げ、飛び掛かってきた忍者を撥ね飛ばす。攻撃の流れが止まった。

「大パンを振って中距離を保ち続けろ」

 竜也はその通りに動くと、不思議なことに相手の攻め手が緩み始めた。

「久しぶりだな相棒」

 竜也の横にぬっと女性の顔が現れた。黒いジャケットと黒いジーンズ、白いシャツ。そして後頭部で揺れる赤いリボン。ポケットに両手を突っ込み、枝垂れのような前髪から怪しく光る視線を画面に向けている。

「虎子」

 幸律虎子。親の顔よりも親しんだ顔が竜也の隣にあった。

「この勝負、アタシが預かる」

 竜也は素早く席を譲った。会話の最中に敵の連撃が豚のライフを後一発というところまで削り取っている。

「おいおい、女の手を借りるのかよ!」

 筺体の向こう側では爆笑の渦に包まれていた。

「ゴミめ。今すぐ敗北の泥沼に沈めてやる」

 虎子はレバーを握り、既に戦闘態勢に移行している。

「もしかしてあの人が」

「幸律虎子。俺の幼馴染」

「強いんですか? てゆうか勝てるんですか?」

「勝つよ」

 それは竜也にとって楽観でも期待でもなく、鳥が飛ぶが如く当たり前のことに思えた。

「だよな、虎子」

「無責任なこというな。人にこんな面倒事押し付けやがって」

 などと言いつつ、豚は忍者の連撃が途切れる一瞬にフックを浴びせ、あっさりと忍者からダウンを取った。豚はその巨体を宙に浮かせると、忍者の起き上がりに攻撃を重ね、着地と同時に子足を入れて忍者を浮かせた。虎子の両手が目まぐるしく動いたかと思うと、台風のような連撃が敵の身体を空中で嬲り、体力ゲージを四割ほど奪い取る。

「おい、なんだよ今の!」

 向こう側の空気が一変した。

「今の起き攻め?」

「豚は上りKパンを二フレームでドリキャンしたらジャンプを中断して高速で着地出来るんだよ。それを利用して択をかけれる。最速で出せば詐欺れる優れものだ」 

 格闘ゲーマーにしか分からない難解な言語で解説する。竜也は頷いたが、カイリは首をひねっていた。とにかく攻めの主導権は虎子に移った。

 だが、ライフゲージは一ドット。一発の被弾も許されない。なのに

「おっと」

 虎子は常人離れした嗅覚で反撃を察知し的確にガードを挟んでいく。その攻撃の終わり際に強烈な攻撃を浴びせて敵のライフゲージを抉り取った。

「どうなってんだよ」

 相手側は酔いがさめたように青くなっていたが、虎子の表情もまた冷めきったものだった。虎子は真っ赤になったライフゲージのまま勝利を引き寄せていく。彼女の表情とは対照的に、画面のキャラクターは水を得た魚の如く、生き生きと躍動していた。

「死ね」

 豚の伸ばしたフックがバックステップをした忍者を引き寄せ、左手に持っているショットガンが忍者の身体を撃ち抜いた。敵のライフは真っ赤になり、KOの文字が画面に張りついた。

「あっさり勝つな」

「馬鹿いうな。相手の攻撃を全部ジャスガで防ぐ身にもなれ」

 虎子の顔には笑顔が浮かんだ。

「ジャスガってなんですか?」

 反対にしかめっ面のカイリが肘で竜也をこつく。

「相手の攻撃の数フレーム後にガードをすることだよ。ようするにギリギリで防御すれば削りダメージをゼロに出来るし、ガードの隙も少なくなる」

「フレームって六十分の一秒のことでしょう? 人間に反応できるんですか」

 だが目の前の虎子は目まぐるしい敵の攻撃を鮮やかに捌いて凌ぎ、ゼロコンマ数秒に生まれた隙に攻撃をねじ込んで立ち回っていく。

「だから読むのさ。相手の攻撃の種類と攻撃発生と硬直フレーム数を頭に叩き込んだ上で相手の攻めの癖を見抜いて読み勝つ」

「俄かには信じがたい話ですね」

「でも今目の前で実践してくれてるよ」

 むっと、カイリは息をのんだ。虎子の操作は機械じみて精密で、尚且つ、その攻撃には超人的な勘が見え隠れする。画面を見つめる虎子の目は恐ろしく冷淡で非動物的だ。それは相手が虎子にとって取るに足らない雑魚であることを示している。

「虎子の操作技術はトップクラスだし、データをインプット出来る頭もある。でもそれだけじゃないんだ」

「それだけじゃないって?」

「虎子の最大の武器は分析力なんだ」

「分析力?」

「一言じゃ、うまく説明できない」

 虎子の分析とは、かなり哲学的な水準にまで達している。と竜也は思っていた。

「おい、幸律が戦ってるぞ」「まじだ。ブリザードやってんのかよ」とギャラリーが集まって来る。

「有名人なんですね」

「まあな」

 中には「おい、隣にいるの愛朽じゃね」「やっぱ二人出来てんのかな」と好奇の目は竜也にも向いていた。

「そろそろ終わりだな」

 虎子が吐き捨てると豚のフックが敵の身体を引き寄せ、数センチほどあった体力ゲージを奪い去る。

「まじかよ豚で忍者にパーフェクトかよ」ギャラリーから小さな歓声が上がった。

「ありがとうな。虎子」

 虎子は何も言わず、立ち上がって竜也の方を向いた。虎子の瞳はディスプレイの光を反射して光っている。

 虎子は何も言わず竜也に抱き付いた。ひし、と虎子の手が竜也の背中に食い込んだ。

「ちょ!」

 竜也は顔を赤くし慌てて虎子を引き離す。虎子の瞳はさっきよりも強く光っていた。

「しばらく姿見せないから、さみ……心配したぞ」

 虎子はらしくないことを言った。

「会いたいならラインよこせよ」

「あんな別れ方してこっちからメールなんか寄越せるか」

「お前そう言う所変に不器用だよな」

「つべこべ言う奴にはご案内!」

 虎子は軽いアッパーを竜也に叩き込んだ。あやうくスウェーバックで躱しそうになったが、竜也は寸での所でアッパーを受け止めた。

「いて」

 その後二人は笑顔を交わし、ハイタッチを交わす。

「元気そうだな」

「うん。なんとかジムにもなじんできた」

「本当か? 鈍器でしばかれたりとかしてないか?」

 カイリが顔を逸らすのが視界の端に見えた。

「ま、まぁ今のところは」

 竜也も苦笑する。いざ虎子を目の前にすると話したいことが溢れて来る。しかしそれは一旦先送りになった。

「なに、いちゃついてんだこら」

 酔っぱらった輩が数人、竜也と虎子を取り囲んだ。

「今時リアルファイトかよ」

「酒で理性が吹き飛んでるんだよ。二、三発殴られて豚箱にぶちこんでやれ」

 そいつはご機嫌だ。……ん? 

「俺が殴られんのか」

「そりゃそうだろ」

「言い出しっぺのお前がどうにかしろよ」

「こんないたいけな乙女ゲーマーをリョナラーどもの生贄に捧げろと」

「お前の身体がニッチな性癖所持者どもの欲求不満を満足させるかどうなんてどうでもいい。問題はなんで俺が殴られにゃならんのかということだ」

「普段ボコられてるんだからそれくらい甘んじて受けろ!」

 虎子のぶっきらぼうな物言いに竜也もヒートアップする。

「お前そういとこあるよな! 人の痛みに鈍感なの! KOF97で蛇キャンの練習台にされたの忘れてねえからな!」

「まぁた昔の話を持ち出してくる! その件については謝っただろ!」

 口論を始めた竜也の肩を誰かが叩く。振り返れば拳を振りかぶった男がいた。

「人を無視して痴話喧嘩はじめてんじゃねぇよ!」

 拳が竜也の顔面に迫った。周りのギャラリーがどよめいた。殴られた。その場にいた何人かはそう思っただろう。

「っぶね」

 竜也はそれをブロックで凌いで一歩退いた。

「お、上手く弾いたな」

 虎子がニッと笑う。

「見えんのか」

「試合なら確反だろあれ。曲がりなりにも格闘家やってるじゃん」

 一先ず敵の先制攻撃を防いだのはいいが、相手は数人。おまけに手を出せばその時点で全てが終わる。

「どうするか」

「それについては大丈夫だ」

「え?」

「おたくの用心棒が何とかしてくれるみたいだぜ」

 輩どもの背後にそそり立つ黒い塔。アレクサンダー・バスティアンセンの巨体だった。

「私のメタル長官に手を出すな」

(出世してる……)

 アレクは男の一人の首根っこを掴むと、背後に引き倒す。

「なんだ、コイツ」「でけえぞ!」「かまわねえ、やっちまえ!」

 男達は一斉に殴りかかった。アレクは迫りくる男を片っ端から投げ飛ばしていく。男達はまるで魔法にでもかかったかのように、ふわりと身体を浮かせ、次の瞬間には地面に平伏すこととなった。

「すげえ。あんな綺麗に投げ飛ばせるのか」

 アレクは見とれるほど簡単に投げ飛ばしている。

「本質はそこじゃないっぽいけどな」

 虎子は別の所をみていた。

「どういう意味だ?」

「多分、投げは結果だ」

「分かるように言えよ」

「見た所、投げのプロセスは三つ、相手の衣服か身体を掴む、相手のバランスを崩す、そして投げる。あのレベルになると相手の体勢を崩した時点で確定で投げれるみたいだな」

 たしかに、アレクが相手を投げ飛ばす前は、必ず「崩し」を入れている。

「だから、どう投げ飛ばすか、じゃなくてどう崩すか、のほうが重要なんだろ。そして崩すには、相手の身体のどこを掴むかが重要になる」

「お前、数秒でそれを理解したのか」

「別に不思議なことじゃない。格ゲーだってコンボよりも立ち回りのほうが重要だろ? 華々しい結果ってのは、えてして地道な過程に支えられてるもんだ」

 少し離れた所で腕を組んでいたカイリの顔が少し渋くなるのが分かった。これは相手に正論を言われた時に見せる顔である。

 アレクはジャケットの襟を正し、折り重なって倒れる男達を見下ろした。

「今度は銃でも持ってくることだな」

 その後すぐに警察が来たが、酔っぱらいどもは以前からかなり悪評を振りまいていたらしく、数多くの目撃証言もあってアレクの防衛行為は不問となった。

 その後、夜も遅かったので警察に送ってもらう形で四人は解散した。

 本当は深夜まで虎子に話を聞いてもらいたかった竜也だったが、残念なことにそれはまたの機会に持ち越しとなった。

 不安な時は、ずっと虎子に悩みを聞いてもらいたいのは今も同じだ。


 来る決戦当日。

 秋は夏に蓄えたエネルギーを全て吐き出すことを決めたらしく、列島は季節はずれの熱波に蒸されていた。

 学校が終わってジムに到着したのは四時半。竹林とジムの建物は夕日に赤々と染まっている。風が吹けばそれが一斉に揺れて燃え上がる炎のように見えた。まるで地獄の門をくぐるような気持で、竜也は中に足を踏み入れた。

 両者に配慮してか、その場にいたのはコーチ陣、医療スタッフ、二人に関わった何人かの会員、それと株地くらいしかいなかった。当然前田姉妹、桜義、アレク、もいふ。

 竜也はボクサーパンツと黒のTシャツに着替え、バンテージを拳に巻き、その上にグローブを付けた。医療スタッフに皮膚を保護するワセリンを塗布してもらい、公式試合さながらの緊張感で陣原を待つ。

「緊張してますか?」

 カイリは珍しく穏やかな口調で話しかけてくる。

「そりゃな」

「始まったらすぐに緊張なんて吹っ飛びますよ」

 たしかに、試合が始まる前が一番緊張する時間だ。それまでに出来るだけ冷静になるのが重要である。竜也は深呼吸とともに肩の力を少しずつ抜いていく。

「そう易々とやられないはず」

 桜義も竜也の肩を叩き

「そうだ。後半は俺もかなり本気でパンチ打ってたからな」

 桜義は竜也に耳打ちする。

「お前より前田姉の方が緊張してる。見ろ」

 たしかにカイリは深呼吸をしてみたり、何か独り言を呟いては首を振ったり、その場で地団太を踏んだり、いつになく落ち着きがない。竜也はこの期に及んで笑いをこらえる羽目になった。

「ちょっとは楽になったか?」

「はい」

「よし。応援してるぞ、一流ゲーマー」

 竜也は金網を見上げた。ここに入れば自分は一人だ。けど、そのことに慣れなくては、奴のいるところには近づけない。奴。それは唐沢でもあり、そして、過去の自分をいじめた奴らでもある。もう、後戻りをするつもりはない。

「ま、強い奴と戦う時は冷静に大胆にってのが基本だからな。待ちガイルになったつもりで冷静に行こうぜ」

「うん。サマソ決めて来る」

 そんな冗談に自嘲した後、「あれ?」と竜也は顔を上げた。今の声――

「虎子?」

 振り返ると幸律虎子が「よっ」と軽く挨拶をした。

「なんでお前がここに」

「そうです。今は一般会員の方は立ち入り禁止です」

 何故か虎子にカイリが突っかかっていった。

「かたい事言うなよデカ乳」

「で、でか……」

 カイリは怒りで顔を真っ赤にしてずいと虎子に歩み寄る。例の一件以来、何故かカイリは虎子の話をすると不機嫌になる。

「とにかく関係者でない方は帰っていただけますか」

「いや、アタシのこと呼んだのあの人だし」

 虎子が向けた親指の先にはアレクがいた。アレクは「そう言うことだ」と頷いた。

「くっ」

 カイリは不機嫌そうな顔を虎子から背けた。

「てことでお前の戦いぶり、見せてもらうぜ」

 虎子は壁にもたれ掛り、腕を組んだ。虎子の前じゃ無様な所は見せられないと気合が入る反面、さらに緊張がほぐれて肩が軽くなった。

 しばらくしてボクサーパンツとシャツを着た陣原が入場してくる。体重は竜也に合わせるというルールのため、初めて見た時よりも身体はかなりシェイプアップされている。そのため、筋肉が細く引き締まっているのがよく分かる。流石に初心者相手ということもあってかなり落ち着いているように見えた。

「よう元気か」

 陣原に声をかけたのはアレクだった。

「あ、アレク先生!」

 陣原はアレクを見るなり、細い釘のように背筋を伸ばした。

「き、来ていらしたんですか」

 まるで芸能人に出会った子供のようだ。傍から見てもアレクが彼の憧れの人物だと分かる。アレクの功績を思えば不思議なことではないが。

「ああ。公式試合のつもりで頑張れよ」

「はい。また稽古つけてください」

「都合が合えばな」

 その間に竜也はリングの中に入り、遅れて陣原もリングの中に入る。向かい合うと陣原の方が僅かに背が高く、筋肉の量は歴然だった。レフェリー役に抜擢されたのは四六歳一児の父、来栖陽平コーチである。

「試合は五分二ラウンド。タックル、投げ技、寝技は無し。使用技は蹴り、パンチのみ。首相撲からの顔面への膝蹴りは禁止。一ノックダウンで決着。いいな?」

「「はい」」

 安全に配慮した結果このルールになったのだが、一度でもダウンすればそこで敗北というのは気が抜けない。もっとも通常総合格闘技に「ダウン」という概念はなく、パンチを貰って崩れ落ちれば追撃を貰って負ける。ボクシングの様に10カウントで立ち上がって試合再開、ということはない。

「愛朽君は本当にヘッドギアを着用しなくていいんだね?」

「はい。三人でよく話し合って決めました。誓約書も書いてます」

 竜也はヘッドギアで視界が狭くなるのが嫌だった。顔面への打撃は桜義とのスパーリングである程度慣らしている。株地や医療スタッフは難色を示したが、少しでも勝つ確率を上げたいと竜也は必死に頼み込んでなんとかゴーサインが出た。

「じゃあ二人とも拳を合わせてコーナーに戻って」

 竜也が両手で握手を求めようとすると、陣原は踵を返して拒否をした。

「徹底してヒールだな」

 竜也も同じ様に踵を返してコーナーに戻る。コーナーには桜義とカイリがいた。二人は今回限りのセコンドである。気になって虎子を一瞥すると

「携帯いじっとる……」

 よほど試合に関心がないのかスマートフォンに目を落としていた。

「いいですか、基本に忠実ですよ」

「分かってる」

「隙を見せたらガンガン行っていいですから」

「うん」

 流石にカイリも戦う前の人間に悪態をつくようなことはしなかった。

「よし。じゃあ準備に移れー」

 金網の端と端で陣原と竜也が視線を交わす。この試合開始まで、竜也は目を閉じ、雑念を振り払った。鼓動の音の中で、自分の武器を確認する。なんとか間に合わせたディフェンス技術と、取りあえず形だけは作ったジャブと右ストレート。わらけるほど頼りない武装だ。でも、これで勝つしかない。そう。いつだって勝つために必要なことをやるだけ。

 竜也は目を見開いた。

「始め!」

 竜也は肩の力を抜き、拳を顔の高さに構えた。

 陣原はゆっくりと竜也に向かって歩き出す。やがて早足になり、それは間合いに近づくにつれてすり足と化す。対する竜也も同じ様にすり足で距離を取る。

『さぁ、始まりました。ここから実況は前田イオと、解説はアレクさんで行います』

 どこから持ち出してきたのか、リングの横にテーブルとマイクと小さなスピーカーを置いて即席の実況席が作られていた。

 序盤は距離の掴み合いだ。自分の間合を把握するのが勝利への第一歩。だけどその前にやっておくことがある。竜也は引いたその体を前に押し出した。

「な」

 竜也のジャブがこつんと陣原の鼻っ柱に当たった。続く二の矢は右ストレート、陣原の顔面目がけて右の拳が飛んだ。陣原は身体を右に走らせ、ストレートを回避する。竜也は素早く拳を引いて防御姿勢をとった。そこに陣原の拳が一発、二発と襲い掛かる。竜也はそれをなんとか捌いて距離を開ける。

 まずは上々の滑り出し。「自分は攻撃するぞ」という意思を見せて相手に試合の主導権を握らせない。

「それで、牽制のつもりか」

「倒すつもりで打ったんだけどな」

 陣原は露骨に不機嫌になった。挑発に冷静でいられる人物ではないらしい。

「調子に乗るな!」

 陣原の身体が迫る。鋭い拳が竜也に迫り、防がれてもなお攻撃を繰り返す。目まぐるしい連撃。フック――ダッキング ストレート――ブロッキング、竜也は覚えたてのディフェンスをを惜しげもなく使って致命傷を免れる。隙はあった。パンチの打ち終わり、竜也の勝負勘が機を告げた。

「シッ」

 綺麗なワンツーパンチが連続で陣原の顔を射抜いた。陣原は一瞬足を止め、後退したあと拳を構えなおす。

「このっ」

 主導権を握れたとは言い難い。だが、流れを向こうには渡していない。だが――

「なるほど、まるで初心者というわけではないようだ」

 陣原にはまだ余裕があった。何かしてくる。竜也の勘が囁いている。

「調理法を変えさせてもらうよ」

 陣原が再び距離を詰めだした。竜也はその分距離をとった。だが、それよりも速く陣原の身体は間合いを詰めた。

 ――これ以上近寄られるとパンチが当たる

 竜也は迎撃態勢をとる。来るなら来い。

 陣原は右足と左足を素早く入れ替えた。

 ――え?

 腹部に叩き込まれた鋭い衝撃。痛みではなく衝撃。

 ――ミドルキックか

 陣原の左足がガードの下を潜り抜けて腹を横殴りにした。

 ――足を止めるな

 激痛に歪んだ顔を陣原の右拳が潰しにかかる。

 ――駄目だ、間に合わない

 めり。頬肉が潰れる音を確かに聞いた。視界が激しく揺れ、衝撃に意識が打ちのめされそうになる。

 ――距離を取れ。どんなに不格好でもいい

 竜也はほぼ背を向ける形で陣原から距離を取った。尚も陣原は冷静に、手負いのネズミを追い詰めるようにじわじわと圧をかけてくる。

『愛朽さん、途端に手が出なくなりました。これは何故ですか、アレク先生』

『見ての通りミドルキックが原因だ』

『あれはそれほど効果的な一撃だったのでしょうか』

『自分だけ蹴りが使える、というのは初心者が思っているよりもアドバンテージがある』

『というと?』

『自分の間合いの外からくる攻撃とはそれだけ厄介なんだ』

『距離を詰めればいいのでは』

『そうだな。出来ればの話だが』

 陣原が実戦で蹴りを用いたことはない。つまり、この試合の為に習得してきたことを意味する――あるいは竜也を手ごろな実験台とみているか。

 竜也は鳥かごに押し込められたような気分だった。

 陣原が放つ左のミドルキックとローキックは竜也の間合いの外から着実にダメージを蓄積させていく。鋭い痛みが殴られた部分から広がり、太ももと脇腹は見る見るうちに赤くなっていく。竜也は距離を取るが、陣原は全く追ってこない。追う必要がないからだ。

「どうした。攻めてこないのか?」

 陣原は見下すような目で竜也を睨みつけた。

「いいぞ。ただし、君の敗北は確定するけどね」

 言っていることは正しい。このまま逃げ続けても判定負けだ。蹴りを使えない竜也は相手の間合いに入るしかない。それが何を意味するか、竜也はよく理解していた。

 ――仕方ないか

 竜也は前に出た。自分の持てる限りの脚力で陣原の間合いに突進する。ワンツーパンチというたった二つの武器を携えて。

 竜也の左ジャブを陣原はあっさりとはたき落とした。陣原は身体を竜也の右に流して一撃二撃と速いパンチを叩きこんでいく。その打ち終わりに鋭いボディーブローが竜也の腹に突き刺さった。痛みは強烈な吐き気となって腹から喉まで竜也を一直線に貫いた。なおも陣原の連打が竜也のガードの上に降り注ぐ。

「この野郎」

 ――駄目だ、打ち合うな

 竜也は反射的に距離をとる。そこを狙いすましたかのようにミドルキックが竜也の腰を打った。竜也の顔が苦痛で大きくゆがむ。それでも前に出て竜也はワンツーパンチを放った――が、当たらない。

 陣原は身体を傾がせて攻撃を回避。打ち終わりにパンチの連打を叩きこんでいく。竜也の額は赤くはれ、防御していた前腕にも内出血が見られた。

「さっきまでの勢いはどうした、部外者。眼光じゃ人は倒せないよ」

 陣原は竜也をなじりつつ一方的に攻撃を浴びせていく。肉が肉を打つ音が室内に響き渡り、その度に竜也の身体に痛みと傷が刻まれていった。一方が一方を嬲るだけの戦い。竜也は遂に攻撃すらやめて、亀の様に防御を固めて痛みに耐え忍ぶ。体幹は崩れ、意識は朦朧とする。

 ――勝つ方法を、探せ。

「どうだ、現実の味は。痛いだろ。苦しいだろ」

 その声も竜也はよく聞こえていなかった。

 ――頭がボーッとする。くそ、思考が薄れてやがる。だめだ。途切れる

「そこまで!」

 二人の間にレフェリーが割り込んできた。

 竜也はハッと我に返ってレフェリーの顔を見た。

「一ラウンド終了だ」


 コーナーに戻った陣原をコーチが出迎える。

「次で決まりそうだな」

 陣原はどこか釈然としない顔で後ろを振り返る。

「そう簡単にいくといいですけどね」

「どうした。あれだけ一方的に痛めつけたのに」

 陣原は冷静そのものといった様子で愛朽を見つめた。

「こっちが挑発しても全く効果がありませんでした。焦ってる様子もないし、諦めてる様子もない。多分ここからどうやれば勝てるかを探っていたんだと思います」

 陣原は大きく息を吐き、大きく息を吸う。肩が大きく上下し、額の汗の粒のいくつかが地面に流れ落ちた。

「だが、お前が優勢なのは明らかだ」

「そうですね。油断せず、確実に仕留めます」


「くそ、いいようにやられちまった」

 赤く腫れあがった竜也の顔に、前田カイリが氷を当てた。

「あそこでよく気持ちを切らさないでいられました」

 カイリは珍しく竜也をほめたが、それはそれで竜也を不安にさせた。

「俺、結構ヤバかったか?」

「い、いえ。よく戦えていたと思います」

 言いながらカイリは氷の入ったビニール袋を地面に落とした。それを桜義が拾い上げて竜也の顔に当てる。

「す、すいません」

 私の力が及ばないばかりに。という言葉が聞こえた気がした。カイリはいつになく弱気で、態度は妹のそれとほぼ変わらない。

「あんま気負うな。俺が始めたことだから」

「べ、別に私は」

 竜也は相手のコーナーを睨みつけて言う。

「なんでもいい。何か策はないか」

 カイリは言葉に窮しながらも竜也に強い視線を向けた。諦めているわけではない。

 だが、勝利への門扉は固く閉ざされている。力任せに拳を振り回しても、きっとこの扉は開いてくれないのだろう。

「おい、」

 低く唸るような声が竜也達を振り向かせる。

 幸律虎子。冷く鋭い視線を前髪の間から覗かせ、両手をポケットに突っ込んだまま近寄って来る。

「アタシが知恵を貸してやる」

「素人の貴方に何が分かるんですか」

 カイリはいつもの調子を取り戻して虎子につっかかる。

「何もいい案が無いんだろ? じゃあ別にアタシが作戦立ててもいいじゃん」

「だからと言って」

「いいけど、劣勢な奴が何もしないまま戦い続けても負けるだけだぞ」

「うっ」

 カイリは反論できず口をつぐむ。虎子はその脇を通り過ぎ強引に竜也に詰め寄った。

「おい、耳貸せ」

 竜也は素直に耳を傾ける。

「ふっ」

 虎子の吐息が竜也の鼓膜をゆらした。

「うひゃい!」

 虎子はけたけたと笑った。

「何すんだてめえ!」

 竜也は虎子を睨みつける。

「よしよし、いい感じに緊張がほぐれたようだな。もっかい耳かせ」

 竜也は不機嫌な顔のまま耳を貸す。

「いいか――」

 聞き終わった竜也は

「おい、まじか」

「まじだよ。からくりは後で教えてやる」

 からくりはあとで教えてやる。虎子が作戦を伝える時によく言う台詞だった。

「耐えられるかな」

「崩しそのものにはちゃんと対応できてる。マヴカプやり込んだ甲斐があったな」

 《マーブルバーサスカプコン》とてつもなくゲームスピードが早い格闘ゲームだ。ジョークでもゲームの単語を口に出されると、少し心が軽くなる。

「出来るか? 竜也」

「大丈夫。そういうのは得意だ」

「よし、その意気だ相棒。無敵で行くぞ!」

「ダー!」

 竜也の全身には闘志がみなぎっていた。固く閉ざされた扉の隙間から一筋の光明が見えた気がした。


 再びリングに入った竜也は拳を顔の高さに上げ、ステップを踏み始める。

 一見何もやることは変わっていないように思える。だが、陣原は警戒しつつゆっくりと距離を詰めてくる。陣原はじりじりと竜也ににじりより、竜也を蹴りの射程内に収めた。

「確実に、勝つ」

 陣原の鋭いミドルキックが竜也の脇腹に突き刺さる。竜也は鈍痛に顔を歪ませながら、前に出た。そこを迎撃してくる数発の拳。それでも竜也はガードを固めて前に出る。

 ――動いていればそうそう致命傷は貰わない。

 竜也は一応の攻撃の姿勢は見せるも、徹底して防御の姿勢を貫いた。そのガードの上から、陣原は拳を叩きつける。竜也の腕に、腹に、頭に、痛みと熱が蓄積されていった。

「そろそろ地面とニコイチになったらどうだ!」

 陣原の大振りのストレートが竜也のガードを割って額を打った。一瞬竜也の頭がのけぞり、膝から力が失われる。

 ――まだ

 竜也の膝に力が戻る。意識があるうちは、竜也は諦めないと決めた。何故か。

 ――勝つため

 勝利こそが、闘う者の至上命題である。竜也の背後にいる女がその精神に刷り込んだ。

「死にたいのかこの野郎!」

 陣原の鉄拳が竜也の顔を打ち、汗の飛沫がはじけ飛ぶ。だが、致命傷ではない。竜也は致命傷になりうる攻撃だけはブロッキングしている。

「こいつ、こいつ、こいつ!」

 陣原の顔から大粒の汗が地面に落ちる。胸板は呼吸と共に大きく上下する。

「竜也!」

 竜也の背中で虎子が叫んだ。

「今だ!」

 このラウンドで初めて竜也の方から距離を詰めた。

「この」

 陣原は蹴りを放った。竜也はバックステップで蹴りを避ける。日本刀のように思われた蹴りは、こん棒のようにその切れ味を無くしている。それほど、陣原は攻め疲れている。

「隙を逃すな! 喉笛を掻っ捌いてやれ!」

 蹴った足を戻すその一瞬。竜也は温存していた力を解き放つ。その体、猪が如き勢いで敵の懐に突進する。

 ――これでもくらえ!

 竜也が放ったのは、パンチ。バランスの崩れた身体から小さな放物線を描いて放たれた拳。到底「ストレート」とはいえない、素人同然の汚いパンチ。この汚い拳は陣原の前腕を潜り抜け、その顔面に吸い込まれていった。

 陣原の顔が揺れた。拳には重いものを殴った確かな手ごたえ。

「ばか、な」

 陣原は一歩、二歩と後ずさる。

「ワンチャン来たぞ! 攻めろ!」

 竜也はがむしゃらに拳を振り回す。ガードの上だろうが、反撃されようが、全く構わずでたらめなパンチを振り続ける。陣原はガードを固めて壁際まで後退、だが竜也は逃がさない。温存していた力を吐き出す勢いで陣原を追い詰め、拳を打ちこんだ。肉を削ぐようなイメージで、打つ。とにかく打つ。陣原は頭を振ってヒットポイントをずらそうとしたが、その体からかつての躍動感は失われていた。竜也はどてっぱらにパンチを一発入れて動きを止めるとガードの上から大振りの鉄拳を叩きこんだ。

 ガードの上。だけど全体重を乗せた一撃。

 陣原の身体が僅かに傾ぐ。その顔は苦痛に歪んでいた。

 陣原の肩が微動する。

 竜也は上半身をスウェーバックした。その鼻先一寸を陣原の拳が霞めていく。

『猛攻に転じた竜也さん、カウンターを間一髪避けた』

 ――相手を「固める」時は、相手の反撃(リバーサル)を頭に入れておく。

『がむしゃらに見えて頭はかなりクールだな』

 竜也は陣原の隙を見逃さない。反撃の機を逃したりはしない。

「竜也、切り替えろ!」

 虎子の言葉が竜也の攻撃プロセスを変えた。竜也は拳を上げ、鋭いジャブを放つ。基本に忠実な普通のジャブ。だが、拳は陣原の防御を掻い潜って鼻っ柱を叩いた。続けざまのストレートが陣原の額にヒットする。

『おっと、ここで竜也さん、基本的な打撃フォームに切り替えた』

 陣原は驚愕に顔を染めて後ずさった。竜也は逃さない。距離を詰め、何の変哲もないワンツーパンチで陣原を固めていく。陣原の反撃が飛ぶ。それをパーリングで受け流し、竜也は生まれた隙に攻撃をゴリゴリとねじ込んでいく。

「固まった! 出しきれ! 相棒!」

 ――分かってるよ

 竜也は全身の酸素を使い切るつもりで拳を乱打した。肉が肉を打つ生々しい音が絶え間なくリングに響き渡る。陣原は足を止めて金網を背にして蹲るように体を守る。

「その背後にある、勝利を寄越せ!」 

 竜也は貪欲に拳を打ちまくった。

「そこまでだ!」

 レフェリーが二人の間に割って入った。陣原は歯ぎしりをしながら、金網にもたれかかり、腰を落として首(こうべ)をたれる。

 竜也は目の前の光景を咀嚼できず、呆然と立ち尽くしていた。とにかく相手を倒す事しか考えていなかった。深呼吸をし、平常心を取り戻す。レフェリーが竜也の手を掴み、その手を高々と上げた。

「勝者、愛朽竜也」

 おぉ、と周りの人間から感嘆の声が上がる。竜也は顔も腕も赤く腫れあがっている。額の辺りには僅かに出血もあった。それでも、竜也は今勝者としてリングに立っている。

 竜也は、勝ったのだ。

「まさか勝てるとはね」

 株地海宝が手を叩きながらリングに入ってきた。

「やっぱり負けると思ってたんですか」

「その通り。本当は負けても君の要望は聞くつもりだったけど」

「じゃあ何故」

「何の格闘技経験も無い人間がプロを目指したい、と言ってきたらその覚悟を試したくなるだろう? 人を殴り、人に殴られることの辛さは君も良く分かったはずだ」

 確かに頭で分かっているつもりでも、実際に殴られてみると相当痛い。一人の人間が、自分を仕留めるために努力をして、リングに上がって来るというのも恐怖を感じずにはいられない。練習も辛い。ちょっと突き指をしただけで、痛みは一週間残る。小さな怪我の連続だ。だけど、竜也はそれでもリングに上がった。

「正直君の覚悟と度胸は私の想像以上だった。ここまで本気で戦いの準備をしてくるとは思っていなかったよ」

「あ、ありがとうございます」

 竜也は軽く頭を下げる。

「ちなみに、この戦いは君の為だけにやったわけじゃない」

 株地は立ち上がった陣原の肩に手を置いた。

「陣も、カイリも勝つことの難しさと勝負の恐ろしさを嫌というほど分かったはずだ。もっとも、君と君の連れはそれを理解していたようだけど」

 株地の視線は虎子に向かった。

「お嬢さん、一つ聞いてもいいかな?」

「うい?」

 虎子はポケットに手を突っ込んだまま株地を向いた。

「君は竜也君にどんな策を授けたんだい」

「相手が疲れたらむしゃらに拳を振り回せと」

「もちろん、何か勝算があってのことだろ? 何故、ジャブとストレートを捨てて喧嘩のような汚いパンチを打つように言ったんだい」

 虎子は頬をかきながら

「野球の配球と同じです。相手が単純な攻撃の軌道に目が慣れていたから、あえて汚いパンチを打たせたんです」

「確かに君の言った通りあえて、無軌道なパンチを打って攪乱する方法はある。だけど、それが通用するという確信は君にあったのかい?」

「勝算はありました。理由は三つ。一つ目は、彼が不測の事態に慣れていなかったこと」

「どうしてそれが分かる?」

「さっき、アレクと彼が出会った時です。彼はアレクと会った瞬間身体を硬直させて目を泳がせてた。どう考えても神経が図太い人間の反応じゃない」

 出た。と竜也は思った。虎子は相手の仕草や言動、視線や身体の緊張から相手の性格やその日のコンディションをいち早く見抜く。格闘ゲームでは相手の行動を読むことは必須で、その確度を上げるため虎子はこうした特技を身に着けていた。

「二つ目は、彼の経験が浅かったこと。たしかに竜也よりは長くこの競技に親しんでいるけど、格闘家としてのキャリアは一年。正確には十一カ月と八日しかない。だから、不測の事態に対応できるだけの技術と経験がなかった」

「その情報はアレクから仕入れたのか?」

 そのアレクは首を振って否定する。

「さっきSNSで調べました。今から一年前のツイートにジムに入会したことと、初めて格闘技に触れるということが書かれていた。ついでに打撃よりも寝技を中心に覚え、打撃の実践的な練習は今から五カ月前に始めたことも知ってます」

 これも虎子が日常的にやっていることだ。相手のデータを可能な限り集めるのは基本とまで言っている。

「最後はまぁ、疲労ですね。疲れると単純に思考が鈍りますから。それでも、あの戦術は博打に近かった」

「確証なんてなかった、と?」

「自分より有利な相手に勝つ方法は大きく分けて三つです。一つは不正をすること。二つは運に任せること。三つ目はリスクを冒すこと。あそこまで押されていて勝つには、それなりのリスクを覚悟してもらわないといけない。そしてそこの男はそれが出来るんです」

「君は随分と愛朽君を信頼してるんだね」

 虎子の口元が僅かに緩んだ。

「付き合いが長いですから。努力なんて誰だって出来る。でもその努力の質を上げるのは誰にも出来るわけじゃない。でも、竜也にはその質を高めるという発想がある。そいつは強くなりますよ。アタシが保証します」

 腫れて赤くなった竜也の顔が、より赤くなった。胸の内がどうもくすぐったい。竜也は少し困って肩を竦めるようにして俯いた。

「だったら」

 と声を張り上げたのは前田カイリだった。

「あなたが彼の面倒を見ればいいじゃないですか!」

 カイリは竜也にも見せたことの無いような敵意をその目に漲らせてる。

「アタシのやりたいことはレバー握って世界中の猛者をぶちのめすことだ。金網の横で声を飛ばすことじゃない」

「じゃあ中途半端に関わらないでください」

「おいおい随分だな。アタシは呼ばれてここに来たんだぜ? 別にセコンド志望になりたくて来たわけじゃない」

「じゃあ今後彼には関わらないと」

「格闘技はな。お前優秀そうだし、竜也を任せても大丈夫だろ」

 その一言は火に油だった。カイリは金網に拳を叩きつける。

「私がソイツと組むのはこれで最後です!」

「そう言うなって」

 言いながら虎子はそっとカイリに耳打ちをした。それを聞いたカイリは顔を熟したリンゴのように赤くする。

「死にたいんですか」

「おぉ、こわ。竜也、アタシは殺される前に退散するから終わったら連絡してくれ」

「う、うん」

「後で飯食いに行こうぜ」

 そう言うと虎子はそそくさとその場を立ち去った。

「おい」

 竜也が振り返ると陣原が立っている。

「君の勝ちだ」

 うつむき加減で陣原はそう言った。

「あ、ありがとうございます」

「もっと君を警戒すべきだった。寝技じゃ負けないから」

「うん。キックの打ち方、後で教えてもらってもいいですか?」

 陣原は拍子抜けしたように肩の力を抜いて鼻から息を吐いた。

「君は勉強熱心だな」

 陣原は踵を返してリングを後にする。

「今日からは味方同士だ。でも、甘やかすつもりはないから」

 陣原の拳は固く握られたままだ。彼はコーチと共に部屋を退出した。

 振り返るとカイリが居なくなっている。

「まずは医務室へ。今日は早めに帰りなさい」

「あ、はい」

 株地に言われた通り、竜也も医務室に向かった。扉を開けて、エントランスを横切って医務室を目指す。

「あら、見ない顔」

 遠い波の音のように儚い声だった。玄関口に女性が立っている。白いワンピースと白いセーラーハット。亡霊のように血色の悪い顔で、目の下には濃いクマがある。まるで死人のよう。

「あ、どうも」

「どうも」

 女性はにっこりと笑った。不健康そうな顔とは打って変わって活き活きとした笑顔だった。竜也は軽く会釈をして、医務室に急いだ。

 応急処置を済ませ、一応医者で精密検査を受けろという指示を貰う。勿論医者代はジム持ちである。その日のうちに正式な入会手続きを済ませ、竜也は遂にファイヤーストームの正式な一員となる。

 そんな竜也の指導に、前田カイリが自ら名乗りを上げたのはその二日後だった。

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