第一ラウンド プライドアンドグローリー

 少年は竜であり、少女は虎だった。竜虎は牙と爪を交わらせることなく肩を並べて刹那を謳歌する。

 少年の前に立ちはだかるのは全身が緑色の大男。右手にハンマー左手に大型の重機関銃を持った化け物だ。

『残り十秒です!』

 竜の拳が間合いを切り裂いて相手の懐に鋭い一撃を見舞った。左から抜いた名刀シシケバブの刃から爆炎が迸り、相手は慌てて距離をとる。

「時間はたっぷりある。落ち着いて攻めろ」

 女の声だ。この女は十秒を「たっぷり」と言った。少年に異議はない。

 竜は冷静に攻防のイメージを描いた。一呼吸挟み、竜のプランは決った。この間実に一秒。

 少年の下段蹴りが大男の足元を襲う。ハンマーの柄を地面に突き立てこれを防ぐ。獅子ケバブが唸り刀身に爆炎が迸る。少年の烈火の如き攻めがそこから始まった。火炎と衝撃波の連打が大男の肉体を嬲った。が。大男の城砦が如き防御がその悉くを凌いで見せたる。

「焦るなよ、竜也」

 君がそう言うなら焦らない。

 少年はレバーを左に入力して攻めを中断する。

「しまっ」

 画面の向こう側から声が聞こえた。振りかぶったハンマーが少年の脳天に落ちて来る

 少年の口が思わず笑んだ。

 鉄槌は少年の右腕に阻まれていた。青いガードエフェクトが瞬いてハンマーが弾かれる甲高い音が轟いた。

 残り三秒。敵が一瞬の内に見せたミス。

 少年はレバーを素早く動かし、一秒の内に十を超える信号を筺体に叩き込む。少年が放った火炎と斬撃の驟雨が敵の身体を甚振った。

「とどめだ」

 振りかぶった拳が大男の顔面を射抜いた。続けざまの地を這うようなアッパーが大男の顎を捉え、その身体が高々と宙を舞う。背景で閃光と爆炎が迸り、大男の身体が地面に叩き付けられる。倒れた大男が動くことは無かった。

 一間置いて、画面に「KO」の文字が映し出された。少年の周りから歓声が上がる。

 少年の肩から力が抜けていく。熱い吐息が口から洩れ、天を仰いだ。少年の肩に手が添えられる。

 振り向けば少女が一人、立っていた。黒いTシャツと黒のスキニーパンツが細身の体を包む、少女らしからぬ出で立ちだ。その豹のような鋭い目にシダのような前髪がかかっていた。顔は、それなりの化粧をすればかなり印象は変わるかもしれない。オシャレなどとはまるで無縁の出で立ちだったが後頭部でくくられた赤いリボンだけが妙な存在感を放つ。

「お前の勝ちだ」

 少女は微笑した。男のような口調だった。少年が手を差し出すと、少女はそれを握った。

 勝った喜びよりも、今は安堵の方が少し強かった。力が抜けると、目の奥が熱くなった。

「おいおい、泣くなよ」

「え? 俺、泣いてる?」

「泣いてるよ」

 少年が頬に手を当てると、熱い涙が掌についた。対戦相手のチームが歩み寄ってきて、少年の背中をさする。そして少年はより一層強く泣いた。対戦相手の一人が少年の拳を持ち上げると客席からは大きな拍手が沸いた。

 少年にとって、至福の時間だった。

 少年、愛朽竜也(あぐちたつや)はとあるEスポーツの大会において、中学生で初めて歴代王者にその名を刻んだ。時流はEスポーツ隆盛のただ中にある。その会場にいた誰もが、その少年がいずれ築くであろう、一流ゲーマーとしての輝かしい功績を疑わない。

 だが、その場にいた人間がが夢想した未来は訪れなかった。

 事件が起こったのはその日の夜である。


 二人の祝勝会はファミレスと相場が決っていた。愛朽竜也はソファーに腰を下ろす也、ぐでーと机に上半身を横たえる。

「もうちょっと人目とか気にしろよ」

 相席に座ったのは目つきの悪い少女である。細身でまな板のような胸をしているが、本人はどこ吹く風と堂々としている。

「なんにせよ大金星だな」

 竜也は寝そべったまま顔だけ少女に向け

「虎子、お前が弱キャラ使わなきゃもっと楽に優勝できたんだぞ」

 少女こと幸律虎子は「ハッ」と竜也を鼻であしらった。

「愚問だな。アタシが強キャラなんか使ったら、お前の今の胸に時めくその宝石みたいなカタルシスはミジンコのキンタマみたいにしょっぱくみみっちいものになっちまうだろ」

「要は自分が強いって言いたいのか」

「違うか?」

 反論できない。虎子は幼馴染だが竜也よりも歳上の高校生で、格闘ゲームの師匠でもある。その人間離れした強さは竜也が一番よく知っている。

「違わない」

 虎子は勝ち誇ったようにニッと笑う。人相は悪いのに笑顔は人懐こい。

 不登校だった竜也が今こうして日の目を見れているのも虎子がいたから。だから竜也は虎子には逆らわなかった。

「本当に俺が勝てたのは虎子のおかげだよ」

「お前の努力はお前にしか出来ない。学校に通えるようになったのも、大会で優勝できたのも、六道烈火が安定したのもお前が努力をしたからだ。アタシはその手伝いをしただけ」

 今度は鋭い歯を見せて笑った。今度は肉食獣が威嚇するような笑顔である。

「一先ずこれでお前の人生に誇れるものが一つ出来たわけだ。よかったな」

 竜也は身体を起こして「おう」と短く言った。

「じゃ、そろそろ反省会と行こうか」

 竜也はキリと引き締まった表情になる。

「どんと来い」

 要は駄目だしなのだが、竜也はこの時間が好きだった。というより、虎子と会話する時間は何でも好きなのかもしれない。虎子と話している間だけは、あの惨めな自分を忘れることが出来るから。

「まずは勝利者コメントだな。もっと格ゲーのキャラにちなんだカッコいいこと言えよ」

「うーん、格闘覇王アルガノスの台詞とか?」

「あれ勝ち台詞ないし、そもそもマイナー過ぎて日本で十人も元ネタ分からねえよ。素直にストリートファイターとかの有名な台詞でも吐いとけ」

 ファミレスで一時間ほど二人で話し込んでいると、次第に他の席が埋まっていく。

「混んで来たな」

「そろそろ出た方がいいかも」

「だな。排尿行ってくるわ」

 と虎子は立ち上がってトイレに行った。竜也は少し顔を赤くして、

「思春期の女が排尿はないだろ」

 そういうとこが親しみやすいのかもしれない。話し相手がいないと、自然と注意は周囲に向いた。竜也はなんとなく窓の外の歩道を眺めていた。

 スーツを大きく着崩した中年の男がふらふらと歩道を歩いている。顔は赤く目の焦点は定まっていない。

 酔っぱらいだろうか。

 男は行きかう人に暴言を吐いている。当然周りの人間は男を避けるように歩いていた。

「あれで酔いが冷めたらなんも覚えてないんだからタチ悪いよなぁ」

 人々が酔っぱらいを避ける中、男の方に向かって走って来る影があった。スポーツパーカーを着た男だ。足取りは軽快で、背筋は真っ直ぐ伸びている。顔はよく見えなかったが、身体つきや動作の軽さからアスリートか何かだろうと、竜也は結論付けた。

 パーカーの男は酔っぱらいなどまるでいないかのようにその脇を走り抜けていく。

 その背後に酔っぱらいが大声で何か言葉を投げかけた。

「やばい」 

 竜也は思わず言葉を口に出す。パーカーの男は足を止めて酔っぱらいの方を振り返っていた。酔っぱらいはなおも威勢よく暴言を吐き続けていく。パーカーの男はゆっくりと歩み寄ると、酔っぱらいの腹部にボディブローを放った。

「やりやがった……」

 酔っぱらいは腹を押させて膝を折り、胃の中のモノを全て吐き出した。周りの人間は見て見ぬフリをしている。竜也の心臓が早鐘を打つ。何か考えるよりも竜也は立ち上がり、外に駆けだしていた。

「もっぺん言ってみろよオッサン」

 パーカーの男は酔っぱらいの胸ぐらを掴み上げ、拳を振りかぶった。

「おい、やめろ!」

 竜也は震える声で叫んだ。男の虎のような視線が向けられる。竜也の胸には強い嘔吐感が広がっていく。竜也の記憶は頼みもしていないのにあの時の事を鮮明に思い出す。竜也をあざ笑い虐げた、あの少年たちのことを。

「止める相手が間違ってるんじゃないのか?」

 パーカーの男が竜也に歩み寄る。はらりとフードがはだけ、炎のような後ろ髪が背中に流れた。眉間に突き刺さる鋭い眉。氷柱の如き鋭く冷たい眼光。分厚い皮に覆われた額。内出血で膨れ上がった両耳。そして、鉄の様に黒光る拳。

 その時まで、竜也は殺気などというものは迷信だと思っていた。だが、今ここに立っている男から放たれる威圧感。自分の背筋を人撫でする死の悪寒。それは紛れもなく本物だ。

「お前、どっかで見たことあるな」

 パーカーの男は酔っぱらいを脇に投げ捨て、竜也に近寄って来る。

 近寄って来る。

 近寄って来る

 これは、コイツは、まさか、攻撃するつも――

 鋭い痛みが竜也の腹から背中を貫通した。竜也は唾液を吐き出し、その場に蹲る。

 ――腹を、殴られた?

 その甚振られる感覚。痛み。今まで竜也が押さえつけていた記憶(トラウマ)が竜也の脳内に噴火する。あの時と、同じだった。

「思い出した。お前、今日なんかゲームの大会で優勝してたやつだろ」

 パーカーの男は竜也の胸ぐらを掴み上げた。悪魔のような嗜虐的な嘲笑が男の頬を切り裂いていく。

「見てたよ、ネット中継で。見ててさ、」

 もう一度竜也の腹部にボディブローが突き刺さる。

「すげえムカついた」

 男は蹲る竜也を冷たい眼差しで見下ろしていた。

「なんかお前らEスポーツとか言って盛り上がってるだろ? 俺あれすげームカツクんだよ。自分じゃないキャラクターに戦わせてさ、で、傷一つ無い身体で賞金掴んでさ。スポーツの時代が終わったみたいな顔するだろ?」

 この理不尽な暴力は竜也の身体に刻まれた数々の拳の後を回想させる。肉体のみならず人一人の尊厳がボロぞうきんのように踏みにじられる感覚。長らく、竜也は忘れていた。

「覚えとけ。人を倒すのに必要なことは三つ」

 男のボディブローが三度竜也の内臓に襲い掛かる。竜也は遂に先ほど食べたものをぶちまけた。

「打つこと」

 男は竜也の胸ぐらを掴んで強引に立たせた後、その足を払って路上に叩き付ける。

「投げる事」

 立ち上がろうとした竜也の首に男の腕が蛇のように絡みついて来た。首が圧迫されたかと思うと視界が桃色に染まり奇妙な浮遊感の後意識が遠ざかっていく。

「そして極めることだ」

 そして竜也の意識は無に還った。

 

 記憶の奥底に本当の竜也がいる。本当の竜也は目も当てられない程惨めだった。竜也は下校途中の道端で蹲って泣いている。その周辺には教科書と落書きだらけのランドセルが散らばっている。白い靴下は所々が破れて灰色に汚れている。

 子供というのは残酷だ。何の疑問も持たず、自分の正義を振りかざし、善悪の鉈を振るう。クラスのいじめられっ子を庇った竜也は、間違いなくクラスの中では「悪」だった。

 それ以来いじめの標的が変わった。竜也は下校途中にいつもサンドバックにされた。身体中を殴られ、時には小さな石もぶつけられた。あの日、竜也は泣き疲れて駐車場の隅で膝を抱えていた。

 そんな彼に、ランドセルを肩に担いで歩み寄る一人の少女。少女は竜也の側に屈みこみ、錆びた刃のような目で竜也の顔を覗き込んだ。


「おーい、生きてるか」

 目を開けると、夜空を背にした虎子の顔があった。竜也は何も言わず身体を起こす。

 自分に何が起きたかは覚えている。

 どう考えても、相手に非がある。訴えれば勝てるだろう。でも、竜也はそんなことを考えもしなかった。

 長らく自分の心の底で眠り続けていた何かが、水底の汚泥のように巻きあがるのが分かった。心はひどく混濁していた。

 何も言葉を発さず竜也はその場を去ろうとする。

「おい、ちょっと待てよ」

 虎子がその後を追いかけてくる。

「店員から聞いたぞ」

 竜也は何も言わない。刺し殺すような視線を道路の向こう側に向けて早足で歩く。

「頭のおかしい奴が起こした交通事故みたいなもんだ。さっさと忘れちまえ」

 車が通りすぎる音。

 そして、靴がアスファルトを叩く音。

「おい、聞いてんのか」

 竜也は止まった。

 無抵抗のまま殴られた腹。落書きをされた背中。汚いものを掴まされた両手。便所の水をぶっかけられた顔。その全ての感覚が、竜也の全身で再生された。

 竜也は虎子を振り返った。虎子は暫く言葉を失った。

「……竜也」

 竜也の視界はぼやけている。

「分かってる。全部、分かってるんだ。でも、俺は過去を捨てられない」

 握りしめた拳で涙を拭う。

「俺は、自分をごまかせるほど大人じゃないし、強くない。だから、強くなりたい。強くなって、アイツを倒したい」

 口をついて出た言葉は幼児のように要領を得なかった。

「お前が踏み込もうとしてるのは、全く違う世界だぞ。鳥が海の中で生きようとするようなもんだ。どう考えても無理だ」

 虎子はそこまで言って、かぶりを振った。

「いや、すまん。今のはフェアじゃなかった」

 虎子はどこか寂し気な視線を竜也に向けた。

「多分お前ならやれる。だから、お前に行って欲しくない」

 それは虎子のひどく個人的な願望だった。竜也は目を閉じ「ごめん」と一言呟いた。

 虎子は浅くため息をつき、ポケットから猫の絵が描かれたハンカチを出した。それで竜也の涙をふき取る。

「お前の人生だもんな。アタシが決めることじゃない」

 その時には竜也も落ち着きを取り戻していた。でも、決意は一つの揺らぎも見せていない。

 決意。虎子と別の道を歩む決意。

「虎子、俺を立ち直らせてくれてありがとうな」

「だから立ち直ったのはお前の力だよ」

 虎子は少し呆れたように笑顔をつくる。虎子はその拳で竜也の胸をこつく。

「行ってこいよ相棒」

「うん。行ってくる」

「世界を敵に回したとしても、ここに味方が一人いる。恋人でも友達でもない。死ぬまでお前と肩を並べて戦う相棒だ。そっちには行けないけど、お前の帰る場所はずっとここにある。そのことを忘れんなよ」

 力強い首肯を返す。

 こうして二人のゲーマーは袂を分かった。一人は格闘ゲーマーとして。もう一人は格闘家として。新たな道を歩み始めた。こうして二つに分かれた二つの道は複雑な螺旋を描き始めた。

 愛朽竜也、中学三年生の夏である。

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