第22話
アルカナは奇妙な感覚に陥っていた。
戦術は成功しているはずだ。眼前の敵は急速に崩れていっている。ここまで防戦一方だった精霊軍は今や反撃に転じ、悪霊軍を追撃し始めていた。だが敵支援部隊の動きが不可解だった。予想では彼らが敵主力に合流して戦いは山場を迎えるはずだった。しかし支援部隊はなぜか後方に向かって転進を始めた。彼らが合流していれば、敵主力はもっと強固に抵抗できるはずだ。この采配は指揮官が臆病風に吹かれたのか、それとも――。
支援部隊の不可解な動きの理由は、アルカナの知らぬところに原因があった。大局的な判断を失うほど魅力的な獲物が、彼らの目前に出現していた。精霊側の主柱、英雄的戦士カーディナル。それが孤立し、疲弊し、苦しんでいる。その首を獲るべく悪霊たちが殺到していた。
炎の魔法は派手で強力だ。威嚇効果も高い。多数を相手したとき効果を発揮するが、一方、体力の消耗も激しい。実は単独で大勢と戦うには適していない。カーディナルが四方を敵に囲まれながら戦い続けられているには、三つの特別な理由があった。
一つは彼女の体力が並はずれていること。他人の十倍も二十倍も、彼女は炎の魔法を使い続けることができた。もう一つは節約しながら戦っていること。持ち前の火力量に頼らず、剣術と立ち回りでほとんどの敵には対処する。どうしようもない場面だけ魔法で打開する。そうやって戦っていたので消耗が抑えられていた。そして最後の理由は、まだ倒れるわけにはいかない――その覚悟だ。
敵軍に囲まれているカーディナルはそれゆえ誰よりも戦場の状態が把握できた。敵増援はしっかり彼女に足止めされている。さらに敵遊軍も戦線の維持を放棄してこちらへ向かってきている。だが敵本隊はまだ崩しきれていない。兆候は出ている。カーディナルを苦しめるのはもっぱら敵の増援と遊軍で、本隊は混乱の度合いを刻一刻と深めている。遊歩はしっかりやっているようだ。今しばらく時間を稼ぐか、あと一押しを加えるか。
「……足りないな」
自分の体力を冷静に計算する。
このまま敵本隊が瓦解するまで時間稼ぎを続ける、それだけの余力はなかった。
ならば少しでも敵を削っておく。たとえ己の身が滅びることになろうとも。
「雑兵ども、その目にとくと焼きつけろ!」
大地を舐めるように、赤毛の騎士の足元から炎が湧き起こっていく。
逃走しようとする悪霊もいたがもう遅い。その術に巻きこまれたら逃げることはできない。戦場の一角が巨大な火葬場と化した。
天をも焦がすような火柱は、離れていても確認できた。
遊歩はついにカーディナルが追い詰められたことを悟った。彼は自らの任務を遂行していた。敵本隊の側面に回りこみ、有利な水属性の精霊で隊列を破壊する。もはや組織的抵抗は失せて、あとは数を減らすのみだ。だがカーディナルの救援に戦力を割くことはできない。適切な手駒がないのだ。
彼が今召喚できるのはすべて水属性の精霊だ。それをカーディナルのところへ向かわせたところで、土属性が主体で構成される敵増援を食い止めることはできない。たちまち撃破されてしまう。これこそ後悔の対象だった。せめて五体のうち一体でも別属性を編成しておけば――今になって悔やんでもしかたない。出陣の時点ではベストな判断だった。それでも自分の安直さを怒らずにはいられない。現実の非情さを悲しまずにはいられない。世界の理不尽さを恨まずにはいられない。一度だけでいい、編成を直せれば!
逃げまどう敵兵の群れから、不意に、ひょっこりと飛び出してくる影があった。押し出されてきたのではない。それは自分の意志でこちらへ向かってくる。遊歩は反射的に打ち据えようとしたが、すんでのところで踏みとどまった。それが味方だと気づいて。
「ぷはっ、やっと見つけた!」
「ライア!?」
それはここにいるはずのない少女だった。悪霊の隊列にまぎれるため、悪霊の雑兵と同じ服装をしている。
「どうしてここに」
「んー。実は昨日、女王様に頼まれてね。大使様はイマイチ頼りないし、戦場はなにが起こるか分からないから、いざというときのために付いてきてくれって。さすがに女王様の頼みじゃアタシも断れないし? それで秘密兵器としてこっそり兵に紛れてたんだけど、なんだか戦場の動きがおかしいってことで斥候に出されて、アンタたちがいるはずの方向に走ってきて――」
火柱へ目をやって肩をすくめる。
「状況がハードすぎて近づけないの。でもザコ共の動きをよく観察してたら、こっちのほうにもなにかあるってわかったから、なんとか流れに逆らって進んできたらアンタに会えた。ね、どうなってんの。状況を教えてよ」
レイアは嘘をついていた。
彼女が戦場にいるのは女王に頼まれたからではない。自ら志願したのだ。アルカナが戦う意思のないものを戦場へ呼ぶだろうか。それを考えれば彼女の嘘にも気づけるはずだったが、このときは、そこまで考えをめぐらす余裕がなかった。
遊歩は手短に事情を説明した。
「……なるほど。それはマズいことになってんね」
もともとレイアは今回の戦い全体をそれほど理解していない。だが遊歩が要約して話したおかげで、必要なことだけはわかった。
「わかった。とにかく騎士様が危ないってことね。んで、アンタのほうは余裕があると」
「ああ。こうやってお前と話せるくらいにはな」
「それじゃ、女王様のとこに戻って、事情を伝えてくるよ」
「この隊列の中に戻るのか?」
「うん。ま、いけるっしょ」
ひょっこり出てきたせいで忘れていたが、ライアは敵軍の只中を縦横無尽に動いてここまで来たのである。いくら敵が混乱しているとはいえ並大抵の危険ではない。遊歩はあらためて彼女の才能に感心した。
「……頼んだぞ。あいつを助けてやってくれ」
轟々と渦巻く炎の柱。しかし彼女に残された時間はおそらく多くない。
ライアは冷静だった。遊歩の気持ちもわかっている。カーディナルを助けたいという意思もある。だから心情的には焦っていた。それでも頭は落ち着いている。心理と思考を分離させられる。それが彼女の優れた判断力を支えている。悪霊の群れを突っ切り、女王のもとへ戻る。こちらも戦況は優勢に進んでいるが、アルカナの表情は決して明るくなかった。兵士を不安にさせるような動揺は隠していたが、近づく勝利への喜色はまるでうかがえない。ここからでも見える火柱で、当然、彼女もおおよその事態を察していた。
「女王様、ただいま戻りました!」
ライアは女王に駈け寄り、状況を報告する。
ここに至り、ついにアルカナも決断を迫られる。
それは彼女の地位にふさわしい二択だった。
どちらを選んでも利益と損失がある。己でなく第三者に負担を強いる。政治的決断であり、自尊心や自己犠牲では解決できない、どんな性格をもってしても熟慮と逡巡が不可避な性質の選択。しかし女王はまさに女王であった。瞬時に行動を開始した。
「すこしの間、私は下がります。指揮を頼みます」
随行していた参謀にそう言うと、アルカナは目を閉じて魔力を貯め始めた。
女王の身体が白銀色の光に包まれ、点滅する。
この場にいる者は誰も知らなかったが、それは究極魔法を変更するための準備だ。地球世界と魔法世界を繋ぎ、また――遊歩のスマートフォンに力を与えている魔法でもある。彼女はその設定を自由に変えることができた。もっと地球世界のユーザーや遊歩にとって有利な設定にすることもできたのである。ただし、そのためにはより多くの魔力が必要となり、持続可能性が失われてしまう。だから制限をかけて、アルカナが半永久的に維持できる程度の設定にしてある。だが、一時的になら、より強力な設定に変更することはもちろん可能だ。それをしなかったのは、彼女がこのアルペジオ計画を始める前に学んださまざまな資料で、基本中の基本として書かれていた鉄則による。
運営がゲームのルールを恣意的に曲げてはいけない。
だが今はそんなことを言っている場合ではない。欠かすことのできない仲間が失われようとしている。守るためなら、どんな非道にでも手を染める。それが女王の覚悟だった。
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