第5話

 救世主の来訪から一夜明けて、城下に通達が出された。

 女王の高話があるので集まれる者は王宮前の広場へ集まるように、とのこと。話の内容は明示されなかったが誰でも察した。救世主の正体とこの世界の今後について――老いも若きも広場に押し寄せた。入り口まで人で溢れかえり、それでもなお後から後から参列者がやってくるような状態だった。

 城壁の近くに住んでいるライアが通達を受け取ったのは陽が高くなってからのことで、それからすぐに弟たちを連れて王宮へ向かったが、完全に出遅れてしまった。救世主の姿を見るどころか、広場に入ることすらままならない。彼女は弟たちを連れてその場を離れようとした。

「はあ……もう帰ろっか」

 広場の外には女王の声だけでも聴こうと待機している者が大勢いたが、ライアはそれに倣わない。これだけ聴衆がいるのだ。概要は今日中にも巷間で広まるだろうし、要点をまとめた掲示も出されるだろう。無理してここにいる必要性はない。だが判断の一番の理由は、期待を裏切られた失望感だった。

 肩を落とすライアの手を弟の一人が引いた。

「おねーちゃん、おねーちゃん。行ってきなよ。ぼくたち待ってるから」

「はあ?」

「見たいんでしょ、救世主様」

「バッカじゃない。興味ないっての」

「うそつき」

「ねーちゃんのうそつきが始まったぞー」

 弟たちが囃し立てる。

「おねえちゃん一人なら行けるよね」

「そりゃ、これくらいの人混み抜けるくらい、わけないけど」

「じゃあ見てきてよ。俺たちのぶんまでさ」

 再三背中を押されて、ついに彼女の決心を固める。

「……しゃあないわね。わかったわ。そのかわり、みんな仲良くして、そこを動くんじゃないわよ!」

「はーい」

 元気よく返事した弟たちを背に、ライアは雑踏へ突進した。

 まるで水の中を歩くように、確かに抵抗を受けながら、しかし立ち止まってしまうことはなく、ライアは着実に進んで行く。それこそ彼女の才能だ。錠前の構造から群衆の動きまで、あらゆるものに対する高速で的確な洞察力が彼女を一廉の盗賊たらしめている。

 弟たちに宣言したとおり、人混みを抜けて広場の最前列まで到達するのは簡単だった。だが最前列に着いた途端、彼女はまた一歩下がって人混みに紛れた。王宮のバルコニーに見覚えのある人間が立っていたから。

「ちょっとちょっと――どーなってんの」

 相手からは自分が見えず、自分からは相手が見える。群衆にまぎれてそんな絶妙なポジションをなんとか確保したライアはふたたびじっくりと彼を見る。見間違いではない。確かに彼だ。バルコニーで女王の背後に立つ、奇妙な服を着た青年――それはつい昨日、王宮に忍びこんだ際に出会った、自称同業者だった。

 ライアからそんな困惑の視線を向けられているとはつゆとも知らず、遊歩は自分の出番を待っていた。予定ではまずアルカナが演説を打って彼が紹介されることになっている。アルカナは聴衆が十分集まったと判断して、呼吸を整え、澄んだ声で話し始めた。

「親愛なる同胞たちよ。今日は諸君に喜ばしい知らせがある」

 ざわついていた群衆がぴたりと静かになった。その顔には今まで以上に興奮の色が表れている。それでも沈黙を保っているのは、ひとえに女王の威厳による。

「我々の世界は今、滅びに瀕している。風は淀み、水は穢れ、森は腐りつつある。この城から一歩出れば悪霊が横行し、ここに集まった者の多くは、懐かしき故郷を追われた者たちだ」

 沈黙の表情がやや変化した。悲嘆の色が混ざった。だが希望はまだ失われていない。

「もはや我々は自らの力だけで我々の世界を救うことは不可能である。手に負えないところまで状況は悪くなってしまった。ゆえに私は新しい力を求めた。我々の世界とは別の世界――『地球』と呼ばれる世界の力を借りることにした」

 ここで聴衆はわずかにざわめいた。

 さすがに驚きを隠せなかった。それでもまたすぐに静まった。彼らの忠誠心は高い。

「その世界――地球には無限とも思われる資源が存在する。しかし残念なことに彼らは友好的ではない。無償で資源を得ることはできなかった。だが敵対的でもない。探索の結果、我々に協力的な地球人を発見することができた。それが彼である」

 ついに遊歩が女王の隣に引き出された。

 ここでいよいよ聴衆の自制心も限界を超えた。今まで抑えていたぶんまで、爆発的な歓声が上がった。遊歩はたじろぐ。予想はしていたが、予想をはるかに超えている。アルカナはしばし民を見守った。せっかくの歓喜に水を差すまいという配慮。人々が理性を取り戻したところで、アルカナがまた口を開くと、広場は静寂を取り戻した。

「彼の名はユーホ。現在、王宮では地球の資源を獲得するための計画を進めている。しかしこれが難航している。我々の世界と地球では風土も文化もまったく異なるゆえに。そこで私は地球の事情をよく知るユーホを、地球との交渉の担当者『大使』に任命すると決めた。彼の手腕によって、地球との関係が進展すれば、それによって得られる資源で、この世界は救われるであろう」

 最後に付け加えられた、核心的な一言は、むしろ聴衆を困惑させた。

 究極的な目標はもちろんそれである。

 世界の救済――それがなされなければならない。だが、突然に、夢のような目標が宣言されたことで、人々は現実感を失ってしまった。浮ついた雰囲気のまま、アルカナは下がって、次は遊歩が演説を求められた。

 当然ながら、遊歩によってこれほどの大舞台は初体験だ。ある程度の緊張感はあった。しかし不思議と体が強張るほどではなかった。聴衆が困惑しているせいかもしれない。さっきまでのような、一身に期待を背負うような重圧は失せている。遊歩は咳払いすると――拡声器もないので――できるだけの大声で話した。

「はじめまして。紹介に預かった地球人、沢渡遊歩です。本日みなさんにお伝えしたいのは、まず、急激な変化を期待しないでほしい、ということです」

 いよいよ聴衆はざわめきだした。女王のときと異なり、一度乱れると遊歩の言葉には彼らを統制する威厳などない。後ろに控えているカーディナルが不安げに顔をしかめるが、アルカナは平然としている。

「女王様と自分がやろうとしている計画は、非常に困難で、複雑なものです。だから達成までに時間がかかる。苦労も大きい。もしかしたら、皆さんにも、相当の協力と負担をお願いするかもしれない」

 もういつヤジが飛び出してもおかしくない。

 それくらい場の空気は急激に悪くなった。だが瀬戸際で風向きが変わった。

「――だからこそ信じてほしい。明日、いきなり世界が救われるわけではない。それでも確実にその方向へ向かっていく。ここでそれを約束します。今日のためよりも明日のため、明日のためよりも明後日のため、この世界に未来をもたらしてみせる」

 遊歩は一言一言、踏みしめるように言った。それが効果的だった。希望は既に掲げられていて、誰もがそれを信じたがっていた。ただあまりにも高すぎた。遊歩の言葉はそこに梯子をかける役割を果たした。女王は熱狂を起こしたが、遊歩が与えたのは安堵だった。本当に希望がある、この世界は救われる。聴衆はいよいよそれを実感し始めた。最後の一言はそんな人々の気持ちをしっかり捉えた。

「これからこの世界は正しい道を進みます」

 遊歩は静かに退席した。

 まばらな拍手が徐々に広がった。広場が拍手に包まれるのに数分かかった。しかし止むのにはさらに時間がかかった。数十分もの間、穏やかな喜びがその場に満ちた。暖かい雰囲気は広場の外で待っていた子供たちにも伝わった。ライアが弟たちのもとへ戻ると、弟たちも明るい表情をしていた。

「どうだった、おねーちゃん」

「救世主様――大使様ってどんな人?」

 笑いながらたずねてくる弟たち。

 それに答えるライアはただ一人――もしかしたらこの群衆の中でただ一人――浮かない表情をしている。彼女は弟たちに言っておかねばならないことがあった。

「……ごめん、アタシ捕まるかも」

 弟たちは困惑した。

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