第2話

 頬を撫でる風の感触も、草の香りも、疑いようのない本物だ。

「ここは……」

「ご存じありませんか?」

「いいや。知ってる」

 アンヘラの聖域。

 ARPEGIOに登場する重要施設の一つで、ゲーム序盤に必ず立ち寄る。

「流石にヘビーユーザーを自称するだけはあります」

 そう言った彼女のことも知っている。

 遊歩は知っている。だからこそ受け入れがたい。

 金髪の美女、白いドレスに身を包んだ、彼女の名は『妖精女王アルカナ』。

 ARPEGIOの重要キャラクターだ。

「俺はゲームの世界に来たのか?」

「いいえ」

 意外な否定に遊歩は戸惑う。

「まったく間違っている……というわけでもありませんが。この世界がゲームの世界なのではなく、ゲームの世界がこの世界だった……ということです」

「悪いけど、もうすこし説明してほしい」

「ユーホ、地球世界には『テレビ』というものありますね」

「あるけど、それが?」

「近い発想です。テレビは遠く触れられないけれど実在する世界を映している。あなたがゲームだと思っていたものも同じこと。ARPEGIOというゲームは、実はゲームではなく、実在する我々の『魔法世界』を映し出していた、というわけですね」

「頭がくらくらしてくる」

 まだとても実感はわかない。それでも現実を受け入れるしかない。

 アンヘラの聖域は掘に囲まれた小さな高台。その中央に、ゲームで訪れたときは存在しなかった、不似合いなスチールの扉が建っている。扉の後ろに回りこんでもなにもないが、扉をくぐると面接室に戻れた。現代科学を超越した現象も、ここが異世界だと信じざるをえない理由の一つだ。

「すこし歩きましょう。付いてきてください」

 聖域を離れて草原を進む。

 五月のよく晴れた日のように気持ちいい太陽の下を美女と散歩。

 唐突に異世界に連れてこられたというおまけがなければ、こんなに心弾むシチュエーションもないのだろうが、今の遊歩はひたすら不安と混乱に包まれていた。

 二人の他、草原に人の気配はない。

 ここがゲームの世界なら他のユーザーと出会うかもしれないと予想したが、そもそもARPEGIOはアクティブユーザーがクッソ少ない。ましてアンヘラの聖域は重要な施設ではあるがそれほど頻繁に訪れるような場所でもない。他のユーザーと出会わなくてもおかしくない。

 ところでここがゲームの世界だとすると、もう一つ、大きな不安要素があった。

 こちらはまもなく実現した。

「……! 下がってください」

 アルカナが制止する。遊歩もすぐに理解した。十数メートル先に、草の間から、大量の黒い泡がわきだしていた。その正体はもちろん知っている。

「ポイズンバブルか!」

 ARPEGIOはいわゆる王道RPGで王道ファンタジーだ。

 魔王やドラゴンもいればネズミやオオカミのようなザコモンスターもいる。アンヘラの聖域は初心者も利用する施設なので周辺に出現するモンスターもそれほど危険ではない。ポイズンバブルも例外ではなく、数が揃うとなかなか恐ろしいが、単体ならどうにでもなる。ただし、それはゲームの話。生身で相手するとなれば話はべつだ。

「プププププ……」

 黒い泡は破裂とも声ともつかない音をたてながら集合して大雑把に人型をとった。

 臨戦態勢だ。

 勝てるか? いや、そもそも戦えるか? 遊歩は逡巡する。中高と運動部に所属はしていたがどちらもヌルい部活だった。人並み程度の体力はあるつもりだが、モンスター相手に素手で立ち回れるような自信はない。

 それでも一目散に逃げだすわけにはいかない。

 せめてアルカナを連れて――

「逃げるぞ、走」

「むっ」

 アルカナが軽く手を振ると、激しい閃光に襲われポイズンバブルは蒸発した。

「なにかおっしゃいましたかか、ユーホ?」

「……いや、なんでも」

 そうだ。

 彼女はアルカナなのだ。

 妖精女王アルカナはARPEGIOの世界を治める女王である。ファンタジー世界の王族のお約束に違わず、本人も強力な魔法使い。ザコモンスターなら一撃瞬殺でおかしくない。いらぬ心配をしていた遊歩は恥ずかしくなった。だが彼女の力にも限界がある。

 ポイズンバブルを蒸発させた後も、アルカナはその場を動かなかった。遊歩もその側を離れなかった。やがて彼女はなにかを察知した。

「そろそろですね」

 アルカナが指笛を吹いた。

 それと前後して、遊歩は自分たちを取り囲む脅威に気付いた。いつのまにかポイズンバブルに囲まれていた。相手は一体や二体ではない。何十、何百という数だ。さすがにアルカナでも倒しきれまい。だが救いはすぐに訪れた。

 猛烈な風圧と共に上空から巨大な怪鳥が飛来した。

「さあ。ユーホ、掴まってください」

 アルカナは遊歩の手を取り、数体のポイズンバブルを蹴散らしながら着地した怪鳥に飛び乗る。怪鳥はすぐに離陸した。空から見ると、自分たちの置かれていた状況が、想像よりもさらに恐ろしいものだったことがわかった。遊歩はうめいた。

「なんてこった……」

 数キロ四方に渡って草原が黒く染まっていた。すべてポイズンバブルだろう。

「普段は地面に染みこんで機会をうかがっているのです。今日は女王である私が現れたのでいきりたっているのでしょうね」

 いくらザコといえどあれほど数が揃えば手がつけられない。

「あれでも比較的安全な土地なのですよ、この世界では」

 その声には抑えきれない悲しみが滲んでいた。

「我々の世界は今や悪霊に汚染されきっている……美しく見える大地も木々も表面だけで、もはや安心して暮らせるのは聖なる力に守られた僅かな土地だけ」

 アンヘラの聖域に戻り、怪鳥から降りる。

 過酷な現状を目の当たりにしたことで、アルカナの言葉もより痛切に感じられた。

「さて、しかし、我々にもまったく救いがないというわけでもないのです」

 アルカナは無理して明るく振る舞っているようでもあったが、まんざら絶望しているわけでもなさそうだった。なんらかの希望があるようだった。

「あなたも心当たりがあるでしょう」

「召喚術……」

「そのとおりです」

 召喚術――ARPEGIOのゲームにおける、いわゆる『ガチャ』。妖精石と呼ばれるアイテムを消費して契約精霊を呼び出す。あまり強くない精霊はよく出て、そこそこ強い精霊はあまり出ず、非常に強い精霊は滅多に出ない。それがユーザーの射幸心を刺激する。

「あれはゲーム的演出で……いや、もしかして、本当に存在するのか?」

「もちろんです。あなたのプレイしていたゲームはこの世界の現実なのですから」

「それなら」

 バンバン召喚してどんどん戦わせれば、モンスターなど恐れるに足らずではないか。

「問題は召喚術に必要な道具、妖精石にあるのです」

 二人はふたたび聖域から出た。もっとも、今度はなにかあっても走って聖域に逃げ込める距離だ。そこでアルカナは地面に簡単な魔法陣を描いた。

「離れていてください。アルム・ネレ・カステ……テレノ・モデ・ピスト……」

 呪文が唱えられると魔法陣が青白く光り出す。

 まもなく、虚空から虹色の結晶がいくつか出現した。

 ゲーム画面で散々見てきたから一目でわかる。

 妖精石だ。

「こんな簡単に作れるのか」

 複雑な気分だった。

 ゲームだと課金しなければほぼ手に入らないアイテムがゼロから生み出せるなんて。まあ、スマホゲームの課金アイテムなんてそういうものだ。実体のないものにお金を払うとはそういうことなのだ。

 妖精石を拾いあげて眺めていた遊歩に、アルカナが鋭く叫んだ。

「来ます、伏せて!」

 ズン……! 衝撃と共に目の前に数メートルはあろうかという巨大なモンスターが出現した。これも遊歩には見覚えがある。レイドボスと呼ばれる、プレイヤー数人がかりで倒すべきモンスターだ。現れたのはレイドボスとしてそれほど強いほうでもないが、ソロプレイで相手するのは難しい。

 だがアルカナは一人で立ち向かった。

「切り裂け、白熱よ!」

 耳を打つ轟音と共に四方から炎がほとばしり、モンスターの巨体を貫いた。

 火炎は一度ならず何度も繰り返され、十数回目でようやく怪物は消滅した。

 戦いが終わると、アルカナはその場にへたりこんだ。

「……ハァッ、ハァッ。さすがに、ちょっと魔力を使いすぎました」

「大丈夫か!?」

「はい。健康には支障ありません。自然に回復します」

「……ひとまず聖域に戻ろう」

 聖域の石段に腰かけて、アルカナは今の出来事を説明した。

「ご覧になったように、妖精石は大気中の魔素からいくらでも作れます。しかしそれには代償が存在する」

「妖精石を作るとモンスターが発生する」

 アルカナは無言でうなずいた。

 それはつまり絶望的ということだった。

 味方の戦力を増やすためには妖精石が必要だが、妖精石を作ると敵の戦力も増やしてしまう。しかも今の例を見たかぎり、妖精石一つで得られるリターンよりも、そのために出現するリスクのほうがはるかに大きい。

「やればやるほど状況は悪くなるってことか」

「はい。ですが、実はモンスターを生み出さずに妖精石を作る方法もあるのです」

 それを最初からやればいいではないか。

 意表を突かれて、遊歩は戸惑った。

「ただし、そのためにはユーホ、あなたのちょっとした協力が必要です」

「俺?」

「協力していただけますか?」

「ああ、もちろん」

「それでは――お財布を貸してください」

「どうぞ」

 疑いもせず財布を渡す。するとアルカナは素早い手つきで中身を抜き取った。

 運の悪いことに、財布には小銭と一万円札しか入っていなかった。

「助かりましたユーホ。感謝します」

「え?」

 遊歩が理解する暇を与えず、アルカナは儀式に移った。

 手にした一万円札に向かって二言、三言の呪文を唱えると、万札は霧のように消えて代わりに虚空から大量の妖精石が出現した。

「うおっ、すげっ……じゃなくて俺の一万円!!」

「これがもう一つの手段……『転位創造』です」

「俺の一万円!!」

「あなたたちの世界のマネー『お札』にはすさまじいパワーがこめられている……。おそらく何百万、いや何千、何億という人間の強烈な情念がただの紙にこれだけの力を与えているのでしょう。我々があなたたちの世界を発見したのは偶然でした。最初は大気中の魔素も薄いし、我々の世界を救う助けにはならないと落胆しました。しかしお札を見つけてすべてが変わった……これを使えばノーリスクで妖精石が創造できる。そして召喚術を行使できる。つまり、我々の世界を救う希望が見えてくる」

「俺の! 一万円!!」

「我々はあなたたちの世界を徹底的に調査しました。そして遂に見つけた、最も効率的にお札を集める手段――それが『ガチャゲー』だったというわけです」

 あれは遊歩にとって今月の食費だった。

 それが一瞬で消滅した。

 致命的な問題である。

 だがアルカナにはそんなこと関係ない。

「いいですか、ユーホ。我々があなたをこの世界に呼んだのは他でもない。我々は絶滅寸前なのです。世界は汚染され、希望の綱であった『ARPEGIO計画』も苦戦、破綻の瀬戸際にある。そこでゲームに詳しい人間にアドバイスを乞いたい。あなたこそ我々にとって本当に、最後の希望なのです。ユーホ、お願いです。どうか、この世界を救ってください」

「俺の……一万円……」

 遊歩は地面につっぷして絶望していた。

 もう今月は飯抜きだ。

 人間は食事しなくても生きていけるのだろうか?

 無理だ。絶対に無理だ。遊歩はあまり計画的な性格ではない。それでも今まで何とか人間的な生活を維持してきた。それがついに、雑草を食らうところまで堕ちてしまうのか。

 怒涛のような悲しみが押し寄せる。

 それこそ、アルカナ渾身の説得などまるで耳に入らないほどに。

「あの……ユーホ、私の話、聞いてました?」

 不安げにたずねるアルカナ。

 遊歩の答えは当然決まっていた。

「うるせえ! 一万円返せ!!」

「ひいっ」

 巨大なモンスターにも怯まないアルカナが後ずさるほど、遊歩の剣幕は凄まじかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る