第百※Δ話・動き蜃コ縺励◆み繝ゥい


 ――それじゃあ、また明日。


 彼女との会話にそんな別れの挨拶が不必要になったのは、一年前のことだ。

 僕は玄関でスーツのジャケットを脱ぎながら、先の言葉の代わりとなった言葉を吐く。


「今日の夕飯なに?」


 僕はその言葉を言えることがなによりの楽しみであったし、彼女もその言葉を聞けるのを楽しみにしていた、と思う。

 もっとも、彼女は彼女で研究が忙しく、『ごめん』と謝られることもしばしばあるのだが。その時はもちろん僕が作る。大学四年間の独り暮らしで養った家事スキルのひとつをお披露目するのである。


 今回、その必要はなさそうだけど。

 鼻腔をくすぐる甘い香り。

 そう、これは彼女の十八番おはこの――。


「おかえり。今日は肉じゃがだよ」


 ドアを開けると、白衣の上に桃色のエプロンという独特なスタイルをしたがおたまを手に、キッチンに立っていた。


「やった、肉じゃがか」


「そそ、だから早くにしてから食べよ」


「その発言の前にはお決まりの

『ご飯にする? お風呂にする? それとも私?』

 という台詞が無ければ成立しないからな」


「服を脱ぐ? ベッドに押し倒す? キスする?」


 それは全て『私』を選んだ後の選択肢である。


「服を脱いで浴槽へダイブする」


 汗が凄いからね。やはりさっぱりとした気分で食べたいし、その後ゆっくり『私』を選びたい。


「つまんないの〜。二十歳超えてからツッコみと返しのキレが無くなったよね」


「やめてくれ……仕事終わりの体にそれは効きすぎる」


 ショックで崩壊しそうな体をなんとか歩かせて、僕はお風呂場に向かった。



 ***



「いただきます」


 僕が手を合わせて言うと、彼女もそれに応える。


「はい。いただかれます」


 別に僕が譁�隱をいただくわけではない、と注釈しておく。


 今日の夕飯は肉じゃがと白米、トマトのサラダに味噌汁と和食然としたものである。和洋折衷全てに対して得意な彼女の料理スキルであるが、和食、特に肉じゃがに関しては最後の晩餐に選びたいほどの出来である。

 うん。美味しい。母さんのよりも美味しい。


 ほくほくとジャガイモを頬ばる僕を、ニッコリ顔で見つめる彼女。もう時刻は十時。彼女はとっくのとうに食事を済ませている。なんか申し訳ない気持ちになる。


「いや、本当に肉じゃがは美味しいね」


「何の謙遜でもなく、普通の味だと思うんだけどなぁ。クックパッドで調べたレシピのまま作ってるだけだし」


「いーや、世界で一番美味しいね。やっぱり愛情が籠ってるからかな!」


「愛情で味は変わらないよ」


「急に科学者っぽくなるなよ……」


 やはりこういうところは研究者、彼女が科学に身を置く者なのだと実感する。まぁ、普段は適当なんだけど。


「それはそうとさ」


「なんだよ」


「なんか仕事で嫌なコトとかあった?」


 心配そうにこちらを覗き込む、フランス人の母親ゆずりの蒼い瞳。


「? なんだよ急に。そんなことないよ」


「だって、理太、泣いてるから」


 言われて、目元に触れて、気づく。

 確かに、僕は泣いていた。遅まきながら視界が滲んでくる。


「あれ……、なんでだろうな。目にゴミでも入ったのかな――」


「……前もそうだったよね。前に肉じゃがを食べたときも、プレミアムロールケーキを食べたときともそうだった」


「そうだっけか?」


 心配させないよう、とぼけてみるも、彼女にはお見通しなようで。


「私たちが付き合ってる時とか、急に立ち止まって、何かと思えばぼろぼろ泣き出したりとか、あったよね。最近は減ってたみたいだけど」


「なんだろ、そういう病気なのかな」


「気分障害ではないと思うから、大丈夫だよ」


 認めてしまえば、確かにそういうこともあった。懐古にも似た、哀切の感情に襲われたことが、なんどもあった。

 今ではあの時ほどの感情は湧いてこないけれど、こうして泣き出してしまうことがある。男なのに情けないものだ。


 だから、忘れていた。

 そちらの方が、楽だったから。僕が譁�隱との平穏を享受していたかったから。


「前言ってたよね。たまにデジャヴみたいな、白昼夢みたいな何かに襲われるって。

 あのね、この世界の何事にも、理由はあるの。すべては因果の積み重なり。私たちはそれを解き明かすために日夜研究をしてる。きっとを見たことにも、意味はある。

 だからね、それから目を逸らすことは、しない方が良いと思うの」


 いつになく真剣なまなざしで、譁�隱は言葉を続ける。


「数多の戦争の上に私たちの平和が成り立っているように、誰かの必死な思いが、行動がその結果を生み出したのかもしれない。この世に偶然なんてないんだよ。

 ねぇ、理太。見つめ直してみて。私はね、理太の辛そうな顔を見ていたくないの」


 きっと、ひどい顔をしていたのだろう。デジャヴに襲われるとき、毎度胸が張り裂けそうだったから。


「……見つめなおすと言ってもなぁ」


「今ならまだ多少なりともが残っているかもしれない。完全に時空が固定されてしまったら、多分、忘れたことを忘れてしまうから」


「なんのことだ……?」


「私の今研究してること。これでも私は『天才』だからね、いちおうのアタリはつけてるんだよ。ふふん、誉めてくれたまえっ!」


 そう誇らしげに胸を張ったかと思えば、こちらに頭をこちらに突き出してくる。


「普段の行いが馬鹿っぽいからそう思われないんだろう」


 こつん、とチョップ。


「いたっ……! なにをっ! ってまぁ多分その通りなんだけど」


 ちなみに彼女の言う通り、彼女は『天才』である。詳しいことは知らないけれど、なんども有名な科学雑誌に論文を載せたとかなんとか。ノーベル賞候補とまで言われている超のつく『天才』なのだ。

 彼女いわく、『天才は馬鹿の部分集合』なのだとか。言っている意味は分かる気がするが、真の意味で分かっているのは天才だけなのだろう。


「それで、とにかく思い出してみて。

 何か……大事だと思う、その何かを」


「そう言われてもなぁ」


 思い出すも何も、いつの何を思い出せばいいのかなんて分からないのだ。

 まぁ、何かがあったとするのなら、急に症状の起き始めた大学二年の夏なのだろう。といっても特に変わったことはないんだよな……、夏休みに譁�隱に出会った、という一大イベントを覗いて。


 ん、待て。

 そういえば。


「そういや僕、メ〇カリでフィギュア買ったんだよな」


 確か、夏休み前のこと。妙に印象に残る出来事だった。


「え、なに。ここで急にオタクをカミングアウトするの?」


「ちげぇよ。別に僕も興味なかったんだけどさ、なんか目を引いたんだよな。まぁすぐに返品しちゃったんだけど」


 領収証でも残ってればいいんだけど、あのサイト、問題続きで閉鎖しちゃったんだよなぁ。


 なんだっけな、と頭を傾げて十数分。味噌汁から湯気が見えなくなったとき、ふと、テレビが目に入った。

 ニュース番組、天気予報のコーナー。

 七月二十二日の天気予報。


「明日、雨らしいね。ジメジメして困るね」


「雨、か」


 雨。

 赤い傘。

 ……。

 やっぱり、引っかかるものはあるのだけど、どうしても手が届かない。


「研究所にある疑似太陽発生装置でも持ってこようかな」


「そんなおっかないもの持ってくるな。爆発するのがオチだろ」


 ひと昔の動画のオチに使われていたように。


「でもなぁ、ウチの乾燥機中古で買ったから効きが悪いんだよ。私のお気に入りのサンショウウオ寝間着もしわくちゃになっちゃったし」


「あれ結構上物の素材使ってたか、ら……」


 引っかかる。

 そういや、僕の買ったフィギュアは――。


 うすぼんやりと、とある単語が浮かんできて。

 それは誰かに、下から支えられるようにして浮上してくるように。


『少女・中古・8980円』


 いや、なんか違う。もっと傲慢でリーズナブルだったような気がするぞ、と更に苦悶して三分半。

 


「――『美少女・新品・3980円』だ」



 ……答えが出た。

 本当にこんなふざけた単語が正しいのかは分からないけど、それは答えだと、直感した。


「え、なにそれ、私のこと?」


「いや、分かんないけど、お前は少女ではないだろ。それに中古」


「誰に新品を捧げたんだと思ってるのっ」


 彼女は顔を赤くして抗議した。


「……そこは濁しておくとして。お前、ユーって知ってるか?」


「YOU? ソクラテス的な?」


「いや、そんな深いことじゃなくてさ。確か漢字の感じは――あ」


 記憶とすらいえない領域に閉じ込められた、梅雨時の雨模様に浮かぶ、ぼんやりとした少女の影。

 僕は君のことを何も知らない。

 君が『YOUキミ』であることしか知らないから。


 あぁ、確かに。

 ……名前ってのは残るらしい。

 その人が死んだり、消えたりしたって、記憶は、想いは、名前は残るものなのだ、と。

 

 なぁ、――。

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