第四十三話・すべてはホッブズのシナリオ通りに

「ホッブズって知ってるか?」


 試験終わり。人のまばらな大講堂。

 眠気とストレスで色を失った視界の中でさえも彼の笑顔は爽やかに映った。


 出村航一。お坊ちゃまなイケメン君。頼れる友人にして、おせっかいな貴人。

 そいつは前の席(講堂の構造的に下の席といってもいい)から僕の方へ振り向いて、そう言った。


 なにも、彼が何の脈絡も無しに十七世紀の英国の哲学者、トマス・ホッブズについて語りだしたというわけではない。

 彼がたまたまぼっちで試験を受けている僕に気が付いて、たまたまその近くを通って、たまたま僕の不調に気が付いて、聞いてみれば友人が恋人と別れ話の真っ最中というメシウマな状況だった、という文脈の最中に出た台詞なのである。


 僕は肯定の意をもって頷くと、航一は笑顔のまま言葉を続ける。


「彼はあの時代において珍しく、神――キリスト教に喧嘩を売ったんだ。神ではなく、人が国家を作ってるんだってね。市民国家、国民国家の考えは革新的でね。そういった功績もあるんだよ、とは前もって言っておくよ」


「なんの前置きだよ」


「ほら、有名な文言だけ語って知っている風な人間だと思われるのは癪じゃないか。『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず。でもこの後に続くのは、それでも人は平等じゃないってことらしいよ』なんて安い言葉を並べるような人に思われたくはないのさ。そんなの承知の上だっていうのに」

 

 ――そんな事込みで、俺はここにいるんだ、と。

 チャラいようで真面目、彼らしい言葉。


「でも俺は整形してないから、人は生まれながらに不平等だと思うよ」


イケメンを自覚するほどイケメンほど腹立たしいものは無い。イケメンのイケメンを否定できるのはイケメンだけなのだ。


「おい、せっかく航一アゲしてたのに」


「理太にアゲられなくても十分俺は上にいるさ」


 そんな傲慢に思える言葉でさえ爽やかに、嫌味なく。それほどまでに努力を重ねてきたからこそ持てる爽やかさ。

 

「そんな上流な君は、友人が美少女にフラれて、ざまぁみろとか思ってないよな」


「何言ってるんだよ、思ってるに決まってるじゃないか。何ならメシウマ過ぎて今晩はご馳走カレーにするように言ったよ」


「……お前、意外と根は庶民はだよな」


 彼の手にはコンビニのおにぎりと、カップラーメン。そこらの大学生でももっと良い昼飯食ってるぞ。


「それで、理太の残念会どこでやるって話だっけか。叙々苑じょじょえんあたりでいいんじゃないか」


「全然良くねぇしそもそもまだ別れてないわ!」


 言うと、航一は大きくため息をついて、ラーメンをすすった。

 もぐもぐ。


「まだ別れてないっていうか、別れたくないんだろ?」


「その件で相談してたら急に哲学者の名前が出てきたんだろうが」


「あぁ、そうだったそうだった」


 うっかり~、と。

 野郎のテヘペロなんざ見とうないわ。


「それで、ホッブズと僕の恋路に何のかかわりがあるってんだよ」


「それね、それ。ホッブズって言ったらやっぱり有名なのは『万人の万人に対する闘争』ってやつだ。自由に己の権利を主張してると、闘争が自然に発生するってやつ。相互不信って言ってもいいか」


 その言葉はあまりにも有名であり、哲学発の言葉にしてはイメージのしやすいものである。


「そして、人間はその闘争を望まないとして、それを回避するため、解決するための自然法が二つあると言った」


 ――戦争か、権利の放棄。


 著書『リヴァイアサン』では後者の法から強者に権利を委ね統治してもらうという論理(結果的に専制君主制への賛同ととられてしまった)に発展したが。

 どうやら、彼の言いたいことはそっちではないようで。


「……戦争を起こそうってのか」


「いや、もう戦争は起きてるさ」


 僕が首を傾げると、彼はどこか得意げな顔をして言った。


「恋愛は戦争って、よく言うだろ?」


 ――戦争。

 好きという感情を正義に置き換え、相手を自分の正義で染め抜こうという感情。確かにそれは野蛮で、戦争というには相応しいものかもしれないけど。


「まぁよく聞くけどさ。それがどうしたってんだよ」


「どうしたもこうしたもないだろ。理太は戦争しているんだろ? なら勝つしかないだろう。なに弱気になってんだよ。雨ン中走って走って告白したんだろ? お前そんな簡単に手放していいのかよ。権利を放棄しちまっていいのかよ」


 実にくだらない話だ、とばかりに。彼はどこか力の抜けた動作で麺をすすった。


 彼の質問に対して、特に思うものはなかった。それほどまでに、僕の答えは絶対だった。


「いい訳ないだろ」


 そう答えると、彼はふっと笑う。


「だったら戦争しかない。こんなにも僕はお前様のことが好きなんですから離れないでくださいいや離さない――と、こんな感じでな。彼女だって一週間を楽しくしてくださいって言っているのだろ? だったら好都合じゃないか。離れたくないと思わせるくらい楽しくしてあげようぜ」


 それはあまりにも強引で、単純で、彼らしい爽快な提案だった。


「というか、今回は俺にそう言って欲しかっただけなんだろう? 彼女の明言する願いを叶えつつ自らの幸せを得るためにはそれしかないってのは分かってただろ。何がたまたまだよ。仲間にしてほしそうな目で俺を見てたくせに」


彼はまるで僕を見透かすように言った。

 それは出来ないという僕の結論を真っ向から否定しやがって。


 でも 少し背中を押してもらいたかっただけというのは事実。

まったく、僕はつくづく面倒な男である。

 だから、面倒な男は面倒な男なりに、かの美少女に戦争をふっかけるのだ。



 

 

 

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