第三十九話・僕の変身と返信
「――1週間後に、別れましょう」
彼女は告げて、ぎゅっと僕の手を握り返した。温かくて、柔らかくて、震えていた。
これ以上何も言うなと、そういうことなのだろう。
別れる。それはどういう意味なのだろう。交際関係を解消するということか、それ以前に同棲関係をやめるということなのか、はたまた、もう二度と会わないということなのか。
どういうことか、分からない。
何故別れるのか、分からない。
何がいけなかったのだろう。我が薄くて、他人の顔色を伺ってしまうところ? 指摘するわりに僕自身にファッションセンスが無いところ? 勉強中に君のことばっかり見てしまっているところ?
僕の欠点なんてあげたらキリがない。
分からない。
君が、分からない。
でも、君が黙っていろというのなら、僕は――。
僕は……。
「――嫌だ」
「…………」
「嫌だよ僕は。絶対に。
お前はホテルで言った。
『ふふっ、そうですね。
私は葬儀屋なのかもしれません』って。
このフラグめいた発言の真相、僕はまだ知らない。
お前がどこの国の出身なのか、僕は知らない。
お前の両親の顔を、僕は知らない。ゆくゆくは遊びに行きたいよな……かなり早い話だけど、お前の部屋どうなってんのか気になるぜ」
そうだ、僕はまだ何も知らない。
だから、僕は知りたいと思った。多少誤魔化されても、ずけずけ突っ込んでいくって決めたんだ。
「お前がなんでメ〇カリで売っていたのかも、僕は知らない。
お前がなんで『3980円』なのか、僕はまだ知らない。いまやもう万単位で貢いでるけどな。
お前の好物も知らないし、好きな場所も、好きな映画も知らない。
僕はまだ何も知らない。本当の名前だって、僕は知らない」
列挙してみれば、本当に、僕の無知さに飽き飽きしてくる。これで恋人とか、ふざけてる。
でも、ふざけてると思えるから、この状況に僕は満足していないから。
「僕が全部知るまで、僕は、絶対に君を離さないよ」
離してやるかよ。
なんでもござれの美少女を、
だって僕は、夕雨が好きだ。
僕は、お前の恋人なんだから。
「……嬉しいです」
ベッドの上の彼女は、本当に嬉しそうに、声を静かに弾ませて言った。
面と向かって言わないところが問題ですけど……、と付け加えて。
「あはは、そうだね。でもほら、
「結構最初の方に同衾してますよ」
あ。
思い切り寝てたわ。思い出したわ。
「そういうところですよ、理太さん。もうちょっとケダモノになったって、良いと思います」
「ケダモノはまずいんじゃないかなぁ」
漢字で書いたら<獣>だし。完全に理性を失ってしまっている。人間を人間たらしめるのはその知性と理性だって誰か言ってたし。
すると、夕雨はわざとらしくため息をついて。
「はぁ、しょうがないですね。今回は私がケダモノになりましょう」
彼女から、今まで繋がれていた手を離した。少し、寂しい。
「四足歩行でもするのか」
「ま、駅前徒歩十分ですね」
「微妙な距離だなおい」
それは
近からず遠からず。
というかそれはここのアパートの物件情報だ。実際は早歩きで十五分強。完全に嘘をつかれた。
「というわけで――」
ぎしぎし、右脇の安物ベッドが軋む。ベッドの上でもぞもぞと夕雨が動き出したのが分かった。
……予感。具体的に言えば、年齢指定に引っかかるのではという、男としては歓迎すべき、しかし僕の標榜するプラトニックライフからは程遠い、甘い罠。
ゆっくりと、焦らすように、軋みは近づいてくる。ベッドの上から、じわじわと。
嫌だったら逃げ出せばいいじゃないかと世間は思うのだろうが、それは未経験者の戯言だ。
ケダモノになると、彼女は言った。
例え視界に入らずとも、ひとたび獲物として認識されたことを自覚してしまえば、第六感が危機を叫び、裏腹に身体は硬直してしまう――のかどうかは分かりません。
ちょっとそっち系の期待をしているだけです。自分からやるのはアレだけど、あっちから攻め寄られるのはセーフでは、と都合のいい解釈をして動かないだけの童貞です。
と、そんな浅ましい男のニオイに釣られてやってきた、夕雨(ビーストモード)。ベッドの上で四つん這いになってこちらを見下ろしている。僕は彼女の頭の上に猫耳を幻視した。
なんだろう、僕らはさっきまで別れ話をしていたような気がしたんだけど、気のせいだったかな。僕らのシリアス、行方不明中。
と、獣の前で隙を見せた僕がいけなかったのか。
ふとベッドを見ると、そこに夕雨はいなくて、どしんと、床が振動する。
僕は上体を起こそうと床に手をつけて、背中を浮かせた、その瞬間。
右肩を勢いよく押されて、そのまま布団へと押し倒される。安い布団だから背中が痛い――と顔をしかめる時間はなく、僕の視界にかかる金色の影。まるで太陽が浮かんでいそうなほどにぎらつく蒼い瞳は、僕の瞳にぶつかりそうなほど、近く――。
彼女の唇は、愉快そうに三日月のかたちをして。
「――捕まえました」
垂れ下がる金色の髪は僕の黒髪と絡み合う。互いの鼻先が触れる。瞬間的な運動に荒くなっている彼女の吐息が僕の首筋をくすぐる。
至近距離とゼロ距離との間。
押し倒す夕雨と、押し倒される僕。
そのとき、雲間から顔を出した月光が、覆いかぶさる彼女を照らす。基本的に無表情でクールな彼女の獣性が、月下に晒される。
その姿は、獣のように凶暴で、美しい。
このまま喰われてしまっても、命を投げ出しても、僕は構わないと――そう思えるほどに。
「ご褒美をあげます」
言葉を発する度に吹く彼女の
ハリケーンが百個ほど同時発生中。まさにデイ・アフター・トゥモローの世界よりも破滅的な僕の心象世界。
「……二つめか」
「そうです。男らしかった理太さんへの、スペシャルなご褒美です」
「この状態がご褒美のようなんだけどな」
今の夕雨はオーバーサイズのシャツを着ているものだから、こう、胸元が無防備なわけで、黒く塗りつぶされるべき空間が見えているわけで。
「変態さんですか」
「もう変態でいいと思ってる」
だからガン見してもいいですか。あ、ダメ? 表現しなきゃいいんじゃないの?
「私の彼氏は変態さんですか」
「あぁ、そうだ。カノジョに覆いかぶさられて喜ぶ変態だ」
「では、そんな変態さんに、耳寄りな情報」
「パンツの色か」
「黒ですけど、もっと凄い情報です」
蒼い瞳が一段と輝く。眩しすぎて、彼女の瞳の中の僕は見えない。見たくも無い。
というか黒なのか……、まぁ買ってるの僕だから知ってるんだけどさ。
「私、実は、今ズボン穿いてません」
「さっきまでホットパンツ穿いてたろ!?」
「ビーストモードに入る際にパージされました」
ちらりと視界右上の床を見やると、そこには投げ出されたピンクのホットパンツ。
そんな機能いらないよ……、というかなんだ、今僕はパンツにシャツだけとかいうトンデモ状態なやつにマウントを取られてるのか? いよいよ十八禁が近い。
なるべく彼女の顔だけに焦点を合わせるよう心掛ける。距離が近いおかげで、煩悩に邪魔されることなく、なんとか視点を固定。
「……というか、それがトンデモな秘密なのか?」
「いえ、違います」
「それじゃあ、なんだよ」
「それでは改めて――」
更に、距離を近づける夕雨。
そして
「――っ!?」
と、彼女は不意に僕の唇を奪うと、直後に言った。
「私は、未来人なんです」
すいません。情報量が多すぎて僕の頭は爆発寸前です。
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