第三十八話・八日目の蝉

 

 それは、あまりに唐突だった。



 帰宅したのは、日の沈みかけた午後七時。空は藍と茜のコントラストを描いていた。

 それから食事をしたり、テスト勉強をしたりで、布団に入ったのは日付の変わるちょっと前。


 照明を小さい橙色電球ゆうがたに切り替えた部屋に、ふたり。爽やか、とも言い切れないどんよりとした風が吹き込む。

 そんな熱帯夜、今日の日の思い出を胸に眠りに就こうとしたとき、ベッドの上から声がかかった。


「――理太さん」


 ちなみに今の彼女はシャツにゆったりとした寝間着用のホットパンツ。例のカエルはベランダに干されている。


「ん?」


「渋谷に行ったことってありますか?」


「渋谷……? 大学受験の時に行った思い出しかないな。あんなカオスな場所はもう勘弁だなぁ」


 もう、何がなんだか分からない場所だったな。モノがいちいち高いし。


「……そうですか」


「それがどうかしたのか?」


「例のご褒美をあげようと思います」


 地獄坂走破記念のやつだな。


「突然だな。嬉しいけど」


「私の秘密を二つお教えします。出血大サービスです」


 テレビショッピングでよく聞く、白々しく張った声とは程遠い、フラットで穏やかな声色。


「……いいのか?」


「構いません。理太さんを混乱させたくはなかったのですが……、秘密が多すぎるヒロイン設定にも限界ありそうですし」


「誰への配慮なんだよ」


 そんな配慮いらない。


「それに.......秘密は少ない方が良いと思いますから」


 彼女はハキハキと、でも語尾は自信なげに、尻すぼみに言った。

 そう思ってくれることは素直に嬉しい。秘密をすべてさらけ出せる関係こそ最良、だとは思わないけど、言ってくれるに越したことは無い。


「驚かないで聞いてくださいね」


「うん」


「これは悲しいことではありません」


「うん」


「私は理太さんが好きです。それは絶対に変わりません」


 念を押すように、彼女は言う。


「お、おう……」


 照れるなぁ.......。顔が熱くなる。

 ほの暗いこの状況もあってか、雰囲気は三割増し、余計に照れる。


「これは、決まりでした。理太さんと出会ったその時からの決まりでした。だから理太さんが悪いというわけではありません。これは完全に私の事情です。私の、わがままでした。だから、責めるならば私を責めてください」


「……夕雨?」


 前置きが長い。そしてそれが全部、僕への気遣いだということが分かってしまう。

 死刑宣告を受ける前のような緊張感が、徐々に僕を制圧していく。

 そんな時、ベッドから布が擦れる音がして、彼女の白い腕がベッドから投げ出された。


「……握っていてください。静かに、何も言わず、握っていてください」


「…………」


 そんなことを言われてしまえば、僕は何も言えなくなってしまうということを、彼女は知っているだろう。

 嫌な予感。不快な汗が、じんわりとにじむ。

 でも、言われた通りに、シャツで手汗を拭くと、彼女の手を握る。指を絡めて、恋人繋ぎ。寝たままだからやりづらいけど.......女子の手ってホント柔らかくて、割り箸みたいに細い。


「それでは一つめの秘密。

 私はですね――」

 

 ごくり。唾を飲み込む。

 何を言われても、僕は黙って受け入れようと覚悟を決める。


 そして。


「私――実は処女です」


「いや知ってるわーい(棒読み)」


 新品新品言ってたやん。最初に確認したときしつこく言ってたやん。あれってそういうことでしょ、というかそれ以外に『新品』の解釈ないでしょう。

 君は世界中を駆け巡るネットワーク上に『自分は処女です』と宣言していたんだろ? 僕は今までそういうことを平気で出来るクレイジーなやつとして見ていたのだが。


「……なんだかリアクションが薄いですね」


「そりゃあ、これからとびきりのシリアスシーンかと思ってたからな」


「私、実は車の免許持ってました、の方が良かったですかね」


「くそッ! いい感じに意表を突かれたぜ.......!」


 普通に意外だったのが少し悔しい。免許とか資格系って意外度高い。


「――成虫になった蝉の寿命が1週間というのは嘘」


「マジかよ.......!」


 意外な事実。


「というか、地中では3年以上生きているのに、寿命は1週間とか言われるのって、蝉からすればどう思うんでしょうね。土の中でも立派に生きているのに」


「別に気にしてないんじゃないか? あいつら、地中にずっと潜ってやることはナンパなんだぜ? 他のやつらのことなんて気にせず楽しくやってるんじゃないか?」


 蝉。夏の風物詩。

 そして、事実とは違えど、七日間の命と言われるほどの、儚さの代名詞。


「でもまぁ、僕らの蝉は、地中にいる蝉じゃなくて、みんみん鳴いてるあの昆虫だろう。『蝉は実は長生きなんだ』って言われたって、道の上で腹見せて事切れてる蝉見たら、やっぱりこいつら好き勝手暴れて逝ったんだなって思うだろうし。儚いな、と思うだろうし。

 結局のところ、僕は僕の世界でしか生きられないわけだから、僕の世界の蝉は、七日で死ぬんだよ」


 他人のことなんて分からない。

 僕が見ていない世界がどうなっているのかなんて知る由も無い。

 この世界では、僕だけが確かなのだ。と、デカルトっぽい思考をしてみる。


 窓の向こうで蝉が鳴く。時間外れの、蝉が鳴く。

 夕雨の世界じゃ、一か月生きて。

 僕の世界じゃ、七日で死ぬ蝉が。


「夜にまで鳴かれると、少しうっとうしいですね」


「あぁ、僕もそう思う」


 だけど、蝉は度の世界でも同じように鳴いているのだろう。

 それはなんだか、ロマンチックに思えた。


 蝉と風の音に抱かれて、しばらく。

 

 ――決心がつきました、と。



 それは全くの不意打ちだった。サプライズとしては、大成功だったのだろう。


「――1週間後に、別れましょう」


 声だけの彼女は別れを告げた。

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