第三十七話・エモーショナルな夏

 はっと目が覚めたとき、僕の視界には一面の青空が広がっていた。まるで、草原に仰向けに寝ているような――というか実際に仰向けになっていた。しかし草原ではなく、アスファルトで舗装された道のど真ん中。布団代わりに自転車が覆いかぶさっている。

 その状況に気付いた瞬間、背中がバカ熱くなっていることに気が付いてチャリを放って跳び起きる。


 直後。


「理太さんっ――!!」


 夕雨が眉をひそめて、不安げな表情で駆け寄って来た。見ようによっては悲痛ともいえる様子。少なくとも、もう二度とこんな顔はさせたくないと思うくらいの顔だった。


「あ、あぁ。ごめん、コケちゃったみたいだな。怪我はな――」


「大丈夫!? 心臓の骨とか折ってないよね!?」


 らしくもなく、慌てたようにまくし立てる夕雨。まるで子供が怪我した母親のようだ。

 僕は勢いに押されつつも、というか心臓に骨は無いと思うんだけど、


「え、あ、うん。この通り大丈夫だよ」


 両手を広げて立ってみせる。ほら、僕は今でも五体満足さ。


「お前こそ大丈夫だったか? ごめんな、よそ見しちゃったみたいでさ。つかなんか口調変わってるけど、頭打った?」


 見たところ怪我してる様子はないけど。


「……いいえ、すみません。私はなんともありません。少し慌てていたようです……」


 よかった、僕は胸を撫で下ろす。事故であれ他人を傷つけるなんてあってはならないことだからね。いくらじみた、不思議現象に遭ったとしても。

 というか、そういえば。


「もしかして、そっちの喋りが素だったりする?」


 語尾が『ないよね』ってなってたし。ここでのキャラぶれは許されないと思うんだけども。


「そ、そんなことは……決して……ないです」


 彼女にしては珍しくどもる。嘘は言っていないように見えた。


「そっか。ならいいんだ。今まで仮面つけてましたとか言われたら結構へこんでだぜ」


 言うと、彼女は僕から一瞬目を逸らして、


「……大丈夫です。私は私です。今の私は、私でいられているはずです」


 まるで自分に言い聞かせるように、彼女は答えた。

 その言い回しに疑問を持たないはずがない。けれど、どこか、これ以上立ち入ってはいけない気がして、僕は「ならいいんだ」と話を切って倒れた自転車を起こす。

 

 所有者と所有物。

 カレシとカノジョ。


 関係は変わった。僕からすれば、理想的な方向に。

 だけれど、だからこそ、その距離感を測りかねている。

 ずっと前から、出会ったときから感じている彼女の。今までは見て見ぬフリをしてきた。これ以上、立ち入るべきではないと思ったし、所有者(当時そんなこと思ったことは無かったけど)と所有物の関係に詮索は不要だと考えていた。逃げていた。


 けど、関係は変わった。

 僕は彼女の前でも後ろでもなく、隣を歩けるようになった。

 恋人に、なった。


 心理学の教授が言っていた。


『Love does not consist in gazing at each other, but in looking together in the same direction.』


 大学生たるもの、このくらい自力で訳せそうなものだが、教授は親切にも和訳を載せてくれていた。いちおう、空白を開けておく。なんのためにとは言わないけど。挑戦って大事。



 そしてこれが訳。



『愛とはお互いに見つめ合うことではなく、一緒に同じ方向を見ることである』


 ま、元ネタはかのサンテグジュペリである。代表作は『星の王子様』。


 この金言を逆説的に、しばし対比関係にあがる『恋』を主語として捉えれば、


『恋とは互いを見つめ合うことである』


 となる。


 所有の関係にあったときは、どこか達観していて、言うなれば愛の状態に近かったのかもしれない。

 愛は長い。恋人期間よりも夫婦でいる期間の方が大抵長くなるように。

 だからこそ、愛は省エネ思考なのだ。同じ方向を見ていた方が楽だし、何より歩きやすい。


 だが恋は違う。

 お互いを見つめ合う情熱が必要だ。多分。

 それには大量のエネルギーを消費するし、何より歩きづらい。歩み寄るにしろ、同じ方向へ進んでいくにしろ。


 繰り返すが(恥ずかしいけど)、僕らは恋人だ。

 その点で、夕雨はずっと僕のことを見ていてくれていたような気がする。だったのなら、余計に、僕は彼女のことを見返さねばならないように思う。


 見返す。

 彼女の立場になるのではなくて、僕彼女を見ること。どう見られているのではなく、どう僕が彼女を見ていくのか。

受動ではなく、能動。

 

 僕が再び自転車に跨ると、彼女が僕の背中を払ってくれつつ、荷台に乗る。


「ありがとな」


「いえいえ、カノジョとしての当然の役目ですよ」

 

きゅん。


「そ、それじゃ、気を取り直して行くか――、って待てよ、これご褒美貰えない感じ?」


ほぼ坂を上り終えたといってもいいが、実はまだ少しある。くそ.......ここまで頑張ったのになあ。

夕雨はそうですね.......と思案して、


「いいでしょう。ご褒美進呈です。その時を楽しみにしておいてください」


「っしゃオラァ!!」


「喜び方完全にパチンコに勝ったおっさんですよ」


「性活がかかってるからな」


「理太さん、エッチ系キャラにブレてます」


「おっと、危ないアブナイ」


二人ともキャラがブレてしまったらもはや別物である。それだけは避けなくては。

僕は受動態他意識過剰系男子――ではなく、能動態気遣いも出来て、でも少し強引なイケてる系男子。


不正甚だしい再確認をしたところで、僕は自転車を漕ぎ出す。


 すぐさま到着する地獄坂のてっぺん。

 そしてしばらく続く平坦な道。両脇には住宅街。小学校好きだった娘の家はここにはない。それは二丁目の方。


「理太さん、さっきはどうしたんですか?」


 ところで、と夕雨の疑問。

 突然昼から夜になったなんて言えるわけがない。


「あ、ちょっとぼうっとしちゃってさ。ほんとごめんな」


 だから誤魔化す。変に不安な思いをさせたくないしね。


「本当に気を付けてくださいね。理太さんに何かあったら、私理太さんの分まで生きてしまいますから」


「ふっ、前向きでいいな」


「理太さんの分まで生きて、それで――」

 

 そこで、下り坂。ゆるやかに続く、下り坂。

 軽くブレーキを掛けながら、ゆったりと降りていく。


 何をするんだよ\何をするのでしょうか。

 浮気してくれるなよ\他の人は考えられません。

 たまに思い出してくれな\ずっと忘れませんよ。

 

 くだりざか

 物理法則に従って加速していく自転車――。


 その時。

 後ろから、ぎゅっと、彼女の細腕が僕の腰に回された。手のひらは腹部に。抱き着かれた体勢。まさに密着状態。彼女は僕の背中に顔をうずめている。


 あぁ、こんなことなら腹筋でも鍛えておけばよかったな、なんて。

 

 車輪は回る。

 僕をのせて、君をのせて。


 背中の彼女は何も言わない。ただ、風切り音に混じって聞こえてくる、鼻をすする音で、彼女の様子は察せられた。


 声を掛けようと思って、ためらって。

 ブレーキを離して、僕は、


「――君が生きるなら僕も生きるよ――」


 言うと、更に強く、腕が締められた。きっと速度を増して怖くなったからだ、そう思うことにする。


 ……あつい。

 暑くて、熱いけど。

 今回ばかりは、お天道様を許そうと思った。

 


 ……余談であり、蛇足でもあるけれど。

 彼女はノーブラではなかったよ、とここに報告しておく。

女の子のカラダってマジ柔らかいのな。

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