第三十六話・憧れサヰクリング
――ひとり分重くなったペダルを漕いで、真夏の風を切って走る。
前かごにはリュックと水筒と、彼女のバスケット。
後ろの荷台には、夕雨本体。器用にバランスを取って、両足を宙にぶらつかせている。
残念ながら腰にしがみつく、といったほどには密着していない。彼女の肩と僕の背中が触れ合う程度である。それでもまぁ、傍から見ればまるで絵画のような構図であることは間違いない。
誰か写真撮ってくれないかな。こんなラブコメ漫画っぽいシーンもう二度と撮れないぞ。
流れゆく景色――。
先にも思ったけれど、やはり夏ってのはすごいな。
どこまでも均質な住宅街でさえ夏を着こなしている。いや、着させられていると言った方が正しいか。
それは透き通る
もちろん田舎の大自然の夏の方がよほど綺麗なのだろうが、僕らの夏は、この複雑で、無駄でいっぱいの人間の街にある。
と、ノスタルジィに浸っていると、目の前に現れた長めの坂。ちょっとうんざり。
横浜には坂が多い。元は丘陵地だったところを開拓して街にしているのだからしょうがないのだけど、自転車にはキツイ街であることは確かである。
アンサイクロなんとか、というサイトでは一時期『横坂』と揶揄されていたほど。浜というよりかは坂。そんな街である。
「理太さん、お尻が痛いです」
風切りの音に混じる夕雨の声。いつもより少し涼やかに聞こえる。
「丁度良かったな。キツそうな坂だし押していこうかと思ってたんだよ」
「あ、いえ。バスケットに座布団が入ってるんで取ってくれませんか?」
「……準備がいいのは良いコトだけど……」
確かに、バスケットには紫の座布団が入っていた。不似合いこの上ない。
「あの、降りてもらっていい? 中学の時はよく立ち漕ぎチャレンジしてたけど、今じゃちょっとな」
「む、それって私が重いって意味ですか? 私だって失礼なこと言われれば怒るんですからねっ」
ちょっと不機嫌そうに言う。きっと後ろで膨れているに違いない。
「僕の体力が衰えたって意味だよ」
もちろん二人乗りってのもあるけど、別にそれは誰が乗っていても重いだろう。
「では、頑張ってください」
「文脈が一致しないんだけど」
「降りずに上り終えたらご褒美をあげます」
「具体的に」
「……言わせないでください――」
それは消え入りそうな、妙に色気のある声色で。
「よっしゃ行くぞぉ!!」
僕は煩悩をエネルギーに変換、大腿筋に注入開始。思い切り加速して坂へと一直線に突っ込んでいく。
加速していく視界。そして坂に差し掛かる。
ぐわんと体が傾き、重力を感じる。急激に坂のてっぺんが遠くなる(もちろん僕の体感である)。
ペダルが重い。重いというか反発してくる。まるで僕の足がクサいとでも抗議されているようだ。
そういうのに疎い僕だってきちんとケアはしてるんだぞ? 一時期の僕の目標は『足の裏からレモンの匂いが香る男性』だったんだからな。そこまでしたら凄いだろうと思ってのことだ。
言うまでも無く一日足らずでやめたけど。手段が靴にレモンのスライスを仕込む、くらいしかなかったからね。そこまでいくと凄いというか、
と、いうわけで。
全体重をかけて、僕の底に眠った根性を振り絞って、ひと漕ぎひと漕ぎ、坂を登っていく。左右に揺れながら、ビニール袋を提げたおばあちゃんのよりものろく、それでも休まず確実に、距離を稼いでいく。
「理太さん、頑張ってください」
「――っ!」
踏ん張っているから返事が出来ない。
ただ、無心に、ひと漕ぎ、ひと漕ぎ。空へと近づいていく。
と、その時、
「……理太さん」
「――?」
「実は私ノーブラです」
「――っ!?」
ぐわんとハンドルがぶれて、横に倒れそうになるのをなんとか堪える。
僕がツッコめないのをいいことに、クソ……っ! 彼女の場合割とノーブラな可能性があるから余計に気になる!
「理太さん、実は私ノーパンです」
「――っ!」
ハンドルは僅かにぶれただけ。今回は先ほどまで動揺はしなかった。二回目だしね。
「なるほど、理太さんは下半身より上半身派なのですね」
「……」
まさか、こいつ僕のハンドル
この極限状態、坂はやっと中腹にさしかかったところ。反応を誤魔化す余裕が無い!
「理太さん、実は私男性に首輪とか着けられると興奮するんです」
「グ――ッ!」
ハンドル、左方向に四十度の反応。
お前Mなのか!?
「理太さん、実は私男性を踏みつけたりすると興奮するんですよね」
「ガ――ッ!」
ハンドル、右方向に四十度の反応。
お前Sなのかよ!?
「なるほど、両刀使いですか」
もっと言い方あるだろ! ノーマルでいいじゃん! 両刀ってなんかすごい変態チックに聞こえちゃうじゃん!
「イヌよりネコ派」
「――?」
ネコだよ、ネコだけどそれはどうやってハンドル切ればいいんだよおい!
いちおう横文字配列的に、左にハンドルを切っておく。というか意図的にハンドル切ると負担がやばい。
「なるほど、かめ派ですか」
そこまで言うなら『め波』まで言えよ! と、中途半端なボケにツッコみたいけど声が出ないのが歯がゆい。
ツッコみ役として、ボケを不完全なまま終わらせてしまうのがもっとも悔しいのである。
と、そんな僕の葛藤の最中にも。
「問題です。次のうち略語はどれでしょう。
『ヴァイオリン』
『ピアノ』
『フルート』」
ただの問題じゃねぇか。
あとそれ答えはピアノ。 あれの正式名は『クラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ』だから。
二番目だから真っ直ぐ進めばいいのか? いや、無理っ! 踏ん張り切れない!
ぐわん、右に揺れてしまう。
「ぶっぶー。正解はピアノです。正式名は『クラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ』です。
ふふっ、バカですね」
不正解者への暴言が酷い。シンプルな罵倒である。あ、もしかしてこれ僕が両刀使いだから喜ぶと思ってるの? マジかよ。
というかそもそも僕は正解している。彼女の台詞をコピペして語尾だけそれっぽく直せばまさしく僕の答えじゃないか。
と、そんなこんなで。
地獄坂(たった今命名)も八割を走破。色々と失ったものはあるものの、ご褒美は近い。
とはいえ、僕の体力は黄色どころか赤、もしくは瀕死。オボンの実を使っても意味がない状態である。ご褒美を万全な状態で受け取ることは出来そうにないが、ここは男の意地。全体重をペダルに、屈伸を繰り返して、ひと漕ぎ、ひと漕ぎ。
見えた、坂の頂上。
もう少しだ、いっそう力を込めて、ペダルを漕いだ、その時――。
――ふと、空が切り替わった。
……澄み渡る青から、不気味な黒に。
昼から夜。
道端の白色電灯。蝉の声は消え。
あまりにも、不自然。
まるで、映画のワンシーンに入り込んでしまったかのような感覚。
しかしこれはどこまでもリアルで、でも、僕の体は糸引かれたように、僕の意志を無視して勝手に動いてしまう。
追体験。
そんな単語が頭に浮かんだ。
意識を、この現実とも夢ともつかない世界に向ける。
そこには、先と同じようにチャリで坂を上っている僕。
でも荷台に夕雨はいない。そのためペダルが軽い。
早く帰ろう。そんなことを思って、すいすいと坂を上っている僕、ではない僕。
――ただ、それだけの、
ただそれだけ。ただ、それだけの.......。
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