第五章『葛葉レイ』
第一話「恋人までの距離(ディスタンス)」
綺麗な後ろ姿だ、と
二メートル程先に女子が立っていて、後ろ姿でも神内高校の夏制服だと分かる。
肩より少し長い黒髪が風で艶やかに揺れていた。まるで花が咲く直前みたいだと、彼は感じる。
声をかけてみたかったが、柄でもなかった。
彼女は何かに気づいたのか、振り返った。そして目が合う。
飾り気がなく整った顔立ち。美少女を絵に描いたらこうなるのかと直人は感心した。
だがどこか憂いを帯びている。
彼は気持ちが揺さぶられて、口から言葉が溢れた。
「待って」
呼び止めた理由は自分でも分からない。
美少女は黙ったまま。悲しげな眼差しを向けてくる。
直人は胸が締めつけられた。
彼女が後ろ髪をひかれる様に顔を背ける。そのまま前へ歩き出す。
どんどん離れていく。
「置いていかないでくれ!」
懇願しても止まらない。
距離は更に遠くなる。
彼は気づいた。
自分が泣いているのを。
直人が目を開けると馴染みのアジトの天井が見えた。
窓の外はまだ薄暗いが、携帯電話の時計で夜明け前だと確認する。
上半身は服を着ておらず、包帯が
左隣を見ると、黒川ミズチが横になって眠っている。
くの字の姿。すやすやと寝息を立てていた。
彼女が服を脱がして血も拭い処置してくれたんだろうと、彼は感謝した。
ミズチの寝顔を再び覗く。
可愛らしい。産まれたばかりの
「寝顔、初めて見たな」
自分も上半身裸の姿を初めて見られたのだと気にしだす。そもそもアジトに宿泊したのも初。しかも二人でだった。
今更遅いと自嘲した。
直人は腹部をさすり、助かった理由を考える。
「
彼は呟くが、半分理解して半分は理解できていない。
夢や幻視や死闘も、今では部分的にしか覚えていなかった。
何かが裏返った感覚だけ残っている。
代わりに過去の一部を思い出した。連鎖的な直感にも近い。
学校の図書室で見かけた
その名が『
*
放課後一緒に帰ろう。
そう言われた黒川ミズチは男子と共に歩いている。
右側に相手がいて、一緒に歩くだけでこんなに楽しいのかと彼女は驚いた。
道路を普通に歩いている。
遅れもせず早くもなく並んで歩く。
同じ歩調でいられるのは、互いに相手の速度に合わせるからだと知った。
ミズチは心地よかった。
彼の口数はそれほど多くない。けれど足音や周りの環境音が耳に入ると、それだけで不思議と癒されていく。
恋をしているのだと感じた。
乙女みたいにはっきりと実感できる。この男子を好きなのだと。
彼の横顔を眺めてみたかった。
けどどこか羞恥心があってなかなか見られない。
歩いていると、彼女の
気のせいかもしれない。ミズチはそう思ったが確かめたくなる。
小指を接触させる。
次に指を数本接触させる。
嫌がられている感じはしなかった。
思いきって彼の手を握る。
戸惑いの動きを感じたが、一瞬で落ち着いた。
指を絡めてみる。
すると優しく握り返してくる。
温もりも感じた。
至福の感覚。これ程の幸せを彼女は感じた経験がない。
このまま永遠に時が止まればどれだけいいか。嘆きのため息も出そうだった。
「じゃあここで」
声が聞こえて、愛しい指がスッと離れていく。
ミズチの指はまるで名残を惜しむ様に残される。
「うん。また明日」
彼が振り向きながら笑顔で手を振ってくれる。彼女も小さく手を振った。
明日また会える。それだけで活力が湧いてくる気がした。
「次はキスがしたいな」
艶やかに揺れる唇から吐息と共に願いが零れた。
目を見開いたミズチは、死からの蘇生に似た感覚を知った。
これが
上体を起こす。
「おはよう」
声をかけてきたのは隣にいる直人だった。
「うん……」
「ぐっすり寝てたね」
「自分じゃ分からない」
「それは僕もだな」
目前の彼が重傷を負っていたのを思い出す。
「傷は大丈夫?」
直人が腹部を撫でながら苦笑した。
「うん、もう平気みたいだ。ありがとう」
「けど使い魔ではあんな致命傷は治らないはずなのに」
「僕達が力を合わせたからかもしれない」
「そうなのかな。直人くんに死んでほしくなかったから、それはずっと考えてた」
「……祈りに近いな」
彼がふと囁く。
「どういう意味?」
「何でもない」
ミズチにはよく分からなかった。
それより本当に大丈夫なのかが気になっていた。
*
「本当に大丈夫なの?」
「大丈夫、なはずだけど。心配なら見る?」
直人が聞き返す。
一瞬間が空いてミズチが真顔で頷いた。
「見せて」
彼が包帯をほどいていく。
血が滲んだ布を剥がす。
二人は衝撃を受けた。
腹部には傷痕もない。
彼女が呟く。
「嘘みたい」
「自分でもそう思う」
ミズチが細い指で穴があった所を触る。
「ミズチ、くすぐったい」
それでも彼女は慈しむ様に撫でた。
「もう……いいだろ」
直人が手で払う。
ミズチはきょとんとしてから、目を背けて言った。
「ごめん」
畳んであった服を彼が手早く着る。
とげとげしい空気が二人の間に滞留した。
*
夕飯後の葛葉レイは毎度Tシャツとショートパンツだ。ラフな姿の彼女は自室のベッドで悶えていた。
「せっかく髪型変えたのにぃ」
ポニーテールのゴムを外して、両手で髪をくしゃくしゃにする。
レイは直人の素っ気ない反応を気にしていた。
それだけではなく、ミズチとの様子も気になっていた。
二人には未だ自分が知らない何かがある。聞けていない秘密の事情があると彼女は感じていた。
「もうっ!」
レイは飛び起きてシャドーボクシングを始めた。
身体を動かせば頭がスッキリするのを知っているからだ。
パンチを繰り出すその姿とは対照的に、彼女の部屋は人柄に似合わずファンシーな雰囲気もあった。
所々で少女趣味、それ以外はオカルトの嗜好とワイルドな嗜好が混在している。
ミズチの事はとても好きだった。しかしもっと直人が好きだとレイは感じていた。
両方を好きなだけに板挟みの様な心境に陥っていた。
更には二人の仲が良い、自分よりも深い仲だと感じてしまう。
感じ方に自己嫌悪しながら、同時に直面した事実にも嫉妬めいた感情が湧き上がってくる。
それらを彼女は自覚した。
二人とは連絡先の交換も済ませてあるが、本当に連絡だけで滅多にやり取りはしていない。
実際はもっと連絡を取りたかったが、気を遣っていた。
勇気を出して約束まで漕ぎ着けたアイスの件。あれも未定のままで、不全燃焼の一因だった。
スッキリするはずなのに、レイはイライラしていた。
仕方ない――
彼女は煙草の箱とライターを掴み、自室を出てトイレに駆け込んだ。
家で煙草を吸う時の定位置は毎度ここだった。家人に見られないからだ。
箱から出した一本に火を点けた。
深く吸い込んで吐く。
気分が落ち着いていく。
しかし直人の姿が浮かんだ。
「……煙草。やめようかな。体にも悪いし」
再び彼の顔が浮かぶ。
「よーし! これが最後の一本」
レイは禁煙と再スタートの意思を固めた。
自室に入った彼女は、妙な違和感を覚えた。
自分の部屋なのに別の部屋に入った、そんな錯覚がある。
エアコンは効いていた。なのにレイは先程よりも
運動をしたから。頭を使ったから。煙草を吸ったから。だから体温が上がって暑く感じるのだと結論付けた。
ベッドに腰かけて、ため息をつく。
彼女は窓の外を見た。
黄色い
月ってこんなに低い位置から見えただろうか。おかしな疑問がレイの頭に浮かんだ。
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