章末話「ラプラスの眼」
瀕死の木徳直人は幻視していた。
夢ではない。
*
黒川ミズチは
痛めつけて殺してやりたくて堪らなかった。
彼女は半ば無自覚だったが、脳の異質な部位で半分は理解していた。
同じ箇所で即座に敵の事も考える。
標的が姿を消した
見えたのは“今”ではなく“未来”の姿だと感じた。
標的は超高速で動く物体。急速に距離をとって逃走する腰抜け。
走るだけでは追いつけない。
既に理解している事柄、簡単に導ける結論。
それでもミズチは敵を殺したかった。殺さねばならなかった。
使命を果たす為には追撃せねばならない。だが殺意の手が届かない。
けれど“未来”は見えていた。
だからその“地点”を“掴める”かもしれないと感じる。
彼女は初めて、手が届かない何かに指を伸ばした。
――まず眼が跳ぶ。
次に脳が跳んだ。
身体も跳ぶ。
何もかもが
“今”から姿が消えた。
最後に手が“掴み”取る。
闇を切り裂く眼球が、最初に物体を捉えた。
*
超高速空間へ逃げ込んだ霧争和輝は、跳躍する様に夜の公園をゆっくり駆けていた。
反面、彼は焦燥感に襲われている。
ゲームを思うままに進められない苛立ち。
何より未知の恐怖に晒されている自分に困惑していた。
見たものが信じられない。むしろ感じた何かを受け入れられなかった。
――けど相手が誰でもこれには追いつけない。
和輝が本気で逃走に注力すれば尚更だ。
緩やかに落ち着きを取り戻す、そう思えた。
だが彼は何かに似ていると感じてしまった。
けれど周囲の状況や気配に変化はない。
心理的な影響でしかないと和輝は判断した。
その瞬間――
暗闇から何かが襲来する。
四方から飛来した得体の知れないモノ。
高速モードであるにも拘らず一瞬の出来事だった。
物理的にもありえない。
――これはなんだ!?
それは
彼が気づいた時には四肢に鎖が巻き付いていた。
しかも鎖の先は鉤爪で皮膚に突き刺さっている。
痛みと重みで裂かれながら和輝は驚愕していた。
一体何が起こっているのか不明で、動作もままならない。
もがけばもがくほど鉤爪も食い込んだ。
筋肉が裂けて、断面から血の泡も滲み出す。
状況は更に進んでいた。
彼の
必死な和輝は虫の存在に気づかない。
そのひ弱な一刺しにも。
だから、穴が空く。
彼はふと気配を感じた。
背後に誰かいる。
見返る。
ナイフを振りかぶった女が立っていた。
*
着地したミズチは眺めていた。
なぜか動きが固まっている
まるで
必死な表情も窺えた。
しかし彼女にはどうでもいい事。
近づいてアサメイを振りかぶる。
敵の右腕へ突き立てた。
*
和輝は避けたかったが、鎖に拘束されて動けない。
繰り返し斬られた後、一斬りで肘から先が切断された。
血液が噴出。
火が出る様な激痛が生じる。
激痛からは逃れられず、無意識に高速モードを解除した。
「畜生ッ!」
叫んだと同時に鎖が消え、鉤爪による傷や血も消える。
彼は前のめりに倒れそうだった。
合わせて左手で傷口を押さえる。
強く押さえると膜も断面を覆い、傷口が無理矢理に止血される。
体勢を立て直しながら再び高速モードへ――
駆ける。
だが彼の背後に再び彼女が立っていた。
ナイフを掲げて一閃。
超高速空間に入っても、なぜか通常の速度で連続的に斬りつけられていた。
左肩へ振り下ろされる度、
そう見えた。
遂には和輝の左肩から左腕が分断される。
出血と激痛。
それでも双剣は肘と肩の部位それぞれで展開された。
湾曲からCの字へ。
まるで円輪が腕に付いたロケットに見える。
和輝はとにかく前方へ跳んだ。
無我夢中で離脱する。
それしか頭になかった。
*
直人は自身の
夜空を覆う鎖の
その幻視を静かに眺めていた。
見送って目を瞑る。
血を多く失ったと感じる。
内臓も損傷した。
時間はそれほどない。
血溜まりで囁く。
「
*
ミズチには必死で離脱する
右肘と同じく左肩からの出血も止まっている。
彼という物体は腰抜けだが、
けれど最早、未来で待っている彼女には無用な思考だった。
移動した眼球がまた物体を捉える。
*
苦痛と混乱の中で、和輝はゲームの考察をするかの如く必死に考えていた。
超高速移動を捕捉できるのも
しかも動いた先で追い打ちされる現象。
未来を
更に考察を補完する。
そこから先はもう考えたくなかった。
ゲームオーバーの文字が浮かんでくる。
それでも何かが見えてきた。
まるで隠されていた事実を思い出す。
ブラックからの情報の
網膜から入ってきた何か。
脳に至って眼に定着した。
あの未来視の名称が――
*
霧争は高速モードのまま公園の端にあるトイレの地点に辿り着いた。
周囲を見渡す。
人影はない。
それは間違いだった。
ミズチが壁に立っている。
水平に立った姿勢のまま彼を凝視している。
霧争が背後の異様な存在に気づく。
目が合う。
再び垣間見た、底知れぬ空洞。
至近距離で強烈な殺気に当てられる。
その衝撃で高速モードを保つ弱い心が弾け飛んだ。
右耳の近くで彼女に囁かれる。
「目が離せるなら
右耳の極小の穴からウィルスの様に殺意が侵入する。
入り込んだ殺意は皮膚と膜の隙間を移動し、転化して形となって
もう目を閉じる事はできない。
「やめろおおお――ッ!!」
狂乱した彼が叫ぶ。
ミズチは応えた。
「お前はもう
殺意が輪となって口に侵入する。
舌の周りで輪が回転、収縮して容易く舌が切断された。
惨めに舌が地面に落ちた時、霧争は叫びたかった。
だが瞬く間に口も縫い付けられていた。
口内が血で溢れる。
恐怖と絶望で自衛的に痛覚が遮断される直前。
「
止めどなく襲う苦痛。
目だけが泳ぐ彼が意識を失う寸前。
この世には存在しない音で彼女が叫んだ。
『――――死ねえええええ!!』
魔術の
同時に防壁内側へ侵入していた殺意が全身隅々まで行き渡り、発火する。
霧争の身体が膜の中で火だるまになった。
太陽にも似た高熱。
まるで紙人形の様によく燃える。
それでもまだ息はあった。
目だけが動く。
ふらふらと倒れそうになる。
地に立ったミズチはじっと見ていた。
彼が倒れる前に膜が消え、肉が燃え尽きる。
ボロボロと
霧の様に灰が散って、蠢く闇がその灰も消し去っていった。
*
和輝が狂乱した際、それでも心のどこかでは平静だった。
これはゲームなのだから、黒猫の命が尽きてもまた別の命が始まる。そう信じていた。
激しい苦痛と共に感覚が失われていく中、彼は死も身近に感じた。
無が近づく。
忘れまいと
そうして全てが失せて、
何もかも消えた時、
和輝は再び
思った通りの
但し――
暗黒の中の彼が最初に出会うのは――
想像を絶する
*
ミズチは倒れている直人の元へ駆けて舞い戻った。
仰向けの身体を抱いて上半身を起こす。
血で服が汚れる事にも構わず、膝の上に乗せて話しかける。
「死なないで。直人くん。死なないで」
彼が目を開けた。
直人の両手は傷口の上に添えられている。
「――ははは……僕は絶対に、百五十歳まで生きるから……」
冗談めかした言葉を聞いた彼女が微笑する。
「うん、生きて。ずっと長生きして。直人くんはミズチが守るよ」
直人は安らかな表情で目を閉じた。
血がついた口から声が漏れる。
「
重ねた手と手が孤独の穴も埋めていく。
夜の静寂も、今は二人を優しく包み込んでいた。
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