第二話「開口」

 木徳直人は目を開いた。


 ――そうだ、首に痛みはない。大事はないんだ。

 具合は悪くない。動こうと思えば動ける。


 異常な女も口を開く。


「大声で騒いだら殺す。暴れても殺す」


 警告に続けてこちらへ否応の確認はなかった。

 脅しではないから聞かなくてもいい、そんな所だろうと彼は判断した。

 意識がハッキリとした直人は集中力も高まっている。

 もう少しで糸口を掴めそうな思考も先を見据えて活動していた。


 ――静かに話をするのはいいのか? 僕に猿ぐつわを噛ませないのもお喋りがしたいから?

 どうせこのままだとらちが明かない。色々と聞いて隙を突くしか……。


 黒いパイプ椅子に座る彼女に対し、彼は毅然とした態度で質問した。


「あんた、本当にあのクロカワさんか?」


 まず最大の疑問をぶつけた。

 目の前にいる犯罪者と、クラスメイトの女子。

 二人が同一人物だとはとても思えなかった。

 人間としての雰囲気が全く違っている。


「その名前で呼ばれるのは好きじゃない。学校なんてゴミ箱なんだもの」


 ――何を言ってるんだこいつは。回答になってない。


 直人は思いながらも答えは応だと解釈した。

 更に尋ねる。


「じゃあ……あんたの事、なんと呼べばいい?」

「プライベートではミズチって呼んで。ミズチが呼び辛いならミズちゃんでもいいよ」


 ――ふざけてるのか……?

 けどあの子の下の名前は『ミズチ』だったかな……。そうだった気もする。


 以前の彼は当の女子に大して興味がなかったのだ。

 だが率直に変な名前だと思った。

 直人の名字も変わっていたので人の事は言えない。

 それにこんな状況で親しげに名前を呼び合うのはバカみたいだ、と彼は酷く抵抗を感じていた。


「……変わった名前だ」

「アンタも人の事は言えない」


 弱点を突かれて、彼女との妙な共通点に滑稽さを感じた。

 不意に吹き出しそうになる。

 何とかグッと我慢して続けた。


「学校で見せてた普段の姿は演技だったのか?」

「そう、学校のあたしは偽物」

「今が本当のあんたなのか」

「それはどうかしら。興味あるの? このミズチに」


 一人称が名前になった女がニコリと笑う。

 愛想は良さそうな笑顔。

 学校での笑顔と同様だったが、同時に別物だと感じた。


「ああ」と相槌を打った直人は、心の中で続ける。


 ――質問ができる内は生きていられる、バカ野郎が。


「嘘なのか? 普段はそのも」

「ミズチの利き手は生まれた時から


 直後に右手のナイフを空中へ投げた。

 中空で数回ほど回転する銀色のナイフ。

 重力に従って落下してきたナイフの柄を右手で素早くキャッチしてみせる。

 その巧みな手捌きに戦慄した。


「――イカれてる」


 精神的に追い詰められて口から出てしまった言葉。すぐに彼は焦った。

 けれど彼女は、まるで聞いていないという涼しげな顔をしている。

 直人は自分が数学の授業を受けている場面を思い出した。


 教壇の横山よこやまがひたすら数式を唱え続けている。

 呪文めいて嫌いな数式。

 耳に入っても、抜けていく。

 あの感覚――


 ひょう々とした女はまた脚を組み替えた。


 どうして――

 言葉が自分の口から出る前に、彼は己の中で即答した。

 こんなヤバい奴が本性のままでいられるはずがないと。


 そうだ、路地裏のあの――

 直人の脳裏で映像として生々しくよぎる。


 闇に浮かぶ――

 崩れ落ちている――

 停止していく――


 ――社会がそれを許さない。この女が隠している本性や犯罪を社会が許すはずがない。

 だから生き残る為、社会に適応してきたのか。いや、適応してる様に見せてるだけ。

 いわば“擬態”だ。擬態して周りの人間を騙す。目眩ましだったんだ。

 皆がよく知っている女子は、こいつ――ミズチが紛い物を覆った時の姿でしかなかった。


 彼はふと思った。

 例えばクラスメイト達がこの事実を知ったら。

 この女の仮の姿が好きな湯田ゆだ黄一こういちが知ったら、どう思うのかと。

 直人は改めて事実を知ろうとした。

 現実を受け止める為にも口を開く。


「あの時の――」


 赤いフレームの眼鏡をかけている彼女はいつの間にか本を読んでいた。


「――クソッ。……あんたがやったのか」

「あたしはやってない」


 あの時に購入した新書を読みながら即答している。

 一人称がまた変わったと瞬間的に彼は気づいた。

 ミズチがナイフを持った手で器用にページをめくりながら口を開く。


「やったのはミズチ。あたしがやりたかったけどね」


 ――意味が分からない。


 これがアニメや漫画なら頭の上には沢山のハテナが浮かんでいる。


「ミズチって、あんたの名前でしょ? あんたの事じゃないのか」

「そうだけど」


 彼女の発言がまるで分からなかった。

 だがこれ以上下手に突っ込んで機嫌を損ねられても、自身の寿命が縮むと心得ていた。

 その心理を見透かしてか、ミズチが締め括る様に告げる。


「木徳直人。アンタみたいな、どこにでもいるつまらない人間に。あたしの事は分からない。分かるはずない」


 分かりたくもない。直人は心の内で反論した。


 ――この僕が、イカれた犯罪者の、こんな女の言う事が分かってたまるか。


 しかし彼は意地でも話を終わらせるわけにはいかなかった。

 この話が終われば、いずれ訪れるのは拒みたい死であると考えていたから。


 先程カッとなってしまった直人は見過ごしていた。

 彼女がフルネームを覚えていた事実には気づかない――


「どうしてあの男を? あいつが何かしたのか?」


 聞いた彼は、ふとミズチが読んでいる新書の背表紙に視線がいった。

 彼女が買った本――自分が気になっていた事柄を突然思い出したのだ。

 本のタイトルは――


『心理分析官 -異常犯罪者に関する数々の手記-』


「やりたかったから」


 ミズチの口から出た解答はこれ以上なく明瞭な答えだった。

 更にもう一つの質問にも触れた。


「あの男は風俗のスカウトだったみたい。身体にも触ってきた。けど、それは別にどうでもいい。一目見ただけで思ったから」


 ――その本にはあんたみたいな人間が載っているんじゃないのか。自分の事がその本に書いてあるとは思わないのか。

 それとも。だからこそ、そんな本を読んでいるのか。姿だけなら知的な文学少女にも見えるのに。

 大体、学校ではかけてない眼鏡をなぜかけてるんだ。


 思った直人とは逆に、彼女は表情も変えず本を捲っていた。


「そういえば木徳直人。アンタって案外軽いのね、体重」


 赤い眼鏡の中にある目は本の中の文章を追ったままだ。

 綺麗な顔とは裏腹にまるで冷血動物のごとき目玉。

 口と言葉だけは彼に向いていた。


「それでも近くにこの部屋があったからよかったけど、もし遠かったら連れてくるのは大変」


 右手にある銀色のナイフの刃先も直人の方へ向いている。


「アンタもとっくにあいつみたいになってたよ」


 淡々と事務的に述べていた。


 彼の体重は身長からいえば標準的な体重だった。

 小柄というほど小柄でもない。

 対して、女子であるミズチの体格は大きくなかった。力強さもない。

 普通なら軽くは感じない。

 直人には最早彼女のあらゆる発言や思考が狂っているとしか思えなかった。

 根本的に違うと話している。そんな気がしてならなかった。


「僕をどうするつもりだ――」


 いずれ訪れるであろう未来の核心に触れてしまった。

 聞いてはいけない、しかし聞かずにはいられなかった。

 タブーが口から零れ出る。


「――殺すつもりなのか」

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