アナベルは、復讐を忘れた呪い人形
この世界にたった一人しかいない
怒りと、悲しみと、憤りと、憎しみと、嫌悪と復讐心を身に纏って生まれた俺は、負の感情を糧に、己を殺した人間を呪う事だけを目的に、歪な形で産み落とされた。
役目もなく。ただ、呪うために。そうするためだけに。
生まれた、――はずだったんだけどな。
******
ジョシュアとラウネを手加減なしに吹き飛ばして、俺は静かに魔王城へと『千里眼』を使用する。
遠く離れた城の扉に叩きつけられた二人は、ぐったりと意識を失っていた。
ここにいる俺にも聞こえてきた衝突音だ、確実に
でも一応、駄目押しはしておく。
『おーい、ハーシュ。魔王サマよぅ』
念話を投げかければ、すぐさま返事があった。
『何事だ、これは。何故に、トレントとアルラウネがここに』
念話に混じって詠唱が聞こえるから、二人の怪我の回復は
『やっぱ、駄目だな。目の前にすると駄目だ』
『……おい。何を考えておる。このトレントを、勇者にするのであろう』
ハーシュの焦りが滲んだ声に言葉を返しながら、俺は背中に突き刺さる気持ちの悪い殺気の原因へと目を向ける。
『するさ。あいつが勇者だ。あいつこそが、本当の勇者だ。今この世界に必要な、
距離にして、おおよそ五メートル。
俺の向かい側に立つユウシャは不気味に静かに微笑んでいる。
『ならば! 主が無事に戻らねばどうする!』
『うるせーな、仕方ないだろ。俺だってなぁ、生まれ直した理由を忘れて二十年のうのうと生きてたわけじゃねぇんだよ』
悪いことをしたと思ってる。特に、ジョシュアには。
半ば騙して、ここまで連れてくる形になった。
――あいつは、本当のことを知ったらどんな顔をするだろうか。
「魔王と随分仲が良いようだね、ジョシュア」
ユウシャの声に、俺はにっこり笑ってやった。
「念話の盗み聞きか? やらしいことしてんじゃねぇよ」
「いや、そんなことはしていないよ。ただ、そう感じただけだ」
『おい、聞いているのか! 一度下がれ、我が出る。我が出るから――』
ユウシャとの会話に差し込まれるハーシュの声に、俺は静かに目を閉じる。
閉じたまぶたの内側に浮かんできたのは、妹の笑顔と、それからジョシュアとラウネの笑顔だった。
たった、それだけだった。
その事実に笑ってしまいながら、俺はゆっくり目を開ける。
『――じゃ、二人のこと守ってくれよ。頼んだぞ、魔王サマ』
俺の言葉に、ハーシュは絶句したようだった。一瞬途切れた念話の後に叫ぶように言葉がねじ込まれて――
『やめろ、ジョシュア!』
――俺は、その声を断ち切るように結界を立ち上げた。
「ふむ。思念隔絶、物理破壊無効に許可侵入制……なるほど。お話は終わったようだ」
嫌味なほどに整った顔が、微笑みを載せて首を傾げている。
俺は鼻で笑ってから、ふわりと浮かび上がって奴と目線を合わせる。見下ろされるのはまっぴらごめんだったからな。
「お元気そうで何よりなことだ、近衛隊長タ、デ、ウ、ス、さん?」
煽るように言ってやればユウシャ――タデウスは、笑みを深くした。
「ああ、元気だとも。君も随分元気そうだね。姿かたちは変わったけれど、その憎たらしい青の目だけは変わらない」
「お前の方は変わらねぇな。二十年経ってもまったく変わらねぇ。気色の悪いドブ川の澱みてぇな本性が臭って臭って吐きそうだ。ええ? 綺麗なのは面の皮だけのタデウスさんよぉ」
「そのドブ川の澱に心を許していたのは、ジョシュア。君だろうに。そんなに敵意を剥き出しにしなくたっていいじゃないか……おっと、そんなに怖い顔をしないでくれよ」
――背中から切り殺されたことを、まだ恨んでいるのか? と。奴は悪びれもせずにそう言った。
昔の俺なら――正確に言えば、ジョシュアたちと出会う前の俺なら、確実に理性を飛ばしていたであろうセリフだ。
今は違う。
「――あーあ、タデウス。あんた、昔の仲間を殺してネクロマンシーか」
「ノヴァは良い剣士だったのは君も知っているだろう? 魔王城までの旅で、何度も彼の技に助けられた。けれど彼は、私に切りかかってきたんだ。正当防衛で、殺してしまった。でも、そのまま腐らせるのはもったいないだろう。だから、操った。死の谷のリッチを殺して食っておいて良かったよ。スキルが役に立った」
あけすけもなく言い放つタデウスの後ろに控える男の内、ひとりがピクリと反応したように見えた。ユウシャは俺の視線に気が付いたのか、そちらにちらりと目を向けて朗らかに笑った。
「ああ、レヴァの方は死んでいないよ。半死状態だ。何かの役に立つかもしれないから、生かしたまま。こちらは、ゾンビジェネラルのスキルで半アンデッドにしてある。飯代もかからないんだ、楽でいいよ」
ニコニコと楽しそうに笑うタデウスのその表情が、二十年前、出征式で初めて出会ったその時の笑顔と被って見える。全くぶれることなく、ぴったりと被って見える。
それがなんとも気持ち悪くて――哀れに思えた。
「――お前、知ってるはずだよな。俺、伝えたはずだよな。魔王の言葉を。魔物の存在意義を」
「ああ。あの時の君の言葉は、聞かなかったことにしているよ。だってそうだろう、勇んで旅立った聖剣の主が魔王に洗脳されて帰ってきたとなれば一大事だ。陛下も、聞かなかったことにしてくださっているから安心するといい」
そんなことより! とタデウスの笑みがいっそ気持ち悪いほどにまで深くなる。
俺は、諦念を抱えながらソレを見つめていた。
「私は、ある事実に気が付いた。魔物が魔王の欠片からできているならば、魔物を喰い続ければ、私は、いつか魔王を越える強さを得られるんだ」
――もう、コイツは駄目だ。
「魔王は、己の力の四分の一を魔物に、半分を各ダンジョンの主に預けているという。しかも今は魔物が減って、魔王は更に身を崩して魔物を生んでいるそうじゃないか」
もう、生かしておいてはいけない。そう思った。
俺がこの手で、今、殺さなければ。そう思った。
でなければきっと、コイツは世界すら食らいつくす。
かつての仲間は、そこまで堕ちた。堕ちきった。世界の底を突き抜けるほどに堕ちきった。
「これでも私は、多く魔物を食ってきた。それこそ恐らく、今の魔王に肉薄できるくらいには力とスキルを溜めてきた。しかし、この力をもってしても――」
「魔王城には近づけなかった、そうだろ? そりゃそうだ、聖剣を持ってなきゃ魔王城周辺に張られた結界を抜けられねぇもんな」
俺は念力を使って、異空保管から剣を引っ張り出す。
輝く銀色と、刀身を飾る青。鍔に煌く青玉。
タデウスは、ゆっくりと笑みをひっこめて剣を見つめている。
「これだろ。お前が欲しい物」
地面に空いた異空保管の入り口から生えている剣を顎で指し示す。タデウスは静かに手を差し出した。
「さあ、ジョシュア。それを――」
「さっきから聞いてりゃあさ、ジョシュアジョシュアって――死んだ奴の名前を呼ぶの、やめろよ」
――その名前は、ジョシュアと言う名の持つ意味にふさわしい
「俺は、アナベルだ。
タデウスは、こちらに差し出していた手をゆっくりと下げていく。俺が言わんとしていることがわかっているのだろう、下がる手とは逆に殺気が高まっていく。
「――ほら、抜けよ。偽物のユウシャさんよ」
俺は聖剣の柄頭に手をかける。
大義の中にほんの少しでも私情を挟んだ殺し合いは、一対一でやるべきだ。だから、傀儡二人は結界内から退去してもらう。
タデウスの顔からは、完全に笑みが消えていた。
「どうした。なんだよ。一人で俺と対峙するのは怖いか? それともあれか、俺を二度も殺せねぇって殊勝に躊躇でもしてんのか? 安心しろよ、今度はお前が死ぬ番だ。二度とこの世界に戻れないように、魂を切り刻んでやる」
タデウスは冷え切った毒沼の澱よりも腐って爛れた本性の見える顔で、俺を見ている。
「さあ。剣を抜け、タデウス。――てめぇの
刹那、空気が動いた。
俺は聖剣の腹を蹴り上げながら引き抜いて、その勢いのまま上に向かって振りぬいた。無論、タデウスには当たらない。当たるわけがない。
俺は剣を持ち直す。背丈ほどもある聖剣は、本来であれば今の姿の俺には持て余す代物だ。
だが、俺は、聖剣の主だ。
「その不格好に大きな剣で、私に勝つつもりなのか? 本当に?」
タデウスが切り込んでくる。受け流す。距離をとる。地面を蹴って、ヤツの懐に剣先を捻じ込んで跳ね上げる。
受け流される、弾き飛ばされる、空中で無理やり軌道を変えて、斬撃をお見舞いする。
「どうしたタデウス。近衛隊長の名が泣くなぁ!?」
吠え立てて威嚇して、煽って。
魔力を練って――相手も、同じことを。
相殺、相殺、相殺――押し負ける。
片腕が弾き飛ぶ。念力で手繰り寄せ固定する。
――『痛覚遮断』『魔力吸収』『
生まれ持った膨大なスキルから必要なものを使用して、駆ける。
切る。
切られる、切られる、切られる。
「ああ、ああ。弱くなった。本当に、君は弱くなったよジョシュア」
「だっから、俺は、アナベル、だっ!」
腕にひびが入る。そこから魔力が漏れていく。それを塞いで、塞いで――修復が追いつかない。
普通の魔物なら、気を失っているレベルで魔力が抜け落ちていく。
でも、俺は違う。
人の身に余る莫大な魔力とスキルを持って生まれて、聖剣に選ばれて、旅をして、世界の仕組みを知って、憎悪に塗れて殺されて、そして創造神に体を貰った。
まだ、戦える。
ほら、戦える。
聖剣の切っ先が、タデウスの腹を裂く。血が舞う。
そしてすぐに――奴の傷が癒える。
「ああ、ほら。『自己再生』。フェニックスのスキルだ。覚えているかな、君と旅をしたときに得たものだよ。そう言えば、君は旅の間も魔物を食わなかったね。持つものの怠惰は、かくも恐ろしいものなのだね」
俺は大きく後退して距離を取り、『鑑定眼』を使った。
――こいつは、いったいどれだけの
「可哀想なジョシュア。君では、私には勝てないよ」
流れ込んでくるのは、タデウスの持つ膨大なスキルの情報だ。
「なぜなら――」
知っているスキルや持っているスキルの間に、俺は怖気の走る文字を見つけた。明らかに、この世界の文字ではない。
それでも俺は、視界にいれるのすら気持ち悪いそのスキルの詳細を見ようと目を凝らす。
『蟄、鬮倥↓蝣輔■縺溯�』
もっと。奥を。詳細を。
俺がそう求めれば、『鑑定眼』はいつだって答えをくれる。
「……――言うまでもない、か。『鑑定眼』で見えているんだろう、ジョシュア。可哀想に、君は絶望する事だろうね」
『蟄、鬮倥↓蝣輔■縺溯�』
【一度殺した相手には、決して負けることが無くなる。蝣輔■縺溯�の証。逡ー迚ゥ縺ォ鬘槭☆繧狗黄の歪み】
一瞬息ができなくなったのは、そのスキルの持つ力の詳細を知ったからではない。
そのスキルそのものが持つ歪んだ匂いを魂が嫌悪したからだ。
――今なら、ハーシュの気持ちが完全にわかる。異物に相対したアイツの気持ちが。
これは、排さなければならない類のものだ。
俺の恨みがどうこう、じゃない。
この世界にあってはいけない類のものだ。
「――堕ちる所まで堕ちたんだな、お前」
「逆さ。遥か高みに到達したんだ、私は」
――俺はコイツに、勝てない。
俺は、どうするべきだ。この閉じた結界の中で。
どうすればいい。ここでは死ねない。俺がここで死んだら、
――そしたら、ジョシュアが勇者になれないじゃないか。
――もう嘘はつかないって、アイツと約束した。
負けられない。負けてはいけない。
ヤツの隙をついて、結界から抜けなくては――なんて考え事をしている暇なんか、無かったというのに。
魔力濃度の上昇に気が付いた時には、すでに遅かった。
気が付けば、俺の視界はこれ以上ないほど邪悪な光に塗れていて――
「だめぇぇぇぇぇぇ!」
――結界が砕ける音と共に響いたのは、今、一番ここに来てほしくなかった、危険にさらされてほしくなかった大切な存在の声だった。
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