ジョシュアは、起きてびっくり!

 まるで消えてしまったかのように魔心コアの奥底まで沈んでいた僕の意識がフッと浮かび上がったのは、意識がなくなるときと同じく唐突だった。

 パチン、と何かが繋がるような感覚があって、閉じた目の向こうの光を感じる。目を開けていいのか考えあぐねて、僕は結局目を閉じたままでいることにした。だって、動いていいのかわからなかったからね。


 と、そうして身動ぎもせずに黙っていたら、クリエさんの声が聞こえてきた。


「やあ、トレント。全て終わったよ、目を開けるといい」


 僕の考えていたことを読んだみたいなクリエさんの優しい声に、僕は恐る恐る、と目を開く。目は開けたけれど……ちょっと、体を起こす気分にはならなかった。だから、僕は横たわったまま天井を見上げる。


 天井からは変わらず光が降っている。ぼんやりした視界でも、その白さが良くわかる。それから、壁。こっちも白。


 意識を失う前と全く変わらない部屋の様子に安心しながら、僕はアナベルくんとラウネさんを探した。二人は、寄り添うようにして――というより、ラウネさんがアナベルくんに縋りついているような、そんな格好で壁のそばに立っている。

 それを眺めていたら、目の前にクリエさんの顔が現れた。彼女は、優しい優しい顔で僕を見ている。ぼやぼやした視界の中で彼女の笑顔だけは綺麗にはっきり見えるのが、なんだかとっても不思議。


「どこか、おかしなところは無いかな?」

「……なんか、目がぼんやり……」

魔心コアの深い部分から眠らせたから、そのせいだろう。直に良くなる」


 うん、と曖昧に返事をしながら、僕はアナベルくんとラウネさんを見た。二人とも、静かに僕の方に向かってきている。


「ジョ、ジョシュア、アンタ……」


 すごいわよ、と驚いたような感動したような声を出すラウネさんの表情が、ぼやけてしまって見えない。それが嫌で、僕は目を擦ろうと手を上げた。そうするとが視界いっぱい広がって――


「……え?」


 ――僕はピタリと動きを止めた。


「あ、あれ……? 僕、手……これ、僕の手?」


 目を擦る格好のまま尋ねれば、アナベルくんが面白そうに笑う声が部屋に響く。


「ああ、そうだよジョシュア。お前の手だ」


 目から手を離してこっち見てみろ、と続いたアナベルくんの優しい声に、油の切れた機械人形マシンドールみたいにぎこちなく動いて顔を上げる。そのぎこちなさとは逆に、僕の視界はだんだんとはっきり物を捉えられるようになっていった。


 アナベルくんは、手に鏡を持っていた。 

 普通の鏡だ。呪われていて正しい鏡像を返さない嘘鏡とかではないことは、僕の後ろで満足そうにしているクリエさんの姿が証明してくれている。

 

 ――ということは、つまり、今、鏡に写っている人間が僕である、ということで。


「――!? ……?!?」


 驚きすぎて言葉を出せないまま、僕は鏡を指差してはアナベルくんを、ラウネさんを、それからクリエさんを見る。


 アナベルくんとクリエさんは「それがお前だ」とでも言うように深く深く頷いてくれて、ラウネさんはツタを伸ばしてきて、つん、と僕のほっぺに触った。鏡で見せられても現実感が無かったけれど……僕の頬を撫でているツタの感覚が前の体や木の姿の時に感じた物と変わらなかったからだろうか。ラウネさんのおかげで、なんだか僕の体の輪郭がカチッと定まったような感じがする。

 そしたらなんだか、僕、体を起こしたくなった。


 そうっとそうっと、鏡を見ながら起き上がる。すると、それに合わせてアナベルくんが鏡を動かしてくれる。


「う……わぁ……これ……ほんとに、僕……」


 僕が動くと、鏡の中の人間――いや、僕が動く。軽く手を振ってみると、鏡の中の僕も手を振ってくれる。


 王都でよくすれ違ったのと同じ、淡い色の肌。

 人間の苗木こどもくらいの大きさの体。伸びる手足は、成長途中の丸みを帯びて柔らかそうなのに、触ると硬い。頬もふっくら――だけどやっぱり柔らかくはない。

 そしてそこに落ちる、ほんの少しだけ長めの緑色の短髪。

 それから、髪と同じ緑色のまあるい目。前とは違って瞼があるから、ぱちりぱちりと瞬きできる。

 

 ――ああ。

 ホントに、これ、僕だ。


 なんだか、実感がわかない。僕は手を広げて握って、を繰り返す。うん、ちゃんと動かしたいように動く。

 指先から肩まで見てみたけれど、アナベルくんのように関節部分に球体はない。滑らかに――本当の、人間のよう。

 僕の目は鏡像と実際を行き来する。鏡に映る僕の淡いベージュの肌をまじまじ見つめつつ、さっきまでは緑色だったのに、と首を傾げると、クリエさんが僕の肩に暖かな両手を置いた。すりすり、と撫でられる感覚に、僕は彼女を振り向く。


「私がした仕事の説明をさせてくれ」


 早く話したい! とうずうずしているのがよくわかる声だ。僕が頷くと、クリエさんはパッと顔を輝かせて僕の腕を持ち上げた。


「まずは、見てわかるとおりに色を抜いた。なかなか骨が折れたが、まあ、私に出来ないことなどない。どうやったかというとだね、吸魔鉱石の利用して魔力とともに色と匂いを吸い取ったんだ。そこだけ時間の進みを速くして――ああ、うん、とりあえずは安心してほしい。君の体以外は混ぜこんでいない。純然たる君のままだ」


 すりすりさすさす、とクリエさんは僕の腕を撫でながら陶然とした顔をしている。彼女の手は僕の腕を登りきると、今度は僕の顔の輪郭を撫で擦り始めた。ちょっとくすぐったくて、僕は笑ってしまった。


「継ぎ目も精巧だろう? 無いように見えるだろう? あるんだな、これが! 私の技巧の全てをつぎ込んで、乙女の肌よりすべらかに仕上げたんだ。いやー、楽しかった!」


 それからそれから、と細い指が僕の顎から首へと降りてきて、つつ、と胸の真ん中を撫でた。と思えば、そこは静かに口を開けて、びっくりする僕をよそに、クリエさんは僕の体の中に腕を突っ込んだ。


 うえー、なんか変な感じがする。


 それもそのはず、クリエさんは僕の魔心に触れているらしい。なんとも言えない違和感とくすぐったさ。


「一番時間がかかったのは、ここだ。魔物の匂いと言うのは、その体から発せられるものではない。魔心から立ち昇り、それが体の外に零れている」

「じゃあ、魔心から匂いが出ないようにしないといけない?」


 僕がそう言うと、鏡に映るクリエさんは笑顔で頷いた。


「そう! 魔心から変えねばいけないんだ。魔心を弄るのは簡単だ。頑張れば、魔物や人間にだって出来るだろう」


 だが! と言いながらクリエさんの手はやっと僕の中から出て行った。僕の胸に空いた穴も綺麗に口を閉じる。


「欲しい効果を得られるように弄くれる者は限られる」


 私にとっては造作ないが、と言ったクリエさんは、満足そうに息をつき、数歩下がって僕を眺めながら再度口を開いた。


「魔物の匂いは完璧に消した。……とは言っても、魔物であれば君がトレントだと言うことは気付けるように施してあるから安心するといい」


 途中で声が遠くなったから、多分クリエさんは後ろを向いたんだと思う。布が擦れる音が聞こえてくる。

 と、アナベルくんが僕を覗き込むように眺めながら口を開いた。


「……本当に、消せたんだな?」


 アナベルくんの声は真剣だった。対するクリエさんの声は笑みを含んでいる。


「ああ。私を誰だと思っている」

「高ランクの冒険者にも、気づかれないんだな?」

「そうだとも。勇者だって気がつけないさ」


 クリエさんの言葉に、アナベルくんが動いた。僕に顔を寄せてクンクンと匂いを嗅いでいるらしい。僕は面白くって笑ってしまった。


「アナベルくん、鼻の穴ないのに」

「おっとそうだった」


 へっへっへ、と笑いながらアナベルくんが離れていく。それと同時に、ふぁさ、と柔らかい音と共にクリエさんの声が少し近くなった。


「これで君が魔物だと気がつける人間がいたら、そいつはもう人間を辞めていると考えていいだろうな」


 振り返れば、クリエさんは僕の後ろの作業台にたくさんの布を置いて、鼻歌を歌っている。あれは何だろう、と首を傾げていたら、彼女は顔を上げて、僕を手招きし始めた。


 僕はクリエさんを見て、それから、自分の足を見た。足の指をワキワキ動かしてみれば、自分の思うとおりに動く。それをしばらく眺めて、それから僕は意を決して動き始めた。


 まずは、作業台に足を伸ばして座っている形から、作業台の縁に腰掛ける形へ。


 うん。ちゃんと動く。思うとおりに動く。大丈夫。

 ――だけどやっぱり、ドキドキする。このドキドキは、僕が九十歳の頃、根っこの足を初めて地面から出したときとよく似ていた。

 

 僕はしばらく足をぶらぶらさせて、それから床を見た。クリエさんが置いてくれたのかな、小さな階段が用意されている。僕はそこめがけて、思いっきり足を伸ばした。後ろについた手に体重をかけて、足先までピンと伸ばして距離を稼ぐ……のだけれど、小さな階段まで届かない。

 

 これは立ち上がるのと同じようにしないとだめだ、とは思うんだけれど、どうしても不安で、なかなか重心を前に傾けられなかった。


 ――そんな、僕の顔の横に、ツタが伸びてきた。


 振り向けば、僕の後ろにはラウネさんが立っていた。


「ほら、ツタを掴んで。転ばないようにちゃんと支えるから」


 僕は頷いてラウネさんのツタを掴む。そうすると、彼女は僕の手にしっかりとツタを絡めてくれた。

 深呼吸をして前を向く。と、そこにはアナベルくんがいる。


「根っこの足で歩くのと何ら変わらないよ、大丈夫だ。な、安心しろジョシュア」


 ここまで来てみな、と言うアナベルくんの優しい声に背中を押されるように、僕はそっと立ち上がる。小さな階段を踏みしめて、よろめきながら一歩、また一歩と降りていく。

 真っ白な床に足がついても、ラウネさんはツタを伸ばし続けてくれた。僕が小さく踏み出して歩き始めると、彼女の手は確かめるようにゆっくりと僕の手から離れていく。


 僕は床の感触をしっかりと味わいながら、一歩一歩と歩数を大きくしていく。気分の高揚が抑えられなくて駆け出しそうになった僕を、アナベルくんが抱き止めてくれた。


「おし、ちゃんとここまで来られたな! えらいえらい」


 アナベルくんの手が、僕の頭をワシワシ撫でてくれている。それを感じながら、僕はアナベルくんの体をぎゅっと抱きしめて叫んだ。


「僕の体じゃないみたいなのに、ちゃんと僕の体だった!」

「おお、良かったなぁ」

「すごい! すごい、クリエさん! ありがとう!」


 お安い御用さ、とクリエさんは微笑みながら、視線は手元に落としている。

 僕は、アナベルくんから体を離し、立ち上がった自分の体を見下ろした。


 つるっと何もない体。緑色じゃない肌。

 それから、と僕は顔に手を這わせる。

 

 ――穴三つじゃない、顔。


 クリエさんが作ってくれた体、すごいと思う。


 でも、僕。


 緑色でぼこぼこざらざらしていた体も、凹が三つの顔も――。


「――みんなが作ってくれた体……」


 つい、小さく呟いてしまう。そんな僕の前にクリエさんがしゃがみ込んだ。


「トレントよ。私を誰だと思っている? そこもぬかりないぞ、ほら」


 差し出された繊細な手に乗っているのは、両手のひらほどの大きさの木の人形だった。


「手を出して」


 促されるまま、僕は手を差し出す。と、クリエさんは僕の指先にそっと手を寄せてきた。どうしたんだろう、と見上げると、彼女は静かに微笑んで僕を見つめている。僕は再度、手に目を落とし――そして、目を見開いた。


 クリエさんの手の上の木の人形が、よっこいしょ、と立ち上がったのだ。そして、僕の手のひらへと移動してきたのだ。

 人形は、僕を見上げている。その体は『ぼこぼこざらざらの緑色』で、顔には『三つの凹がある』。

 つまり、これは。


「みんなが作ってくれた僕……?」

「ああ。端材で再現したついでに、生命を吹き込んでウッドゴーレムにしてみたよ」


 クリエさんの声を聞きながら、僕は手のひらにいるちっちゃな僕ウッドゴーレムをまじまじ見つめる。僕がもらったマントとそっくりな、小さな小さなマントがなんとも可愛らしかった。ウッドゴーレムは僕を見上げて、ニコニコ笑いながら手を振っている。それから僕の腕を登り始めて、どうやら僕の肩を居場所にするらしかった。


 僕はそれをじっと見つめ、それから、溢れる笑顔を押さえることもなくクリエさんを見た。


「クリエさん、ありがとう!」

「まあ、この小ささだ。特に何ができることもないが、君からは離れないよ。これなら、悲しくならないだろう?」


 それから、とクリエさんはまた違う物を差し出している。彼女の手にあるのは、木製のお面だった。僕はそれを受け取って撫でながら、嬉しくなってもっともっと笑顔になった!


「僕の顔! ラウネさんが作ってくれた顔!」

「君のもとの体から剥がして、紐を付けてみたんだ。紐の方に、壊れにくくなるような付与をしておいたからね。これなら防具にも使えるだろう」


 わあ! といそいそとお面を着けようとした僕をクリエさんの手が止める。その前にこっち、と呼ばれるままに近付く。ラウネさんも僕の後をついてきた。クリエさんの言葉に眉を寄せたのはアナベルくんだけだった。


「それを着ける前に、服を選ばねば!」


 フスフスと興奮した様子のクリエさん。僕は、彼女に促されるまま、近くの踏み台を登って机の上へと顔をだした。


 僕の目の前に広がるのは、服、服、服! だった。

 煌びやかでフワフワした服がたくさん、すました顔で横になっている。


「局部は無いとはいえ、継ぎ目なく人間の容姿に近付けたからな。そのまま、マントだけ羽織っていたら面倒事が起こるし――何より、服を選ぶのは私の楽しみの一つでもあるからな!」


 興奮しきったクリエさんは、おっと涎が、と口の端を拭って、それから僕の背後に視線を向けた。つられて見れば、そこにはアナベルくんがいた。


「お前も自分のドレスを選んでいいんだぞ? ん?」

「いらねっつの! ……いいか、ジョシュア。お前は俺に感謝しなきゃいけねぇんだからな。お前、寝てる間に勝手にフリフリ着せられそうになってたんだからな。それを俺が必死で阻止したんだからな」

「うん、よくわからないけどわかった! ありがとう、アナベルくん!」


 アナベルくんは満足そうに頷いて、それから服たちの上をフワフワ飛んで陣取った。胡坐をかく彼は、あれとあれと、と服を指さしている。彼が指した服を、ラウネさんがツタを伸ばして取り上げていく。


 それを見つめるクリエさんは、「あー、もっと可愛いのが」とか「フリルが足りない」とか「こんなに可愛らしい顔に仕上げたのにこの仕打ちは拷問かっ!」とか言っている。よく意味が分からなかったから、僕はあーでもないこーでもないと話し合う三人を見つめて静かにしていた。


 そして、ようやく決まった服を、僕はクリエさんに着せてもらって、今は姿見の前に立っている。


「ふぉわー……」


 赤いマント似合うように、とアナベルくんが選んでくれた服は、とってもとってもかっこよかった!


 白いシャツに、深い緑色のズボン。腰にはツタの鞘に収まった木の剣がある。マントの下、背中に括った木の盾がちらっと見えるのもすごく良い!


 まるで、チラシの勇者みたい!


 僕は何度も何度も姿見の前でくるくる回って、それからクリエさんを見上げた。


「とってもかっこいい! 僕、勇者になったみたいだよ! 本当に本当に、ありがとうございます!」


 クリエさんは柔らかく微笑んで、それから僕と目線を合わせるようにしゃがみこんだ。綺麗な銀の目をまっすぐ見つめ返すと、なんだか真剣な気分になって、僕はピッと背筋を伸ばす。


「トレントよ。お前は本当に、勇者を目指すんだな」

「はい! みんなが平和に暮らせる世界にするために!」

「そうか」


 クリエさんは何かを飲み込むような顔をして、それから一層柔らかく笑ってくれた。


「お前の旅に光あらんことを」


 クリエさんの綺麗な顔が近付いてきて、何されるのかなぁ、と思っていたら、おでこにチュッとされた。体の中がじんわり暖かくて優しい気持ちになる。彼女は、ラウネさんにも同じことをした。それから、嫌がるのを押さえつけてアナベルくんにも。 


「今の私のなけなしの加護だ、取っておいてくれ」

「ありがとう、クリエさん! なんだか暖かくなりました!」


 クリエさんは「そうか」と笑って僕の頭をくしゃくしゃ、と撫でてくれる。

 こそばゆくって目を閉じていたんだけど、彼女の手が離れていって目を開けたら、僕らはまたボロ小屋の前に立っていた。


 目を丸くする僕の前、クリエさんがボロ小屋の今にも倒れそうな扉から首を出す。


「門の向こうまで、転移魔法で送ってあげよう。三人とも、互いの手を握りなさい」


 僕らは素直に手を繋ぐ。そうすると、周囲の景色がぼやけ始めて、小さな光の粒子が僕らを包み始めた。

 綺麗、と思っていたら「あ、そう言えば」とクリエさんの声が聞こえてくる。


「きっと君たちは魔王城まで行くことになるだろう」

「ああ、どうせな」


 答えたのはアナベルくんだ。僕は彼の顔を見ようとするんだけど、もう僕たちはすっかり光の粒に包まれていて、白しか見えなかった。と、またクリエさんの声がする。


「今度茶でも飲もう、と私が言っていたと『はーちゃん』に伝えてくれ」


 もうずっと会っていなくて寂しくてな、とクリエさんの笑った声がする。


「わかりましたー! 『はーちゃん』さんに、伝えます! クリエさんが会いたがってるってー!」


 僕が叫ぶと、溌剌な笑い声が周囲に響く。それから、もうすっかり白に溶けた僕の耳に「頼んだぞ」と優しい声が滑り込む。もはや声を出してもそれすら溶けてしまうから、僕は必死で大きく頷いて――そして気が付いたら、僕らは夕暮れに沈む王都と神山とを隔てる門の前に立っていた。

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