留騎士とお姫様
「さて、帰るか」
おおよそ午前中にする発言ではないが、理系の国立大学生ですら高学年になるとたった一コマのために大学に行くことが増えていく。俺みたいな留年大学生になるともっと暇だったりする。
暇な時間の中にポツリとある講義の予定。なんというか、これが相当面倒くさい。超絶面倒くさい。
しかもそれが一限の講義ならなおさらタチが悪い。くだらないもののためにわざわざ早起きしなければならないのだ。それはもう耐えがたく面倒くさい。
一度留年している奴がふたたび留年する確率が高いことは大学経験者なら知っている人が多いと思うが、その理由の一つがこの面倒くささ故だ。
五ヵ年計画と言い張りながら留年をキメた俺ではあるが、この煩わしさに勝利しないと六年目の大学生生活、それすなわち「24歳、学生です」状態を免れないだろう。
そもそも「五ヵ年計画」という概念は、俺の周りどころか、全国の大学生を含めても、そこまで浸透している考え方ではない。
四年で卒業することを諦めて五年間での卒業に狙いをシフトするというものである。この考えに至るまではシンプルなもので、単純に四年間で卒業する事が無理であると早い段階で気づいてしまった次第である。
それは大学生になって、僅か三カ月ほど経った頃。
優雅に早起きに成功した気持ちの良い朝の事だ。
いつものように朝シャンして、スクランブルエッグとトーストだけの簡単な朝食を作る。それはもう母親譲りの効率の良さで、高校時代とさほど代わりのない朝食メニューを再現する。あの頃の朝の風景を完璧に再現しきれないのは、テーブルがあまりにも小さいちゃぶ台に変わっていたり、眩しい笑顔をくれる妹がいないせいだと考えた。しかし、ないものねだりはよくない。実家から突然の出禁宣言をくらい、傷心の身だからといって、未練たらしく家族の事を考えていたらいつまでたっても前に進めない。
優雅な朝だ。好きな声優がおはようのツイートをしている。些細ではあるけど、その瞬間にリアルタイムで立ち会えただけでも、三文分は得したのではなかろうかと思う。どうやら俺の好きな声優、いわゆる[俺の推し]は、カフェでモーニングコーヒーとしゃれこんでいるらしい。……ならばやることは一つだ。インスタントのコーヒーをこだわりの塩梅で点てた。黄金色をした自信作のスクランブルエッグをこんがり焼き目を付けたトーストと共にそのコーヒーをカメラに収め、推しに送り付ける。文章はこれだ。
[おはようございます! 僕も早起きしちゃって時間があったので、簡単に作っちゃいました(笑)。気持ちのいい朝ですね。今日も一日頑張りましょう(* ̄0 ̄)/ オゥッ!!]
使うこともない(笑)とか顔文字とか。そもそも一人称が「僕」とか。いつもの不愛想な自分からは想像もつかないくらいに無理して取り繕っていて必死さが伺える。どうせ返事もこないのにな、と苦笑してコーヒーを啜る。
苦い。
本当は甘めの飲み物の方が好きだけど、朝は刺激的な味の方がいい。なんというかその方が大人って感じがして素敵だ。
大きな伸びをしてから、ため息をつく。
やっぱり苦い苦手なコーヒーをもう一度口に含む。
その嫌いな香りと舌ざわりを楽しんでいる瞬間にふと、ある考えが過ってしまったのである。
「あれ?大学行くの面倒くさくね?」
体中の細胞が総動員して俺の考えを肯定しているのを感じ取った。
面倒くさい。非常に面倒くさいのだ。
別に今日ぐらいサボってもよくね?──悪魔のささやきだった。
そうして一度だけ学校をサボってゲームを開始した。声を出しながらFPSをした。オンラインでプレーした。
プレー画面が暗転したときに一瞬映る自分の顔はニートそのものだった。
背徳感がたまらなかった。やらなければならない事を干して、不要な事をやることが快感でしょうがなかった。
そして、同じ朝を繰り返すようになった。
ただ、サボることで単位の収得が危ぶまれる実験やプログラミング演習などの講義にだけ出席して、別に少しくらい講義を聞かなくても大丈夫な科目の授業時間だけ、自宅でゲームをする。
夏になった。
前期の講義は全てが終了して、色んな講義の結果がフィードバックされる。
レポートを沢山書かされた科目。噂通りテストの難易度が高かった科目。演習に手こずった科目。
全て、それなりの成績で乗り越えることが出来た。
一方で、みんながみんな楽々に単位を回収できた過去問通りの問題しか出ない数学系科目、講義をロクに聞いていなくてもレポートを出すだけで単位が出る科目。提出物さえしていればどうとでもなる科目。そういった科目の単位は貰えなかった。
当然だ。
出席が足りていないのだから。
そして俺は悟った。
四年で卒業するのが無理であると。
幸い、この大学は留年率が低いわけではない。15.2%だ。およそ20人いたら3人は留年する。だったら俺は15.2%の選ばれし側の人間になってやろうと思った。ただし、三年生までは辛うじて食らいついて、四年目で留年して、自由な一年間にしようという目標を作ってだ。
お母さんへの月一の近況報告は、常に、「ヤバい、留年しそう」から始まる。それでも三年間は粘るのだ。そして四年目にはついに留年する。ただの留年クズなのに頑張った感がでるあたりも策士だと思った。
ちなみになぜ三年間は粘ったのかという疑問が生じる。
三年まで必修や実験があるからというのが俺の回答だ。三年で留年するのがもっとも効率的なのである。必修というのは、卒業や進級をするために必ず単位を取っていなければならない科目群のことを示す。
進級や卒業は単位の数も大事だが、どの科目の単位を取ったかも重要になる。そして大学という場所には、協力なくして取れない単位と独力でどうにかなってしまう単位が存在する。協力なくして取れない単位を後回しにしていると痛い目を見る。とりわけグループワークがあるととてもつらい。入学を同時にした気心知れたメンツと実験や演習をするのと、年齢が一つ下の集団に交じって、気を遣われながら作業をするのでは精神的負荷が桁違いだ。
実験やプログラミング演習を用いる講義は三年生まで開講され、四年生になったら卒論や就活だけになる。四年目で留年を果たした俺は、面倒くさい必修や実験科目の単位を全て回収しており、説明を聞くだけで良い簡単な講義を残しているのだ。「準ニート」の一年間。社会に出るための助走期間。万全な状態を確立するための人生の夏休みだ。
まぁ理由はそれだけではないけど。一人で超えられない壁は確実に超えておきたかった。留年している身でいうことではないが、おかげで順調に進んでいる。
俺が留年したのはそんなクソみたいな計画を遂行した結果だ。
この話をすると、よく、メンタルが強いと言われる。
でもそれは違う。とても違う。
留年したのは、俺の欲求に勝てない弱さが原因だし。大切な一年間をドブに捨てるようなマネをしたのだって、自分に期待をしていないからだ。留年した程度の不名誉で落ちるほどの人間的魅力がそもそも備わっていないと思っているからだ。
社会に出るのが嫌だ。国立理系出身の理知的な人間として自分を売り込んでは期待を裏切って、社会不適合者のレッテルをはられるのが嫌だ。ならば開き直ればいい。留年するろくでなしだと思って俺を見てほしい。そうすれば、少しは生きやすくなる。そのための逃げの手段がこの五ヵ年計画だったというだけ。
つくづく入る大学を間違えた。でも文系大学生としてやっていけるかといわれるとまた微妙だ。国語は得意だ。文章を書くのが好きだから。大好きなアニメの二次創作を繰り返していくうち、ネットで承認欲求を満たすくらいなら可能な実力はあると自負している。ブクマを稼いだり、応援のコメントをもらったり。その程度の文系要素はある。だが、それだけだ。文系大学生として大学生活を謳歌できるほどの明るさやコミュ力はないし、勝手なイメージの話だが、文系大学生とはちょっとノリが違う気がする。オタクで根暗で。だけど一丁前にプライドだけは高い。そんな典型的なダメダメ理系男子キャラを高校時代から確立していたし、そんな自分のスタイルをどことなく受け入れていた節はあったわけで。
「考えてもしょうがないか」
これ以上はネガティブな思考に囚われて、面白みのない人間になる。せっかく留年というコンテンツを背負っているんだ。
明るい留年生でいたい。
「……何を考えてたの?」
大坪が俺の顔を覗き込むようにして聞いてきた。
そういえば、こいつも今日は一限だけだって言ってたっけ。
「別に。今日の夕飯のことしか考えてない」
「それは考えてもしょうがないことなの?」
「もし俺が全国ネットの料理番組で今日の夕飯づくりの様子をお届けすることになった場合、何を作ればいいのかなって考えてたからな」
「それは考えてもしょうがないね……」
自分の無駄な頭の回転の早さと無意味に上手な嘘に少し感動した。とはいえ、毎日毎日、夕飯に頭を悩ましているのは本当のことだったりする。プロハウスキーパー、貧乏苦学生。自分から自分に与えた二つの称号。キャラクター分類学の開祖にして、唯一の学者であるこの俺にとって、称号や肩書は安易に捨てられないのである。それがたとえどんな不名誉なモノであってもだ。
「とりあえず買い物行ってから決めるか」
家にあるものは大抵覚えている。プロハウスキーパーなので。そして、冷蔵庫内にある野菜類がそろそろ期限的な意味でヤバいことにも気が付いている。……鍋しかないな。
絶好の機会だ。新年度になってから最初の登校日。消費しておきたい野菜たち。まだ微妙に寒さが残る季節。ここを逃す手はない。
……買い物行く前に決まってしまった。
「ふーん、どこに買い物行くの?」
「田舎民よ、困ったときはどこに行けばいいと思う?」
「AE●Nモール?」
「伏字が仕事してない」
ご存知、大手グループのショッピングセンターだ。某政党の元代表の兄が取締役社長をしていることでも有名だ。
昔はJUSC●という屋号で親しまれていた。これもこれで伏字が仕事をしていない。
「ついていっていいかな?いつもやってるアーケードゲームの新弾始まってるんだよねー」
「あんま長居する気はないんだけど……」
「大丈夫、最高レアリティが出たらすぐやめるから」
「あんま長居する気はないんだけど……」
「木良くんが手伝ってくれたらすぐ終わるよー」
「何で俺がアイ〇ツしないといけないの?」
こいつは大人しそうな女子大生のクセにナチュラル畜生な発言が見受けられたり、女児向けなアーケードゲームを嗜むなどする見た目詐欺系女子だ。
「いいじゃん、木良くん、アニメも面白いって言いながら見てるでしょ?」
「それとこれとは話が別すぎるの! 俺はアイドル活動する気はないの!」
「諦めない気持ちがあれば、人類はみんなアイドルになれるんだよ?」
「限度ってものがあるし、それアイドルじゃなくてプリ〇ュアのキャッチコピーだよ」
その後、文字通り、大坪の「諦めない気持ち」に屈して、俺の冷めきったアイドル活動が強制的スタートを告げることになった。
☆ ☆ ☆
結局、アーケードゲームをやらされて、そんでもって鍋の食材を購入して、ショッピングモールを出た時には十五時を過ぎていた。
丁度いいくらいの時間になった。駐車場に並ぶ種々の車を眺めながら、持ち主の大体の所得を考えて、どんな食材や嗜好品を購入するのだろうかと推測するだけの悪趣味な遊びが昔から好きだ。あそこのピカピカなレッドのワーゲンのゴルフに乗っている奥様はとりあえず高額の和牛を買って帰ることだろうなどと邪推しながら、ショッピングモールを後にした。
『新都工業大学』という大学は名前に反してド田舎にある。新都とかいうクセに、山を切り拓いたようなところにあり、都心からもすごく離れている。それなりに名の知れた理系大学は、大きな実験施設が必要となるため僻地に作られることが多い。この『新都工業大学』も例外ではない。なんなら近くに電車すら通っていない。徒歩20分ほどの最寄り駅からスクールバスを出していたり、寮暮らしを推奨していたりと色々田舎チックだ。というか田舎だし。
つまるところ、この付近で生活していくのであれば車の重要性はかなり高い。都会の大学生には分からない感覚らしいのだが、田舎の大学生で車やバイク等の交通手段を持たない奴は見下されがちなのである。移動の足がないのに足下を見られるというわけだ。日本語って面白い。
遊びきって満足げな顔を浮かべている大坪彩乃という女もまた、見下されるべき立場の人間……すなわち車もバイクも持たない人間だ。にも関わらず、彼女は誰からも見下されない。なぜか?
その答えは──
「ねぇ、前の車はどうして車線変更の時にウインカー付けないのかな?合図不履行って6000円も取られるんだよ?ライトスイッチを下に下ろすだけの作業を怠って6000円とマイナス1点のリスクを背負う理由が全く持って理解できないんだけど……それに木良くんが急ブレーキ踏まなかったら追突してただろうし、この車、木良くんが変にこだわってるMT車だよ?こんなところでエンストしたら悪目立ちするの私たちなんだけど──」
「……車乗ると性格変わる人はよくいるけど、せめて運転席に座ってからやってくれませんかねぇ。後さらっとdisるな」
答えは、俺がこいつのアッシーにされているからだ。
助手席のクソダサいゆるキャラクッションも、Bluetoothを介して流される車内音楽も、全部大坪ナイズドされている。俺がこだわりにこだわりぬいて無茶苦茶遠くの中古車販売店で購入したブルーメタリックなMINIのイカした見た目を台無しにされている。
しかし、俺からしても、基本的に助手席は大坪彩乃に任せたかったりする。複数人で乗るときに大坪がいたらの話ではあるが。
大坪は上手にナビをしてくれる。無駄に道ごとの制限速度を覚えていたりするし、進行の判断もいいので、車線変更のタイミングとか無茶苦茶助かっている。どこで右左折するかの案内くらい誰でも出来るが、どの車線に入っておくのが賢いかとかを指摘してくれる助手席の人間は意外と少なく重宝される。他の知り合いは論外だ。キサや美景先輩はちょっかいを掛けてくるし、男どもは車内でスナック菓子を食ったり素手で窓に触れたりするから何をやってもダメだ。よほどの事がないと乗せてやりたくない。
長いこと隣の席で講義を受けている関係性もあるので、些細な会話や無言の時間でさえも苦でなかったりする。これだけ聞くと、こいつ正妻ポジなんじゃね?
そんなこんなで今日も俺のMINIの助手席には大坪が乗る。
ド田舎民御用達のイ〇ンのショッピングモール。ちょうど片道が車で20分くらいでつく。近からず遠からず。そのくらいの距離感にあるからこそドライブ好きな俺にとっては最高の立地だといえる。田舎万歳。
そして、留年をしていることも忘れそうになるほど、爽やかな気持ちで俺のMINIが進んでいく。
目的地はあの憎き大学のある街。もう実家には帰れない俺の唯一の居場所。
コンプレックスと共に眠っているとも過言ではないくらいに嫌な思い出と嫌な未来が残された、どうしても好きになれない場所。
セキュリティ対策がしっかり施された女性の一人暮らしにぴったりな綺麗な建物に大坪を送り届けて、内装はそれなりに綺麗なんだけど、外観がどうしても古臭くて格好悪い見た目の俺が住むアパートの駐車場に愛車を停める。
今日は大学にも行ったし、大坪に振り回されながらも大学生らしく遊ぶこともできた。
一日頑張った自分にリスペクトを示して、自宅のカギを鍵穴に指す。
「……やっぱりか」
──それを回すことはしない。
ノブを下げて、手前にドアを引っ張ると、当然のごとく扉は開かれる。
「ただいま……
「おかえり
嫌な思い出と嫌な未来が染みついた8畳間。俺の五ヵ年計画の拠点。
そこには高確率でいる女性。
大学やこの町と違って、別にこの人の存在は全くもって嫌なんかじゃなくて。
ただただ、特殊で非日常な日常が演出されている。いつも浮ついた気持ちにさせられる。
俺の家に勝手に住み付いた、半居候にして俺の先輩。
物語や文章には叩き起こせないほどの完全無欠な外見と外聞を保持しつつも、その実態は俺に依存しきった生活破綻者。
俺がプロのハウスキーパーの肩書を背負っている理由の一旦。
──
それが、俺の生きる世界の常に一歩先にいる女性の名前だ。
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