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 「かれ」のはなしに戻ろう。そういった理由で、ぼくは今田ずんばあらず氏や転枝氏などの、ただ若いことによってその輝きを放っていた書き手が徐々に錬成されていきやがて完成されていく様子を目にして焦りを感じていた。これは認めざるを得ないだろう。彼らは、完成してしまえばひざのうらはやおを瞬殺できるほどの才がある。その事実は、逆説的にひざのうらはやおという書き手が既にほぼ完成されていて、おまけにどうしようもないほどの単なる凡才であるということも示していた。ぼくはこれに耐えることができなかった。直視したくなかった。だから、残った可能性と、彼らより若干でも長く生きているぼくが唯一彼らに勝つことができるのはどこか、ということを考えるようになった。彼らはするりとぼくに追いついて、当然のようにいとも簡単に追い抜かした。だからぼくはせめて、取り残されないように明確に出力をあげようと思った。そうして、テキレボ5の打ち上げで思ったことは「創作の界隈で交流していき、自分の読み手になりうるような表現者と丹念に会話していくこと」に何かの光明をを見いだしたということだった。ぼくは冷静だったが、それ以上に負けず嫌いだった。この「界隈」という磨き抜かれたオーディエンスの中でひざのうらはやおという書き手を演出するということで、ぼくの小説、ないしひざのうらはやおという書き手は完成するのではないかと考えた。そのためにはより多くの、よりたくさんの書き手たちとより本音に近い会話をしなくてはならない。それは一般的には交流をすることであるが、ぼくはそれが全くの苦手であった。実際交流した結果相手の作品を読もうというモチベーションにはあまりつながらないと思っていた。けれど、もしかするとそういう人間もいるのではないか、ということ、そして逆に、書き手と交流することで今まで考えもしなかったような、ぼくにとって全く新しいものが生まれてくることもあるのではないかということ、このふたつを考えてぼくはできる限りイベント後の公式打ち上げに出るようになった。それは何も、何かを抑えるようにということではない。単純に、新たな発見をするためで、逆に言えば交流しようという心づもりはそれほどなかった。ここで、自己顕示欲と知的好奇心が大きく役に立ったのだ。

 実際、この試みは「できるかぎり多くのイベントに出る」ことと「そこで手に入れた作品を読み、シーズンレースとしてコメントを掲載する」ことと相乗効果を生みだし、ぼくの知名度は徐々に上がっていくこととなった。

 しかし、あらかじめ書いてしまえば、この後、膨大なトライアンドエラーの中でぼくは徐々に頒布数という見かけ上の数字にとらわれるようになっていく。活動を休止したとき、ぼくはブログでそれを「存在しない読み手」にとらわれている、と表現した。それも間違ってはいない。しかし、おそらくそれ以上に、彼らと明確に差が出ており、かつ、実力というだれにも見えないものを比較するために用いられるのが頒布数しかないため、結果それを伸ばしていくにはどうせねばならないか、ということをひたすら考えていった結果、頒布数そのものにとらわれてしまったというのが実状だろうと思う。実際、ぼくが頒布数を明確にメモしはじめたのは転枝氏と出会ってから、すなわち「順列からの解放」を刊行した文学フリマ東京の回からであるし、総頒布数を記録および分析するようになったのは、テキレボ5からであった。それは頒布数がゼロや1などの非常に少ない数だった回を複数回立て続けに経験したからでもあったが、やはり彼らを明確に意識し、明確に嫉妬し、明確に勝負を仕掛けたかったのだろうと思う。もちろん、これを読んでいるみなさんは既におわかりのことと思うが、そんなものはすべて幻想であり、ぼくの妄想でしかない。だいたい、書き手同士が明確にひとつの軸で勝負できるのは、観測者の独断以外にありえない。無数の観測者を相手にしたところで、それぞれの見解が統一されてなければ同じ土俵に上がることすらできないのだ。むしろ、だからこそ、シーズンレースは唯一その比較が可能な場であった。なぜなら審査員はぼくひとりという明確な土俵が設置されているからである。この試みが想像以上に広まっていたことに驚きを隠せなかったのだが、そうした明確な場であるということそのものが、何か、書き手の自己顕示欲を刺激したのかもしれないと今になって思う。

 「かれ」はシーズンレースを純粋な自己分析の場としてとらえているきらいがあった。実際、後半になればなるほど高評点のものが続出したのは、「かれ」がぼくらの好みをつぶさに分析した結果であって、つまり「寄せて」きていたのだ。すなわち、こういったしょぼい嫉妬心や焦り、功名に渇望する一種の煩悩のようなものにぼくは支配されつつあったのだが、「かれ」はそうではなかった。「かれ」はびっくりするほど、人間そのものに興味がなかった。対するぼくは、人間に興味がないと思いたくて仕方がないくらいに、人間そのもの、というより他人という存在それ自体に異常とも言うべく執着があった。いや、もっとも「かれ」と比較すれば異常であるとみなせるが、実際はわからない。ふつうの人間と同じくらいなのかもしれない。けれどぼくにはそういった比較する対象というものも存在しなかった。当時のぼくは孤独であった。だれも信頼できる人間がいなかった。それは今もそうであるが、当時のぼくはそうでありながら、信頼できる人間を探していたし、そのひとに全幅の信頼を寄せざるを得なかった。つまり、どこかで信頼という行為に頼っていた。本当のことをいえば、そういったものをふとあきらめたとき、はじめて「かれ」の思考の一部ないし全部が氷解したのである。ぼくと「かれ」は互いに意識と身体を共有しつつも、世界観や思想はほぼ相反するまま共存し続けていた。いわば、「かれ」はぼくの鏡像だったのである。そして、それに気がついたのは、実のところ「かれ」を失ってからで、だからこそ当時のぼくはそれに気がつかずただただあがくように邁進していたのであった。

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