3-5 転枝氏について

 前述したものとは別に、やはりぼくは転枝氏についてきっちりとすべてを整理して語らなければならない。彼と今田ずんばあらず氏はとくに、今のぼくの創作スタイルの多くに影響を与え続けてきたという意味で、語ることを避けられない。

 前述したように、また、今田ずんばあらず氏と同じように、ぼくは転枝氏も今ほどの力を持つ書き手になる前に出会っている。ぼくにとって、最初に出会った彼は完全に名もなき書き手であり、最初に読んだ小説も、上手いことは上手いが、現在のような転枝らしさのようなものはなく、ただ単にシステマチックにはなしを進める能力が高いということと、細かい描写に意味を込める手法がぼくと似ている、と感じた以上のことを思わなかった。ぼくと彼はひと世代離れているということを当時は感じなかったので、そういう意味では文章の巧さは少なくとも当時ですら同年代と比して抜きんでていたと考えられる。小説の巧拙に年齢は関係ないと考えられがちであるし、タテマエ上ではぼくもそれを支持する。しかし、文章表現の中でも、文章中それ自体の情報量をコントロールするスキル、という意味での「文章力」は経験知によるところが多いように思うし、なんとなくぼくが読んで「若さ」や「円熟み」を感じるのは、こういった部分がきちんと意識的に抑制がきいているか、というところにかかっていると思う。特に、彼の書く「ポスト現代文学」という分野(これはぼくが彼の作風がどこにあたるのかを必死に考えた上で分けた、ぼくの中のジャンル分けである。つまり、一般的な「純文学」とはそのジャンルを大きく異にしている、とぼくは考えている、という程度の意味であると思ってもらってかまわない)において、そのスキル自体が、読みやすさと小説内における表現力を左右するといってよく、少なくとも転枝氏は、ぼくが今まで読んできた書き手の中でも、これらのスキルに関しては上位であると認めざるを得ない。それはひと世代上であるぼくはもとより、ぼくよりもずっと秀でていると思われるひとびとに比肩するか、軽く抜き去ってしまうほどだろう。おそらく、ぼくが彼にもっとも嫉妬しているところは、自らの秀でている部分を、彼は少なくとも自意識上では完璧に理解していて、それをきわめて効率的に研鑽させながら、貪欲に、きわめて貪欲に高みを目指すという志の高さと、そこからくる「いやらしさ」によるものだろうと思う。彼はどこまでも謙虚で、それゆえ貪欲に、そして病的にそれ「だけ」を磨き続けているようにぼくは見える。

 ぼくは彼に接触するたびに、彼が徐々に無名の書き手から「化け物」へと変化していくさまを目の当たりにした。今田ずんばあらずと共通するのは、ふたりともみるみるうちにぼくを抜き去って「化け物」と化してしまったところと、それでもなお高みを目指してひた走る若さとは似て非なる貪欲さと、そしてもっとも、ぼくがふたりに共通するところで切歯扼腕せざるを得ないほどに嫉妬している部分は、彼らには「自分が書くべきものが見えている」ということが確信できるほどに、書くこと、そしてそれを自らの形でデザインしひとつのコンテンツとして完成させることににいっさいの迷いがない点(いや、本人としてはそれなりの迷いがあることは間違いないのだろうが、少なくとも、ぼくにとっては、君ら「見えている」だろう、とツッコミたくなるほどに、彼らは自己が書くべきモノをハズすことがない、という意味であり、コンテンツをコンテンツそのものとして吟味する能力、という部分を含めてのはなし)である。この点が、ぼくにはおそらく死んでも持つことがかなわず、そして絶対に持っておくべきだった部分であるということが、痛いほどよくわかるようになって、ぼくはかれらに対する猛烈なまでの嫉妬という感情の根源にたどり着いた。

 この「書くべきものが見えている」というのは、完全に才能である。書くべきものが見えていれさえすれば、様々なクリエイターにそれを説明することが可能である。つまり、チームの中でもメインライターとして活動することができ、またその中においても、自らの書くべきものを全く見失わない。かれらはこれを持っていた。そして、ぼくはそれを持てないことが確定的にわかってしまった。なぜなら、ぼくが小説を書く主な理由は、自分の書くべきものが何かをはっきりさせたいからであって、つまり、彼らと比べると小説という形のひとつのコンテンツを形成するのに非常に多くの行程と労力が必要になる上、実質的にそこに他者が介入することが不可能であるからだ。つまり、小説というモノがテキスト以外の部分にわたってもデザインされ、コンテンツとなっているこんにちにおいて、テキスト以外のものをなにひとつ作ることのできない、どころか想定すらしていないぼくは彼らと比較して、コンテンツそのもののクオリティで勝つことは絶対にあり得ないのである。おそらく、ぼくは最初からこれを感じていた。そして、ぼくは「かれ」を失って、初めてその決定的な事実に気がついてしまった。同時に、ぼくと彼らは、全く異なる創作をしているということも気がついた。そして、裏を返せば、ぼくはその「不完全性」という部分において、彼らと差を付けることができるのではないかと考えている。つまり、ぼくのような人間のほうが彼らよりもマジョリティである、という部分を徹底的に詰めていくことが、それにつながるのではないかと考えている。

 ほんとうのところ、転枝氏と今田ずんばあらず氏が現れたことによって、ぼくはひざのうらはやおという書き手がいかに出来損ないであるかを知り、また彼らに対抗しようとするその力によって、ぼくの小説を書くスキルそのものが急激に上がったのは事実であると思っている。実際、当時あれだけマスターピースと思われた「順列からの解放」にクオリティ面で並ぶどころか、それを上回るであろう作品をぼくはいくつも出している。それらがそういったクオリティとなったのは、間違いなく彼らのおかげである。そういう意味で、二人に出会ったのは運命であるとはっきりといえる。だからこそ、ぼくは彼らにやはり何かしらで勝たなくてはならないと強く思っているし、いつかはそうしてやるぞと思っている。それをあきらめるのは、ぼくと転枝氏、そして今田ずんばあらず氏のだれかが、ほんとうに書くことをやめてしまったとき以外にないのではなかろうか、とも思うのである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る