(8/9)猫にコンドーム(〇版)

「怖かったんだろうなあ、きっと」

「優が、ですか」

「ほくぶメンタルクリニック」で、あたしは診察を受けているはずだった。

 大塚先生は、ゆっくりと深くうなずいた。

「彼はね、警察に居続けることでどんどん感情を失っていったんだ。私の前にやってきた時は本当に酷かったよ。表情が変わらなくてね。犯罪を減らすことが自分の唯一の使命であるかのようにとりつかれていた。うん、そんな印象かな」

「なるほど」

 唯一といってもいい理解者だった恋人を理不尽に失った優は、その存在意義を警察に求めたのだろう。

 しかし、あたしの印象からいえば、優は警察に向いているような人間ではないと思う。警察官として優秀なのは、たとえばあたしみたいな行政職員とかその他の人々をどこまでも見下して、上官だけを立てるような、縦社会に最後の最後までしがみつけるような、心身ともに強靱な人間だ。むしろ優はその正反対のような気がする。繊細で、繊細すぎてそれが嫌になってすべてを捨てた。最後には自分の人生すら、捨てることもままならず無理矢理完成させた。

「君のことを佐々木君に紹介したのは、そこが少し似ているからだった」

「あたしと、優が、ですか」

「似ているね。似ているが、真反対とも言える。強すぎる抑圧に耐えきれず佐々木君は感情を切り捨てていった。君はその逆だ。抑圧に耐えきり、抑圧しようとしてきた相手に復讐をしようとしている」

 大塚先生は、今までにないほどの冷静な顔をしていた。なんだよ、ちゃんと診てるじゃん。ただのセクハラジジイじゃないじゃん。半端ないって。言っといてよ、そういうことは。

「その小説は、君のものだ。佐々木君はね、実は大学時代から長いこと小説を書いていたようだけれど、私の記憶では、彼が賞に応募するために小説を書いたことは初めてだろうし、それは君にあてられたもので間違いないだろうね」

 小説のことについて、あたしはこと細やかに話した。そうせざるにはいられなかった。これがあたしにあてられた恋文だとしたら、あまりにも重すぎるし、ノクターンと月光が響きわたって気が狂ってしまうと思った。いや、既に気が狂っていた。

「とにかく、君は徐々に、ふつうに戻ってきている。私の手助けが必要なくなってきているのは確かだ」

「えっ、私って本当に手助けが必要だったんですか?」

 思わずアホなことを訊いてしまった。

「やはり、気がついていなかったみたいだね」

 大塚先生はニヤリ、と笑った。髭面がくしゃりとゆがむのはどこか小憎らしい。

「何年この仕事をやっているか、わかるかい?」

 でもなんだか、不思議と悔しくはなかった。この前までのあたしなら、悔しくて仕方がなかったはずなのに。


 僕は彼女と生きて生きて生き続けることでふつうの人間になろうとした。そしてそれはきっと成功するだろうという確信があった。ふつうとは何かなどという哲学的な問いを今更ここで行うつもりは毛頭ない。社会通念上の平均とでも定義しておけばいい。ふつうに生きることでふつうの景色が待っている。そしてそれはふつうという言葉の何十倍も美しいものだろう。

 しかしながらそれは僕の中の石碑に刻まれた文を糊塗してしまうことに他ならない。一体果たしてそうしたところで僕の人生といえるのだろうか。今まで僕を生かしてきてくれた人間に対する恩義を無視してはいないだろうか。

 だから僕はここで筆を置くことにした。

 この物語の最後を決めるべきなのは僕ではなくこれを読んでいるみなさんなのだ。


 「猫にコンドーム」の最後、有希子が彼の部屋を出て行った後の最後の文章だ。

 たとえそれが希望に満ちあふれていなくても、どころか苦難だらけでなんの面白味もなく、無限の荒野が広がっているだけの道だとしても、社会に生まれたひとりの人間としてのあたしたちは、その道の終着点までひたすら歩き続けるしかない。途中で投げ捨て、終わらせるということそのものが、これまでの道程を振り返らないというひとつの罪になる。だからこそ、途中で葛藤に見まわれ、家族を捨てあたしも捨て、自らの命すらも捨てて、安易に社会の人柱となった佐々木優を許してはいけない。

 けれど、許さないというのはつまり、優をビンタすることでも、気が狂うまで抱きしめることでもないのだ。あたしはあたしの歩く道を自分で決め続け、それに最後まで責任を持ち、どのような最期を迎えたとしてもしっかりと受け止めることが、唯一佐々木優を許さないことの表明につながる。ひととして悩みながら生き抜くことに最後の最後までしがみつき続けるのが、あたしの復讐。

 夕暮れに染まる、むせかえるような臭いがする宇佐見駅付近を歩きながらあたしは少し胸を張った。優が最期まで張れなかった胸を、しっかりと張って生きようと思った。


「古田さん、最近元気がないですね」

 ザリガニの独り言は声が大きい。誰かに話しかけているみたいで、反応してもらいたいという欲望が丸みえなのが、きっと嫌なところなのだろう。あたしはそれがどれだけ意地汚い欲望なのかということを知っているし、反応されないことの調和や、相手に適切な反応を返すことの難しさやその心理的障壁を知っているからこそ、そんなことはおくびにも出したくないから、それで余計に嫌っているということは当然にあると思う。

 叫びたくても叫べない人間に対して叫ぶということは、残酷だしそれ自体が醜悪すぎる暴力だ。だからあたしはだんまりを決め込むしかない。抵抗するには、見えていないことにするしか方法がないから。

「古田さん、無視はよくないですよ! 先輩が話しかけてるんですから!」

 ザリガニはぴょんぴょんと跳んで存在をアピールする。

 何が先輩だ。先輩らしいことをお前が一度でもしたことがあるのか。だいたい反応して欲しいなら独り言じゃなくて直接話しかけろよ。もっとも話しかけてもあたしは無視するけれど。

 思わず何かを口走りそうになってこらえる。言ってしまえばザリガニと同じだ。同じ土俵に立つのは耐えられないほどの苦痛だ。死んだほうがマシだろう。

 死んだほうがマシ。

 いや、死んだほうがマシなんてものはたぶんない。

 死んだら何もかもがおしまいで、そこから先に続くことは一切ないのだから。

「いい加減にしろよ」

 そう思ったときには、口に出ていた。

 あたしは、たった今、ザリガニと同じ土俵に立った。

「は? 今なんて言いました?」

 ザリガニは大げさに身体をのけぞらせる。どうにもすべからく不快なリアクションで本当にいらいらする。あたしを不快にさせることに関して、彼女は天才的といっていい。

 だからあたしは拒んできたのだ。

「いい加減にしろっつってんだよド低能が!」

 あたしは椅子を蹴っ飛ばした。

 前川主査の顔色が変わったのが見えたが、知ったこっちゃない。

「てめえのせいであたしが毎度毎度クソみたいにムカついてんのがわかんねえのかよ? あ? 足がまともに動かねえだかなんだか知らねえけどよ、てめえの脳みそが幼稚園児並なこととか、悲劇のヒロインぶってろくな仕事をしないとか、それとその障害は関係ねえだろ! お前みたいなクソド低能な癖にあたしに年上だとかいう、ただそれだけの、ほんっとにちんけなそれだけの理由で! 調子ぶっこいて上から目線すんじゃねえ! あたしはあんたが障害者だからとかそういう理由で軽蔑してるんじゃねえわ! お前が! 単純に! クソみたいな性格で! ほんとに! どうしようもなく! 頭が! 悪いから! 軽蔑してるし尊敬もしねえんだよ! お前みたいなどうしようもない人間のせいで尊い命がいくつ犠牲になってるのか考えたことあるのか? ねえだろ! いいか! 今からその不快極まりない声がべらべら出てくる喉を掻っ切ってやるからな覚悟しろよ!」

 机の上によじ登ってカッターナイフを取ろうと手を伸ばした瞬間に、前川主査に引きずり降ろされた。

「良子、それはダメだよ」

「ダメもクソもあるんですか! 主査も課長もみんなみんなこのド低能クズアダルトチルドレン障害モンスターに対して甘すぎなんですよ! なんなんですかみんなで機嫌ばっかりとって! クソか? クソなのか? クソの運動会かここは? あたしや星野さんがどれだけこいつのゴミみたいなやりとりに付き合わされて! 傷ついて日々すり減ってると思ってます? あたしがやらなきゃだれが」

 頬を強く張られてその先が言えなかった。

「ダメなんだよ! ダメなものはダメ!」

 あたしは崩れ落ちた。

 せっかく降りた土俵から、いとも簡単に引きずり降ろされてしまった。

「良子! ダメなものはダメなんだよ。あんな女のために、ここで暴力を振るっちゃダメ。みんなそれがわかってるの。わかってるからあんたの休みを誰も何にも言わないし、優先させてるんだ。あんたが砂理奈をどれだけ嫌いかみんな知ってるよ。気を遣ってたんだよこれでも。砂理奈は気づいてないみたいだけどあの子はもともとそういう子でしょ。でもね、砂理奈に怒りをぶちまけたって結局あんたが潰されるし、それはすごく嫌なの。だから、上司として言うけど砂理奈に危害を加えるのだけはやめて。ダメなものはダメ。もう、それ以外だったらいいよ。あんな女のせいで人生棒に振ることない」

 前川主査は諭すように落ち着いていた。

「主査の言うとおりだ。君は文書処理に関しては見るところがあるし、何より若いからまだ未来がある。今日はもう休んで、帰りなさい。あとは主査と僕がやっておくから」

 課長が、ザリガニ以外に対しては極端に重い口を開いた。

 ザリガニは、醒めた顔で漫然と部屋を見つめていた。

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