(9/9)猫にコンドーム(〇版)

 肩胛骨の根本まで伸びた髪にこてを当てるのが面倒だったので、いっそのことプロに任せるか、と思って美容院に行ったのが功を奏し、とにかく「ファッキンホット(クソ暑い)」しか感想がなくなるような戸塚駅周辺にたどり着いてもセットされた髪はちっとも崩れなかった。コンパクトを見てもそこには見慣れた古田良子がいるだけだが、まあ、しかしかろうじて峰岸紗英に似てるかと聞けばきっと百人のうちの九十人くらいはそう答えるのではないかと思う。

 季節が一周して、ザリガニとはあれからひとことも口をきかず、そのまま彼女は街はずれの公民館に異動した。前川主査は昇格して課長補佐になり、ザリガニの席には勤続三ヶ月の、ぬぼっとした感じの新人が座っている。新卒男子の扱いは茶髪のボブカットになった星野さんに任せてあるので、あたしは特に会話もしていないし、新人くんも話しかけたいわけじゃないみたいで距離感が合うな、と思う。ザリガニもこうであって欲しかった。と、星野さんと必死で分け合った残業代をタクシー代につぎ込む。住所を言うと「もしかして佐々木さんの家?」と訊いてくるくらいには、優も有名になったのだなと思う。

 結局、ありとあらゆるマスコミの報道によって佐々木優は「身を挺して被害を最小限にとどめた英雄」みたいな美談の主人公になってしまい、家族はそのえげつない取材に辟易したらしい。らしい、というのは佐々木優の実の弟と連絡を取ることができた際にそう聞いたからで、つまりはそこそこ信憑性のある情報だ。もっとも、ひとの噂も七十五日と言うようにそれも次第に沈静化していった、と彼は語っている。

 佐々木家の門前にタクシーは止まり、そこには優とは似ても似つかない小柄の若い男が出迎えに来ていた。

 彼が佐々木優の弟、佐々木大介である。

「お待ちしていました」

「もうすぐ取り壊すんですよね」

「ええ、それで」

「親御さんにはお話したの?」

「ええ、まあ。手狭なマンションでは置いておけないから、ぜひにと」

「そういうことか」

 引っ越し業者は極力入れず、大介くんが休みの時に少しずつ荷物を処分しているのだという。それでも全然足りてないらしい。本当は少し手伝いたいけれど、それも難しい。

 彼は痩せ細った今時の若者で、不自然に眼鏡が大きかった。大手企業のエンジニアらしいが、詳しいことは聞いていない。少なくとも、体格が示す通り兄とはほとんど正反対の人生を歩んでいるようだった。

「いくら?」

「いいですよ、古いものですから」

「でも、いいものなんでしょう?」

「維持費もかかりますから」

「あらそう」

 あの夜もがらりとした印象があったが、それ以上にだだっ広い部屋が姿を現した。

「ずいぶん片づけたね」

「ええ。とはいえ、兄の部屋が難関なんですよ」

「すごい本だもんね」

「何か要ります?」

「そういわれても、あたしんちも大して広くないからなあ」

 あたしも春からひとり暮らしを始めた。

 両親、もとい母親と暮らすのにどうしても切迫感があったのと、やはり経済的に自立をしたかったからだ。

「兄の出入りの古本屋を知っているので、話をしてみます。それまでに何か必要だったら連絡してください」

 大介くんはスマホを振ってそう言った。現代のコミュニケーションツールは便利だ。メッセージアプリですぐにご用を連絡できる。

 とはいえ、すでにぽつぽつと穴があいていた。合わせたら全体の三分の一にはなると思う。もらい手が見つかったってよかったね。

 部屋の真ん中には、やはり、彼が遺したままのピアノがぽつんと立っている。これを、あたしがもらい受ける。家に置くわけにはいかないが、置いてもらえる場所をあたしはひとつだけ知っているし、もちろんそこの主人にも話を通してある。


「そうそう、良子ちゃんあたしね、結婚するんだ」

 ちょうどザリガニの異動が決まったくらいの時に、麻紀さんは突然言った。

「えっ、おめでとう!」

「うん、ありがとう」

 おそらくだいぶ前から決まっていたことだったのだろう。しかし、誰がどう見ても間違いなく常連の筆頭となっているこのあたしに言うのがこの時期で、他の常連も聞いている風はないということは、一体どういうことだろうか。

 麻紀さんの表情は複雑で、その先が気になった。

「でね」

「うん」

 麻紀さんはすっ、と小さく息をのんだ。

「このお店も閉めることになったの」

「うそ!」

 なるほど、だから発表できなかったのだろう。

あたしとしては早いうちに言っておいて欲しかったけど、麻紀さんの性格的に切り出せなかったのだと思った。まあ、しょうがないよね。

「ごめんね。旦那、喫茶店やってるからこの店とどうしても両立できなくて」

「えっ、旦那さん喫茶店のマスターなの?」

 麻紀さんはふふ、とほほえんだ。たぶん、峰岸紗英の何十倍もかわいかったけど、不思議と悔しくはなかった。

「喫茶店、夜も営業するつもりだから、そうなったらラインするね」

「ほんと? 絶対遊びにいく!」

「言ったな! 結構遠いぞ!」

 そういうわけで、遠方の喫茶店にあたしはピアノを弾きに行く約束をした。


 喫茶店の中央に鎮座するグランドピアノを空想して、あたしはどこか得意げになった。

「喫茶店に持って行くなんて、いいアイディアだなと思いました」

「でしょ、知り合いが喫茶店やっててほんとよかった。これもったいないもん」

「ぼくも、そう思います」

 大介くんはずれた眼鏡をなおし、にっこりと微笑んだ。

「最後だし、弾いてみては?」

「聞きたい?」

「もちろん」

 なんて、予定調和だけれど。

 ここで、あたしはある曲を弾くために練習してきたのだ。大介くんがそう聞いてこないはずがないし、これは優の弟である彼にこそ、聞いて欲しいと思った。

 優、これがあたしの答えだから。

 あたしはゆっくりと椅子に腰掛け、手を伸ばした。

 ピアノは優雅に歌い始めた。あたしは指に想いを乗せ、しなやかに、のびやかに語りかける。古いピアノはしかし、丁寧に使い込まれていて、これまで触ったどれよりも和やかに、それでいてノスタルジックな響きを鳴らしていく。あの、『月光』を鳴らしたものとは思えないくらい、柔らかかった。

 オルゴールのような寂寥感を響かせながら、左手で優しくしっかりと三拍子を刻んでいく。装飾音がズレると台無しになるのがくせもので、右手と左手をぴったりと合わせるように注意を払わないといけない。ショパンのノクターンは、どれも難しい。ゆるやかな曲だとなおさらだ。

 途中から少しずつ鼻と目が重くなった。

 きっと本当に好きだったのだ。

 ばかなあたし。

 今更そんなこと言って。

 最初から、語ることを避けてきたくせに。

 でも、だからここであたしは、こうしてピアノに自分の意志を代弁させているのだ。

 好きだったよ、優。

 心の底から、精いっぱいのこのひとことを言うためだけに、今この曲を弾いている。

 彼との思い出は、すでにどこか懐かしい響きを持ち始めている。美しい昔を懐かしみながら、けれどあたしは忘れないとピアノに誓っていく。

 絶対に忘れない。

 あたしは、佐々木優を忘れない。忘れずにしっかりと前を向いて、歩いていく。

 そう、決めたから。

 ピアノと指にしっかりと刻ませていく。

 緩やかに甘美なコーダを奏で、あたしはゆっくりとピアノから離れた。


「これ、聞いたことがあるんですけど、何ていう曲か教えてもらってもいいですか」

 大介くんは少し、涙ぐんでいるみたいだった。目がちょっと赤い。

「ノクターン第2番、変ホ長調、作品9の2」

 きょとん、とする彼の顔は、なぜか優に似ていて、思わず抱きしめたくなった。

「あなたのお兄さんとあたしが好きな、ショパンの曲です」

 その一瞬の静寂すらも、あたしは忘れないだろうと悟った。

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〇(Web Edit) ひざのうらはやお/新津意次 @hizanourahayao

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